共に読み進んでまいりました「フィリピの信徒への手紙」も、今日で終わります。もう少していねいに読み進めるべき所があった様にも思います。しかし、一句一句に立ち止まりながら読むというよりも、ある程度の節をまとめて読み、大掴みにしてメッセージを聞き取るということに心がけました。それはフィリピの信徒への手紙は、本来まさに「手紙」であった訳ですから、あまり細かく区切って読むよりもその方がパウロの思いを読み取ることが出来ると思ったからです。ぜひ、皆さん、今日帰られましたなら、フィリピの信徒への手紙を、一息に読んでいただきたいと思います。時々の説教の言葉が思い起こされるかもしれません。この半年間の学びの前とはまた違った思いを持って、読めるのではないかと思います。
今、改めて「フィリピの信徒への手紙」、パウロがフィリピの教会の人々にあてた手紙が、このように聖書の中に加えられているということについて思うのです。パウロはこの手紙を書きました時に、これが将来神の言葉である聖書の中に加えられるであろうなどとは、少しも考えていなかったに違いないのです。パウロは、フィリピの教会に、その時どうしても必要だと思ったことを書き記し、フィリピの教会の人々を慰め、励まし、教え、導こうとしただけなのでしょう。それが、このように私共にとってなくてはならない聖書として残された。不思議なことであります。手紙でありますから、具体的な状況があり、日常的なあるいは個人的なやり取りも記されています。しかし、この個人的な、日常的なやり取りの中に現れてくるキリスト者の交わり。この中に、キリストの福音の真理、福音の力が現れているということなのでありましょう。それは、私共とて同じことなのであります。福音の真理、福音の力というものは、私共の日常的な、個人的な日々の生活の中に、私共の日常的な言葉のやり取りの中に、現れてくるのであります。
昨日、ご主人が入院されたということを知らせにある婦人が教会に立ち寄られました。病気の内容を少しうかがいまして、そこで共に祈りをささげました。病気の様子をうかがって、「それは大変ですね。」それだけでは済むはずがないのです。共に祈らないでは別れることが出来ない。それが、同じ信仰に生かされている私共の交わりというものなのであります。それはまことに日常的なことであります。しかし、このような日常的なやり取りの中に、キリストの福音に生きるということはどういうことなのかということが、はっきりと現れてくるものなのであります。
さて、フィリピの教会の人々はパウロに今まで何度も贈り物を送りました。それは個人的な親しさを表すものというよりも、パウロの伝道者としての働きを支えるものでありました。パウロはそれに感謝をしつつ、しかし直接的に「ありがとう」と言うのではなくて、その贈り物によって、「あなたがたの益となる豊かな実」が結ばれたことを喜んでいます。これは別の言い方をすれば、フィリピの人々が天に宝を積んだことを喜んでいると言っても良いでしょう。フィリピの教会の人々が、パウロに贈ったものは、パウロ個人の為ではなく、神様へのささげものであったと、パウロは理解しているのであります。パウロは、自分が神様によって養われている、神の養いによって生かされているということを、日常的に覚えていた人でありました。ですから、フィリピの教会の人々による支えも、神様による養いとして受け取っていたのです。フィリピの人々の贈り物は、神様へのささげものであり、パウロは神様からそれを受け取っていると理解しているのです。フィリピの教会の人々とパウロの間の物のやり取りの間に、神様がいるのです。このことが、決定的に重要なことなのです。良いですか皆さん、私共キリスト者の交わりの中には、神様がおられるのです。私共教会員は、兄弟姉妹と言うように、実にまことの家族、神の家族としての交わりを与えられます。家族、親友と言ってよいような親しさを与えられます。しかし、決定的に重要なことはその親しさではありません。その交わりのただ中に、神様がおられるということなのです。
「私共の交わりのただ中に、神様がおられる」、このことの確かな「しるし」があります。その「しるし」とは、共に神様をほめたたえるということであります。20節「わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」とパウロは言います。私共キリスト者の交わりには、神様をほめたたえるということが、必ずついてくるのです。その人といると楽しい、おもしろい。そういう所にとどまり得ない交わりなのです。詩編133編に「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」とあります。これは、都もうでの歌です。エルサレムの神殿に上っていく時に歌われたものです。兄弟姉妹が共に神様を礼拝する為に旅をしている。その旅は何と楽しく、何と喜びに満ちたものかと歌っているのです。まことに、教会の交わりは楽しく、うるわしいものであります。しかしそれは、単に仲よしこよしの交わりではないのです。共に主をほめたたえることが出来る交わりだから、うるわしいのであります。それは「聖められた交わり」「聖なる交わり」であると言って良い。
では、教会の中に起きるトラブルについてはどう理解したらよいのか。聖められた交わりと言っても、この世にある教会は様々な問題をいつも抱えているではないか。そう問われれば、悲しいかなそれも又、事実なのです。私共は罪赦された者でありますが、罪を犯さない者となった訳ではありません。罪赦されし罪人であります。教会は天国そのものではありませんから、問題は起きるのです。しかし、私はこれは決定的なことではないと思っています。なぜなら、私共の交わりのただ中には神様がおられるということ、それはこのことによっても少しも揺るがないことだからです。ですから、私共は様々な問題をかかえた時にも、いつも「主が共におられる」という事実に目を向けることによって、ただそのことによって乗り超えていくことが出来るのです。まるで神様が共におられないかのように、人間の知恵で何とかしようとしても、本当の所ではどうにもならないのです。私共は、主の御業を共にあおぐしかありません。そして、神様が私共に求めておられることが何であるかを、そのことで思いを一つにすることが出来れば、そして共に主をほめたたえることが出来れば、全ての問題は解決していくです。
