富山鹿島町教会

礼拝説教

「罪人を捜し求める神」
創世記 2章15〜17節、3章1〜24節
ローマの信徒への手紙 5章12〜19節

小堀 康彦牧師

 エデンの園に住んでいた男と女、アダムとエバ。彼らは神様と自由に交わり、神様の守りの中、平和に暮らしていました。しかし、その平和はいつまでも続いたわけではありませんでした。彼らはたった一つの神様との約束、「善悪の知識の木からは決して食べてはならない。」という神様の戒めを破ってしまったからです。彼らは、エデンの園から追放されました。ロスト・パラダイス、失楽園です。私共が日々生きているこの現実は、楽園を失った生活だと聖書は告げています。この物語には、人間の罪とは何であるか、そのことが神話の形で私共に示されているのです。アダムとエバの犯した罪は、私共全ての者の上に及んでいます。パウロが「正しい者はいない。一人もいない。」(ローマの信徒への手紙 3章10節)と告げた通りです。どうして大昔のアダムとエバが犯した罪が、私に関係あるのかと人は言います。それを説明して、遺伝によるのだと説明した時代もありました。しかし今、私共にそのような説明はいらないでしょう。よくここを読めば、ここに示されているアダムとエバの姿は、私共自身の姿だと誰もが言わざるを得ないと思うのです。

 神様は、エデンの園のどの木からも自由に取って食べてよいと言われました。ただ、「善悪の知識の木」からだけはダメだ。食べると必ず死んでしまうから。そう言われたのです。これは、神様の戒め、律法というものが何であるかを良く示しています。神様の戒めとは、それをしては死んでしまう。だからそうならないようにと、前もって私共を守る為に与えられているものだということでしょう。いうなれば、崖の前に“この先 キケン!!”と書いてある立て札や、ガードレールのようなものなのです。あるいは、子供が川で遊んでいると流れの速い川の方に行こうとしてしまう。それを見た親が「そっちは危ないからダメだよ。」と言うようなものだということでしょう。命のを失うことになってはいけない。だからこれをしてはいけない。そう告げられているのが神さまの戒めだということなのでしょう。
 では、どうして神様は「善悪の知識の木」からは食べてはいけないと言われたのでしょうか。善悪を知るということは良いことなのではないでしょうか。私共が子供を育てる時、一番心を遣うのは、この子が善いことと悪いことが判って、悪いことはしない。そういう人間に育って欲しいということではないでしょうか。だったら、神様はどうして、人間に「善悪の知識の木」から食べることを禁じられたのでしょうか。  それは、善悪を知ること、何が善で何が悪であるかということを決めるのは神様であって、人間ではないということなのです。もし、人間が善悪を自分で全て決めることが出来るとすれば、それは人間が神になってしまうということを意味しているのであります。神様は、それはいけない、そんなことになってしまえば、人間は神様になるどころか悪魔になってしまうということを知っておられたからなのであります。それでは、命を失うことになる。そう告げられたのです。
 具体的に考えてみましょう。人が人を殺すのは善いことでしょうか、悪いことでしょうか。人の物を盗むのは善いことでしょうか、悪いことでしょうか。悪いに決まっています。しかし、誰かが開き直って、そんなことを誰が決めた。俺は、あいつを殺したい。あいつのあれが欲しい。何をしようと俺の自由だ。そんなことになったらどうなってしまうでしょうか。確かに、人間には自由があります。しかし、その自由は無制限の自由ではありません。これを超えてはいけないという限界の中での自由なのです。その限界の中でこそ、人間は自由であり、互いに平和に生きることが出来るのでしょう。この限界を取り去ってしまえば、人は自由であるどころか、自分の罪の重さの故に、どこまでも墜ちていくしかないのであります。その限界を決めるのは、神さまなのです。ここで神様は、善悪を決めるのは私だ。あなたは、その中で自由に平和に生きなさい。そうアダムとエバに告げられたのだと思います。

 しかし、女は蛇の「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知る者となる。」という言葉に誘われて、ついに食べてしまったのです。6節「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。」とありますように、罪の誘惑というものは、いつも魅力的なのです。この木の実がまずそうで、くさい臭いを放っていたのなら、食べたいとも思わなかったでしょう。しかし、誘惑とはいつも美しく見えるものなのです。  彼らはそれを食べると確かに目が開かれました。そして、互いに裸であることが分かり、イチジクの葉で前を隠したのです。このことについて、ある神学者は「彼らが隠したのは男が女に、女が男にということではなく、神さまに対して隠したのだ。」と言います。なるほどと思います。彼らは、神さまに対して隠すべきことが出来てしまったと言うことなのでしょう。だから、彼らは神さまから身を隠さなければならなくなったのです。神のように善悪を自分で決める。それは、神様からの逃走とも言うべき事態を生み出してしまいました。彼らは、神様が来られる足音を聞くと、神様の顔を避けて、木の間に身を隠してしまったのです。
 ここで注目すべき出来事が起きます。神様は、身を隠したアダムを呼ばれたのです。「どこにいるのか?」神様は、全てを知っておられたに違いありません。アダムとエバが食べてはいけないと言われた木の実を食べてしまったこと、それ故にアダムとエバが神様から身を隠したこと、その一部始終を神様は知っていました。そして神様は全てを承知の上で、アダムを捜し求めるのです。「あなたは、どこにいるのだ。わたしの前に姿を現しなさい。わたしの前に立ちなさい。」神様はここで、アダムの隠れている木々に分け入り、アダムを無理矢理自分の前に立たせることはしません。「あなたは、どこにいるのか。」そう告げられるだけです。神様は、アダムが自分から姿を現して欲しいのです。それは、神様が人間に求めているのは、いつも自由な交わりだからです。愛は自由の中にしか生まれてこないからです。
 この神様のアダムへの呼びかけ。「あなたは、どこにいるのか。」この神様の言葉こそ、聖書全巻を貫いている神様の御心を表しているのです。聖書のどこを開いても、私共はこの神様の言葉の響きを聞き取ることが出来ます。聖書の歴史は、まさに神様の前から身を隠し、自分勝手に生き、神様との真実な交わりを失った人間を、神様が、どんなにしても捜し出し、見つけ出し、再び交わりを回復されようとする神様の御業の歴史なのであります。
 神様は何度そむいても、イスラエルを見捨てませんでした。必要な時に指導者を与え、預言者を与え、神様に立ち返る道を備えて下さいました。しかし、それでもイスラエルはノド元過ぎれば熱さ忘れるで、すぐに神様から離れてしまいました。それでも神様はあきらめません。「あなたは、どこにいるのか。」そう告げながら、ついに、主イエス・キリストをお送りになりました。神様の前から逃走し、神様の戒めを忘れ、自分の損得でしか善悪を判断出来なくなった人間に、それでも神様は「あなたは、どこにいるのだ。あなたは、わたしと共に、わたしの与えるまことの自由、まことの平安の中に生きよ。わたしの元に戻りなさい。」そう告げておられるのです。

