富山鹿島町教会

礼拝説教

「ムダにならない為に」
箴言 2章1〜12節
フィリピの信徒への手紙 2章12〜16節

小堀 康彦牧師

 ある神学者が、キリスト教の歴史を振り返って、こう申しました。「古代においての最大の問題は死であった。中世においては罪であった。そして、現代においては無意味である。」現代に生きる人は、本人が意識しようとしまいと、無意味という闇と戦わねばならない、無意味という闇の力にさらされている。だから、キリストの教会は、福音の力によって、この無意味という闇の力に挑んでいかなければならないと言うのであります。もちろん、罪も死は、現代においても大きな問題であるに違いありません。現代において、これは最早問題ではなくなったと言うのではないのです。死と罪と無意味、この三つは、からみあっています。しかし、それでも、私はこの指摘は当たっていると思います。

 子どもを育て上げた婦人に「空の巣症候群」という症状がしばしば見られると言います。20代、30代、40代と自分の子どもを育て上げるのに全力を注いできた。そして気が付くと、子ども達は育って巣立っていってしまった。自分に残されているのは、「空の巣」としてのマイホーム。自分の人生は何だったのかと、空しくなるのだというのです。これは、定年を迎えた企業戦士にも似たようなことが起きるのではないでしょうか。  これは何も、大人だけの問題ではありません。子供たちをもむしばんでいます。どうして毎日学校に行かなければならないのか? どうして好きでもない英語や数学をしなければならないのか? 子を持つ親や教育にたずさわる者で、このような問いを受けたことのない人はいません。これに対して、大人になり社会人になる為には必要な訓練なのだとか、将来きっと役に立つとか、そのような様々な実利的な説明をすることは出来るでしょう。しかし、この子供たちが発する素朴な問いは、もっと深い所から生まれて来ているように思えてならないのです。それは、自分がしていることは、本当に意味のあることなのか? こんなことをしていても、無駄ではないのか? 子供たちは、意識することなく、この現代という時代が抱えている無意味という闇に、無防備にさらされているのではないか、そう思えてならないのです。とするならば、このような子供たちの問いに対して、私共は「これは将来役に立つ」というような説明ではなく、もっと根源的な所で答えていかなければならないのではないでしょうか。しかもそれは、単なる説明ではなく、その答えの中で自分も喜んで生きているという、自分の存在をかけた、力ある言葉でなければならないと思うのです。

 使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一15章58節でこう語ります。主イエスの復活を語り、それ故自分たちも復活するのだということを語って、最後にこう告げるのです。「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」
 実はこの聖句は、私が伝道者として立てられた時に、先輩の牧師から贈られた言葉です。牧師という者の歩みが、一見、無駄に見えるような日々の連続であること、しかし、地上における目に見える報いというものを求めてはならないことを教えて下さったのでしょう。しかし、この御言葉の「力」を知ったのは、その時ではありませんでした。伝道者として立てられ、一年が過ぎた時、牧師は教区・教団に報告書を出さなければなりません。一年が過ぎ、報告書を出すときに、昨年の受洗者という欄に「0」と書かねばならなかったのです。全力を注いで説教しました。祈祷会もした。時間があれば訪問もし、幼稚園の事務もした。何一つ、手を抜いたつもりはありませんでした。しかし、「0」でした。自分の一年間の歩みはいったい何だったのか、自分は一体何をしてきたのか、一切がムダだったのか、そんな気がしたのです。空しさに襲われました。その時、この聖句を思い起こしたのです。この聖句は、自分たちの苦労は決して無駄になることはない、そのことを、「あなた方は知っているではないか。」そう言うのです。私は、はっとしました。自分が一生懸命語ってきたことは何だったのか。自分は、一切が無駄にならないことを知っている者として講壇に立ってきたのではないか。そうでなければ、自分は嘘を付いてきたことになるのではないか。主イエスは甦られた。私共も甦る。だから、何一つ無駄になることはない。このことを牧師が信じていなくて、どうするのか。そう思わされました。聖書は、このことを首尾一貫して告げています。今日の御言葉のフィリピ信徒への手紙2章16節「こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。」と言われているのと同じです。
 一切が無駄にならない。しかしそれには条件があります。「主に結ばれているならば」です。逆に申しますと、主に結ばれていないのならば、自分達の苦労が無駄にならないとは言えないということなのです。この目に見える世界だけを見ているならば、私共の苦労が無駄になるということは、山ほどあるのです。私共の苦労が、決して無駄にならないと言い切れるのは、私共の人生が神様のまなざしの中でなされているからに他ならないのであります。詩編56編9節に「あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。」という言葉があります。私共の苦労、私共の涙は、全てをご存知である神様の革袋の中に蓄えられるのです。神様がご存知であり、神様が報いて下さる。このことだけが、私共を一切の無意味さから守るのであります。そして、一切のことが無駄にならないことを知らされた者は、出しおしみすることなく、全力を注いで励むことが出来るのであります。主の業に励むのであります。全力を注いで励むのであります。

