富山鹿島町教会

召天者記念礼拝説教

「新天新地」
コリントの信徒への手紙一 第15章35〜58節

小堀 康彦牧師

 今朝は召天者記念礼拝です。私共は先に天に召された方々を覚え、愛する者を天に送られたご遺族の方々と礼拝を守っております。私共はこの日、どうしても死とは何であるのかということを考えない訳にはいきません。人は死んだらどうなるのか、思わざるを得ないのであります。人は必ず死ぬ。これは誰もが知っていることです。しかし、死んでどうなるのかを、誰もが知っている訳ではありません。そのことについて聖書は、復活がある、死は全ての終わりではないと告げます。今朝与えられている聖書の箇所の少し前の所、15章32節に「もし、死者が復活しないとしたら、『食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか』ということになります。」という言葉があります。確かに、死が全ての終わりであり、誰もがその死をまぬがれることは出来ないとするならば、善く生きること、正しく生きること、真実に生きようとすることには意味がないということになってしまうでしょう。誠実にとか、真実にとか、まじめにとか、そんなことは考えずに、おもしろ、おかしく、ただ楽しく自分勝手に生きたら良いということになってしまうのではないでしょうか。しかし、聖書は死によって全てが終わるのではない、復活があると告げます。もしそうであるとするならば、全てが過ぎ去り、空しく消えていくかのように見えても、それは決してムダではないということになるのではないでしょうか。私共の労苦は、何一つムダになることはない。それが復活の命を信じる者が、善き業に励み続けることの出来る根拠なのです。私共が今朝、聖書によって告げられているのは、この二つのことです。つまり、死が全ての終わりではなく復活があるということ。とすれば、神様の御前にムダな労苦は何一つないのだから、善き業に励みなさいということです。
 しかし、復活すると言われても、どんなふうに復活するのか、どんな体に復活するのかと考える方もおられるでしょう。実際に復活した人を見た人はいないのに、どうしてそんなことが信じられるのかということだろうと思います。聖書はそのような問いを持つ人に対して、「愚かな人だ。」と申します。何と馬鹿な人かと言うのです。人は復活するという話を聞いて、だったら、それはどんなふうに、どんな体でと思うのは自然ではないでしょうか。当たり前の心の動きでしょう。しかし、そんなことを考えるのは何も知らない愚か者だと言うのです。
 そして、種を蒔く話をするのです。種は蒔かれ、一粒の種から芽が出て、木が生え、花が咲き、実をつける。一粒の種からは想像することも出来ない、驚くべき変化、成長がある。この種を蒔くことを知っていながら、どうして、死で終わりだと考えるのか。種の時には予想することも出来なかった、豊かな命が続くように、私共の死も又、復活の命という豊かな、栄光に満ちた命に甦るのだと言うのであります。そして、その復活の体というものは、肉にも、人間の肉、動物の肉、鳥の肉、魚の肉と違うように、地上の体と天上の体とがあるのだ。つまり、この地上の体がそのままに甦るというのではなく、天上の体に甦るのだと言うのです。
 このような説明を聞いて、なる程と思う方もおられるかもしれません。しかし、これでは何の説明にもなっていないと思う人もいるでしょう。聖書の説明というものは、いつでも二つの前提があるのです。それは、神様がおられるということ、それとその方のみ業を信じるという信仰です。ですから、聖書の説明というものは、信仰を抜きにしては、決して判らないのです。ここでなされている説明も、結局の所、神様がそうなさるのだということなのでしょう。神様を抜きに、私共の頭の中だけでこの復活ということを納得させてくれるような説明ではないのです。そもそも、死ということ、あるいは、死んで後のことについて、神様を抜きにしてしまえば、何も判らないとしか言いようがないのです。神様によってしか、信仰によってしか判らないことを、ただ自分の力と知恵によって判ろうとする。それが、ここで言われている、「愚かな人だ。」ということなのでありましょう。
 今の問題は、死、あるいは死んで後のことについてでありますけれど、しかし私共は死ぬ前の命、私共の日々の命についても同じような愚かさを持っているのではないかと思います。人間が生まれること、それについては医学的に、生物学的に説明することが出来ます。しかし、自分がどうして生まれてきたのか、自分はどうしてこの両親の元に生まれたのか、どうして自分はこういう人間なのか、そんな説明は誰にも出来ないのではないでしょうか。これも又、神様にしか判らない。信仰によって神様の御心を知らされる以外に、判りようがないのであります。まして死んで後のこと、それはどうしても、信仰によって神様の言葉を受け取るしか判りようがない、納得しようがないということなのでありましょう。

