富山鹿島町教会

礼拝説教

「私を自由にする真理」
申命記 7章6〜8節
ヨハネによる福音書 8章31〜38節

小堀 康彦牧師

 私共キリスト者に与えられている大きな恵みの一つは、自由であるということであります。これは主イエス・キリストが私共に与えて下さった約束です。どうも最近は、この自由という言葉も手垢がついてしまっているというか、自由ということが当たり前のことになってしまって、自由だと言われてもあまりありがたくないような風潮があるようですが、実にこの自由ということは人類が長い歴史の中で何としても手に入れたいと願い求めてきたものなのであります。現代の日本人の多くは、自分は自由だと思っていますけれど、実は自分達が思っている程に自由ではないのではないかと、私には思えるのです。確かに、私共はどこに住もうと、どの職業に就こうと、誰と結婚しようと、法律によって規制されるというようなことはありません。その意味では、現代の日本という社会は、人類の歴史上まれに見る程の自由が与えられている状態だと言っても良いだろうと思います。しかし、だったら日本人は本当に自由かと言うと、確かに自由だとは言い切れない所が残るのではないかと思うのです。それは、周囲の目というものから自由になれていないということもあるでしょう。これは小さな問題ではありません。周囲の目や期待に応えようとして、いつでも無理をしている。そういう状況が私共にもあるだろうと思います。そうは言っても、周りの人に、「あなたは不自由ですね。自由じゃありませんね。」などと言っても、「そうなんです。」とは、きっと言われないだろうと思います。「いや、私は自由ですよ。」ときっと言うだろうと思います。それは、自由ということが、本当の所で判っていないからではないかと思うのです。
 主イエスが「真理はあなたたちを自由にする。」と言われた時、ユダヤ人達は怒りました。自分達は自由なのだ。今まで誰かの奴隷になったことはない。そう申しました。しかし、ユダヤの歴史をながめてみますと、民族として、国家として本当に自由であったのは、ダビデとソロモンの時代くらいなもので、他の時代はいつでも周りの強大な国家の属国のような扱いを受けてきていたのです。主イエスの時代も、ローマ帝国の属国だった訳です。ところが、ユダヤ人達は「今まで誰かの奴隷になったことはない。」と言い張るのです。主イエスは、ユダヤ人のプライドを傷つけたということなのでしょう。ユダヤ人達には、自分達はアブラハムの子孫である、だから選ばれた神の民であるというプライドがあった。このプライドが自分達の不自由な状態を認めさせなかったのではないかと思います。私共は、本当の自由になる為には、実は自分が自由でないということを認めなければならないのです。しかし、これがなかなか難しいのです。自分の不自由さを認めるということは、自分の罪を認めるのと同じように難しいところがあるのではないかと思います。私が、現代の日本人の多くが本当に自由なのだろうかと思うのは、自由というものの構造と申しますか、自由というもののとらえ方と言いますか、そういう根本的な所で、自由が判っていない。だから自分では自由だと思っているのだけれど、少しも自由じゃない。そういうことが起きているのではないかと思うからなのです。

 聖書が告げる自由というものには、二つの側面があります。一つは「○○からの自由」です。多くの場合、自由と言えば私共はこれしか考えません。これは大切なことですけれど、これは自由の一つの側面でしかないのです。日本人は自由のこの面しか知らない。だから、本当の自由になれないのではないかと、私は思うのです。自由には、もう一つの大切な側面があるのです。それは「○○への自由」です。
 先程、申命記7章6〜8節をお読みいたしました。ここには、神様がイスラエルの民をエジプトの奴隷の家から救い出されたこと、そして、ご自分の宝の民とされた、ということが記されています。まさに、イスラエルはエジプトの奴隷という状態から自由にされたのです。しかしそれは、目的のない自由ではなく、神様の宝の民としてふさわしい者として生きるという目的、もっとはっきり言えばそれは十戒に従って生きるという目的を持った自由だったということなのであります。神様は、イスラエルを奴隷の状態から解放しました。しかし、それが単なる民族解放、政治的な自由ということだけだったのならば、それは本当の自由にはならなかったのです。それはちょうど、出エジプトいたしまして過ぎ越の出来事や海の奇跡で、エジプトの支配からは自由になりましたけれども、それだけではまだイスラエルの民は荒野の旅の中にいるわけで、とても自由の喜びというもののの中に生きる者とされてはいなかったのに似ています。神の民は約束の地に入り、神の戒めのもとに生きるという、新しい生き方がなければ、本当の自由にはなれなかったのです。結局、自らの罪の奴隷ということを乗り超えていくことは出来なかったからであります。実に出エジプトの救いの出来事は、エジプトの奴隷の家から自由になるということと、神の民として神に向かって、神の戒めへ自由になるという二つの側面を持っていたのであります。キリスト者に与えられている自由とは、まさにこの二つの側面を持ったまことの自由と言うべきものであるということなのであります。罪からの自由と、神の子へと至る自由であります。

