富山鹿島町教会

礼拝説教

「あなたの罪は赦された」
マタイによる福音書 第18章21〜35節

堀岡 満喜子先生


 教会は時に、1つの教会だけでなく他の教会と一緒になって集会を開くことがあります。様々な集会が開かれますけれども、以前ある修養会に出向く機会がありました。洗礼を受けるかどうか迷っている青年たちがたくさん集ってきていました。洗礼を受けると言うことはどういうことですか、どういう状態になったら洗礼を受ければよいのですか…。若い人たちが牧師や教師に尋ねていました。この直球のような質問に牧師たちも、懸命に対応していました。「洗礼を受けると言うことはね、君が神さまのものになるということだよ。だから君がイエス様を自分の救い主だと信じることができ、自分の罪がイエスさまの十字架によって赦されたということを信じるなら、洗礼を受ければいいんだよ。」 直球で質問されるものですから、牧師も直球で投げ返している様子でした。そんな中で、ある女性が、非常に大胆に話し始めました。
 イエスさまによって赦されると言うことは、こういうことよ、というのです。あなたがもし、誰かに対して大きな罪を犯したとする。その罪が見つかり捕まって、牢屋に入れられてしまった。あなたは非常に大きな犯罪を犯したのだから、死刑の判決を受けることになった。あなたは重い判決に苦しみながら、牢獄で死刑の日を待っていた。ところが、ある日、看守があなたのところにやってきて、あなたの廊の鍵を開けた。いよいよ、処刑の日が来たのだとあなたは恐ろしくなった。しかし、看守は言った。あなたは今日、罪を免除され解放されることになった。あなたはとまどいながら聞いてみる。「何故ですか。」すると看守が言った。「ある人がやってきて、あなたの罪の身代わりに死刑を引き受けると言ったのです。」
「それは誰ですか。」あなたは聞いてみた。名前を聞いても誰だか分からない。関係者でないことだけは確かです。あなたは更に聞いてみる。「その人の処刑はいつですか」すると看守が答えた。「もう、処刑は済んでしまった」
 イエスさまによってあなたの罪が赦されると言うことは、こういうことよ、と彼女は言いました。すでに処刑は済んでしまった。あなたの罪は赦されてしまった。そのことをあなたが、受け入れるかどうかということだ、というわけなのです。
 これもまた豪直球のような話ではありました。しかし、青年たちの心を捉えていく強さがある話でした。
 今朝、読んでいただいた聖書の言葉はこの「罪とその赦し」について語っています。

 ペトロという弟子が主イエスに尋ねています。「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか」
 この問いは、ペトロがふと疑問に思ってしている問いというわけではなさそうです。ユダヤ人の間でこのことは、弟子が先生に対してする質問の1つであったようです。「兄弟が自分に対して罪を犯したとき、何回赦すべきか」
 あるユダヤ教の先生は、「3回」兄弟を赦すように教えたそうです。「3回以上は友人から赦しを請うことはできない」と言うのです。他の先生もこう答えたそうです。「もし人が一度罪を犯した場合には赦される。2度罪を犯した場合は赦される。3度罪を犯した場合も赦される。しかし、4度目に罪を犯した場合には赦されない」
 これは、旧約聖書にきちんと根拠がありまして、アモス書などを見てみますと、神の赦しは3つの「とが」までで、4つの「とが」を犯した罪人は裁きを受けるということが言われているのです。それで、神でさえ3つ以上の罪については裁かれるのだから人間はなおさらそれ以上寛大である必要はないというわけなのです。
 そういうことから言いますと、ペトロが主イエスに問うた問いはこのユダヤ教の考えを越えた問いであったと言えるのです。「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか。」
ペトロは3回とは言わないのです。3回を倍にして6回、いや更にもう一度赦して7回。そこまで寛大であれば十分ではないだろうか、と言うわけなのです。
考えてみれば、1度であっても赦すことは大変であります。非常に不愉快にされる場合には、私どもは心が燃えんばかりに激しい怒りを感じることがあります。口を開けば、その1度の不快な出来事をあの人この人にもらしてしまうことがあるのです。腹立つ思いを自分自身で持て余してしまうほどに赦せないことがある。できるだけ、その出来事を思い出さない、忘れるように心がけてみる。けれども、何かの拍子にそれがまた吹き出して、止めどもなく復讐心と言いますか、怒る心がわき上がってくるものではないでしょうか。1度であっても赦すことが難しい。
