富山鹿島町教会

礼拝説教

「信仰があなたを救う」
イザヤ書 第40章27〜31節
マタイによる福音書 第9章18〜26節

 本日ご一緒に読みます聖書の箇所、マタイによる福音書第9章18節以下には、主イエスが、死んでしまったある指導者の娘を生き返らせたという奇跡と、その話にはさまれて、十二年間出血が止まらずに苦しんでいたある女性が癒された奇跡とがセットになって語られています。この話は、マルコによる福音書にも、ルカによる福音書にも共通して出てくるものでして、二つの奇跡がセットになり、二つ目の話が一つ目の話の間にはさみ込まれているという構造も共通しています。そして私たちはこの話を、マルコによる福音書が語る内容において記憶しているということが多いのです。何故なら、マルコの5章に語られている話の方が、マタイに比べてずっと詳しく、細部にわたる生き生きとした描写になっているからです。例えばここには「ある指導者」とだけ語られていますが、マルコを読むと、その人が会堂長でヤイロという名前だったことがわかります。また、十二年間出血が止まらない病気で苦しんでいた女性についても、マルコには、彼女が多くの医者にかかって苦しい思いをし、全財産を使い果たしてしまったけれども一向によくならなかった、ということが語られています。また、彼女が主イエスの服の房に後ろからそっと触れたのを主イエスが感じ取り、振り向いたところまでは一緒ですが、マルコには、その後主イエスが、「わたしの服に触れたのは誰か」と言って見回し、その人を捜し出そうとしたこと、それで彼女は震えながら進み出て一部始終を話したことが語られています。さらに、死んでしまった少女の手を取って主イエスが「タリタ、クム」と言われたこと、それは「少女よ、わたしはあなたに言う、起きなさい」という意味であること、またこの少女が十二歳であったことがマルコには語られていますが、マタイにはそれらのことは出てきません。このように、同じ話が語られているのですが、マタイにおいてはそれが著しく簡略化されており、ほとんど骨と皮だけになっている、と言うことができます。さらに、ただいろいろなことが省略されているだけではありません。重大な内容の変更もなされています。マルコとルカでは、会堂長ヤイロは、病気で死にそうになっている娘を癒して下さるように主イエスに願ったのです。主イエスはその願いを聞いて、その家へと向かわれました。その途中であの女性が主イエスの服の房に触れるという出来事が起ったのです。そうこうしているうちに、「お嬢さんはたった今亡くなりました」という知らせが来るのです。ところがマタイでは、指導者の娘は最初からもう死んでしまっています。指導者は、死んでしまった娘を生き返らせて下さい、と主イエスに願っているのです。マルコやルカのような語り方ですと、会堂長ヤイロの、一刻も早く、とあせる気持ちが伝わってきます。その家に急いで向かっている途中で、主イエスがその歩みを止め、自分に触れた女性を探し出そうと振り返られた、その時にもおそらく彼は、「こんな所で止まらないで、どうぞ先生、急いでください」と思っていたでしょう。そしてついに娘の訃報が届いた時、彼は「ああ、間に合わなかった」とがっくりし、絶望しただろうことがわかります。そういう緊迫感のある場面なのですが、マタイではそういうことが失われていて、ある意味では非常に平板な、抑揚のない話になっていると言わなければならないでしょう。それでは、マタイ福音書において、この話は、あまり大事にされていない、ということなのでしょうか。この福音書の著者は、この話をあまり重要だとは思わず、大幅に簡略化して、あらすじだけを述べるに止めたのでしょうか。この話を読む時には、マタイを離れて、マルコかルカの並行箇所を読んだ方がよいのでしょうか。そうではないのです。マタイ福音書はマタイ福音書なりに、この話を重要なものとして位置づけ、そこに独自のメッセージを込めて語っているのです。そのことをご一緒に読み取っていきたいと思います。

