富山鹿島町教会

礼拝説教

「兄弟、同労者、戦友と共に」
民数記 13章25節〜14章10節
フィリピの信徒への手紙 2章19〜30節

小堀 康彦牧師

 ただ今、旧約聖書の民数記13章25節以下をお読みしました。出エジプトした神の民が、約束の地を目前にして、各部族から一名ずつ12名が選ばれて偵察に遣わされたのです。40日間偵察して、彼らは帰ってきました。そこは果物が豊かに実る、乳と蜜の流れるような魅力的な土地でした。しかし、そこに住む住民達は大きく、城壁は堅固で、とても自分たちの手に負えるようには思えませんでした。彼らは、「エジプトに引き返そう」、そう主張しました。しかし、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブの二人だけは、「主に背いてはならない。住民を恐れてはならない。主が我々と共にいる。」そう言って、断然この地に上ることを主張しました。神さまはこの話を聞いておられました。そして、いつまでも神さまを信じない者達が約束の地に入ることが出来ないようにと、辛い困難な40年の旅が科せられることになってしまったのです。ただ、ヨシュアとカレブだけは、その旅を生き延び、約束の地に入れるようにされたのです。ヨシュアとカレブ。彼らは、文字通りの戦友でありました。40年の旅を生き抜き、約束の地に入ったのです。モーセの後継者としてのヨシュアにとって、カレブがいるということは、どんなに大きな支えだったろうかと思います。

 私共が神様にお仕えする時、忘れてはならないポイントがあります。それは、一人でしないということです。伝道にしても奉仕にしても、一人でやるのではなくて、誰かといっしょにする。これは私共の捧げる業がいつも健やかである為の、とても大切な注意事項なのです。自分がやるべきことだと判っていても、一人だけでやっていると、いつの間にか私共の心の中につぶやきが生まれてくるのです。「どうして、私ばかりがしなけりゃいけないのか。」初めは自分一人でやれるからいいと思っていても、それが続きますと、「どうして私だけが」そんな思いが心に浮かんでくるのであります。私共にはそういう弱さがあるのです。
 まだ、私が神学校に行き始めた頃のことです。当時通っていた教会で、青年会が昼食を用意する当番になりました。カレーを作ることになり、土曜日に準備することになりました。20名近くの青年会のメンバーがいたのですけれど、前の日から都合が悪いという連絡がいくつも入っていました。しかし、まさか一人ではないだろうと思って行きました。ところが、あいにく全員が都合が悪く、結局、私一人で100人分のカレーを作ることになってしまったのです。その内誰か来るだろうと思っていたのですが、1時間、2時間たっても誰も来ず、結局、一人で買い物に行き、一人で用意することになってしまいました。何とも、さみしい気分になりました。カレーを作るのが大変なわけでも、嫌いなわけでもないのです。でも、一人で用意をしている内に、なんとも寂しい気分になってしまったことを覚えています。あの時、もし一人でも一緒にいてくれたら、それは楽しい時であったに違いないのです。
ある修道士の司祭から、こういう話を聞きました。その修道会が責任を持っている教会は、地方に点在している小さな教会でした。その地方の司祭達は毎週一回、全員が集まって一日を過ごさなければならないと決められているのだそうです。余程のことがない限り、この集まりを休むことは出来ないのだそうです。毎週集まるのは面倒ではないですかと聞いたところ、「いや、毎週集まらないと、いつの間にか、自分一人が頑張っているような気がして、孤独になる。それは一番つらい、いけないことだ。」との答えでした。集まって何をするのかと言えば、共に祈りを合わせるのです。礼拝するのです。なる程と思いました。