 アダムは神のようになろうとしました。ここに罪があります。確かに私共は、皆アダムの子孫であります。しかし神様は、私共が再び神様と共に生きることが出来るようになる為に、第二のアダム、イエス・キリストを与えられました。主イエス・キリストは、神であられたにもかかわらず、人間となられました。それはちょうど、アダムと逆の道をたどられたということです。アダムと逆の道をたどられたイエス・キリストの御支配の中に生きることによって、私共を再び神様との親しい交わりの中に生きる者として下さったのです。主イエス・キリストの誕生は、まさに神様の「あなたは、どこにいるのか。」との言葉が最終的な具体的形となったということなのであります。そして、この罪人を捜し求める神様の声は今も止むことなく鳴り響いています。自らの罪の中で明日への希望を失い、うずくまり、あえいでいる者に向かって、「あなたは、どこにいるのか。」そう語りかけておられます。人間の罪が造り出した、悲惨な現実の中で圧しつぶされそうになっている人々に向かって、神様は語りかけています。「あなたは、どこにいるのか。」私共は、この呼びかけに応え、神様の御前に立ち、キリストの御支配の中で新しく生きる者となりました。その私共には、この神様の呼びかけを伝えていく責任があるのです。この神様の呼びかけの言葉をたずさえ、罪人を捜し求める神様の御業の道具となるのです。それが、キリスト者が、キリストの教会が、この世界に存在している使命と言うべきものなのであります。
 もちろん、人はそう簡単に自らの罪を認めようとはしません。神様からの逃走は、本来の人間のあり様ではありませんけれど、そのような生き方しか知らない者にとっては、神様の呼びかけなど聞きたくもないのです。禁じられていた木の実を食べてしまったことをアダムがエバのせいにし、エバが蛇のせいにした様に、自分に悪いところはない。そう言い張るのです。私共自身もそうだったはずです。しかし、神さまは諦めることなく私共に声を掛け続けられました。この聖書の箇所では、神さまがアダムに声を掛けたのは一度だけのように記されていますけれども、きっとそうではなかったでしょう。我が子の姿が見えなくなったとき、「どこにいるのだ。」と一回呼んで終わり。そんな親はいません。姿が見えるまで、何度も何度も声を枯らして叫ぶに違いないのです。それに、アダムが一度神さまに呼びかけられて、すぐに姿を現す。そなんなことも、考えられないでしょう。神さまは何度も何度も呼び、そしてようやくアダムが姿を現したのではないかと思う。私共もまた、そのようにして神さまの御前に立つ者とされたのではありませんか。だったら、私共は父なる神様がそうであられる様に、罪人を探し続け、求め続け、「あなたは、どこにいるのか。」と語り続けなければならないのです。愛と忍耐とをもって、語り続けなければならないのであります。それが、神様の道具とされるということなのです。「あなたは、どこにいるのか。その光が届かない所に身を隠しているのを止めなさい。光の中を共に歩もう。自分を責め、人を責めるのは止めよう。神様の光の中を、自由に共に歩き出そう。」そう、忍耐と愛をもって語り続けるしかないのであります。その言葉は、必ず届きます。何故なら、その言葉は神の言葉だからです。私共を用いて下さる、全能の父なる神の言葉だからです。

 さて、人は神様の戒めを破ったが故に、その罪の値として死なねばならない者となってしまいました。とするならば、キリストの義をまとい、神様の御前に新しい者とされた者は、死を超えて永遠の命に生きる者となるはずなのです。そして更に、神の戒めを破って罪が生じたとするならば、キリストの義をまとった私共は、神の戒めの中に喜んで生きる者とされているということなのでありましょう。  私共の教会は、聖餐に与る礼拝において十戒を唱えることにしています。それは、キリストの命、永遠の命に与る者は、新しく神の戒めの中に生きる者にされた者であるということを心に刻む為なのであります。ただ今から聖餐に与ります。私共が罪の支配からキリストの支配の中に生きる者とされたこと、死の支配から命に生きる者とされたこと、神の戒めを破る者から喜んでそれに従う者とされたことを、心に刻む為であります。この一週間、共にこの聖餐の恵みに与った者として、神様の言葉をたずさえて、一人一人と出会い、歩んでまいりたいと思います。

[2004年10月3日礼拝]

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