人間は、「祈りの種」ともいうべきものを持っています。その人が信仰を持っていようと、持っていまいと、生まれてこのかた祈ったことがないという人はほとんどいないでしょう。これは、文化を超え、民族を超えて普遍的なことでありましょう。もちろん、その祈り方、祈りの対象、それは千差万別です。しかし、祈ったことがないという人はいない。このことは、人間というものが、自分を超えた何者かに対しての畏れの感覚とでもいうべきものを持っているからでしょう。宗教改革者カルヴァンは、これを「宗教の種」と言いました。人は生まれながらにして、「宗教の種」を持っている。これを、「祈りの種」と言い換えても良いと思います。人は生まれながらに、「祈りの種」を持っている。問題は、「種」と言われていることです。種は種のままでは仕方がない。芽を出し、花を咲かせ、実をつけなければならないのです。「種」とはそういうことでしょう。聖書は、その「種」が成長し、実りをつけるまでに至る道筋を私共に教えてくれます。
私共は様々なことを願い、求めます。そして、それが祈りとなります。ですから、私共の祈りには、私共が何を求め、何を願っているかということがはっきり姿を顕わすのだろうと思います。以前、青年達の修養会で講演しました時に、講演に先立って、「あなたの三つの願い」をカードに書いて出してもらったことがあります。恋人が出来ますように。就職が決まりますように。車を持てますように。友人・知人の病気が治りますように。そのような願いが多かったように思います。これは青年達に尋ねましたので、このような答えでしたけれど、皆様に今、カードを渡して、同じ様に三つの願いを書いて下さいと言ったなら、どのような答えがそこには現れてくるでしょうか。きっと、子供たちのこと、夫や妻のこと、年老いた両親のこと、又、自分の健康のことなどが多いのではないかと思います。とすれば、こういうことについて祈るということが、私共の日常の祈りの中で大きな場所を占めるということになっているのではないかと思うのです。
それは大変自然な心の動きであろうかと思います。しかし、このような祈りは、いまだ十分に成長していない祈りなのではないかとも思います。これでは、信仰があってもなくても、為される祈りに違いはないということになってしまいます。「祈りの種」が種のままであってはなりません。私共は、祈ることにおいて、もっと成長したいと思うのです。
今日与えられております御言葉において、パウロの祈りが記されております。このパウロの祈りを手がかりに、私共の祈り、私共の願いというものを点検したいと思います。パウロはフィリピの教会の人々を愛し、この人々の為に毎日、祈っておりました。8節「わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます」。それに続いて、「わたしは、こう祈ります」と言って、祈りの言葉が記されているのです。ここで、パウロは私はあなた方を愛している。そう言って、私はあなた方のためにこう祈る。と言っているわけです。ここでは、明らかに愛が祈りの原点になっているのです。このことは大切なことです。パウロはフィリピの教会の人々を愛するが故に、祈らざるを得なかったのです。愛は祈りを生むのです。更に、祈りは愛を清めると言っても良いのではないかと思います。
さて、ここにパウロの祈りが記されている訳ですが、この祈りにおいて、私共が第一に注目すべきことは、この祈りが明確に終末を見すえているということです。10節「キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように」とあります。どうでしょうか。私共が愛する者の為に祈る時、健康が支えられるように、あるいは今直面している困難が取り除かれるように、平安が与えられるように、そのような祈りをしているのではないでしょうか。もちろん、そのような祈りはしないで良いというようなことではありません。それも大切な祈りでしょう。しかし、私共の目が、あまりにも目に見える所にばかり向けられていないか、私共の祈りが、あまりに目に見えることばかりを求めていないか。そのことを思わされるのであります。このことは、私共の願いというものが、本当に終末的な救いを求めているのかどうかが問われることになるのだろうと思います。私共は、やがて神様の御前に立って、自分が歩んできたことの全てが明らかにされる。その時、私共はキリストの赦しの恵みに与り、救われる。そして、共々に永遠の命を受けて、神の栄光をほめたたえる者として、神様の御前に立つ。このことこそ、私共の希望であります。とすれば、私共は愛する者の為に、何よりもこのことを願い求めることになるのではないかということなのであります。このことは言い換えるならば、私共は愛する者の為にまず、その人が救われることを願い求め、祈るということになるのでありましょう。
以前、こういう話を聞いたことがあります。私共の大切な信仰の遺産である「ウェストミンスター信仰告白」が作られた時代、イギリスは内戦状態でした。多くの牧師達が牢に繋がれました。その牧師たちが家族に宛てた手紙が残っていて、その手紙には自分の家族の健康や安否を問うようなことはあまり見られないというのです。それらの手紙には、あの人の信仰は大丈夫か、あの人はしっかり福音に立っているか、信仰を捨てていないか、そのような記述ばかりが目立つというのです。「ウェストミンスター信仰告白」は、実にそのような終末的な希望によって生かされた信仰の先達達によって紡ぎ出されたものなので理ます。しかしその話を聞いたとき、もし自分が牢に繋がれたらどうだろうかと思いました。自分は愛する者達の信仰が確かであり続けるようにと、そのことに祈りと思いとを集中できるだろうかと思いました。このことは、私共の希望というものが、本当に終末的な救いに集中しているかどうかということが問われているということなのではないかと思うのであります。
