今朝、私共はペンテコステの記念礼拝を守っております。主イエス・キリストは十字架の上で死なれ、三日目によみがえられました。そして、40日にわたって、復活された御姿を弟子達に現され続けました。それから天に昇られたのです。弟子達は、待ちました。復活された主イエスが弟子達に与えられた約束、つまり使徒言行録1章5節「ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられるからである。」、1章8節「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、私の証人となる。」、という主イエスの約束を信じて待ったのです。復活の主イエスが与えられた聖霊が注がれるという約束を信じて待ったのであります。弟子達は、祈りをささげつつ待ちました。そして、10日後、ついに弟子達の上に聖霊が降りました。それがペンテコステの日の出来事です。
ペンテコステの日、それは「五旬祭」と記されていることから判りますように、50日目を祝う旧約以来の祭りでした。何から50日目かといいますと、過越しの祭りから50日目です。旧約では「七週の祭り」とも呼ばれておりました。主イエスの十字架の出来事が、過越しの祭りと重なった様に、この聖霊が弟子達に降るという出来事も又、七週の祭り、五旬祭と重なりました。
これは偶然のことではないのです。主イエスの十字架の出来事は、旧約の出エジプトの時の神様の裁きが過ぎ越していった出来事と重ね合わされることによって、十字架の意味を明らかにされました。子羊の血を塗った家には神さまの裁きが過ぎ超していった、救われたという過ぎ越しの出来事、これは主イエスの十字架の出来事が裁きを過ぎ越させていく、救いの出来事であったこと示しています。それと同じ様に、主イエスの弟子達に聖霊が注がれたのが五旬祭の時であったということにも、意味があるのです。もともと、五旬祭は初夏の麦の収穫を祝う祭りでした。しかし、後にはシナイ山において律法が授与された日と考えられるようになっていたのです。多分、主イエスの時代にはそのように理解されていたと思います。ペンテコステの出来事が五旬祭と重なっているということは、十戒を与えられて、神の民イスラエルが誕生した様に、新しい神の民であるキリストの教会は聖霊を注がれることによって誕生した。そのことを示しているのであります。このことは、今も変わりはありません。キリストの教会は、聖霊を注がれ続けることによって、キリストの体なる教会であり続けているのであります。そして、私共キリスト者は、聖霊を注がれ続けることによってキリスト者であり続けているのです。私共は、自分で一生懸命、必死になって信仰を守ることによって、信仰者であり続けているのではないのです。そうではなくて、聖霊なる神さまが働いて下さり、私共の「あるかなきかの信仰」を支えて下ることによって、信仰者であり続けているのでしょう。その意味で、ペンテコステの出来事は二千年前の昔話ではないのです。現在も起き続けていることなのです。
では、ペンテコステの日に起きたこととはどのような出来事だったのでしょうか。2章2・3節「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」これをていねいに読んでみますと、ここで、「激しい風が吹いてきた」とか、「炎の舌が現れた」とは記されていないのです。「激しい風が吹いて来るような音」あるいは「炎のような舌」と言われているのです。この「ような」という所が重要なのです。これを見落としますと、何か良く判らない、激しい風が吹き、炎の舌が一人一人の上にとどまったというような、そういう不思議な現象が起きることが、聖霊が降った「しるし」だと考えてしまうことになります。そして、自分には聖霊が降っていない。そんな風に考えるキリスト者が生まれることにさえなるのです。それは、まことに聖霊なる神様に対しての誤解、ペンテコステの出来事に対しての誤解であると言わなければなりません。
風にしても、炎にしても、旧約以来の、神様の御臨在を示す象徴です。ここで告げられていることは、何とも神様による御業としか言いようのない出来事が、弟子達の上に起きたということなのであります。そして、それは何であったかと申しますと、2章4節「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」ということなのです。この五旬祭の日、エルサレムには多くのユダヤ教の巡礼者が来ていました。その人々に通じる言葉で弟子達が語り始めたというのです。このことは、その後キリストの弟子達が世界中に出て行って、主の福音を全世界の人々に判る言葉で語ることになることを先取りしていることなのだと思います。今日、世界中でペンテコステの礼拝が、それぞれの国の言葉、それぞれの民族の言葉で守られています。それは、聖書に示されているペンテコステの日に語られた言語の数を、はるかに上回っているでしょう。今朝、何百という言葉で礼拝がささげられている。このことは、キリストの教会の上に、ペンテコステの出来事以来、聖霊が注がれ続けていることの、一つの「しるし」なのでしょう。このことは、自分の教会しか見なかったのならば判りません。しかし、目を全世界に広げてみるならば、このことは明らかなのではないでしょうか。
