富山鹿島町教会

礼拝説教

「新天新地」
創世記 第7章6節〜第8章22節
ヨハネの黙示録 第21章1〜4節

小堀 康彦牧師

 私共の教会は、四月から聖書を学び祈る会において、イザヤ書を学んでおります。この会は午前と夜とありますので、時間の都合の良い方に出ていただけば良いのですけれど、ぜひ礼拝に来られている方々の半分くらいの方には出席していただきたいと願っております。礼拝と祈祷会は、教会の歩みにとって車の両輪のようなものでしょう。祈祷会が盛んでない教会というものは、祈って祈って共に歩んでいくという姿勢が出来てない訳ですから、教会としては本当に力強い歩みというものは出来ないのではないかと思うのです。もちろん、祈祷会の持ち方というのも工夫していく必要があると思いますけれど、共に聖書を学び、共に祈る。そういう中で、私共の教会の具体的な歩みというものがはっきりと示されていく。そういうものなのではないかと思うのです。それで、今、イザヤ書を学んでいる訳ですけれど、このイザヤ書の前半は神様の裁きの預言が、これでもかという程に続いています。毎回、一章ずつ読み進んでいるのですけれど、もう毎週、毎週、裁きの預言なのです。そういう学びを続けていく中で、私共の中にはっきりと示されてきているものがあります。それは、終末を待ち望むという信仰の姿勢です。正直に申しますと、私は献身して神学校に入った頃、終末ということについて、あまりよく判っていなかったといいますか、自分の信仰の歩みにおいて、あまり大切なことと思っていなかったという所がありました。信仰が未熟というか、若かったということなのだろうと思います。しかし最近は、この終末を待ち望むという姿勢が、私共の信仰の根本にすえられていなければならない、そう思うようになってきました。私共の信仰を言い表している使徒信条において、「体のよみがえり、永遠の命を信ず。」と告白していることは、実に終末的な救いの完成を言っているのでしょう。ですから、終末がなければ、私共の信仰の歩みは一体どこに向かって歩んでいるのか、その目標、目的地を見失ってしまうということになってしまうであります。
 この終末を待ち望む者の視線というものは、いつも未来に向かっている。未来に対して希望を持って見ている者なのであります。私共の信仰は過去に向かっているのではないのです。多くの宗教は、今このような不幸に出会うのは過去にこの様な悪いことをしたからだと言って、過去に原因を捜し、理由付けをして説明します。いわゆる過去の犯人探しをする訳です。そして、「あの時、あんなことをしなければ」というように、過去にしばられていく。しかし、聖書の信仰はそうではないのです。過去の原因を求め、それで説明して終わりというような宗教ではないのです。ヨハネによる福音書9章の冒頭に、生まれつき目の見えない人の記事が記されています。主イエスの弟子達は「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」と主イエスに尋ねました。弟子達は、生まれつき目が見えないという現実の原因を、本人の罪か両親の罪に求めたのです。しかし、この時の主イエスの答えはそのような考え方を真っ向から退けるものでした。主イエスはこう答えられたのです。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」何という驚くべき答えでしょうか。主イエスは、過去から現在を見るのではなく、神さまの御手の中にある未来・将来から現在を見られたのです。言葉としては少し変化もしれませんが、主イエスは現在の原因を未来に求めたということなのです。
 私共は、自らの罪を悔い、そして罪赦された者として終末に向かって新しく歩み出していきます。この明日に向かって、神さまの御手の中にある未来に向かって新しく歩み出していく者、それが終末的信仰に生きている私共の姿なのであります。それは、将来ばかりを見て、現在のことを蔑ろにするというのではありません。終末を見ているが故に、神様の御前に立つことを知っているが故に、いつでも、今やらなければならないこと、為すべきこと、それを誠実にそれをなしていくことに全力を注いでいくのであります。過去を引きずり、それにとらわれて生きるのではないのです。愚かで罪に満ちた過去がある。しかし、その一切の罪を主イエス・キリストが十字架にかけて滅ぼして下さった。私共は、それ故にキリストによって召された者として、新しく明日に向かって、全力を注いで生き始めるのです。