第二に、パウロはフィリピの教会の人々の愛が豊かになるように祈っているということであります。生活が豊かにでもなければ、健康が豊かにでもない。愛が豊かになるようにです。完璧な愛の人などいません。私共の愛には欠けがあるのです。しかし、そのままで良いということではないでしょう。愛することにおいて豊かな人となるように。これは私共の切なる願いではないでしょうか。そして、それは自分だけではない。自分の愛する人も又、何よりも愛することにおいて豊かな人になって欲しい、そう願うのであります。それは、私共はそこにこそ本当の幸いがあることを知っているからです。何を持っているかではない。社会的な地位や名誉でもない。互いに愛し、愛される。そういう交わりの中でこそ、人は幸いに生きることが出来るということを知っているからです。この知識は、実に信仰によって与えられた知識です。この世の常識といった類の知識ではありません。
ここで注目すべきことは、パウロは愛が豊かになるということと、知識・感性というものとを結びつけているということです。9節の「知る力と見抜く力とを身に着けて」と訳されております言葉は、口語訳では「深い知識において、するどい感覚において」と訳されておりました。こっちの方が、原文の直訳に近い。つまり、パウロは愛において豊かになる為に、深い知識とするどい感覚が必要だと考えていたということなのです。愛は、単なる情ではないのです。親子にしても、夫婦にしても、愛において豊かになっていく為には、単なる情だけではダメなのです。相手が何を考え、何を求め、何で悩んでいるのか、そういうことを察していく感性が必要なのではないでしょうか。そして知識です。愛と知識とはあまり関係ないように思えるかもしれませんが、そうではありません。例えば、夫婦を考えてみましょう。夫婦の関係というものは、実に不思議なものです。何万、何十万という人の中から、まったく生まれも育ちも性格も違う二人が出会い、生涯を共にする者となる。結婚する時にはお互いが好きだということはあったでしょう。けれど、結婚してもそのような思いが続くわけではない。つまり、「好きだ」という情だけで結ばれていたのではやっていけないのが、夫婦でしょう。いろんな時がある。そういう中で、「神様が私共を選んで結ばせて下さった」という知識、これは愛を豊かにしていく為に、とても大きな力を与えるものなのではないかと思うのです。親子にしてもそうです。互いに神様が与えてくださった子であり、親であることを知る中で、互いに気遣い合うという成熟した関係へと導かれていくのではないでしょうか。私共、改革派の流れにある教会は、大変教理を重んじます。それは知識を重んじると言っても良いかもしれません。しかし、ここで私共が注意しておかなければならないことは、私共がこのような信仰の知識を増し加えることは、神を愛し、人を愛することにおいて、いよいよ豊かになっていく為に仕えるものでなければならないということです。教理や知識によって、身をつつみ、固く、冷たいキリスト者を生み出すとすれば、それは本末転倒と言わなければならないと思います。
私共には欠けがある。何よりも愛において欠けがあるのです。そのことを互いに知り、それ故に、愛が増し加えられるようにと祈り合う。そこに生まれるのが、教会という交わりなのであります。私は愛される値打ちがある。それなのにあの人は私を愛してくれない。そんなわがままな思いの上に成り立っている交わりではないのです。愛される値打ちなんてない。それなのに、神様は愛して下さった。愛して下さっている。だから、私も精一杯、愛していきたい。そういう願いの中で形造られていく交わりなのであります。この愛は、キリストの十字架に対しての深い知識とするどい感覚によってもたらされるものなのであります。
第三に、「本当に重要なことを見分けられるように」という祈りです。何が大切なことで、何が大切でないのか。何が中心で、何が周辺的なことなのか。このことを見誤りますと、私共は道を誤ります。主イエスは、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイによる福音書6章33節)と言われました。「これらのもの」とは「食べること、着ること」のことです。それは大切なことです。どうでもいい問題ではありません。しかし、私共が一番大切なこととして、第一に願い求めるべきことは、それではない。神の国と神の義です。私共はこの順番を間違ってはいけないのです。
このことは私共が生きていく上で、正しく優先順位を付けることが出来る判断力を求めると言っても良いでしょう。私がこの教会に転任が決まりまして、正直な所、私達夫婦が一番心にかかりましたのは、娘の高校のことでした。四月から二年生になりますので、本当に心配でした。受け入れてくれる高校があるのかから始まりまして、どの高校がよいのか、そして又、娘はどう考えるのか? 親としてみれば、この高校に入れれば良いなという欲はあるわけです。実に、私共の信仰というものは、こういう具体的な所で問われるのだろうと思います。そういう中で私達夫婦が確認し合ったことは、@この転任が神様の召命によるものならば、神様が最も良い道を備えて下さることを信じる。Aとすれば、受かった所が一番良い道と信じる。B娘は舞鶴には置いていかない。ということでした。更に言えば、Cどこを受けるかは娘に決めさせる。私は情報は集めるけれど、口は出さない。もっとも、このCの口を出さないという所は難しくて、結構、口を出してしまいましたけれど。
これは、実にささいなことです。どこの高校に行こうと、大した問題ではありません。しかし、何よりも、我が子が神様の御前に立つ日を思い、その日に至るまでの通らねばならない必要な道筋としてこれを受け止め、そして神様を信頼してお委ねしていくということなのです。信仰が問われるというのは、この様な日常的な出来事の中で、「信仰によって判断し、優先順位をつけていく」ということをきちんと為していけるかどうか、ということなのではないでしょうか。私共の目は、いつも、主が来られる日の一点に向けられていなければなりません。そして、その日に向かっての一日一日の歩みなのですから、その為に必要な愛、知識、感覚、判断力が互いに備えられるよう、互いに祈りを合わせて歩んでまいりたいと願うのであります。
[2004年5月2日]
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