「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」と聖書は告げます。ここには、先週与えられました創世記1章26,27節にあります、人間が神様の似姿に造られたということの別の表現があると言って良いでしょう。私共人間は、土の塵で造られた。ですから、誰でも時が来れば再び土に、塵に返らなくてはならないのであります。しかし、私共は単なる土の塵を集めたものではない。神の息、聖霊を吹き入れられた存在なのです。この神の息、命の息を吹き入れられた者であるということが、私共人間を他の動物達とまったく違う者にしているのです。逆に言えば、神の息を吹き入れられなければ、人間は動物と変わらないということなのであります。人間は、その生物学的、医学的立場から見れば、他の動物と変わらないということも言えるでしょう。同じく土の塵で造られたものだからです。しかし、人間という存在はそれだけでは判らないのです。神様によって吹き入れられた息、命の息、神の息を吸い込んでいる。これこそ、人間を人間たらしめている。そう聖書は告げているのです。
近年の医学の発達は目を見張るものがあります。十年前は助からないと考えられていた病気も、様々な手段で助かるようになっています。人間の遺伝子の研究も進み、何十年後かには、その多くが解明されるとも言われています。それはそれで有り難いことですけれど、しかしそのような研究が進めば人間というものが判るというものではないのです。そのような研究は、人間が土の塵によって造られたということを明らかにするだけなのです。神様によって命の息を吹き入れられたということ、こうして人は生きる者となった、人間が人間となったということを明らかにすることにはならないのです。この人間が人間として生きる者となったということは、単に生物として生きる者になったということではないのです。そうではなくて、神の息を吹き込まれて、神様と同じ息を吸い込んで、神様と同じ息を呼吸して、人は本当に生きる者になるということなのです。本当の人間として、生きる者になるということなのです。これは、人間の霊的次元を指しているのです。人間には生物としての次元だけでは判らない、霊的次元というものがあるのです。いつの間にか、現代人はこのことが判らなくなってしまいました。自分の中に霊的次元があることが分からなくなってしまった。霊といえば、幽霊だとか、悪霊だとか、呪いだとかオドロオドロしい世界のことだと思っている。霊的次元とは、そんなものではなくて、神様との交わりを持つことが出来る、祈る者であるということです。神様との交わりというものは、目に見える世界だけの中に生きていれば、出来ることではないのです。人間が自分の霊的次元が判らなくなったということは、神様との交わりを失ってしまったからなのだろうと思います。
私はこの神様が人間に命を息を吹き入れられたという記事を読みますと、いつも主イエスが復活された後で弟子達になされた業を思い起こすのです。ヨハネによる福音書20章19〜23節を読みます。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』」 イースターの夕方の出来事です。弟子達は恐れていました。自分達が主と仰ぎ、ついて来たイエス様が十字架につけられて死んだ。自分達も捕まるのではないか。弟子達は恐れ、戸を閉め、鍵をかけて家の中にじっとしていた。するとそこに、復活された主イエスが現れ、弟子達に告げたのです。「平和があるように。」 更に主イエスは弟子達を遣わすと命ぜられ、22節です。「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」 復活の主イエスが弟子達に息を吹きかけて、「聖霊を受けよ。」と告げられたのです。これは、天地創造の時に神様が土の塵で造った人間に命の息を吹き入れられた出来事の再現でしょう。創世記の神様が土くれにすぎない人間に命の息を吹き入れられたという出来事は、遠い遠い昔の話なのではなくて、主イエス・キリストによって私共の上に起きた出来事、今起きていること、これから起きる出来事を示しているのであります。聖霊を受けて、新しく生きる者になるという出来事です。
弟子達は主イエスによって聖霊を注がれてどうなったかというと、主イエスに遣わされてキリストの福音を全世界に宣べ伝える者とされました。つまり、神様の御業をなす、神様のパートナーとされたのであります。人間が人間となるということは、聖霊を受けて、神様のパートナーとして生きる者となるということなのであります。創世記2章15節には「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。」とありますが、これはまさに神の国であるエデンの園を耕し、守る為に、神様のパートナーとして、人間を造られたということを示しているのでありましょう。先週も確認したことでありますけれど、人間はエデンの園の主人では決してないのです。人は、園を耕し、守るようにと神様によって住まわせられた者なのです。ですから、まことの主人である神様の御心に従って、これを守らなければいけないのであります。主人である神様を忘れてしまい、まるで自分が主人であるかのように勘違いしてしまうならば、それは神様の命の息を吹き入れられた者として歩んではいないということになるのであります。
さて、神様は人間、この場合は男、アダムでありますが、これが独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろうと言って、女を造られたと記されています。「人が独りでいるのは良くない。」 そう神様は言われた。どうして、独りでいるのは良くないのか。それは、先週も申しました様に、独りでは愛の交わりを形成することが出来ないからであります。永遠の三位一体の愛の交わりにある神様の似姿に造られた者として、独りであるということでは、十分に神様の似姿を現すことにならない。そう神様はお考えになられたのだろうと思います。神様は人間を単独者として生きる者としてはお造りになられなかったということなのです。