 その私ども人間をよく知っている。ですから、ユダヤ教の先生はいや、3度までは赦しなさいと教えます。そして、ペトロはいやもっと兄弟を愛していかなければならない。といって、7回赦すということを考えるわけです。こういうことを考えているのですから、ペトロは非常に誠実にこの問題を捉えていたに違いないと思うのです。
 怒りのままに、復讐心の燃え立つままに任せない仕方で、生き方を問うている。人間の在り様を考えている。そういう「人間の知恵」がここにあるのです。
 教育の世界では、この様なことが教えられていきます。人間が自分のやりたいように生きるなら、とんでもないこともしてしまうから、自分を押さえる必要がある、と生き方を示すのです。これは、「人間の知恵の伝授」でありましょう。
 ペトロは、この「人間の知恵」に至っているわけです。
 ところが、主イエスはこうおっしゃいました。「あなたに言っておく。7回どころか7の70倍までも赦しなさい。」
 ここで、主イエスのお答えは一気に飛躍しています。ユダヤ教の先生は3回といい、ペトロは7回と言った。ところが、主イエスは7の70倍するまで赦せとおっしゃる。この飛躍は、ユダヤの先生やペトロと同列に数字を並べることのできない飛躍であります。つまり、3回、7回、490回と言う風に並べることは全く意味のないことであります。しかし、この並べることができないというところに大事なことが語られていると思います。 ユダヤの先生もペトロも指を折るようにして、赦しを数えているのです。怒りにまかせないで赦した、1回。復讐しないでこらえた、2回。そうやって我慢している自分を、指を折り数えていくのです。けれども、主イエスの7の70倍は490回を意味しません。1回、2回、と数えていって490回の限界まで我慢して、491回目に来たらもう堪忍袋の緒が切れたと言って復讐して良いと言っているわけではないのであります。ですから、数字を並べても意味がありません。主イエスは回数を言っておられるのではない。ペトロが7回というならば、それを遥か70倍するくらいどこまでも赦しなさい、とおっしゃるのであります。徹底的にどこまでも、赦しなさいとおっしゃる。
 これは、一体どういうわけでしょうか。いかにも現実離れした、飛躍しすぎた話のようにも響きます。一度でも赦すことに苦心している私ども人間の現実をどう考えていらっしゃるのでありましょうか。一度でも難しい、7回も不可能に近い。では7の70倍とは何なのでしょうか。これならばむしろ、ユダヤの先生やペトロの方が現実的でしかも示唆に富んでいるようにさえ思えます。
 そこで、主イエスはたとえ話を語りはじめられました。「天の国は次のようにたとえられる。」主イエスは、「天の国」つまり「神の御支配される場所」について語りはじめられたのです。
 話のはじめは、こうです。ある王様が、自分の家来たちを呼び集めます。これまで家来たちに貸していた金の決済をしようというわけです。帳簿に付けられた金額を確かめながら、家来たちに返金を求めていったのでしょう。この決済をし始めたところ、その中の1人の家来が一万タラントン借金しておりました。ところが、この家来、一万タラントンの借金をしながらこれを返すことができませんでした。一万タラントンというのは、25億円とも言われますが、とにかく数十億という膨大な借金だったわけです。そこで、この王様は自分で返せないならば、自分も妻も子供も、自分の持ち物も全部売り払ってでも返済するように言い渡しました。
 ですから、この王様は非常に厳格な王であったと考えられます。他の家来たちにもそうであったように、この膨大な借金を抱えた者にもまた厳格なのであります。
 ところが、この家来、ひれ伏したのです。王の前でひざまづき、ひれ伏して「どうか待って下さい。きっと全部お返しします。」と懇願したのです。あらゆるものを手放す様に命じられた者の姿が、ここにあります。必死になって願っている。借金をしているのですから、返さないわけには行かない。けれども、この膨大な借金を今すぐ返せと言われてもどうにもならないわけです。ですから、とにかく身の振りかまわず王の前にひれ伏して懇願したというのです。「全部をお返ししますから」
 ところが、この話の展開の不思議なところは、次であります。この家来の姿を見ていた王様は、家来を憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやったというのです。普通に想像するならば、家来の懇願に対して王は「待ってやる」ことになるのではないでしょうか。妻も子供もすべてを売り払ってでも、借金を返すようにと命ずる厳格な王なのですから、寛大な心を向けたとしても「全部返すまで時間をやろう」と言うことになるのが普通なのではないか。ところが、この王は一変して、借金を全部赦し、帳消しにするというのであります。
