宗教改革者カルヴァンは、「神の御前で」ということを、しばしば語りました。私共キリスト者は、いかに生きるべきか。このことについて考えたことのないキリスト者はいないでしょう。この問いについては、様々な答え方があると思います。しかし、その一つのカギとなるのは、この「神の御前で」ということになるのだろうと思います。キリスト者は、いかに生きるべきか。それは、ケース・バイ・ケースと申しますか、その人が生きている状況、与えられている課題、その人の性格などによって違ってくるでしょう。実際には、こういう場合はこうしなければならない、こうすべきであるという風に、一律に、こう生きなければならないとはなかなか言えないことが多いのだと思います。しかし、だったら、何をしても良いのか、どの様に生きても良いのか、と言えばそうではないでしょう。そこには、一つの筋道がなければなりません。私はキリスト者としてこう生きる。私はキリスト者として、こう決断した。そう言える、一つの筋道がなければならないのだと思います。そして、その一つの筋道というものを与えるのが、「神の御前で」ということなのではないかと思うのです。
この「神の御前で」と言う場合、私共は何よりも、あの十字架におかかりになられた、主イエス・キリストの御前において、ということになるのだろうと思います。あの十字架におかかりになられた主イエス・キリストの御前に立って、自分はこう生きると決断するのであります。もし、その人が真実に主イエス・キリストの御前に立って、こうするのだと決めたのならば、たとえそれが後になって失敗と言われるような結果になったとしても、それは正しい決断であったと言わざるを得ないのだと思います。私共は良かれと思ってそれをしても、結果が、自分が思っていたように良いとは限りません。しない方が良かったということだって少なくないのです。私共は明日のことを見通すことは出来ないのですから、それは当然のことなのです。ただ、私共はそれを主イエス・キリストの御前において、それを為すことが良いことなのだと信じ、これをしなさいとの促しに従ってを受けて、それによって決めたのかどうかということだけが、問われるのでありましょう。結果が問われるのではありません。単なる損か得かという見通しによって決めたのではない。「神の御前で」決めた。このことが大切なのです。
パウロは、今日与えられた御言葉において、フィリピの教会の人々に向かって、「思いを一つにするように。」と言います。それはフィリピの教会の中に、とても、心を一つにしているとは言えないような状況があったことを、パウロは知っていたからでありましょう。そして、そのような現実を乗り超えていく為に、「利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」と言うのです。思いを一つにすることの出来ない理由は、利己心や虚栄心にあるのだと、ここでパウロは指摘しているのです。これは大変重要な指摘でしょう。自分のことしか考えられない、自分を少しでも良く見せよう、人々の間で少しでも重んじられたい、そういう思いが働く時、教会は一つの思いになれないのだとパウロは言うのです。
これは、何も教会の中だけのことではないでしょう。人が集まり、何かをしようとすれば、そこには必ずグループが出来たり、それが互いに反発し合ったりするということが起きるのでしょう。学校でもサークルでも職場でも起きることであります。私共が生きている場所は、しばしばこのことによって大変居心地の悪いところになりますし、場合によってはこれによって大変なストレスを感じ、そこを去らなければならなくなるということさえ起きるのです。残念ながら、利己心を捨てる、虚栄心を捨てるということは、そんなに簡単なことではないのであります。人は、そんなに簡単にへりくだることは出来ないし、相手を自分より優れた者と考えることは出来ないのであります。私共は相手の欠けている所、劣っている所を見つけ出しては、それを非難する、そういう心があるのであります。私共は、人の欠けを指摘することにかけては、実に鋭いのです。小さなことも見逃しません。パウロは、そのことを良く知っていたと思います。ただ、思いを一つにしなさい、謙遜になりなさいと言うだけで、フィリピの教会の人々が、そうなれるとは考えていないのです。こうしてはダメです。このようにしなさい。そう言って事がすめば、こんな楽なことはありません。注意をして、相手がハイそうですかと言うことをきいてくれる。そんなことは、まず起きないのです。人間というものは、そんなに簡単ではないのです。パウロはそのことも良く知っていたと思います。ですから、パウロはここで、フィリピの教会の人々をキリストの御前に立たせるのです。6〜11節で、あなた方を救って下さったキリストは、何をされたのか。そのことを思い起こさせるのです。そして、このキリストよって新しく生きる者とされたあなた方は、いかに生きなければいけないのかということを問うのであります。
実は、この6〜11節は通常、「キリスト讃歌」と呼ばれています。皆さん、ぜひ、これは暗唱されたら良いと思います。多くの学者達の一致した見解は、これはパウロのオリジナルではなくて、当時キリストの教会の礼拝で歌われていたものであろうということです。その意味で、これは讃美歌です。同時にこれはキリスト告白でもあります。私とはいつも、讃美と告白、更に祈りというものは分けることが出来ないものだ。そして、この三つのものは一つのことなのではないかと考えているのです。ここには、それがとても良く現れていると思います。パウロは、フィリピの教会の人々が礼拝の中で歌っていた、このキリスト讃歌を引用して、主イエス・キリストの御姿を思い起こさせているのです。もっと言えば、パウロはここでフィリピの教会の人々に、礼拝の時の心を思い起こさせているのではないかと思うのです。私共は、この礼拝の心において生きる時、初めて思いを一つにすることが出来るのですし、謙遜になることが出来るのであります。礼拝の心とは、主イエスの御前にぬかずく心ですし、主イエスを心から誉め讃える心です。