 42〜44節「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。」とあります。ここで、自然の命の体と霊の体というのがあると言われます。それは40節で地上の体と天上の体と言われていたことと同じでしょう。自然の命の体は種です。この種は種のままではなくて、やがて芽を出し、花が咲く。それが復活した体、天上の体であり、霊の体なのです。このような話は、何の根拠もない、頭の中で描いた想像にすぎないと思われるかもしれません。しかし、聖書はその明確な根拠を示します。それは、主イエス・キリストの復活です。十字架の上で死に、三日目に復活された主イエス・キリスト。この方によって、私共は復活の命があることを教えられたのです。それは言葉によってではなく、実際に主イエス・キリストが復活するという出来事によって教えられたのです。ここで告げられていることは、全て主イエス・キリストが復活したという出来事に基づいて言われているのです。良いですか皆さん。キリスト教の信仰というものは、人間が頭の中で考え出した思想ではありません。そうではなくて、神のみ業としての出来事、主イエス・キリストの復活という事実。この出来事・この事実が、私の上にも起きるということを受入れ、信じるとうことなのであります。
 45節「『最初の人アダムは命のある生き物となった』と書いてあり、最後のアダムは命を与える霊となったのです。」とあります。「最後のアダム」とは、主イエス・キリストのことです。人類最初の人であるアダムと、最後のアダムとしてのイエス・キリストが対比されています。アダムは自然の命の体であり、土で出来、地に属する者です。一方、イエス・キリストは、霊の体であり、天に属する者です。一人の人アダムから人類が始まった様に、イエス・キリストによって、霊の体、復活の命は始まったと言っているのです。私共は、今はアダムと同じ自然の命の体をもって生きていますが、やがて死を迎え、その後、復活した主イエス・キリストと同じ霊の体に甦ることになるということなのです。

 では自然の命の体と霊の体とは、どう違うのでしょうか。これについても様々なことを語ることは出来ますが、ただ一つのことを申し上げます。それは罪です。自然の命の体に生きている間、私共はどうしても罪と無縁で生きることは出来ません。愛する者に対しても、言わなくても良いことを言ってしまい、してはならないことをしてしまい、傷つけてしまう。悲しいことですけれども、それが私共の現実でしょう。しかし、霊の体に甦ったなら、私共は全く罪を犯さない者となるということなのです。主イエス・キリストに似た者として甦るからです。このことは、とても大切なことです。復活するということは、死んだ者が墓の穴から抜け出してくるというようなことではないのです。それではゾンビや妖怪のようなものになってしまいます。ちっともありがたくありません。救いでも何でもない、おどろおどろしい世界になってしまう。この霊の体に甦ることの大切なポイントは、主イエス・キリストに似た者として甦るということなのです。復活された主イエス・キリストの体と同じ体に甦るということなのです。キリストの様に考え、キリストの様に感じ、キリストの様に愛し、キリストの様に神に従い、キリストの様に生きる者として甦るということなのです。48〜49節「土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。」とある通りです。ここで、「天に属する者」とは誰か。信仰を与えられ、キリストのものとされた者のことであり、洗礼を受け、キリストと一つに結び合わされた者のことでありましょう。それは、そうに違いないのでありますけれど、しかしそれだけに限ることではないのではないか、そう思うのです。
 実は、私の父は7年前に亡くなりました。父はクリスチャンではありませんでした。しかし、私が牧師として生きていることを喜び、自慢していました。肺ガンで半年程、抗ガン剤と放射線の治療を舞鶴でしました。不思議なことに、主治医の家族と、食欲のない父の為にお弁当を届けてくれた板前さんが洗礼を受けたのです。私は、父は洗礼を受けていなかったけれど、本当に神様に用いられた人だったと思っています。そして、そのように神様が用いられた人を、神様が見捨てるはずがないと思っているのです。愛する者を失うということは、心の中に穴があくような、体の一部がなくなったような、喪失感があるものです。しかし、そのような私共に、聖書は、「全てが終わったのではない。復活がある。」と告げるのです。
 私共は今日、召天者記念礼拝を守っている訳ですが、先に召天された方々は、本当に様々な生涯を送られた方々です。今、お一人お一人の名前を読み上げませんけれど、若くしてキリスト者になった人、死ぬまぎわにキリスト者となった人、長寿をまっとうされた人、若くして召された人。様々です。しかし、そのお一人お一人が、皆、神様のご計画の中で、不思議なように神様の御業に用いられた方なのではないでしょうか。神様の愛の道具として、或いは神様の救いの御業の道具として用いられた方々です。この方がいたから、今日あるを得ている。遺族だけではなくて、あの人がいたから、この人がいたから、そう思っている人が、今日ここには集まっているのでしょう。

 私共は素朴に信じて良いのです。やがて時が来れば、一切の罪を全くぬぐわれた者として神様の御前に甦り、顔と顔とを合わせることになるということを。それは、頭の中で判ることではありません。信ずべきことなのです。52節「最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。」とあります。いつラッパが鳴るのかは判りません。この「最後のラッパが鳴る」ときというのは、神様の力が働かれる時ということでありましょう。それが何時かは判りません。突然地震がやってくるように、その時は突然でしょう。それは私共が天に召された後かもしれませんし、明日かもしれません。しかし、それが何時であろうと、必ず来るのでありますから、私共はその日に備えて、誠実に、真実に、主の御前を歩んでまいりたいと思うのです。

[2004年10月31日礼拝]

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