 家来は、そのようなことを願ったのではありませんでした。必ず自分が全部、返すからそれまで待って欲しいと願ったのです。ところが、王はその家来の言葉を聞いていないかのように、一方的に借金を帳消しにしてしまった、と言ってよいほどなのであります。まるで、ペトロの考えた数字と主イエスの答えた数字の間にある飛躍のように、ここに大きな飛躍があるのであります。7回か、と問うペトロに主イエスは7の70倍とお答えになった。この飛躍がこの王にはあるのです。
 なぜ、王はこのような変化を見せているのでしょうか。27節に、「主君は憐れに思って」とあります。この「憐れに思う」という言葉は、「かわいそうに思う」という漢字を当てていません。「憐れみを持つ」という漢字を当てているわけです。この言葉は、翻訳することが非常に難しいと言われている言葉です。もとの言葉を忠実に訳してみるならば、「はらわた」という言葉だというのです。「はらわたが痛くなる」という意味の言葉です。胸が痛む、はらわたが痛むと言うのです。
 ですから、この王様は家来の様子を見ていて、はらわたが痛むような思いになったというのです。それで、もう良い、借金は帳消しだと言うことになったわけです。そうしますと、ここで描かれております王は非常に厳格でありますと共に、非常に同情的な王であります。自分の家来が懇願しているのを見ると、はらわたが痛んでしまう王なのです。それで、借金を帳消しにしているわけです。
 ところで、この王に借金を帳消しにしてもらった家来は、一万タラントンという膨大な重荷を下ろされて、王様の宮殿を後にします。外に出てみると、今度は自分に借金をしている仲間に出会ったのです。借金の額は100デナリオンだったと言います。100デナリオンとは、一万タラントンの50分の1ほどの金額だと考えられています。仲間内で貸し借りした金額であった。ところが、今し方、自分の借金を帳消しにされたばかりのこの家来、仲間の借金を赦さず、捕まえて首を絞めて「借金を返せ」と言ったのです。仲間も先ほどの家来同様、ひれ伏してしきりに頼んだと言います。「どうか、待ってくれ。返すから。」
 けれども、家来は赦さず、この仲間を引っ張っていき、借金を返すまでと牢屋に閉じこめたと言うのです。
 私どもは、先に王様の話を聞かされておりますので、この家来がしたことを非常にひどいことのように感じます。しかし、王様の話を抜きにしてこの家来のしたことを見るならば、これはごく当たり前のことのようにも思えます。借金をした人がいて、借金を返せなかったので、返金できるまで牢屋で拘束されると言うことなのです。ごく、理にかなったことでしょう。むしろ、先の王様のしたことの方が異常なことなのであって、この家来のしていることの方が私どもには現実味のあることのようにも思えます。
 ですから、現実的なユダヤの教師がこの家来の話を聞くならば言うのでしょう。「いやこの家来は寛大さに欠ける、3度までは赦しなさい。」ペトロは、「いやもっと。7回まで」と言うのでしょう。ところが、主イエスのたとえは違うのです。私どもの赦しの感覚をはるかに越えた、飛躍的な赦しが家来の現実となっている。それは現実的な感覚とはほど遠いものなのです。
 そして、その赦しが家来のその後の生き方を判断する基準のようなものになっていくわけです。もし、家来の借金が帳消しにされていなければ、家来のしたことも合点がいったでしょう。けれども、このたとえ話では家来の借金が帳消しにされたのであります。そのことが大前提になっており、家来の愚かな姿を浮き彫りにしていくのです。
 家来は仲間を赦さなかった。この家来の様子を見て、仲間たちが心を痛め、王様の前に出てこの出来事をすべて話しました。そこで、王は言います。「不届きな家来だ。」 「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」 ここでの、憐れむという言葉は、27節の「はらわたの痛む」という言葉とは違います。しかし、やはり神の憐れみをあらわす言葉です。
 王は懇願する家来に心動かされ、はらわたの痛む思いで彼の借金を帳消しにしてやりました。この借金を帳消しにすると言うことは、どういうことなのでしょうか。もともと王の財産の一部を家来に貸していたわけで、一万タラントンという王の財産の一部を家来に貸していたと言うことになります。ある信頼のもとに、貸していたと言っても良いだろうと思います。ところが、この借金を家来が返せない。これを帳消しにするというわけです。つまり、王は自分の財産の内、一万タラントン分を家来に譲り渡してしまったと言うことになります。ですから、ここに王の側の犠牲が払われているわけです。借金を帳消しにすると言うことはつまり、自分に対する借金を自分自身で肩代わりしている。王の側で犠牲を負うことを覚悟して帳消しにしてやっているということを意味するのです。