私共は、どうして毎週ここで礼拝をささげているのでしょうか。それは、十戒において神さまに命ぜられているから。そうであるには違いありませんけれど、それだけではありません。私共はこの礼拝の心を何時でも持ち続けることが出来ないのです。ですから、どうしても、毎週ここに集い、礼拝の心を思い起こし、回復しなければならないのです。この礼拝の心をもって、この一週間も歩んでいきたいと願い、ここから散じていくのでありましょう。
「互いに相手を自分より優れた者と考える」ということは、このことは相手の方が優れていると考えるというようなことではないのです。そんなことであれば、この点では相手の方が優れているけれど、この点では私の方が優れているという思いが必ず頭をもたげてくることになるでしょう。そうではなくて、自分はキリストの赦しを受けなければならない者であるということを、思い知る時に与えられるこころなのです。それは相手と比べて、自分はどうだという心ではありません。神様の御前に出た時の私共の心です。神様の御前に出れば、私共は自ら誇る所など、少しもないことに気付くのであります。そして、私共が為すことは、取るにたりない私が、神様に用いていただいているにすぎないことを知るのであります。私共の為すことは、神様へのわずかな捧げ物でしかないことを知るのであります。この心をもってしか、私共は自らの利己心や虚栄心を乗り越えていくことは出来ないのであります。
さて、このパウロが引用するキリスト讃歌でありますが、ここに示されているキリストの姿には、二つの動きがあります。一つは前半の6〜8節にあります。下へ下へと降る動きです。神から人間へ、しかも十字架の死へと至る動きです。パウロは、このキリストのまことの謙遜によって生かされている救われているのが私共ではないか、と言うのです。ここでパウロは、キリストのマネをしなさい、キリストのようになりなさいと言っているのではないと思います。もちろん、キリストの姿の前に立つ時、そういう思いも出てくるでしょう。けれども、私共が主イエス・キリストの御姿を思い起こし、主イエスの御前に立つとき、何よりもまず私共の中に現れてくるのは、このキリストの御業によって救われ、生かされていることへの感謝と喜びなのでありましょう。自分はなかなか大したものだと思い上がっている心が打ち砕かれるということなのでありましょう。この「打ち砕かれる」ということこそ、大切なことなのです。自分もなかなか大した者だなどいう思いの中では、私共は新しくなることは出来ないのです。
次に9〜11節の後半ですが、そこには復活、昇天、全てのものにあがめられるという、上へ上へという動きが示されています。ただ注意したいことは、この後半は、前半が「キリストは」というのが主語であったのに対して、「神は」が主語となっているということです。つまり、キリストを高く挙げられたのは、神様であると言っているのです。私共は、ここで何を思わされるでしょうか。それは、自分達の業や歩みを認めて下さるのは、神様ご自身であるということを知らされるのではないでしょうか。私共は人の評価や自分を偉く見せようと気遣う必要はないのです。全てをご存知である神様の御手にゆだねれば良いのであります。そして又、このことにおいて問われることは、私共は本当に主イエスの前にひざまずいているのか、イエス・キリストは主であると告白しているのかということなのでありましょう。確かに、ここで言われている「全ての者がイエスの御名にひざまずき、全ての舌がイエス・キリストは主であると告白する」のは、終末において起きることであります。しかし、私共はその終末における出来事を先取りし、主イエスの御前にひざまずき、イエスは主なりと告白しているのです。つまり、終末の恵みの中に生き始めているのであります。そのような者として、どのように生きるのか、それは明らかなことなのではないのかとパウロは告げているのであります。
私は洗礼を受けたばかりの若い頃に、ある長老から言われた言葉を忘れることが出来ません。それは、「小堀君、教会に来たら、人を見ていてはダメだよ。イエス様を見るんだよ。そうじゃないと、必ずつまずくよ。」というものでした。なぜ、あの時、そう言われたのか、良く憶えていませんけれど、きっと青年会の中で、あの人はどうだ、こうだというようなことを言っていたのだと思います。自分の目の中にあるハリに気付かないで、人の目のチリを取って上げましょうと言っていたのでしょう。
パウロは、フィリピの教会が思いを一つにする為には、結局、主イエス・キリストを思い起こし、神様の御前に立つしかないということを示しましたのです。パウロが、ここで語っているのは、単に「仲良くしなさい」とか、「和をもって貴しとする」というようなことではなかったのです。そういう風になれない私共の罪をよく見ていたのです。だから、謙遜になりなさいという所では終わらなかったのです。これは少し大げさなのではないかと思う方もおられるかもしれません。何もイエス様をわざわざ出さなくても、「みんな仲良くしましょう。」で十分ではないかと思われるかもしれません。しかし、そうした方が良いと判っていても、そうすることが出来ない私共であるとするならば、それが出来ない私共が丸ごと主イエス・キリストというお方の前に出るしかないのではないですか。そこで変えられていくしかないのであります。
私共の神様は天の高みから、私共を見ているだけの方ではありません。主イエス・キリストとして、イザヤの言葉で言えば、「天を裂いて、私共の所に降って」来られる方です。天を引き裂いた所には誰がいるのですか。私共ではないですか。神さまは、天を引き裂く程の力と愛をもって、私共の人生の中に、突入されてこられたのです。それは、私共の小さな歩みの一つ一つに、神様は関わろうとされておられるということなのであります。私共は、自分が歩んでいる毎日の日常の出来事を軽んじてはいけません。この日常の些細な出来事、些細な決断の中に、神さまは関わろうとされているからです。ですから、その主がお入り用なのですと言われるならば、私共は損も得もなく、人にどう見られるかもなく、「ふつつかな僕です。主よ用い給え。」としか言いようがないのではないでしょうか。主がたたえられること、神様の栄光が現れること。それだけが、私共の願いだからです。そのような者として、新しくされた者だからです。祈ります。
[2004年6月20日]
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