このことは、生まれて間もない赤ちゃんを、笑顔も語りかけもない、ただ時間になればミルクを与え、おむつは替える。そういう、機械的な、単なる生物として生存することだけを目的とするような環境で育てたらどうなるか。これは考えるだけでも恐ろしい結果になることは、誰にでも想像出来るだろうと思います。このことは以前、今は崩壊したある東欧の独裁国家が実験をしたということを聞いたことがあります。廊下をはさんで、右と左に乳幼児がいる。右には、普通にミルクをあげ、抱き上げ、あやし、語りかけ、おむつを替える。左には、ミルクはあげるけれど、あやしもしないし、語りかけもしない。ただ機械的におむつを替える。こういう実験をするということ自体、サタンの業だとしか思えませんけれど、この実験の結果は、笑顔も語りかけもない所で育てられた子は、乳児期に半数以上が死んでしまったというのです。本当にむごい実験をしたものです。人間というものは、どんな幼子でも老人でも、愛の交わりというものを必要としているのです。愛がなければ生きられない存在なのです。「人が独りでいるのは良くない。」とはそういう意味なのです。
神様は、「彼に合う助ける者」として女性を造られました。ここに男尊女卑の考えを見るのは間違っています。神様は動物では人と本当に助け合うことが出来ない。牛も犬も馬も、耕したり、狩りをする助けにはなる。しかし、それは本当に人を助ける者としてふさわしくないと考えた。動物では本当の愛の交わりを形成することが出来ないからです。最近は、夫よりも犬のポチの方が話を聞いてくれるなどという、まんざら冗談でもないような話を聞くことがありますけれど、それが本来の人間の姿でないことは明らかでありましょう。「彼に合う助ける者」は、人生を共に歩むパートナーということであります。「これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉。」と言うべき、自分と一心同体、自分という存在が、その人なしには考えられない、存在し得ない。そういう深い、堅い、人格的な交わりを形成する者として、男と女が造られたということなのであります。ここに結婚の秘義・奥義ともいうべきものがあるのであります。
先程、エフェソの信徒への手紙5章21〜33節をお読みいたしました。結婚式において読まれる聖書の個所であります。この聖書の言葉を聞きながら、耳が痛いというか、忘れていたなどと感じた人もいるのではないかと思います。22節「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。」25節「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」 妻はキリストに仕えるように夫に仕え、夫はキリストが十字架の死をもって教会を愛したように妻を愛しなさいと告げられています。うちの夫婦は、まさにこれだと言えるような夫婦はまことに希でありましょう。しかし、私共はこの言葉を聞かなかったことにする訳にはいかないのです。これは神の言葉だからです。この言葉に従って生きる者として、私共は聖霊を受けているからです。神の命の息を吹き入れられた者とは、神様のパートナーとして生きる者とされたということであり、更に具体的には、夫を、あるいは妻を、神様の御業を行うパートナーとして愛し、いたわり、仕えるということだからなのです。私共は、そういう者として造られているのです。これは、私共の意志ではなく、神の意志なのです。
連合長老会の式文改訂の為に、最近、アメリカの長老教会の式文を見ておりましたら、結婚の所で「キリスト教で改めて結婚式を挙げる者の為に」という式文や、「離婚して再び結婚する者の為に」という式文があるのを見て、驚くと共に、感心いたしました。日本で家庭や夫婦の崩壊が様々な所で叫ばれていますが、アメリカはもっと深刻な事情だろうと思います。そういう中で、教会は何が出来るのか、何をしなければいけないのか。そのことを正面から取り組んでいるのです。私は、この現代の日本において、結婚とは何なのか、このことをきちんとわきまえて結婚式を挙げることが出来る所は教会しかないと考えています。好いた惚れたということを超えて、神様の御前に、神様の選びを信じて、どんな時でも互いに仕え合うパートナーとして生涯を歩んでいく。その道筋を与えることが出来るのは教会だけであり、それは結婚の秘義を知らされている教会の責任である。そう思うのであります。
まことに人間と人間の関係とは難しいものであります。夫婦、親子、近ければ近い程難しい。こじれてしまえば修復するのは本当に難しい。互いに深く傷つきます。しかし、神の息としての聖霊を吹き込まれたということは、それをうるわしいものに造り変えていく力を与えられているということでありましょう。私共は弱く、愚かで、自分で変わっていくことが出来ない者なのです。もっと言えば、自分は金輪際変わらないけれど、相手に変わることを求め責める。そういう頑固ささえ持っている。しかし、私共には聖霊が与えられているのです。自分の力など信じなくても良い。しかし、私共に注がれている、聖霊の力を信じましょう。私を造りかえ続けてくれる神さまの力を信じましょう。神には何も出来ないことがないのですから。
[2004年9月26日礼拝]
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