富山鹿島町教会

礼拝説教

「事を起こし、完成される方」
出エジプト記 14章5〜14節
フィリピの信徒への手紙 1章3〜11節

小堀 康彦牧師

 信仰者の歩みとは、神様の救いの御業を目撃し、体験し、それを喜び、感謝する中で営まれていくものであります。そして、この神さまの御業の証言によって、キリスト教の歴史は形造られています。イースターの祝会の時、G長老が、この富山鹿島町教会の歴代の牧師達のことを紹介しながら、「教会の歴史とは、言葉の歴史です。」と言われました。何と信仰的洞察に満ちた言葉だろうかと思いました。教会を造る言葉の歴史。それは「真理の言葉の歴史」であり、同時に、神様の救いの御業の「証言としての言葉の歴史」であります。真理の言葉は、証言の言葉と重なります。その言葉の歴史は、聖書に始まり、毎週の説教において告げられ、代々の信仰告白に受け継がれ、今、私共の言葉として新しく生み出されていくものなのです。聖書は、神の言葉であるに違いありません。真理の言葉です。しかし、そこには、神様の救いの御業に生かされた者の証言が満ちています。説教の言葉も、単なる真理が告げられる言葉ではありません。説教を語る説教者自身が救いに与っており、その恵の証言として語られるのです。今朝与えられているこのフィリピの信徒への手紙は、まさに神様の救いの御業の中に生かされた、パウロという一人の伝道者・牧会者の証言に満ちています。伝道者は牧会者でもあります。伝道はするけれど牧会はしない、あるいは、牧会はするけれど伝道はしない、そんなことはあり得ないでしょう。そのことが、ここを読むとよく分かります。

 私もパウロと同じ伝道者・牧会者として、3〜5節の言葉を自分の言葉として読むことが出来ます。きっと、全ての伝道者はこうなのだろうと思います。3節〜5節「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。」ここには牧会者としてのパウロの証言があります。伝道者・牧会者パウロとフィリピの教会の信徒の間の実に麗しい関係、牧会者と教会員との愛の交わりのここで証しされているのです。パウロはフィリピの教会を開拓伝道しました。しかし今、パウロはフィリピの教会を離れています。それでも彼は、フィリピの教会を忘れたことはなかった。毎日、フィリピの教会を思い出して、祈っていた。そして、その祈りは、神様への感謝と喜びに満ちていたのです。何故なら、フィリピの教会の人々が、信仰において、右にも左にもそれることなく、正しく福音に与っていたからです。牧師にとって一番うれしいことは、自分が伝道・牧会した信徒の方が、今も健やかに教会生活・信仰生活をしているということを聞くことです。逆に、一番悲しいことは、あの人は最近教会にきていないという報告を受け取ることです。きっと、パウロにとってフィリピの教会は誇りだったのではないかと思います。牧師にとって、自分が牧会した教会は誇りであり、たとえ離れていようと、忘れることはあり得ないのです。この富山鹿島町教会を牧会された歴代の牧師達、神さまの御旨の中で転任していった一人一人の牧師達もそうであったに違いないと思います。この教会のことを思っては祈り、祈りのたびに感謝をささげ、喜んでいたに違いありません。
 そうは言っても、パウロはこの手紙を牢獄の中で書いている訳です。昔のことです、牢獄の中の状況というものは、よほどひどいものであったに違いないと思います。そういう中で、パウロはフィリピの教会のことを思い起こして祈ると、感謝と喜びに満ちるというのです。これは普通ではない。まるで、自分が置かれている状況など関心がないようにさえ見えます。関心がないというのは言いすぎかもしれません。しかし、自分の置かれている状況への不平や不満、苦しさといったもの以上に、神様への感謝と喜びに満たされたのです。私共はどういう時に、祈りの中で感謝をささげ、喜びの中で祈るでしょうか。何か自分の身の上に良いことがあった場合ではないでしょうか。しかし、そういう祈りしか知らなければ、ここでのパウロの祈りは、全く理解できないということになるのであります。何か良いことがあったら祈りの中で感謝できる、喜べるというのでは、私共はなかなか感謝の祈りが捧げられないということになってしまうのではないでしょうか。私共は、まずは自分のことが先で、それが終わったら他の人のことをと思っているかもしれません。しかし、私共は生きている限り、様々な課題が持ち上がるものです。自分のことというものは、これで一応ケリがついたという所に、なかなかならないのではないでしょうか。ですから、どこまでいっても自分のことだけでアクセクし、汲々としてしまう。しかし、ここで自分のことはさておき、他の人の為に心を用いるとどうなるか?実は、ここで、私共は、心が神様に向かって開かれるということを経験するのではないでしょうか。自分のことにばかり気が向いている時、私共は神様のことを忘れていることがしばしばです。しかし、他者の為に真剣に祈る時、私共は自分ではどうしようもないのであって、神様がその人に働きかけて下さるようにと、願い求めるしかない訳です。ここに希望が開かれていく。私共の希望は、ただ神様にだけあるからです。

