礼拝説教「本国は天にあり」士師記 2章16〜23節 フィリピの信徒への手紙 3章17節〜4章1節 小堀 康彦牧師
出エジプトをはたし約束の地に入ったイスラエル。彼らは、その地において神様との契約にもとづく、神の民としての歩みをするはずでありました。それが奴隷の地エジプトから自分達を救い出してくれた神様に対しての感謝の歩みでした。神様はそれを期待していたのであります。しかし残念ながら、彼らの歩みはそのようなものではありませんでした。他の神々を慕い、これを拝み、神の民としての歩みから離れてしまったのです。神様はこれを嘆き、イスラエルに正しい道を示す指導者、士師を与えたのです。しかし、士師が死ぬと彼らは再び他の神々に仕えました。そして、そのたびに神様は新しい士師を立てられたのです。イスラエルは、この同じ過ちを何度も、何度も繰り返しました。12人もの士師が立てられたのです。それが士師記に記されている歴史です。これは悲しい歴史です。神の民が、自分が何者であるかを忘れ、歩むべき道を見失った歴史だからです。この歴史が悲しいのは、イスラエルが同じ過ちが何度も何度も繰り返てしまったということです。しかし、私共はこの士師記に記されている歴史を笑うことは出来ません。私共も又、神様の救いに与り、神の子、神の僕とされ、神の民に加えられながら、しばしば自らが神の民であることを忘れてしまう歩みをなしているからです。 私共は、このように神の国への一里塚として礼拝を守り続けて歩んでいるわけですが、その歩みの中で、さらにモデルとなる人がいれば、その歩みはもっと判りやすいことになります。もちろんその究極的なモデルは、主イエス・キリストであります。しかし、もっと手前にと申しますか、目の前に究極的なモデルを指し示すモデル、モデルのモデルと申しますか、小さなモデルがあって良い。それは、ボーリングをする時に、遠くのピンを目がけて投げるのではなくて、手前の目印を目がけてボールを投げると、良い所にボールが転がっていくのに似ています。山登りをする時、先頭の人は山を良く知ったベテランの人がするものだと聞いたことがあります。山登りといっても、道なき道を登る訳ではない。ちゃんと道がついている所を登る訳ですから、誰が先頭でも同じように思いますけれど、そうじゃない。素人が先頭に立つと、ペースが一定ではなくて、後に続く者が大変疲れる。中には途中で歩けなくなってしまう人も出る。ところが、ベテランの人が先頭に立つと、ペースが一定で、疲れが出る前に休みを取り、初めて山に登った人でもちゃんと山頂にたどりつけるというのです。
パウロはここで、フィリピの教会の人々に向かって、「わたしに倣う者になりなさい。」と言います。私をモデルにしなさいと言うのです。パウロは、これと同じことを、他の手紙の四ヶ所でも言っていますから、これはたまたま言ったというようなことではなくて、パウロの持論だったのではないかと思います。この一言は、なかなか言えない言葉です。皆さんの中に、この言葉を胸を張って言える人がいるでしょうか。正直に申し上げますと、私は牧師になりましてすぐの時に、パウロの書簡の連続講解説教をいたしました。その時に、この言葉に出会って、本当に困ってしまったのです。「わたしに倣う者になりなさい。」パウロはそう言っているけれど、自分には言えない。本当に困ってしまって、その部分に触れないで、説教したという思い出があります。それ以来、この一句は私にとって、いつも心にひっかかっている言葉になりました。モデルとは何なのか。「倣う」とはどういうことなのか。何度も思いをめぐらしてきました。それから数年して、私も伝道者として、「わたしに倣う者になりなさい。」と言い切れるようになりました。逆に今では、この一句が言い切れなくなったなら、牧師をやめるしかないと思うようになりました。 パウロの目には、キリストの十字架に敵対している人々が見えていました。彼らは教会の外の人々ではなかった。教会の中にあって、自らの完全さを誇り、キリストの十字架の恵みによらず、自らの力、自らの行いによって救われると言っていた人々でした。パウロは、どうして、そのような人々が現れたのか不思議でした。キリストによって救われたのに、どうして、元の道に戻ってしまったのか。どうしてキリストの十字架を無駄にして歩もうとするのか。パウロは悲しく、くやしく、涙せずにはおられなかったのです。だから、パウロは彼らにではなく「わたしに倣う者になりなさい。」と、ここで叫ばずにはいられなかったのです。
キリストの救いは、善人を造る手段でもないし、良い社会を造り出す手段でもありません。もちろん、それらはキリストの救いの結果としてもたらされるでしょう。しかし、それが目的ではないのです。私共の救いは天にあるのです。そこに向かって、ひたすらに歩んでいるのが私共なのです。パウロは言います。20〜21節「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」キリストが再び来られるのを、私共は待っている。その時、私共のこの体が、キリストの復活の体と同じ体に変えられることを待っているのです。その日を待ちつつ、その日に向かって走っているのです。 [2004年8月1日] |