私共の教会の一つの標語になっていると言っても良い、私共の信仰の核心をついた言葉に、「ただ、神にのみ栄光あれ」という言葉があります。私共の多くの者にとっては、それこそ耳にタコが出来る程、聞いてきた言葉であります。この「ただ、神にのみ栄光あれ」という言葉は、私共がこの地上の生涯を送る上での、基本的な姿勢を言い表しています。基本的な姿勢でありますから、それこそ、私共が何をするにつけても、このことは付いてきます。私共が仕事をする時も、神の栄光の為に。家事をする時も、神の栄光の為に。子供を育てる時も、神の栄光の為に。という具合に、私共が日常的に行う全ての業は、この「神の栄光の為に」ということになる。
私は20才のころに、この言葉を初めて知ったのですけれど、その時の驚きを今でも覚えています。正直な所、この言葉の意味を本当の所ではちっとも判っていなかったのですけれど、判らないなりに大変なショックを受けたのです。それは、こんな生き方が、考え方があるのかという、まったく知らない世界に触れたショックでありました。
若い頃、私は自分の為に、自分が幸いになり、自分が偉くなり、金持ちになり、豊かな生活を手に入れる為に生きる。その為に勉強もすれば努力もする。それが当然のことであり、それ以外の生き方があるなどということは考えたこともありませんでした。しかし、教会に通うようになり、間もなくしてこの言葉と出会った訳です。私にとりまして、教会に通うようになりましたのも、知的興味、知的好奇心からでありました。自分が好きな文学を、もう少し良く判りたいというような動機でした。言うなれば、どこまでも「自分の為に」という所でしか考えることが出来ない、考えたこともない人間でした。そういう私にとりまして、自分の栄光ではなく、神の栄光を求める。自分が大きくなることではなくて、神様が大きくなることを求めるということは、全く何のことか判らず、しかし大変心にひっかかり、決して忘れることが出来ない言葉になりました。それから、もう30年近くの時が過ぎました。今は、この言葉は本当のことだ。この生き方にこそ、私共を本当に強くさせ、本当の幸いへと導く道がある、そう思っています。そして、「ただ、神にのみ栄光あれ」という所で生きる喜びを、一人でも多くの人に知って欲しいと願っています。
今朝、与えられているフィリピの信徒への手紙において、使徒パウロは、この「ただ、神にのみ栄光あれ」という所で生きることの幸い、力強さというものを見事に証言しています。今まで何度も申し上げてきました様に、このフィリピの信徒への手紙は、パウロが牢獄に入れられるという状況の中で書かれたものです。そういう中で、18節に「私は喜んでいるし、これからも喜びます。」あるように、パウロは喜んでいるのです。どうして、牢獄に入れられてもなおパウロは喜ぶことが出来たのか、喜んでいるのか、今日与えられた所にそのことが示されています。
12節を見ますと、こうあります。12節「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」。この「わたしの身に起こったこと」というのは、自分が牢獄に入れられたこと、入れられているという事実を示しているのでしょう。パウロは、この我が身にふりかかった災難とでも言うべきこの状況の中で、そのことがかえって福音の前進に役立ったと言って喜んでいるのです。「何で自分はこんな目に遭わねばならないのか、こんな目に遭わねばならない悪いことなどしていない。」もし、パウロという人が「自分の栄光の為に」生きることしか知らなかったのならば、このように我が身の不幸を嘆くしかなかっただろうと思うのです。しかし、パウロは自分の上に起きた不幸な出来事を、全く別の角度から見ることが出来たのです。それは、自分が牢獄に入れられることによって、「福音が前進し、キリストが崇められるようになった」、そういうところから見ているわけです。そして、そのことを喜んでいるというのです。私共は自分で意識しなくても、自分の抱えている問題、困難、不幸というものは、いくらでも数え上げることが出来ます。それが私共の口から出る時、不平、不満、グチということになるのでしょう。放っておいてもグチは出る。しかし、自分に与えられている幸いというものは、自分で相当意識しませんと判らない。数え上げることは出来ません。人は幸いよりも不幸に敏感なのです。しかし、パウロはここで牢獄の中から、幸いを数え上げているのです。それは我が身に起きた幸いというよりも、我が身に起きた不幸な出来事を通してもたらされた幸い、喜びなのであります。福音が前進し、神の栄光が現れたことへの喜びなのです。