 それは、今日与えられている御言葉でいえば、14節「何事も、不平や理屈を言わず行なう」ということになるでしょう。「不平や理屈を言わず」というのは、口語訳では「つぶやかず、疑わないで」となっていました。「不平」や「つぶやき」ということで思い起こすのは、出エジプト記に記されている、イスラエルの民の態度です。エジプトの奴隷の状態から救い出されたイスラエルの民は、その旅の途中で、困難な目に出会うたびに、「どうして、自分たちをエジプトから連れ出したのだ。奴隷の時の方がましだった。」そう、モーセに向かって不平を言い、つぶやいたのです。しかし、あの時の不平、つぶやきというものは、単にモーセに向かって言われたという以上に、出エジプトという出来事を起こされた神様に対してのつぶやきであり、不平だったのであります。私共は順風満帆に事が進んでいる時には、不平を言いません。つぶやきません。しかし、いったん困難な出来事に出会いますと、何で自分はこんな目に会わねばならないのかと、不平を言い、つぶやいてしまうのであります。神様に文句を言うのです。そして、その場から逃げたくなるのであります。しかし、逃げてはならないのです。場所を変えても、同じことだからです。私共が生きていく上で、困難はつきものなのです。私共は場所を変えるのではなく、本当に逃げなければならない所、全てを知り、全てを導き給う、父なる神様のみもとに逃げなければならないのです。神様の革袋の中に、私共の涙を注ぐのです。それは、神様の御前に心を注ぎだして祈るということでありましょう。そうすれば、私共の労苦は決して無駄ではないということを知らされるはずであります。私共の涙が、ことごとくぬぐわれる日が来ることを知らされるからであります。それは、キリストの日です。主イエス・キリストが再び来られる日です。その日に全てが明らかになるのです。一切が無駄でなかったことを知ることになるのです。