 さて、罪からの自由ということでありますが、これは罪の奴隷の状態からの自由ということです。34節には「はっきり言っておく。罪を犯す者は誰でも罪の奴隷である。」と主イエスは言われました。このような主イエスの言葉を聞くと、ドキッとしないキリスト者はいないでしょう。罪を犯していないと言い切れるキリスト者はいないからです。だったら、キリスト者もまた罪の奴隷なのでしょうか。そうではありません。ここで言われている「罪犯す者」とは「罪を犯し続ける者」のことです。罪を罪として認識できない故に、罪と戦うことを知らず、罪を犯し続ける者のことなのです。キリスト者は罪を犯さない者になっているわけではありません。弱さの故に、愚かさの故に、私共は罪を知らず知らずに犯してしまう者です。しかし、私共は最早、罪の奴隷ではない。それは、たとえ罪を犯すとしても、罪と戦う者とされた、罪を悔い改める者とされたからなのであります。罪の奴隷は、自らの罪と戦うことがないのです。それが罪から自由にされたことのない、罪の奴隷の状態のもとにある者の特徴なのです。これは、皆さんがキリストを知る前の自分の姿を思い起こせば、すぐに判ることだろうと思います。罪が判らない。だからこれと戦うこともなければ、これを悔いることもない。しかし、罪から自由とされた私共は、これと戦う者となったということなのです。
 そして、その戦いは神の子とされる道でもあるということなのです。神の子、それは父なる神に向かって誰はばかることなく近づき、「アバ、父よ。」と呼ぶことが出来る者であります。神様の御前における自由であります。私には高二の一人娘がいるのですけれど、これはもう私に対して、まことに自由であります。もう少し気を使えと言いたくなる時もありますが、まことに自由であります。少々のことがあっても大丈夫とタカをくくっている所があります。私共も同じでありまして、神様の御前において、これをしたら怒られる、家を出されるのではないかと心配している奴隷ではなく、ここは私の家だと安心して自由にしていられる「子」なのであります。神様の御前において、まことに自由であることが出来る特権を与えられているのです。奴隷は、失敗したら家を出されてしまう。そう怯え、主人の顔色を伺っているわけです。しかし、子どもはそうじゃない。何をしてもまさか家から出されるなんて考えたこともない。そういう神さまの御前における自由が私共に与えられているのであります。

