富山鹿島町教会

礼拝説教

「前に向かって体を伸ばしつつ」
申命記 34章1〜8節
フィリピの信徒への手紙 3章9b〜16節

小堀 康彦牧師

 パウロは告げます。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」 パウロは「なすべきことはただ一つ」と明言いたしております。この一句を言い切れる人生は、まことに幸いなものではないかと思います。それは、悔いのない生涯と言って良いでしょう。この言葉は、自分が何の為に、どこに向かって生きているのか、明確に自覚し、そこに向かって集中して生きている者が語ることの出来る言葉でしょう。人間は生きていく上で、実際には様々なことをしなければなりません。毎日、雑多なことの繰り返しであります。しかし、その様々なことがバラバラではなくて、明確な一点に向かって為されている。そのような目的と集中を与えられている。それが私共キリスト者に与えられている歩みなのであります。

 私共は主イエス・キリストの御業によって、既に罪を赦されました。しかし、未だその救いは完成していません。既に救われている。しかし、未だ完成していない。この「既に」と「未だ」の間で、完成に向かっての運動が起こります。その運動こそ、私共の人生を「なすべきことはただ一つ」と言い切れるものにするのです。
 私は今、「既に救われている。しかし未だ完成されていない。」と申しました。これが、宗教改革以来の言葉で申しますと、義認、義と認められる、ということなのです。ルターはこのことを、実に象徴的な言葉で言い表しました。それは「義人にして、罪人」という言葉です。神様によって、義と認められた、だから義人、義しい人なのだ。しかし、尚、罪を犯す罪人である。ここに、運動が起きるのです。罪人である私共が、神様によって義とされた。このことへの感謝の歩み、神様によって義とされた者として、ふさわしい者へなろうとする歩みです。ここで間違っても、もう神様に義とされたのだから、もういい。このままの罪人のままで良い。そう言って自らの罪の上にあぐらをかくということは起き得ないのです。理屈の上で言えば、すでに罪を赦されているのだから、もう何をしても良い。あえて義しい人として生きる必要はないではないか。そういう考えが起きそうなものです。そういう考えからは、上に向かって、前に向かっての運動は起きません。理屈から申しますと、そういう考えもあり得るでしょう。しかし、それはまさに理屈の上だけのことで、実際には、決してそのようなことは起きないのであります。何故かと申しますと、私共が罪赦されて神様によって義とされるということは、主イエス・キリストを信仰によって受け入れるということでありますから、これはまさに人格的なイエス・キリストとの出会い、交わりが与えられるということです。この主イエス・キリストとの出会い、交わりにおいて、私共は「主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさ」を味わってしまうからであります。キリストと出会い、キリストを知りつつも、自らの罪の中にあぐらをかくということは、キリストの十字架をムダにすることでしょう。それは出来ません。申し訳なくて、そんなことは出来ないのです。それはキリストを裏切ることになるからであります。
 それは、こう言っても良いかもしれません。主イエス・キリストを信じ、その救いに与った者には、聖霊なる神様がその内に宿ります。この聖霊なる神様が、私共を上へ、前へと押し出していくのです。自らの罪の中にうずくまっていることを許さないのであります。これを聖化、聖と化する、と言います。義認は聖化へとつながっていくのです。

 それが、9〜10節において言われていることなのです。パウロは、「キリストへの信仰による義」「信仰に基づいて神から与えられる義」をすでに与えられていると言うのです。この二つは内容としては同じことだと思いますが、要するに信仰によって義と認められる。信仰義認ということでしょう。これが与えられている。しかし、未だ、復活に達しているという訳ではない、と言うのです。それはそうであります。復活は終末において与えられるものでありますから、未だそれを得てはいない訳です。パウロはここで、そのことを何度も繰り返します。12節「既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。」13節「既に捕らえたとは思っていません。」ここで、既に得たとか、既に捕らえたとか言われているのは、何を得たとか、何を捕らえたと言っているのか。完全な者というのは、何を指しているのか。それは、終末に与えられる復活の恵みのことだろうと思われます。パウロは、それを得たい、それを捕らえたいと思い、為すべきことはこのことただ一つだと思い、走っていると言うのです。これが聖化の道です。ここには、聖なる欲望、聖なるあこがれとも言うべきものが表明されているのだと思います。キリスト者は、これを持つのです。神の国、終末、復活、完全への欲望、あこがれであります。それを得ようとして、その目標を目指して、ひたすら走る。それが私共の信仰の歩みであり、人生なのだとパウロは言うのです。