 良いですか、皆さん。キリストは甦りました。すでに闇は去り、日が昇ったのです。私共は心の雨戸を、この復活のキリストの朝日に向かって、開け放たなければなりません。雨戸を閉め切って、まだ朝が来ないかのように、闇の中に生きてはならないのであります。パウロは、「よこしまな曲がった時代」と言います。それは、何もパウロが生きていた時代のことだけを言っているのではありません。私共が生きている時代もそうなのです。
 それは、新聞を開くたびに目をおおいたくなるような事件が次々と起きているから、「よこしまな曲がった時代」だというのではないのです。まことの命の言葉、主イエス・キリストを知らず、これに従うことを知らない時代だからです。キリストのまことの光に照らされず、神様に向かって、きっちりと雨戸を閉めているからなのです。最早力を失っているはずの無意味という闇の力におびやかされているからです。そういう時代の中にあって、私共は星のように輝いていると聖書は語ります。主イエスが、「あなたがたは世の光である」と言われた通りです。星も光も闇の中に輝きます。私共は、一切が無駄になるのではないかという恐れを抱く人々の中にあって、目に見える所においては少しも報われることがなくても、それでも何一つ無駄になることはないということを知る者として、不平を言わず、喜んで、主に与えられた業に全力を注いで励むのです。それは、この世界にあっては、まことに異質であり、変な存在なのです。バカみたいということになるのでしょう。少しも自分の得にもならないことを、一生懸命やっている。バカみたいという訳です。しかし、バカでもいいじゃないかと生きている。それが私共なのでしょう。
 私共は、どこか人と同じであると安心する。逆に人と違っていると不安になるという所があります。しかし、キリスト者であるということは、この世にあっては、異質な者として生きなければならない所があるのでしょう。しかし、その異質さは、得体の知れない不気味さというようなものではなく、闇の中に輝く星のような異質さなのです。主イエスが「あなた方は世の光である。」と言われたのと同じです。ここで注意しなければならないことは、聖書は「星のように輝け」でも「あなた方は世の光となれ。」でもなく、「星のように輝いている」「あなた方は世の光である。」と言われているということです。勿論、それは、人にどう見られているかということではなくて、神様から見るならば、私共は星のように輝いている者だ、世の光だということなのでありましょう。人から見れば、星どころか単にバカみたいということなのかもしれない。しかし、神さまから見れば、私共は星のように輝いているのです。一階の教会学校の壁に富山市の地図を貼りまして、教会員の家をピンで刺していくものを作りました。私は毎日、これを眺めています。いつか、このピンが刺せない程に富山全域に、教会員がたくさんになることを思い、願っています。それは、この富山の地が、星で埋めつくされるということです。考えただけでも楽しくなるではありませんか。

 さて、私共が一切の無意味さ、無駄になるのではないかということを恐れなくても良い理由ですが、それは13節に記されております。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」これは口語訳では「あなたがたの内に働きかけ、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神の良しとされるところだからである。」となっています。私などは、こちらの訳になじんでしまっていて、新共同訳では少し弱い気がいたします。私共が神様の御心にかなうように、このようにしたいという願いは、神様が私共に働きかけて下さって起こして下さったものなのだというのです。しかも、神様は願いを起こさせるだけではなくて、それを実現して下さる方だと言うのです。もちろん、それは私共が願ったならば、必ずその通りになるという現世ご利益を約束しているという訳ではないでしょう。私共は、自分の目が黒い内に、自分が願い、努力した成果というものを目にすることはないかもしれません。しかし、神様の大きな救いのご計画の中で、私共が生かされているのは、確かなことなのであります。ですから、私共は御言葉によって示されたことに対して従順でありたいと思うのです。様が願いを起こされたのですから、神様が必ず実現して下さいます。ですから、自分がなすべき業に誠実に、全力を注いで励みたいと思うのです。神無駄なことは、何一つないのですから。
 先週の祈りの中に、礼拝150名を目指してということが、記されておりました。実は長老会で100名礼拝を目指してというものが出されたのですが、私は「ウン」と言えなかったのです。この会堂は200名は入る会堂です。この会堂を建てて、まだ20年になっていません。この会堂を建てた時、私共は200人礼拝を目指していたのだと思うのです。それなのに、どうして100名礼拝を目指してということになるのか。そこには、まずは100名を、次は200名を、という思いがあるのでしょう。それは、そうだと思います。一足飛びに200にはならない。しかし、私共は200名礼拝を目指してこの会堂を建てたということを忘れてはならないのです。私共にその願いを起こさせ、この会堂を建てて下さったのは神さまだからです。ですから、神さまがその願いを実現して下さるのです。ただ神様の御業を信じて、祈りつつ全力を注いで、なすべき業に励みたいと思うのであります。

[2004年6月27日]

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