共々に読み進んでまいりました、フィリピの信徒への手紙も終わりの部分に入ってきました。この手紙が書かれました理由の一つは、パウロがフィリピの教会から贈り物を受けたということでありました。多分、それをエパフロディトが届けたのでありましょう。パウロは、フィリピの教会から、何度となく贈り物、これは実際には献金のようなものであったと思いますけれど、そのようなものを受け取っておりました。それについての感謝が、ここに記されている訳です。しかし、ここに記されております感謝は、いささか風変わりと申しますか、私共が通常考えている感謝の形とは随分違っております。第一、ここには「ありがとう」とか、「感謝します」といった、直接感謝の意を表す言葉が、一言もないのです。10節「さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。」とあるのです。ですから、多くの注解者達はここを、「感謝なき感謝」などと呼んでいます。
どうして、こういう形になっているのか。色々なことが考えられるかと思いますけれども、ここには献金とはいったい何なのか、これを受け取るということはどういうことなのか、そのことについてのパウロの理解が表れているのではないかと思うのです。一般に、物をあげたり受け取ったりするのは、なかなか難しいものであります。あげる方は好意であげる訳ですけれど、受け取る方はいささか引け目を覚えるということがない訳ではありません。そこで、お返しなどという習慣も生まれるのでしょう。しかし、教会という所においては、そういう習慣は無くした方が良いと私は思います。あげる方も恩着せがましくすることなく、受け取る方も引け目を感じることなく、それがとても大切だと思うのです。何故なら、私共の持っているものは、全て神様によって与えられ、神様から預かっているものだからです。ですから、神様の御心にかなうように、神様の御業に仕える為に献げる。それが、私共のなす贈り物であり、献金というものだからであります。
私共の教会は、現在、神学生を支える為の献金をしたり、会堂建築をする教会の為に献げたり、あるいは災害にあった教会を支える為の献金をしたりしています。それは、主にある教会の交わりとして当然のことです。しかし、ここで、献金してあげている、やってあげているというような意識が出てきますと、それは大変な間違いを犯すことになります。
献金というものは、感謝のしるし、献身のしるしでありますが、同時にこのことによって私共自身が神様の御業に参与するということなのであります。パウロはフィリピの教会から献金を受け取りながら、フィリピの教会の人々が自分の伝道の業に共に与る者となったことを喜んでいるのです。ここでパウロは、個人的に自分を支えてもらってありがとう、そんなことを言っているのではないのです。勿論、感謝はしているのです。しかし、15節に「フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。」とありますように、「もののやり取りでわたしの働きに参加した」と言われている通りなのです。パウロは、フィリピの教会が献金という業を通して、再びパウロの伝道の業に共に参加する者となったということを喜んでいるのです。私共は献金という行為によって、その献金を用いてなされる神様の業に参加するのです。これは大変、素敵なことではないでしょうか。私共はこの富山の地における伝道を神様から託されています。それに一所懸命仕えています。しかし、献金という業によって、この富山の地以外の所での主の御業にも参加することが出来るのです。実に、私共は自分の教会以外の所に献金することによって、より広い神様の御業に参加することが出来るのですし、そのような広い神様の御業に思いを広げることが出来るのです。これは本当に素敵なことだと、私は思います。
一昨日、高岡教会で北陸連合長老会の臨時教師会が開かれました。いくつか緊急に対応しなければならないことがあったのですが、その中の一つに、U教会のD先生の健康の問題がありました。皆様も祈りに覚えていただきたいのですが、D先生は肺繊維症という病気で、酸素ボンベをしょって生活しなければならない状態になっています。そこで、教会の今後ということも考えなければならないのですが、教師会としては、新しい牧師を迎える時には、北陸連合長老会として、U教会を経済的に支えるという方向で考えていくことが確認されました。もちろん、どのような仕方で、どのくらいというようなことは、会議で決められていかなければならないことですけれど、そういう方向で対応していくことが話し合われた訳です。これは、北陸連合長老会としても今までより一歩踏み込んだ歩みを決断したということなのであります。これは、私共がフィリピの教会となり、U教会がパウロの立場になるということなのであります。献げ、支えることによって、U教会で展開される主の業に共に参加していくということなのです。それは、本当に素敵なことだと思いました。
私共は、ややもすると自分の教会のことしか考えられなくなってしまう狭さがあるのです。しかし、神様の業はいつももっと広く、もっと大きいのです。私共の目、私共の信仰が、その広く、大きな神様の御業に向かって開かれていく為に、これはとても良いチャンスだと思わされました。
さて、パウロは、自分はどんな境遇においても満足することを知っている。貧しくても豊かでも、満腹でも空腹でも、物があっても無くても、どんな状況でも対処して満足することが出来ると言います。一言で言えば、「自分は足ることを知っている」ということです。人はなかなか、満足というものを知りません。不足をあげれば、きりがない。