 ところが、家来の方は違います。こちらは懇願する仲間を見て、はらわたが痛まない。痛まないどころか、はらわたが煮えくり返っている感じなのです。自分の財産を絶対に取り戻す、一文もまけてはやらない、という勢いです。
 この家来の姿は、借金を帳消しにしてもらった者として、ちょっとおかしい。何かがずれています。本当に今し方借金を赦されて出てきた人間のすることだろうか。この何かがずれている、的をはずしていることを、私どもは「罪」と言います。聖書で「罪」とは、的をはずすという意味の言葉です。本当ならこうなるはずなのに的をはずしてしまっている在り様を「罪」と呼ぶのです。そうしますと、この家来は、罪の姿をさらしているということになります。
 では、なぜこの家来はこの的のはずれたことになってしまったのでありましょうか。そこには、人間が赦された時になおかたくなになってしまうという問題があります。自分が今、赦された、膨大な借金を赦されたその時に、かたくなになるのです。この家来は1万タラントンの借金があったときには、まだこの王に対して憐れみを願う思いがあった。それは、謙虚な思いではなかったかも知れませんが、しかし少なくとも頭が上がらなかった。だから、ひれ伏したのでありました。ところが、自分にもはや借金がなくなったということになると、すぐさま、自分に固執していくかたくなさがわき上がってきたのであります。赦されたときに、更にかたくなになっていく私どもの問題がここで語られています。
 更に言うならば、この家来には、王に赦されたということがよく分かっていないという問題があります。王が自分の内に犠牲を払って家来を赦していると言うことを、受け止めていないという問題です。自分の負い目を本当には分かっていないのです。彼は、自分が妻や子供を売って借金を返さなければならないといわれたとき、必死になって懇願したのです。その時には、自分がどれほどの借金をしていたのか分かったはずであります。けれども、その借金を王様が肩代わりして、帳消しにしてくれるということが何を意味しているのか。それがよく、分かっていない。彼は自分の借金が帳消しになたという事実にしか目がいっていない。自分の負い目を感じていない。だから、王様に感謝することができていないのであります。
 私どもは、時に神の愛をさして「ありのままの私どもを受け入れて下さる」と言うことがあります。私どもを受け入れ、愛して下さる神がおられるというのです。それは、そうなのです。しかし、私どもは忘れてはなりません。「ありのままの私ども」を神は肯定されたわけではありませんでした。神は罪の人間を非常に問題にされたのであります。たとえ話の王が、厳格な王であるように、神は厳格な方であります。人間の罪をどうでもよいものとして水に流すなどと言うことは絶対になさいません。
 ところが、神もまた私どもの考えをはるかに越えて、一気に飛躍されるのです。私どもの罪をご自分で引き受けることにされたのです。王が、自分の借金を自分自身で肩代わりし、自分で帳消しにしてしまったように、神もご自分の御子キリストを肩代わりに十字架刑に処し、私どもの罪を帳消しにしてお終いになったというのであります。これは、文字通り「有り難い」話であります。こんなことがあるだろうか、いや「有り難い」話なのであります。
 私どもは、このことに鈍感であってはならないでありましょう。確かに、事柄は私どもの身を一切痛めることなく、進んでいます。私どもは自分自身で何を支払うこともなく、犠牲を払うこともなく、罪を赦されてしまった、といっても良いのであります。気付かぬ内に、願う前からと言ってもよいのであります。
 しかし、忘れてはなりません。私どもの罪を赦すために、神がご自分の身を割くようにして膨大なこの借財を肩代わりしていてくださるということをです。間違っても、神が「ありのままの私どもを何事もないかのように受け入れていて下さる」などと勘違いしてはならないでしょう。私どもは肝に命じるべきであります。私どもの罪を赦すために、大きな犠牲が払われたと言うことを真剣に考えるべきであります。そして、自分の命が神に受け入れられているということを、キリストにあって感謝するべきであります。
 勘違いをし、的をはずす私どもであります。まるで家来のように、膨大な借金を赦されていることを忘れ去ってしまう私どもなのです。王が勝手に借金を赦しただけだとでも言うのでしょうか。私どもは、神の御心を大事にしなければなりません。