ここでパウロが喜んでいる、福音の前進として見ている出来事は、三つあります。
第一に、自分が入れられている牢獄のあった兵営にまでキリストが伝わったということです。パウロが入れられておりました牢獄は、当時ローマの兵隊が駐屯している所にありました。そのローマの兵隊達の中に、キリストが伝わったというのです。そして、そのことを喜んでいるのです。パウロは、多分、牢獄の中にあっても、讃美歌を歌い、祈りをささげていたに違いありません。使徒言行録16章25節に「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた」と記されています。これは、この手紙を書いている時とは違いますけれど、パウロが牢獄に入れられた時の様子を良く伝えています。きっと、この手紙を書いた時もそうだったのだと思います。牢獄の中で明るい人など、まずいません。皆、暗い、絶望的な思いの中にいる。そういう人たちの中で、賛美を歌い、祈りをささげるパウロの姿は、大変目立ったに違いありません。そして、パウロの教えに耳を傾ける者も現れたのではないでしょうか。そこでキリストを信じる者が起こされたかどうかは判りません。しかし、自分が牢獄に入らなければ、決してキリストに触れることのなかった人にキリストが伝わった。このことを喜んでいるのです。
私共が生活している所は、牢獄ではありません。しかし、私共が日常的に出会う人々のほとんどは、まだキリストを知らない人々でしょう。そういう人々に、私共は自分が望もうと望むまいと、キリスト者の代表のように見られている。私共はこのことを喜びとし、誇りとしたいと思うのです。それは何も、自分はキリスト教の看板を背負っていると気負うことではありません。私と出会うことによって、キリストが伝えられているのです。この事実を喜ぶのです。私のような欠けばかりの人間が、神様の恵みの中で喜んで生きている。その姿がキリストの恵みを運んでいっているのだと思うのです。そこに、福音の前進という神さまのみ業が起きているのです。
第二に、パウロは自分が牢獄に囚われたことによって、かえって他のキリスト者が勇敢に福音を伝えるようになったことを喜んでいます。これはまことに不思議なことです。常識的に考えれば、伝道者パウロがローマ帝国の手によって捕らえられた。こんな宗教を信じていれば、やがて自分の上にも身の危険が迫るかもしれない。だから、信仰から離れていこう。そういう人々が次々に出てもおかしくない。あるいは、そういうことも起きたかもしれません。しかし、パウロはここで全くその逆のことが起きたといって、喜んでいるのです。牢獄の中で、なおも信仰者として喜んで生きているパウロの姿が、人々を励まし、勇気づけたのです。実に、私共はそのようなことが歴史の上で、繰り返し起こったことを知っています。宗教改革の時代にもありましたし、最近では、東ドイツ、韓国、台湾といった国で、キリスト者が反体制勢力として弾圧を受けた時、多くの逮捕者が出ました。ほとんどは牧師達でしたが信徒もいました。彼らは牢獄の中から何をしたでしょうか。これらのキリスト教指導者達は、牢獄の中から人々を励まし、かえって人々の信仰は確かなものとしていったのです。
私共の信仰はいつも生き生きと元気であるとは限りません。意気消沈し、不安に襲われ、弱いときもある。そういうときに、傍らに確信に満ちた信仰者がいる。その存在によって励まされ、再び歩き始めるということがあるのではないでしょうか。教会の交わりとはそういうものなのではないかと思うのです。