 ノアの洪水の出来事によって示されているのは、そういうことなのではないのかと思うのです。人は常に悪いことばかり思い計り、悪が満ちた。それで神様はノアの洪水を起こした。これは明らかな、神様の裁きです。しかし、それで終わっているのではないのです。ノアとその家族から新しい人類の歩みが始まったのです。ここで私共は、ノアとその家族によって新しい歩みが始められたということに注目しなければなりません。ノアの洪水の話は、悪と罪に満ちた世界が、洪水という裁きによって新しい歩みを始めたということなのです。神様の裁きというものは、それで全てを終わりにするというのではなくて、そこから新しい歩みを始めようとされる神様の御業だということなのであります。こう言っても良い。神様は裁きを行うことによって、それから始まる新しい私共の歩みを期待しているのです。期待していなければ、ノアを残すこともなかったし、バビロン捕囚においても残りの民を備えることもなかったし、まして愛する独り子を与えることもなかったでしょう。この私共の明日に期待するということが、神様の私共に対しての愛ということなのではないかと思うのです。
 皆さんにもお子さんがおられるでしょう。親の目から見て、100点満点の子どもなんてものはいないでしょう。しょうもないことをしでかしてしまうというか、このバカ者がと思うことだって、一度や二度ではないでしょう。しかし、それでもこの子の明日の姿というものに期待をするのではないでしょうか。愛しているからです。神様は自らの姿に似せて造られた私共人間を愛してやまない。それは言いかえれば、私共の明日の姿に期待してやまないということではないかと思うのです。神様が期待して下さっている。だったら、どうして私共が、自分の明日の姿に期待しないでおられようかと思うのであります。終末はある。そして、そこにおいて起きるのは、私共の救いの完成です。キリストに似た者とされ、罪赦され、復活するということです。だから、私共はその日を期待し、その日に向かって、救いの完成に向かって歩んでいくのであります。

 さて、神様に期待されたノア。このノアの姿を見ることによって、私共は神様が私共に期待されている姿を見ることが出来るのです。それは第一には、先週も申し上げましたが「神に従う」こと。もっと具体的に言えば、神様の言葉に従う者ということであります。8章の6節以下を見ますと、ノアは洪水がひいたかどうか確かめる為に、烏を、次に鳩を放します。ところが烏も鳩も箱舟に帰ってきてしまう。どうしてノアはこのようなことをしたのかといえば、箱舟には窓がないのです。ですから箱舟の中からは水がひいたのかどうか判らない。それでノアは知恵を使って、烏と鳩を放した訳です。そして七日待って再び鳩を放した。すると今度は、夕方になってオリーブの葉をくわえて帰ってきた。ノアはこれで水がひいたことを知った訳です。ここは実に感動的な場面です。そして更に七日待って鳩を放すと、鳩は帰ってこなかった。これは水がひき、地面が乾いて、木々も生え、鳩が生きていける状況になったということを示しているのでしょう。ノアは知恵を使って、それを知った訳です。しかし、問題はその後なのです。ノアは鳩が帰ってこないので、箱舟から出たかというと、そうではなかったのです。15・16節に「神はノアに仰せになった。『さあ、あなたもあなたの妻も、息子も嫁も、皆一緒に箱舟から出なさい。』」とあります。そして19節「獣、這うもの、鳥、地に群がるもの、それぞれすべて箱舟から出た。」ノアは主なる神様の言葉を受けて、初めて箱舟の外に出たというのです。ノアが箱舟にいた期間はどのくらいかといいますと、7章11節に「ノアの生涯の第六百年、第二の月の十七日、この日、大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた。」とあり、8章13・14節「ノアが六百一歳の時、最初の月の一日に、地上の水は乾いた。ノアは箱舟の覆いを取り外して眺めた。見よ、地の面は乾いていた。第二の月の二十七日になると、地はすっかり乾いた。」とあります。つまり、一年間ノアは箱舟の中にいたということなのです。皆さん想像してみて下さい。この箱舟の中というのは、生活するのに決して快適な環境とは言えるような所ではなかったと思います。動物はたくさんいるし、せまいし、そういう中に一年間も居たら、水がひいて外に出られることが判ったら、すぐに外に出たいと思うのではないでしょうか。しかし、ノアはそうしなかったのです。箱舟を造るのを神様の言葉の通りに行ったように、ノアは箱舟から出るのも、神様の言葉に従って、神様の言葉が与えられるまでは外に出なかったのです。私には、これはとても大切なことではないかと思えるのです。私共は、自分の知恵を使い、状況を分析し、こうするのが適当ではないかと判断する。しかし、それを実行する時には、御言葉が与えられるということなのではないでしょうか。与えられ方は、様々でしょう。しかし、具体的な御言葉による導きというものが私共には必要なのであります。自分の思いや願いや状況判断がいらないというのではありません。しかし、実際に事を起こす時には、それと共に御言葉による促し、導きというものがなければならないのであります。
 私が会社を辞めて神学校に行くことを決めた時、そこにはどうしてもそうしない訳にはいかない強い神様の促しを覚えた訳でありますが、当時会社の近くにあって、夜の祈祷会にだけ出席していた教会の牧師に祈祷会の後でその思いを言った所、大変喜んでくれたのですけれど、同時に「それで、どの御言葉が与えられたのですか。」と問われまして、私は返答に困ったことを覚えています。神学校に行くのに、そんなものが必要だとは考えたこともなかったのです。それから、毎日聖書を読み、祈りつつ、本当に自分が牧師になって良いのかどうか神様に問う中で、一つの言葉が与えられました。それはエレミヤ書1章の言葉でした。その後、牧師になってもこの召命の言葉は私を支え続けました。何も、この様な御言葉の与えられ方をしなければいけないというのではありません。毎週の礼拝や祈祷会の中で与えられ、それに従って歩んでいくということが、何より私共の基本的な姿なのでしょう。いずれにしても、御言葉、神様の言葉こそが、私共の人生を神の国、終末へと導いていくものであるということに違いはないのであります。

