富山鹿島町教会

礼拝説教

「同じ思いとなって」
詩編 136編
フィリピの信徒への手紙 2編1〜11節

小堀 康彦牧師

 「世界は教会になりたがっている。」ある神学者の言葉です。含蓄のある言葉です。世界は教会になりたがっている。それは、「世界は救いを求めている」ということであるでしょうし、「世界は教会への憧れを持っている」ということでもあるでしょう。世界はいつの時代でも、痛みを負い、傷つき、あえいでいる。その中で、世界は自分で気付かなくても、教会になろうとし、なりたがっている。私は、これは本当のことだと思っています。これは、世界やそこに起きていることを、いくら分析しても出てこない理解です。しかし、神様が天と地とを創られたこと、イエス・キリストをこの世界に送られたこと、この世界の中に今、教会があるということ。そして、やがて、主イエスが再び来られて救いを完成されること。この神様の救いの御業を知り、そこから世界を見ます時、この世界のあえぎ声は、教会を求め、教会にならおうとしているうめき声に聞こえてくるのであります。これは、信仰によって与えられた感性と言っても良いでしょう。この新しい感性をもって世界を見るとき、教会になりたがっている世界のうめきというものを聞き取ることが出来るのであります。パウロがローマの信徒への手紙8章21・22節で「つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」と言っているのは、このことでしょう。「産みの苦しみ」とは、神さまによって新しく救われ、生み出される苦しみのことなのであります。
 富山に来て、この土地固有の伝道の困難さというものを少しずつ知らされています。富山は浄土真宗王国と言われる、歴史・文化を持っています。富山市内はいざ知らず、郡部に行けば地域社会はしっかり生きています。教会に行っていることが知られると、村八分とまでは言わなくても、様々な目に見えない圧力を受ける。そういう話を何度も聞かされました。そうだと思います。しかし、この富山の地も又、「教会になりたがっている」ということに関しては、少しも違いはないのです。私共はそのことをちゃんと見ていなければならないのであります。

 教会というものには、この世界が求めてやまないもの、憧れをもって見ているものがあるのです。今日の御言葉との関連で言うならば、それは、「同じ思いを持つ」ということであります。世界は、同じ思いを持てずにあえいでいるからです。一致することが出来ないのです。それは、毎日新聞を開くたびに目に入る世界各地での紛争や、我が国の国会の状況を見れば明らかであります。そんなに大きなことでなくても、一つの家の中でさえ、親と子、夫婦であっても、同じ思いを持ち一致するということは、本当に難しいのであります。そういう世界のただ中にあって、教会にはこの世界が求めてやまないもの、一致への道筋というべきものが与えられているのであります。
 もちろん、単純に教会には何の問題もなく、いつも一致しています。そんな風に言える訳ではありません。教会の歴史も又、争いと分裂を繰り返してきたことを、私共は知っています。このフィリピの信徒への手紙が書かれた当時のフィリピの教会においても、4章2節に「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。」と記されておりますように、エボディアとシンティケという二人の婦人、この二人は共にパウロと福音の為に戦った者でありましたけれど、仲たがいをしていたらしいのです。パウロは、このことにとても心を痛めていました。牧師にとって一番うれしいことは、教会に集う一人一人が、神様の御前で心を一つにして歩んでいることです。そして、一番悲しいことは、教会の中で仲たがいがあり、一致して歩んでいけないことです。フィリピの教会の中には、そういう悲しい現実があったのです。だからパウロは2章2節「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。」と言っているのであります。このように見てきますと、これでは、教会もこの世の世界も少しも違わないではないかと思われるかもしれません。もし、そうであるならば、世界は教会になる必要はないのです。なったところで何も変わらないということになるでしょう。しかし、そうではないのです。

 第一に、教会はどのような状況の中にあっても、同じ思いとなり、一致していくということを諦めたことはないということです。色んな人間が集まっているのだから、バラバラでもしょうがない。そんな風に考えたことは一度もないのです。どうしてか。教会はキリストの体だからです。キリストの命が息づいている交わりだからです。キリストの体がバラバラであるなどということはあり得ないからです。
 第二に、教会は一致していく為の道筋を知っているということであります。