 神は私どもが罪の償いを自分自身ですることができないと言うことを、知って下さいました。そして、はらわたの痛む思いで私どもをご覧になって下さったのであります。それで、私どもの大きな罪を全部ご自分で、引き受けることにお決めになったのです。それは、何でもないことではありません。あまりにも膨大な罪なので、身の引き裂かれるような仕方で引き受けて下さったのです。
そのことを主イエスは、このたとえ話で語って下さっているのであります。神が自分の身を引き裂くようにして、あなたの罪を引き受けられた。その引き裂かれた身とは、このたとえ話を語って下さる主イエスご自身であります。
 ペトロはどこまで兄弟を赦せばよいですか、と尋ねました。7回までですか、と。キリストは、7の70倍までも…とおっしゃいました。それは、私どもには現実離れした言葉にさえ感じられました。そのようなことは、無理であると思えました。しかし、それはキリストご自身が私どもに対して向けて下さる赦しであります。現実離れした仕方で、異常なまでの徹底した赦しが私どもに向けられているというのです。あなたの罪は、私どもの現実的感覚を越えた仕方で、赦されたのです。
 先に青年の修養会で、ある女性が大胆に話した話をしました。牢獄に捉えられた私どものために、勝手にと言ってよいほど一方的に身代わりになって下さった方がある。私どもが頼んだわけでもない。私どもは、自分で何とかしようと考えていた。けれども、一方的に罪を肩代わりして、私どもの知らない内に、わたしどもを釈放して下さった方がある。私どもは、この方によって、自由の身になったのであります。
 そのことを深く受け止めるとき、私どもは本当に軽やかなのです。もう、罪の縄目につながれてはいない。私どもは何の負い目もなく、軽やかに自由を生きて良いというのです。その喜びを生きて良いのであります。
 もはや、私どもに対する兄弟の小さな負い目をとがめる必要がどこにありましょう。私どもは莫大な罪を赦されて自由の身になったのです。あなたのために支払われた大きな犠牲を思うとき、あなたは何故に兄弟に怒り続けてよいでしょうか。確かに、兄弟にはあなたに負い目があるかも知れない。しかし、あなたの負い目を徹底的にお赦しになって下さったキリストを見上げるとき、あなたが責め続けるそのことは、的をはずしていないだろうか。もう、その手をゆるめても良いのではないかと主イエスは呼びかけていて下さるのであります。
 今朝、私どもは復活節の礼拝を守っております。主イエス・キリストが十字架にかかり、甦って下さったことを記念する礼拝であります。この出来事は、理解するのにあまりにも飛躍した神の出来事かもしれません。しかし、私どもは神の一方的な飛躍の出来事を、信じる教会であります。キリストが私どもを愛し、私どものために犠牲となることを惜しまれなかった。7の70倍の赦しを実現して下さった。甦りのキリストを見上げ、感謝し、隣の人と一緒に生きる喜びを今週もはじめて参りましょう。主の日に神の御前に立つことを許された喜びと感謝とを、会堂を一歩外に出ました時に忘れ去ることのありませんように。家来の愚かさが私どもを支配することなく、神の豊かさが平日の一日一日をご支配くださるように、祈ります。

 教会の頭なるイエス・キリストの父なる神、あなたは私どもをよくご存知であられます。私どもはあなたに誠実に、あなたのために生きたいと願います。あなたに喜ばれるものでありたいと願います。けれども、自分の思いとは別に、的をはずし、あなたの御前に愚かなまでの罪をさらすものであります。そのような私どもを、あなたは「はらわたの痛む」ような思いでご覧になり、一方的にその負い目を引き受けてくださったということを今朝、語り教えて下さいました。どうぞ、このあなたの事柄に私どもの目がくもることのありませんように。私どもがことさら、このあなたのなさることに澄んだ目を持つことができ、感謝にあふれていることができますようにお願いを致します。
 只今より、私どもはこの会堂から、それぞれの持ち場に遣わされて参ります。その時に、すぐさまあなたを忘れ去り、赦されたことを無いかのように生活することがありませんように。主の日の出来事が、平日の日々をも支配して下さるようにお願いいたします。 あなたが私どもを愛されたように、私どもも隣人を愛する者とならしめてください。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン
[2001年5月27日]

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