さて、パウロは19節で「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。」と申します。これは、「あなたがたはわたしの必要を満たしてくれました。神はあなたがたの必要を満たしてくれるでしょう。」ということであり、「あなたがたはわたしの必要の一つを満たしてくれた。しかし、神はあなたがたの必要の全てを満たしてくれるでしょう。」「あなたがたは、貧しさの中から与えてくれた。しかし、神は栄光の富の中からあなたがたの必要の全てを満たしてくれるでしょう。」ということなのです。パウロは、神様の豊かさを知っています。その豊かさの中で、自分が養われていることを知っているのです。その自分を養って下さっている神様が、フィリピの教会の人々をも支えて下さることを確信しているのです。パウロは牢獄の中にいます。しかし少しも揺るがないこの神様への信頼、これが牢獄の外の人々を慰め、励ますのです。パウロの伝道の歩みは、迫害から迫害への連続でした。しかし、そういう中でパウロは、自分が主の栄光の富の中から、必要の全てを受けていることを知らされたのです。
先程、列王記17章をお読みいたしました。イスラエルの王となったアハブは妻イゼベルと共にバアルに仕えました。神様はこれを怒り、干ばつになることを預言者エリヤの口を通して語り、そのようになさいました。干ばつになれば、エリヤとて、食べる物はなくなります。しかし神様は、エリヤを数羽のカラスにパンと肉を運ばせて養いました。又、小麦粉の尽きることのない壺、油のなくなることのない瓶で養われました。神様は不思議な業をもってエリヤを養ったのです。代々の教会、又伝道者達は、皆、この話が本当であることを知っています。自分たちを養ってくれるカラスが本当に居ることを知っているのです。神様の不思議な業が、私共の全ての歩みを守り、養って下さっていることを知っているのです。
私の前任地の隣の教会に物部教会という教会がありました。綾部市の郊外にある物部村という純農村。教会は村の中に建っていますが、その集落には200軒の家はないでしょう。そこに先の大戦が始まったばかりの頃、真珠湾攻撃の次の年に三好静子という一人の若い女性伝道者が開拓伝道を始めました。村に一人しかいないお医者がクリスチャンで、招かれたのです。水もない、電気もない、トイレも借りる。そういう生活でした。この方は一昨年、88才で天に召されましたけれど、私は楽しそうに話す、あの大変な時代の思い出を何度か聞きました。私は自分が伝道者として「しんどい」と思うと、車で一時間程の先生の教会に車を走らせました。私が何で訪ねて来たのかも聞かず、お茶を飲みながら戦争中の話を楽しそうに話してくれました。「礼拝をしても、誰も来ない。窓は石で割られて、紙をはる。でも、教会学校の子供たちは何人か来てくれて、それが救いだった。でも、その内にその子ども達も親に教会へ行くのを止められて来なくなる。道でその子たちに会うと、「ヤソなんか死んじまえ」と言われた。あれが一番つらかった。その内、配給でもいじわるされて、何も食べるものがない。そんなことも何度もあった。でも、そういう日の次の日には必ず教会の裏に、野菜やらイモやらが置いてあったの。誰が置いていったのか判らないけれど、本当にうれしくて、神様に感謝の祈りをささげたものよ。」そんな風に話をしてくれました。そして、いつも最後は、神様がいるのだから大丈夫。そう言って、祈って下さいました。そこから帰る時、私の心はいつも明るくなり、主をほめたたえていました。
19節をもう一度読みます。「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。」これは本当です。神様は必要以上のものはお与えにならないかもしれませんけれど、必要なものは全て満たして下さいます。私共は、そのことを安んじて信じて良いのであります。
そして、一人の者がこのことが真実であることを知るならば、それはその一人の人のことではなく、共にキリストの恵みに生きる者の共通の喜びとなり、共に主をほめたたえるという出来事がそこに起きるのであります。そして、この主をほめたたえるという出来事が起きている所には、すでに神の国は到来しているのです。何故なら、神様をほめたたえるということこそ、神の国を特徴づけるものだからです。私は、いつも言うのですが、天国には教会はありませんし、聖書もありません。牧師もいなければ、説教もありません。しかし、主をほめたたえることは止むことがありません。実に、主をほめたたえるということは、私共の究極の業なのであります。神の国の業なのです。私共が主を誉め讃えるならば、そこには神の支配があり、神の国が来ているのです。主をほめたたえるということこそ、キリスト者に最もふさわしい業なのです。その意味で、私共の全ての業は主をほめたたえることへと導かれていかなければならないものなのでしょう。私共のなす奉仕も伝道も献金も、全ては主をほめたたえる為に、そこに向かってささげられていく業なのであります。
フィリピの教会のパウロへの贈り物は、主をほめたたえることへと至ったのであります。これが、私共の業が聖められるということなのでしょう。私共のささげる業は、全く罪のない、完全なものではあり得ません。何をしても、欠けがあるのです。しかし、その欠けのある業を主が用いて下さる時、私共の唇に、主への讃美が生まれるのです。聖めて用いて下さるのは、神様ご自身です。主が私共の業を聖めて、用いて下さることを信じ、主をほめたたえる為に、この一週間も又、主の御前を歩んでまいりたいと願うものであります。
[2004年8月29日]
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