 パウロは言います。6節「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」。この確信こそ、パウロが祈りの中で、フィリピの人々の為に祈る中で、感謝と喜びに満たされた源なのです。フィリピの教会の人々は、一人一人見れば、それぞれに課題を持っていたと思います。何の問題も持っていない人々の集まりとしての教会など私は見たこともないし、そんな教会など考えられないでしょう。家庭のことであれ、仕事のことであれ、課題はある。しかし、たとえどんな課題があろうとも、神様は私共に働き、信仰を与えて下さった。善い業を始めて下さった。そうである以上、神様が私共の信仰の歩みを完成して下さるのであります。信仰は、神様が私共の中に起こして下さった救いの出来事なのです。私共が自分で手に入れたものではないのです。私共はこのことを信じて良いのです。私共の中に注がれた、あるかないか判らないような小さな信仰。まさに、カラシ種一粒ほどの信仰です。しかし、これが成長するのです。思いにおいて、祈りにおいて、業において、愛において成長していくのです。そして、豊かな実りをつけるにまでなるのです。私共は自らの信仰の成長を単純に信じて良いのです。何故なら、信仰は、神様が私共の中に起こされた出来事だからです。信仰は私のものではない。神様が与えて下さったものなのです。ですから、一所懸命に信仰を守ろうとしなくてもいいのです。自分で守らなくても、神様が守って下さるのですから。そのことを信じて良いのです。
 そして、このような理解は、自分以外の信仰者に対してもなされていくことが大切なことなのです。私の牧師としての経験の中で、洗礼を受けて、天に召されるまで、一度も教会を離れることなく信仰生活をしたという人は、そんなに多くないということを知っています。しばらくの間、教会から離れる。そういうことが、多くのキリスト者に見られるのです。しかし、それはその人の信仰がなくなったというのではないのです。ただ眠っているだけです。眠ってしまった信仰は、もう一度起きればよいのです。私共は、そのような人々に対しても、その人の中に善き業を始められた方が、きっと成し遂げてくださる。そう信じて、祈り、見守る必要があるのであります。その人を捕らえて下さる神様を信じるのです。

 先程、出エジプト記14章をお読みしました。有名な、海が真二つに分かれて、イスラエルの民がモーセに率いられて、エジプト軍の手から逃げていく場面です。前は海、後ろはエジプト軍という絶体絶命の危機的状況の中で、イスラエルの民は、神様に向かって、モーセに向かって、言いました。11〜12節「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。我々はエジプトで、『ほおっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか」。これに対して、モーセは答えます。13節「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい」。14節「主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい」。私は、この聖書の箇所がとても好きなのです。自分の命が危ないという絶体絶命の状態。そういう状態の中にある神の民に向かって、「恐れるな」、「落ち着け」と言うのです。そんなこと言われても、「ハイそうですか」と言えるような状態ではない。それを承知の上で、神さまは言われるのです。「恐れるな。」「落ち着け。」私は、ここに神さまのユーモアさえ感じるのです。自分の状況しか見えず、慌てふためく私共に向かって「私がいるではないか。恐れるな。落ち着け。私があなたに代わって戦う。」と、主なる神さまが言われる。私共は、この神さまの言葉を聞き、この神さまの言葉を信頼する者して召されているのです。私共は、主の救いの御業を見る者として召されているのです。主が戦われるのです。私共は静かに、主のなされる御業を見れば良いのであります。出エジプトの出来事を起こされたのは誰でしたか。神様ではないですか。だから、神様が最後まで守り導いて下さるのです。私共の神の国への旅も同じことです。そのことを信じて良いのです。
 私は、前任地の東舞鶴教会において、たくさんの神様の御業を見てきました。牧師という者は、神様の御業の舞台の最前列で、ホーッ、ヘーッ、ヘーッと、神様の救いの御業を見せていただく者なのだと思います。この富山鹿島町教会で起きる出来事もしっかり見せていただき、伝えていきたいと思っています。神様の救いの御業は、今も、この教会において、起き続けているからです。それが教会という所だからです。

 パウロは続けて、こう言います。7節「わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです」。パウロはフィリピの教会の人々を、何よりも「共に神様の恵みに与る者」と思っているのです。この神様の恵み、救いの恵みに共に与る者という理解こそ、人間的な一切の思いを超えた、パウロとフィリピの教会の人々を結びつけているものなのです。パウロは今は牢獄の中にいます。しかし、「共に神様の救いの恵みに与る者」という関係は、それによって、いささかもゆらいでいないのです。時を超え、空間を超え、それぞれの置かれている状況を超えて、私共を一つにするのです。何故なら、この「共に恵みに与る」とは、キリスト・イエスの日、すなわち終末において与えられる救いの完成、復活の命、永遠の命のことだからです。
 先週、この教会で一番高齢のHさんの所を訪ねました。私も含め、7人で訪ねたものですから、長居をすることは出来ませんでしたけれども、長い友人であられるMさんが耳元で声をかけると、少し反応されました。かわるがわるにお声をかけ、一緒に祈りをささげてまいりました。ここに、私共と「共に恵みに与る者」がいるということを思わされました。もう話すことも難しく、食べることも難しいHさんです。足も細くなり、手も曲がったままになられている。しかし、キリストの御手に捕らえられ、私共と共に終末的救いの恵みに与る者とされていることには変わりはありません。
 私共は、しばしば目に見えるものにばかり目をうばわれてしまいます。自分の置かれている状況、あるいは相手の置かれている状況。それは時に最悪であり、とても希望を見いだすことは不可能のようにさえ思えます。しかし、私共は目を天に向けることを知っています。全てを支配し、導かれる、天におられる神様を見上げることを知っています。そして、この方を見上げる時、全ては変わります。この方の御手の中にある「私」、終末において共に恵みにあずかる者とされている「あなた」を発見するからです。私は弱くても、神様は強く、神には何も出来ないことはないことを思い起こすのです。ここに希望があります。この希望に生きる者として、私共は召されているのです。

[2004年4月25日]

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