 この「まことの自由」を私共に与えて下さるという恵み、それには「わたしの言葉にとどまるならば」という条件が付いています。この条件は、31節で「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。」とありますように、すでに主イエスを信じた人々に向かって告げられているのです。このことを私共はちゃんと見なければいけないと思います。主イエスを信じるということは、一時のものであってはならないということでしょう。一時は信じても、すぐに離れてしまうのならば、それは何にもならないのです。有名な、「種まきのたとえ」を思い起こします。石だらけの土地や、茨の間に落ちた種は、実を結ばないのです。主イエスを信じた者は、御言葉の中にとどまり続け、御言葉が私共の中で成長し、私共の全てを支配するようにならなければならないのです。その為には、御言葉に日々親しみ、御言葉を自分の中にたくわえ、御言葉に従った生活を整えていかなければならないのです。
 私共は洗礼を受けた者が全て、生涯信仰の生活を全うするとは限らないということを知っています。牧師の経験から申しますと、洗礼を受けて、一、二年の間は誰も信仰生活に燃えているものなのです。問題は、その後です。必ず信仰生活のマンネリ化ということが起きるのです。これは誰にでも必ず来るのです。ほとんど例外はありません。このような信仰のマンネリ化をそのままにしておきますと、いつの間にか説教を聞いていても眠いだけ。礼拝に来てもつまらない。献金するのはもったいない。そんな風になるのです。主イエスがここで、「わたしの言葉にとどまるならば」と言われたことを心に刻みましょう。では、主イエスの言葉にとどまり続ける為に必要なことは何でしょうか。いくつもあると思いますけれど、今は三つだけ申します。一つは学びを深めていくということです。礼拝に出ているだけでは十分ではありません。様々な機会をとらえて、御言葉の学びを深めていくことです。学ぶのを止めた時、マンネリ化の波がおそってくるものなのです。いつも新しい発見を御言葉によって与えられていくような学びが必要です。もう一つは、御言葉に従う生活、具体的には伝道・奉仕の業を進んで為していくということです。御言葉に従う生活を整えることなく、御言葉にとどまり続けることは出来ません。それと最後に、日々の生活の中で祈りの時間を確保していくということです。祈らなくなったキリスト者の信仰は、大変キケンなのです。一日十分間でもいい、必ず、ただ祈るためだけの時間を生活の中に確保していかなければなりません。
 主イエスをただ一時信じたというのではなく、信じ続ける、御言葉と共にある生活を続けていく。そうするならば、私共は主イエスの本当の弟子となっていくのです。主イエスが私共の人生の主人になって下さるのです。神様が私共のまことの父となって下さるのです。そうなれば、私共は一体何を恐れることがあるでしょうか。何も恐れるものはないでしょう。ここに、私共の本当の自由があるのではないでしょうか。

 現代の日本人の多くは、自由であると言いながら、様々なものにおびえています。健康だったり、仕事のことだったり、自分や子どもの将来のことだったり。何の不安もありませんという人はあまりいないでしょう。そしてその多くは、明日への不安だと言って良いでしょう。明日のことは誰にも判らないのですから、不安を持っても当たり前なのかもしれません。しかし、私共は違うのです。真理を知っているからです。その真理とは、「明日は神様の御手の中にあるということ」、そしてその「神様は私共の父であられるということ」です。この御言葉によって示されている真理を知っている故に、私共は明日を神様の御手の中にお委ねするということを学んだのです。ここに、自由があります。
 私は27才で会社を辞めて、神学校に行ったのですけれど、その時会社の同僚とか、友人達は一様に将来への不安はないのかと申しました。私はあの時、彼らが何を言っているのかまったく判りませんでした。神様に全てをささげて神様と共に生きるのだから、神様が何とかしてくれる。私は本気でそう思い、それ故に、少しの不安もありませんでした。正直な所、牧師では食べられないかもしれないから、その時は塾でも開こうと思っていました。神学校時代の生活費のことだって、神様が何とかしてくれると思っていました。実際には、教会からの支えがあり、何とかなったのですが、そんな見通しがあった訳ではありません。素朴に、神様が召されたのだから、神様が何とかしてくれると思ったのです。不安も恐れもありませんでした。本当に自由だったと思います。私共に与えられている自由とは、そういうものなのではないかと思うのです。
 私共に与えられている、この神の子としての自由は、この現代日本の中にあって、まことに軽やかで、実にさわやかな光を放つものなのではないかと思います。キリスト者は、眉間にシワをよせて生きるのではなく、この神の自由の中で軽やかに生きる者なのでしょう。どうか皆さん、この神様が与えて下さる自由の中を、この一週間主の御前に歩んでいっていただきたい。その姿こそ、神様の恵みを証ししていく道だからであります。

[2004年9月19日夕礼拝]

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