 パウロはここで競技場で走る人をイメージしています。レースが始まれば、後ろを振り返ることなく、ひたすらゴールを目指して走る。何となく走るのではなくて、賞を得ようとして、真剣に走る。それが私共だと言うのです。私共は、何となく信仰生活を送っているというのではないのです。明確な目標、目あてがあって、そこに向かって走っているのです。その目標が、終末であり、神の国であり、復活であり、私共の救いの完成というものなのであります。私共の救いの完成は、私共が本当にイエス・キリストに似た者に変えられることによって、復活の体に甦ることによって実現するのですが、これはこの地上の生涯において実現されることはありません。私共は、ただ、これを求めて歩んでいるのです。
 いわゆる信仰者の姿を描いた絵、聖人と呼ばれる人の肖像画などを見ますと、それらは必ずと言って良いほど、「右斜め45度」の方向を見ています。後ろを見たり、うつむいて下を見ているような絵はありません。それは、信仰に生きたこれらの人々は、明確な神の国への憧れを持って、天を見上げ、前方を見据えて生きたということを示しているのでしょう。
 私共が毎週ここに集って礼拝を守るということは、実に私共のこの具体的な一週間の歩みが、終末に向かっての、神の国に向かっての歩みであることを心に刻む為であると言って良いのであります。私共は日々の歩みの中で、このことを実に忘れやすいのです。だから、ここに集わなければならないのです。そして、まるでムダと徒労の連続のような一週間が、実は神の国に向かっての、意味のある一週間であったことを受け取り直し、神の国への新しい一週間へと歩み出していくのであります。私はもう年老いて、走るなんて出来ないと思う人もいるかもしれません。しかし、肉体は弱っても、神の国を求める思いにおいて弱くなってはなりません。それは、個人においてばかりでなく、教会においても同じでしょう。富山鹿島町教会は、御国に向かって走る群として、これから何をしていくのでしょうか。教会としての、それなりの大きさにもなった。それなりの会堂もある。それを維持するために私共は歩むのでしょうか。いいえ、教会は、神の国に向かって、とどまることは許されていないのです。私共は聖霊なる神様の導きを切に求めていかねばなりません。どうしたら、この富山を神様にささげることが出来るのか。伝道していくことが出来るのか。どうして、神さまのご委託に応えていくことが出来るのか。新しい営みを始めることに、尻込みしない勇気と力が必要です。聖霊なる神さまの導きを切に祈り求めていかなければなりません。

 さて、パウロはここで自分が捕らえようと努めているのは、自分がキリスト・イエスに捕らえられているからですと申します。これは、先程申しました、義認と聖化の関係を指しています。自分がキリストに捕らえられている、キリストに愛され、キリストに知られ、キリストを着た者とされた。信仰によって義と認められる恵みを受けた。だから、捕らえようと努めている。キリストを愛し、キリストを知り、キリストを着た者にふさわしい者に変えられようと努めている。聖化の道を歩んでいるというのであります。キリストに捕らえられるという、救いに与る、キリストの恵みを知らされる、というキリストの恵みの出来事が先行しているのです。そして、その恵みに答えようとする歩みが、それに続いているのです。この順番は大切です。キリストに捕らえられている、愛されている、知られている、生かされている。このことがまずあるのです。そのことを知る故に、私共は後ろのものを忘れることが出来るのです。今まで、自分にとって大切だったものをどうでも良いと思うようになり、今まで頼りとしていたものを頼らないで良いようになるのです。
 ここで私共は、ただ前だけを向いて生きる者となるのです。私共は後ろを振り返らない。それは、前にこそ、将来にこそ、私共の目標、目あてがあるからです。それは、前のめりになっている心の姿勢です。後ろに重心をかけて、おっかなびっくり、そっと一歩を出すというような歩みではないのです。ひたすらに、前にある、上にある、目標を目指してはするのです。
 ここに「キリスト者の完全」があります。「キリスト者の完全」という言葉を聞くと、優しくて、愛に満ち、謙遜で、祈りに熱く、学ぶに熱心なキリスト者を思い浮かべるかもしれません。しかし、「キリスト者の完全」とは、私共が完全な者になるということではありません。完全な方はキリストしかいないのですから。私共は、この完全な方であるキリストを求め、似た者になろうと、前のめりに突き進んでいくだけなのです。そして、その動きの中にこそ、「キリスト者の完全」はあるのです。

 キリスト者の信仰の生涯は、しばしば出エジプトの旅にたとえられます。罪の奴隷であったエジプトから、神様の約束の地、神の国に向かっての旅というわけです。この旅で印象深いのは、40年の旅の最後に約束の地に入ったのは、最初に出エジプトの旅を始めた時の人の中の、ほんの一握りの人であったということです。あのモーセでさえ、約束の地に入ることは出来なかったのです。モーセはヨルダン川を渡る前に、ピスガの山頂に登り、約束の地を見渡すのです。しかし、約束の地には入れなかったのです。約束の地を目前にして、これを仰ぎ望みながら、この地上の生涯を閉じたのです。
 私共の信仰の生涯もそうでしょう。約束の地を目指しながら、生きてこの身で、そこに入ることは出来ないのでしょう。この地上の生涯において、完全な者となり、復活の体に達することは出来ません。しかし、私共はそれを成就される約束として、私共は受け取っているのです。この約束を信じ、目標にして、目当てとして歩んでいくのです。そこに、私共の平安があります。そして、新しい歩みに大胆に歩み出していける勇気が与えられるのであります。

[2004年7月25日]

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