 キリストの教会は、その出発の時から、いつでもただ一人が主の業に遣わされるということはありませんでした。主イエスが十二弟子を召し、そして遣わされた時も二人一組で遣わされました(マルコによる福音書6章7節)。パウロが伝道した時も、彼はいつも一人ではありませんでした。バルナバがおり、シラスがおり、テモテがおりました。伝道者集団と申しますか、パウロはいつもチームを組んで伝道の業に仕えていたのです。使徒言行録を見れば判ります。
 どうしてでしょうか。いくつもの理由が考えられます。当時の旅はキップを買って電車に乗って目的地まで行くというようなものではありません、危険をともなうものであったということがまず挙げられるでしょう。旅は基本的に一人でするものではなかった。一人では出来なかったというものです。長い旅です。病気になることもあるでしょう。とても一人では長い伝道旅行は出来なかったと思います。
 しかし、そのような実際的な理由からだけではなかったと思います。パウロが伝えていくのは神様の愛でありました。とするならば、パウロ自身が愛の交わりの中に生きていなければならなかったのです。パウロとその一行は、神様の愛を具体的に表している交わりでなければならなかったのであります。そうでなければ、伝道する者自身が語る言葉と生活との間に分裂が起きてしまうからであります。パウロが身を置いていた伝道者集団、伝道チーム、それは小さな教会であったと言えるのではないでしょうか。

 今日与えられているフィリピの信徒への手紙の2章19節以下には、パウロと共に伝道の業に仕えた二人の人の名前が記されております。一人はテモテ、もう一人はエパフロディトです。パウロとこの二人との関係を見ることによって、伝道者の交わり、教会の交わりとはいかなるものであるのかということが示されると思います。今日与えられております個所は、あまり教理的なことは記されておりません。ある聖書には「用件」という小見出しが付いている程です。まさに、日常的な用件を記している所です。しかし、こういう所に、パウロが語る教理が、実際にどのような具体的なこととして表れてくるのかが、示されているのであります。教会は教理がなければ建ちません。しかし、教理だけでも建たないのです。教理が具体的に展開している、信徒の交わりがなければならないのです。

 テモテについては、このフィリピの信徒への手紙の1章1節において、差出人の一人として、パウロと共に名前が挙げられています。又、使徒言行録にもパウロと伝道旅行を共にした人としてたびたび名前が挙げられています。更に、パウロがテモテにあてた手紙、テモテへの手紙一・二が聖書に残っています。この手紙を読みますと、パウロがいかにテモテを愛し、信頼していたかが判ります。テモテへの手紙には、「信仰によるまことの子テモテ」とか、「愛する子テモテ」という言い方でテモテを呼んでいます。パウロとテモテとは、親と子程の年齢の差があったと思います。しかし、パウロはテモテを軽んじません。それはテモテがパウロと同じ、信仰において教会を愛し、人を愛することを知っている者だったからであります。20〜21節に「テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです。他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。」とあります。テモテはフィリピの教会の人々のことを、親身になって、心を砕いて心配することが出来る人であったのです。「親身になって」というのは、なかなか良い言葉です。文字通り、親の身になって、親が我が子を心配するように、我がことのように心を砕いてということであります。更に、テモテは自分のことを求めるのではなく、イエス・キリストのことを求めていると言うのです。その人に親切にしたら、相手も自分のことを良く思ってくれるだろうというような下心からではなく、イエス・キリストがその人に注いでいる愛の道具とされる、キリストの愛の器とされる。そのことだけの為にテモテは仕えているということなのでしょう。私共は、ここにキリスト者の交わりというものが、互いにただイエス・キリストを求める、キリストの愛の道具とされることを願い求める所に形成されるものであるということを知らされるのであります。互いにそのことを願って形成される交わりは、互いの年齢を超えた麗しい交わりとなるのであります。
 このような交わりは、教会の中の全ての交わりの中に現れて来ます。婦人会・壮年会・青年会といった交わりの中に、あるいは教会学校の教師会、伝道部・教育部・礼拝部といった交わりの中に、そして私は何よりも長老会の交わりがそうでなくてはならないし、そうであるのだと思っています。長老会の交わりは、教会の中で最も麗しい、キリストに仕える者どうしの交わりであるはずなのであります。教会の交わりというと、婦人会や壮年会を思い浮かべる人が多いと思いますけれど、しかし、教会のことを親身になって心がけ、キリストの御業の道具として立てられている長老会こそ、そのような交わりを形成していなければならないのであります。