 第二に、神様に期待されたノアが水のひいた土地に立ってしたことは、礼拝であったということです。20節「ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。」とあります。これは人類においての初めての礼拝でありました。カインとアベルが神様に献げ物をささげたというのも礼拝と言っても良いと思いますけれど、ノアが行ったのは、焼き尽くす献げ物でした。これは、自分の罪がこの身代わりの死によって救われたことを感謝して、全身全霊を神様にささげる献身を象徴している献げ物でした。ノアは献身する礼拝をささげたのです。この神様に献身する礼拝をささげる者こそ、神様が期待していた者の姿だったということなのであります。ノアは洪水の後の新天新地において、何よりも神様に献身する者、礼拝をささげる者として歩み出したということなのであります。私共は、何気なくこの主の日の礼拝を守っているかもしれません。しかし、私共がささげているこの礼拝こそ、神様が私共に期待していることに外ならないのであります。全ての善き業に先立って、この礼拝こそ、神様が私共に期待していることなのです。そして、この礼拝こそ私共が献身の志を与えられ、私共の未来、終末へと目を向けさせられる時なのであります。全ての新しい歩みの出発点となる所なのであります。
 前任地で伝道礼拝を行ったときのことです。その準備祈祷の時に、講師の先生がこう祈られました。「この礼拝の前と後で、この礼拝に与る私共が、何も、少しも変わらないなどという愚かなことがありませんように。」この祈りに私は驚きました。そして、礼拝とはそういうものなのだと教えられました。
 私共が礼拝を守る者とされている。それは小さなことではありません。この礼拝には求道者の方も集っています。その方々に私は告げなければなりません。あなた方がこの礼拝に集う者になっているということは、あなた方は最も深い所において、全く新しい者とされ始めている。最も深い所において、全く新しい歩みが始まっているということなのです。このことに比べれば、目に見える新しさなど、取るにたりないことです。皆さんは、すでに神の子とされる終末の光の中に生き始めているのです。このことを何よりも感謝したいと思うのです。

[2004年10月24日礼拝]

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