しかし、もっと大切なことがあります。それは、この時、弟子達を通して様々な国の言葉で語られたことの内容です。この時のペテロの説教が、2章14〜36節に記されています。今、その全てをていねいに見る暇はありませんけれど、いくつかのポイントを見てみましょう。2章22節「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。」、2章32節「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。」、2章36節「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」、2章38節「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい。」このことを、それぞれ旧約聖書を引用して論証しているのがここでのペテロの説教です。この日ペテロが語ったことは、あなた方が十字架につけたナザレ人イエスは復活した。あの方こそメシヤなのである。だから、あなた方は悔い改めて、洗礼を受けなさい、ということでした。
どうでしょうか。このペンテコステの日になしたペテロの説教は、その後二千年間、キリストの教会が語り続けてきたことなのではないでしょうか。弟子達はこの時、聖霊を受けて、何か特別な能力を備えられたというようなことではないのです。弟子達は、聖霊を受けて、大胆に、主イエスの十字架と復活、主イエス・キリストこそ救い主であるということを告げ始めたということなのです。実に聖霊を受けるということは、このようにキリストの福音を語り出す者とされるということなのであります。ペンテコステの日以来、キリストの教会の中で起き続けている、最も大いなる神様の御業としての奇跡。それは、自らの罪を知らされ、悔い改めて、主イエス・キリストを信じる者が起こされるということです。これこそ、最も大いなる奇跡なのです。何故なら、この出来事こそ、滅びに至る罪人が、永遠の命に与る神の子とされる出来事だからであります。この最も大いなる奇跡である神さまの救いのみ業、これに用いられる者とされることが、聖霊を受けて弟子達の上に、私共の上に起こされたことなのです。
ペテロは、旧約のヨエル書を引用してこう言います。17・18節「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」神様の霊が、すべての人に注がれるのです。若者にも、老人にも、身分の低い者にも、聖霊が注がれ、全ての者が預言をし始めるのです。預言とは、神様の言葉を語り始めるということです。神様の言葉を語るのは、牧師の専売特許ではないのです。聖霊を注がれた全ての人、すなわち、全てのキリスト者に与えられている神様の賜物なのです。皆が共に神様の言葉を語り、神様をほめたたえる交わり、それこそ聖霊によって造り出された、新しい神の民の現実なのであります。
具体的に考えてみましょう。私共は教会の交わりの中で、いろいろとつらい状況にある人の話を聞きます。生きていく上で、何の問題もなく生きている人などいないのですから、誰も話し始めれば、色々と出てくるものなのです。しかし、私共はそれを聞いたからといって、何かをしてあげることが出来る時は、ほとんどありません。何も出来ない。何も出来ないけれども、その会話の終わりに、私共は「祈っているね。」、そう言ってその会話を終わるのではないでしょうか。そして、実際、祈りがそこで行われることも少なくありません。「祈っているね。」それは、実に小さな言葉です。しかし、この一言が私共の口から出るということは、決して小さなことではありません。何故なら、その小さな一言が、今までなされた会話の全てが、神様に聞かれていること、そして、そのつらい状況をも主が導き、守って下さることを信じて、神様を見上げることへと、私共を導くからであります。この一言は、私の中から出てくる言葉ではありません。私共の外からやってくる言葉です。私共に、この「祈っているね。」という一言を語らせるのは、聖霊なる神様に他なりません。そして私共はこの一言を語り得る者として、そして実際に祈る者として生かされています。私は、ここに聖霊によって造り出された交わりの、一つの「しるし」を見るのであります。そしてこの交わりの中に生きる者、「祈っているね。」の一言を語る者は、一人一人自分の言葉で、「イエスは主なり」ということは自分の人生の中でどういうことなのか、主イエスは生きて働いて私をこのように守り、救い、導き、造りかえて下さったと語る者へとされるのでありましょう。