 このことを見ていきましょう。どうしたら、教会は一致していけるのか、共に同じ思いを持つことが出来るのか。ここでパウロは2章1節「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、」と語り始めます。ここで、「キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり」とありますが、お気付きでしょうか。これは、私共が毎週礼拝の最後に受ける祝福の言葉、コリントの信徒への手紙二13章13節「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」というのと、同じ形になっているのです。少し細かいことですが、ここでキリストの「励まし」と訳されている言葉は「慰め」「勧め」とも訳すことが出来る言葉です。又、「愛の慰め」とは、父なる神様の愛の慰めということでしょう。キリストによる励ましというものは、キリストによる慰めということと同じなのです。キリストが私共のために十字架に架かって下さったという事実によって私共は慰められます。そして、その慰めは、キリストによる罪の赦しを受けた者として相応しい歩みをしようと励まされるのではないでしょうか。キリストによって現れた神の愛が、私共を慰め、励ますのです。そしてそこに、聖霊との交わり、聖霊による交わりが生まれるのです。この交わりは、祈りの交わりに他なりません。
 ここで、「幾らかでも…あるなら」と言われておりますけれど、これは「あるかないか判らないけれど、もし、幾らかでもあれば」という意味ではないのです。そうではなくて、これは「もし、あなたが人間ならば、こう考えるはずだ」と言う場合と同じです。この場合、人間でないなどいうことは考えてもいないのです。人間なのだから、こう考えるはずだ。そう言っているのでしょう。ここでも、パウロはフィリピの教会の人々に、「キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり」がないなどということは、考えていないのです。あるに決まっているのです。キリストの教会として立てられているからです。だったら、同じ思いを持てるはずだとパウロは言っているのです。

 いずれにせよ、ここで私共は三位一体の神様の御前に立つことが求められているのであります。教会の一致というものは、人間的な知恵や、小手先のことで与えられるようなものではないのです。もちろん、知恵もいるでしょう。しかし、私共一人一人が三位一体の神様の御前に立たなければならないのです。そこでは自分のことしか考えられない利己心や自分を高く偉そうに見せたいという虚栄心も明らかにされます。神様の光に、自らの姿が照り出されるのです。そこで、悔い改めが起きるのでしょう。ここにおいてしか、人間は一致することが出来ないのであります。私共は、本当にこのことを良くわきまえなくてはなりません。私共が自分の知恵や小手先のことで何とかうまくやっていける、同じ思いを持ち、一致していくことが出来ると考えるならば、私共は一致を得られずあえいでいるこの世界と、何も変わらないことになってしまうのであります。私共は、そんなことでは何一つうまくゆくことはないということを知っているのです。ただ、三位一体の神様の御前に私共一人一人が真実に立つこと。真実な悔い改め。ここからしか何も始まらないのです。私共は神様の御前に立つ時、自らの小ささ、自らの欠け、未熟さを知らされるのでしょう。そして、自分の考えや理解というものが絶対正しいと言えるようなものでないことを知るのであります。そのことを知らなければ、自分と考えの違うものを排除する。これと敵対し、批判するという愚かさを超えていけないのです。
 同じ思いとなる。思いを一つにする。それは、何でもいいから皆が同じように考えるようになるということではないのです。皆、自分が生かされている状況、環境、性格も違うのですから、一つのことに当たるに際して、皆が同じように考えるようになる。そんなことは出来ませんし、それが良いことである訳でもないのです。具体的なことを為そうとすれば、そこには幾つもの道があるのですし、これだけが絶対に正しい唯一の道ということはないのです。私共は、皆、自由なのです。しかしその自由の中で、ただ神様の御心に従っていこう。神様の栄光を現していこう。こんな小さな者をもどうか用いて下さい。私のものは全て、あなたのものです。そういう思いにおいて、一つになっていくということなのであります。神様の御前に立ち、神様にお仕えしていくという思いにおいて、一つになっていくということなのであります。これ以外に、私共が同じ思いを持つということはあり得ないのであります。