私はこのことを思うとき、いつもあるアンケートの結果を思い出すのです。それは「給料はいくらくらい欲しいか」というアンケートでした。結果は、20万円もらっている人は25万円くらい。30万円もらっている人は35,6万円くらい。50万円もらっている人は70万円くらいというわけです。皆、「もう少し多く」です。何倍も欲しいという人も少ないのでが、今の給料で満足という人も本当に少ない。実に、「足ること」を知らないのです。
しかし又、富んでいることも大きな誘惑になります。私共はそんなに大きな富を持っていないので、そんな心配はないと思うかもしれませんけれど、富というものはなかなか厄介なものなのです。富というものは、自分で持っているようであって、実は富にしばられてしまう、そういうことが起きるのです。富から人はなかなか自由になれないのです。あるいは、その富が自分を支えているかのように錯覚してしまうのです。貧の道も、富の道も、誘惑に満ちているものです。
「足ることを知る。」これは、だいたいどの宗教でも言っていることであります。例えばパウロの時代、ストア派という哲学が人々に強い影響を与えていましたけれど、このストア派の人々が教えていたのは、「何事があっても心を動かさない。」ということでした。物があろうと無かろうと、人に重んじられようと軽んじられようと、心を動かさない。心の自給自足と言いますか、外で何があっても、心を動かさないで、自分の心はいつも何事もなかったように平穏に保つということが教えられていました。あるいは、仏教では「人間、起きて半畳、寝て一畳」というような言葉もあります。起きればタタミ半畳しかいらないし、寝るにはタタミ一畳しかいらない。だから、大きな家も家財道具もいらない。そんなものに心をうばわれるなということを教えているのでしょう。「足ることを知る」というのは、大体そのように修行をして、欲や心の動きをおさえることが出来るようになることだと考えられているかと思います。
では、パウロがここで言っていることも、そういうことなのでしょうか。そうではありません。13節「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」とあります。「わたしを強めてくださる方」とは、神様のこと、主イエス・キリストのことでしょう。「お陰で」と訳されているのは、ギリシャ語でエンという、英語ではインとなる前置詞です。つまり、前々週の礼拝で見たエン・キュリオー、エン・クリュトウ、主の中で、主につつまれて、キリストの中で、キリストにつつまれて、と同じなのです。パウロは、「わたしを強めてくださる方の中で、わたしを強めてくださる方につつまれて、わたしは何事でもすることができる」と言っているのです。「何事もすることができる」というのは、この文脈で考えるならば、どんな貧しい状況でも、豊かな状況でも、足ることが出来る、満足することが出来るということであります。どうして満足することが出来るのか。それは、キリストにつつまれているからであります。私という存在が、キリストの中にある。私の全てがキリストの御手の中にある。貧しくても豊かでも、全てはキリストによって与えられ備えられたものであり、それ故に感謝をもって受け取ることが出来るということなのであります。
先程、出エジプト記の16章をお読みいたしました。エジプトを脱出したイスラエルの民が荒野の旅の中で飢え、不平を言う。それに応えて神様は朝には天からマナと呼ばれるパンを降らせ、夕にはうずらの大群で肉を食べさせ養ったと記されています。このマナは、その日一日分しか集めることが許されていませんでした。次の日まで残しておくと、虫がついて臭くなってしまっていたのです。どうして、神様は毎日、毎日、一日分のマナしか与えられなかったのでしょうか。20〜21節「彼らはモーセに聞き従わず、何人かはその一部を翌朝まで残しておいた。虫が付いて臭くなったので、モーセは彼らに向かって怒った。そこで、彼らは朝ごとにそれぞれ必要な分を集めた。日が高くなると、それは溶けてしまった。」とあります。皆さんならどうでしょうか。一日、二日分と言わず、集められるだけ、十日分も一ヶ月分も集めようとはしないでしょうか。私は、ここでモーセにしかられた人の気持ちが判ります。明日もまたマナが降るとは限らない。ある時にとっておかなきゃ、又飢えるのはゴメンだと思ったのでしょう。つまり、神様が与えると言われたことを信用出来なかったのでしょう。神様は、マナをもって40年間の出エジプトの旅の間中、イスラエルを養うことによって、「あなたがたは、自分で生きるのではなく、わたしによって生かされているのだ。」ということを徹底的に教えられたのだと思うのです。「神様が自分を生かして下さっている。」このことを徹底的に知る時、私共は「足ることを知る」のであります。キリストの御手の中にある私を発見する時、私共は「足ることを知る」のであります。明日を思い煩わないで、明日を主の御手に委ね、今、足ることを知り、感謝をもって満足することが出来るのでありましょう。
詩編の23編、最も有名な詩編の一つですが、この詩編は、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」という言葉で始まっています。ここに、信仰に生きる者の平安があります。主は羊飼い、私共は主の羊です。主は私共の必要の全てを満たして下さっていますし、これからも満たして下さいます。ですから、安んじて、主の御業の為に、主が私共に与えて下さっている富をささげていきたいと思います。そこに「足ることを知る」者の道があるのです。有り余っているから捧げるのではありません。捧げる中で、私共は富から自由になり、キリストの中に生かされている自分を発見していくのであります。新しい一週、キリストの中で、キリストに包まれて、足ることを知る者として歩んで参りたいと願うものであります。
[2004年8月22日]
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