神様が生きて働いておられることの証言に満ちた交わり。それこそ、聖霊の風に吹かれている交わりなのであります。ペンテコステの日に起きた、激しい風が吹いて来るような音や、炎のような舌が現れるのを、私共は聞いたり見たりしたことはありません。しかし、ここで聖書が告げていることがどういうことなのか、私共には判ります。何故なら、私共の上にも同じことが起き続けているからです。「聖霊なる神さまのみ業」としか言いようのない出来事の中に生きているからです。
キリストの教会は、しばしば船にたとえられます。ノアの箱舟や、主イエスと弟子達が乗った嵐の中の船からの連想だと思いますけれど、この教会という船は聖霊の風を受けることによってしか前に進むことの出来ない帆掛け船、帆船なのです。自分達の力でオールでこいで進んでいったり、エンジンで進んでいくような船ではありません。風が頼りなのです。風は、私共の思い通りに吹かせることは出来ません。そよ風の時もあれば、台風のような風の時もあるでしょう。私共に求められているのは、風を吹かせることはではありません。そんなことは出来ないのですから。私共に求められているのは、風に吹かれて、風を肌で感じて歩むことなのではないでしょうか。すでに、吹いている風に向かって帆を張ることです。自分の中に注がれている聖霊なる神様の促しの中で、喜んで大胆にキリストの救いを語り出すことなのでありましょう。
先程、エレミヤ書を読みました。預言者エレミヤも又、聖霊の導き、聖霊の御支配の中で生かされた人でありました。エレミヤは「悲しみの預言者」と呼ばれています。それは、彼が預言をすればする程、彼は同邦の者に嫌われ、笑い者にされ、迫害されたからです。しかし彼は、主の言葉を語ることをやめませんでした。正確にはやめることが出来なかったのです。9節「主の名を口にすまい もうその名によって語るまい、と思っても 主の言葉は、わたしの心の中 骨の中に閉じこめられて 火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。」エレミヤは、もう語るまいと思った。もうやめようと思った。しかし、主の言葉が燃え上がり、押さえつけておけなくなったのです。彼は語るしかなかったのであります。エレミヤは言います。「わたしの負けです。」これは、神様への敗北宣言です。聖霊の風に吹かれて、聖霊の御支配の中に生きるということは、神様の前に降伏することなのでしょう。私が語るのではない。神様が語らせるのです。もう黙ってなどいられない。神さまは私共を、主の恵みと主の救いを、語らずにはおられない。それが聖霊を注がれるということなのであります。ペンテコステの日、弟子達も「聖霊に満たされて、゛霊゛が語らせるままに…話し出した。」(2:4)のです。聖霊が語らせるのであります。
この鹿島町教会は、今まで何人もの伝道者を出してきました。そして、何人もの牧師夫人を出してきました。現在も、矢部神学生が牧師として立つ日に向かって、備えの日々を送っています。これは、本当にスゴイことだと思います。神様が、この教会を愛し、この教会をご自身の御業の為に、大いに用いようとされている「しるし」でありましょう。私共の周りには、実にたくさんの「しるし」があります。聖霊の風が吹いている「しるし」です。風は見えませんが、風が吹くと、木々がゆれる。木々がゆれるのが「しるし」です。それと同じように、聖霊なる神さまご自身を見たりすることは出来ません。しかし、聖霊なる神さまが働いておられることは、「しるし」を見れば明らかです。そして、この「しるし」は実に様々でなのす。風が吹いているのは、木々が揺れることだけで判るのではないでしょう。土埃が舞う、旗が揺らめく、花が揺れる、髪がなびく。色々あるのです。そして実は、私共一人一人の存在そのものが、この聖霊の風の「しるし」に他ならないのです。自分では気付かないかもしれません。しかし、間違いなくそうなのです。神さまに背を向けて生きていた私共が、神さまを誉め讃え、祈りを捧げる者とされている。聖霊なる神さまによって生まれ変わったのが私共なのでしょう。キリストを信じ、ここに集っている私共の一人一人の上に、聖霊なる神様は今も働いておられるのです。
今日は、5人の方々が私共の教会の群に加わります。本当にうれしいことです。この方々も聖霊なる神さまによって導かれて、この日を迎えました。この新しく加えられる5人の方と共に、いよいよ聖霊の風に吹かれて、主の救いの喜びを大胆に語り続ける群として、主に用いられていく一人一人であり、教会でありたいと願うものであります。
[2004年5月30日]
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