 さて、もう一人の人、エパフロディトについて見てみましょう。彼の名前は、このフィリピノ信徒への手紙の中にしか出てきません。彼は、元々フィリピの教会の人であったように思われます。牢に入れられたパウロを支える為に、フィリピの教会からパウロのもとに遣わされたのではないかと思います。フィリピの教会からの贈り物をたずさえて行ったのです。しかし、彼はパウロのもとで病気になってしまいました。相当に重い病気であったようです。何とか病気はいやされたのですけれど、彼はフィリピの教会に戻りたいと願ったのでしょう。パウロは彼をフィリピの教会に大急ぎで送りたいと言うのです。26節に「しきりにあなたがた一同と会いたがっており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです。」とあります。彼は病気になり、それがフィリピの教会の人々に知られたことを心苦しく思っていました。それは、良く判るのではないでしょうか。せっかくフィリピの教会の人々からパウロを支えるようにと送り出されたのに、病気になってしまって、少しもパウロの役に立たない。パウロを支えるどころか足手まといになっている。自分は役立たずだ。そう思って、落ち込んだのかもしれません。自分を送り出してくれたフィリピの教会の人々に会わす顔がないと思ったのではないでしょうか。病気というものは、しばしば、その人の心まで暗く、重くしてしまうものであります。休みが必要な時があるのです。伝道者もそうですし、よく奉仕されている教会員だって、そういう時があるのです。自分としては、もっと頑張りたいと思う。しかし、病気は神さまが「休みなさい」と言われている時なのです。
 パウロは、エパフロディトを送り返すに当たって、25節で彼のことを「わたしの兄弟、協力者、戦友」と言っています。そして、彼を受け入れるフィリピの教会の人々に対して、29〜30節で「だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい。わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです。」と言うのです。病気になり、十分に働くことが出来なくなったエパフロディトを、歓迎し、敬って受け入れて欲しいと言うのです。パウロの牧会者としての心遣いが良く表れている所だと思います。
 私共は自分が元気に奉仕している時には、自分は神様のご用に用いられているという喜びと誇りを持てます。しかし、病気になり自分が何も出来ないと、自分は役立たずではないかと思ってしまうものなのです。しかしそうではない。パウロは、そのようなエパフロディトが、自分の兄弟、協力者、戦友というのです。このきずなは、病気になったからと言ってくずれてしまうようなものでは断じてないと言っているのです。
 明治時代に山陰地方を拠点に伝道した人でバックストンという人がいました。この流れにある人々が、現在、日本伝道隊とか日本イエス・キリスト教団といった群を作っています。現在は神戸の塩谷に神学校を持って、伝道を展開しています。大変伝道熱心な群れです。このバックストンのもとから、多くの伝道者が遣わされていきました。中には、刀折れ、矢尽きた思いで、打ちひしがれて戻ってくる伝道者もおりました。今で言う、「燃え尽き症候群」ということなのかもしれません。バックストンは、そのような伝道者を迎え入れ、何ヶ月か共に生活したそうです。そうすると、その伝道者は再び力を得て、伝道に出発していったといいます。カルヴァンのジュネーブの教会もそういう働きをしていたのです。
 私共は、時には休むことが必要なのです。その時、私共は役立たずの者としてではなく、「兄弟、協力者(この協力者という言葉は口語訳では同労者という訳でした。私はこの同労者という訳がとても好きなのです。同じ苦労を担った者、同労者です。)、そして、戦友」として扱い、受け入れてくれる交わりが必要なのです。そういう交わりの中で、私共はいやされ、再び力を与えられていくのでありましょう。教会とは、そういう交わりなのだと思うのです。どんな人も一人じゃない。一人にしない。そういう交わりだと思うのです。

 私には夢があります。この教会から献身者が世界中に伝道者として巣立っていくことです。そして、もう一つ。その伝道者達が疲れたなら、いつでも「兄弟、同労者、戦友」として迎え入れ、慰め、励まし、いやしていくことの出来る教会です。この二つのことは、実に一つのことなのです。疲れた者をいやすことの出来る力、それは、福音にしかないのですから、その福音の力、神の愛の力を持つ教会しか、神の愛を、福音を力強く宣べ伝えていくことは出来ないからです。
 現代という時代は、人を責めることに厳しく、慰め、励ますことにおいてまことに弱いのです。企業においては、過労死、うつ病、自殺といったことが、新聞ではあまり報道されませんけれど、日常のこととして起きているのです。そういう時代のただ中にあって、教会は、互いに「兄弟、同労者、戦友」として、いつでも受け入れていく交わりでなくてはならないのでありましょう。

[2004年7月11日]

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