パウロは、テモテへの手紙二2章9節で「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません」と語っています。パウロは、自分が牢獄に入れられることによって、かえって鎖につながれることのない神の言葉の力を知らされたのです。自分の努力で何とかする、何とかなるというのではなくて、自分ではどうすることも出来ない。牢獄の中で、ただ祈り、賛美することしかできない。しかし、そういう時であればこそ、パウロは自分の力によってではない、ただ神さまの力によって前進していく福音を見たのです。神様の救いの御業は前進していくという、神様の圧倒的力と御業とを知らされたのであります。ルターは「私達が寝ているときも、福音は前進している」と言いました。本当にそうなのです。
私共は、もっと自分にこんな力があれば、神様の栄光を現すことが出来るのにと思うかもしれません。伝道者になったばかりの頃、正直な所、私も何度もそう思いました。自分の力のなさを嘆きました。しかし、そうではないのです。神様は、この欠けに満ちた私共を用いられるのです。何故なら、「栄光は私の上に」ではなく、「ただ、神にのみ栄光」だからです。私共が弱い所においてこそ、神様の強さが現れるのです。だから、私共は最早、自分の弱さを嘆かない。この弱い私共を用いて下さる神様をほめたたえるのです。自分の弱さを嘆かなくても良い世界に、私共は招かれているのです。何と幸いなことでしょう。
第三に、パウロは自分が牢獄に入れられることによって、動機は様々であっても、そのことによっていよいよキリストが告げ知らされていることを喜んでいます。パウロが牢獄に入れられて、いよいよ伝道に励んだ人々に、二つのグループがあったと告げられています。一つは、パウロを愛し、パウロを支持する人々です。パウロの分も励まなければと思った人々です。「善意でする者」「愛の動機からする人」がそれです。しかし、それだけじゃない。「ねたみ」と「争い」の念にかられ、自分の利益を求め、不純な動機で伝道する人もいた。パウロが牢獄に入れられたことによって、今までパウロの伝道をこころよく思っていなかった人々、パウロの働きの故に自分の影が薄くなったと思っていた人々は、それ見たことかと、パウロが牢獄に入っている間に、自分を目立たせようとして、いよいよ伝道に励んでいるという様子がパウロのもとに知らされたのでしょう。
キリスト教は愛の宗教であり、教会には真実な思いが満ちていなければならない。私共はそう思います。私はその思いは大切にしなければならないと思いますけれど、教会という所は、いろいろな人が集まるのですから、やっぱりいろんなことがあるのです。他の人間の団体と同じ様に、グループだ派閥だというようなものが生まれることだってある。そんなことにつまづいていたのでは、私共は生涯信仰を守ることは出来ないのです。
パウロは、ここでも、自分が何と言われていても、結果としてキリストが告げられているのだから自分はそれを喜ぶというのです。パウロは、他の人が下す自分に対しての評価というようなものに無関心だとは言いませんが、それ以上に、福音が前進すること、キリストが崇められることを、何よりの喜びとしていたのです。人の評価が全く気にならないという人はいないでしょう。でも、そんなことを気にしていたら、本当に平安になるなんてこともないし、自由に生きることも出来ません。
私共は「自分の栄光の為に」ではなく、「ただ、神にのみ栄光あれ」という、新しい生き方を知らされたのではないですか。私共の弱さをも用いられる神様の愛と力とを知らされたのではないですか。だとするならば、人が自分をどう見るかではなくて、あるいは、自分の身の上に起きた不幸を数え上げるのではなくて、この弱い私をも用いてなされている神様の救いの御業、福音の前進に目を注ごうではありませんか。福音の前進の為に用いられていない人など一人もいないのです。牢獄の中で一人、主を賛美し、祈るしか出来なかったパウロさえ用いられる神様です。神様に与えられた試練の中でじっと耐え、それでもなお主の御業を信じて、黙々となすべき業に励んでいる私共の姿が、何よりも雄弁に、神様の恵みを語っていくのであります。もっと力があれば、もっと能力があればではないのです。この貧しい器こそ、神の栄光を現していくのに、ふさわしいのです。
「ただ、神にのみ栄光がありますように。」
[2004年5月9日]
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