 この富山鹿島町教会の百年誌を見ますと、1951年(昭和26年)7月に7名の出席をもって教会総会が開かれ、4対3で、この教会は二番町教会と合併せず、総曲輪教会として独立して伝道することが決められたという記述があります。会堂を焼失していたこの教会が、戦後、どのように歩んでいくのかを決める総会でした。この教会における伝説となっているような総会です。この時、3人は独立ではなく、合併したほうが良いと考えていた訳です。しかし、この時合併した方がよいと考えた人々は、この総会において自分の意に反して決められた総曲輪教会の独立伝道という道筋を、神さまの御旨として受け取ったのです。その後、独立して伝道していくという大変困難な道を神様の御旨として受けとめ、まさに全てをささげるようにしてこの教会を支え、この教会と共に歩んだのです。総会で自分の意見が通らなかったから、もう止めた。そんな人はいなかったのです。神様の御前に同じ思いとなるということは、そういうことなのだろうと思うのです。ここには、自分の考えや、自分の見通しなどというものよりも、神様の御旨というものがある。その神様の御意志というものに、畏れをもって従っていこうとする思い、そこに一致があったのでありましょう。この聖なる神様の御前における恐れがなくなれば、人は自らを神とし、自分の考えを絶対とし、違う考えの者を裁くという、愚かな歩みから抜け出すことは出来ないのであります。
 私共は、毎週、ここに集まり、礼拝をささげています。私共が同じ思いになる。一致が与えられる。それは何よりも、この礼拝においてなのでありましょう。この礼拝をぬきにして、私共が一致していく道などないのであります。もっと言えば、私共は毎週この礼拝において、すでに一致が与えられているのであります。共に一つの讃美歌を歌い、一人の神をほめたたえている。共に一つの祈りに合わせてアーメンと唱えている。共に一つの御言葉を受けて養われている。そして、共に一つのパンと杯を受け、一つの命に与っているからであります。実に、私共が同じ思いになるということ、一致していくということは、何とか努力してそうしていくというようなことではなくて、すでにこの礼拝において与えられている同じ思い、一致している現実を確認していくということなのであります。  この礼拝において、今、皆さんは同じ方向を向いています。隣の人の顔を見ながら礼拝している人はいません。ここに、私共が同じ思いとなるということがどういう事なのか、はっきりと示されているのです。同じ思いというのは、この人はきっとこういう思いをもっているだろう。だから、私もそういう思いを持とう。そんな風に考えて、同じ思いになっていくというようなことではないのです。良いですか皆さん。同じ思いと一致とは、すでにこの礼拝において私共の中に与えられているのです。ですから、この礼拝に共に与り続けるならば、私共には必ず、主にある一致が与えられていくことになるのです。ここには、すでに終末における、神の国の光が差し込んできているからです。

 先週、ペンテコステの祝会の席で、司会の田村姉妹が、外国の礼拝に出た時に、前後左右の人とあいさつをするということがあり、自分は受け入れられていると感じて、とてもうれしかったと証されました。これは「平和のあいさつ」といって、キリスト教の礼拝の中で行われる、とても古くからある習慣なのです。日本の教会では、カトリックや聖公会を除いて、あまり行われていないようですけれど、私もとても良い習慣だと思っています。私共は、たとえ「平和のあいさつ」を礼拝の中で行わなくても、私共の礼拝の心には変わりはありません。互いに、主の平和があるようにと、祈り合う交わりがここに生まれていくのです。礼拝に与るということを、小さなことと考えてはなりません。ここには、私共の思いを超えて、私共を造り変え、世界を造り変えていく力があるのです。その力に、私共は与っているのです。まず私共が変えられます。そして、私共が遣わされているそれぞれの場が、変えられていくのです。私共が世の光、地の塩とされているということは、そういうことなのだろうと思います。

 私共は、ただ今から、聖餐に与ります。ここに、共にキリストの命に与る一致があります。そして、この一致は、この聖餐に与る私共に、具体的な交わりにおける愛と同じ思いとを与えていくのであります。共にキリストにあっての同じ思いを抱きつつ、神様の御国へと歩む一足一足を主にささげつつ、この一週間も進んでまいりたいと思います。

[2004年6月6日]

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