 マタイ福音書においてこの話が果している役割を考えていく時に、大事なヒントになるのは、この話が置かれている文脈です。マタイは、マルコやルカとは全く違った位置にこの話を置いているのです。マルコにおいてもルカにおいても、この話は、主イエスがガリラヤ湖を渡って対岸のゲラサ人の地に行き、そこで悪霊に取り付かれた人を癒された、その出来事に続いて記されています。そこからまた舟に乗って、根拠地としておられたカファルナウムに帰って来られた、そこに会堂長ヤイロがやって来たのです。マタイで言えば8章の終わりの話の後、9章の始めがその位置に当ります。しかしマタイはそこではなく、9章の18節以下にこの話を置いているのです。つまりこの話の前に、9章1〜17節を入れているのです。そして18節には「イエスがこのようなことを話しておられると」とあって、その直前に語られていることとこの話が密接に結びつけられています。その直前には何が語られていたか、それは先週の礼拝において読んだ、あの「新しい酒は新しい革袋に」という話です。その話はどういう文脈で出てきたのかというと、主イエスの弟子たちが断食をしていないのは何故か、ということからでした。主イエスは、「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか」とおっしゃいました。つまり、今弟子たちは、主イエスという花婿を迎えた婚礼の宴席にいるのだ、その喜びと祝いの中にいるのだ、ということです。だから断食という悲しみを表現する行為は相応しくないのです。そして、これも先週申しましたが、この断食についての問答が行われたのは、さらにその前の10節以下に語られている、主イエスが多くの徴税人や罪人たちと一緒に食事の席に着いておられた時のことなのです。主イエスという花婿を迎えた喜ばしい祝いの宴、そこに招かれているのは、罪人たちです。神様の救いになど価しないと考えられていた人々です。主イエスは「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われました。罪人たちが、喜びの宴へと招かれる、それが、主イエスのもたらした新しい酒だったのです。主イエスがそのようなことを話しておられたところに、ある指導者がやって来たのです。彼は何の指導者だったのか。マルコやルカが語るように、会堂長、つまりユダヤ人の会堂の宗教的指導者の一人だったと考えるのが自然かもしれません。とにかくその指導者が、主イエスのもとにひれ伏して、「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう」と言ったのです。

 このマタイの文脈から見えてくること、それは、この指導者の願い、あるいは彼の娘の死の現実が、主イエスが罪人たちを招いて開いておられる祝宴の、あの喜びと祝いに対立しているということです。主イエスのもとには、罪人への招きがあります。その喜びと祝いに生きる新しさがあります。しかし目を少しでも外に転じれば、そこには、死に支配された人間の現実があるのです。その下で嘆き苦しむ人々がいるのです。十二年間出血が止まらずに苦しんでいる女性の存在も、そういう人間の病の苦しみの現実を現していると言えるでしょう。主イエスがもたらした新しさ、罪人が招かれてあずかる喜びと祝いは、このような人間の苦しみ、嘆きの現実に取り囲まれているのです。これらの現実によって、主イエスのもたらした新しさ、喜びと祝いが、その真価を問われているのです。それが本当に人を新しくするものであり、喜びと祝いをもたらすものであるのか、その実力が問われているのです。マタイ福音書はそういう文脈の中にこの話を置いているのです。

 娘の死という深い嘆きの中からの、指導者の願いを聞いて、主イエスはどうなさったでしょうか。マタイはいろいろな部分を省略して話を簡略化していると申しましたが、ここには、他の福音書にない、マタイ独自の言葉があります。19節の「イエスは立ち上がり、彼について行かれた」という言葉です。主イエスは立ち上がったのです。どこからか。それは、あの徴税人や罪人たちと着いておられた宴会の席からです。喜びと祝いの宴からです。そこから立ち上がり、彼について行かれた。「ついて行く」というのは、「従う」という言葉です。9節で、徴税人マタイが、主イエスの「わたしに従いなさい」という招きを受けて、立ち上がってイエスに従った、その「従った」と同じ言葉です。弟子が主イエスに従っていくように、主イエスは彼の後に従って行かれたのです。それは勿論主イエスが彼の弟子になったということではありません。罪人を招く喜びの宴席から立ち上がった主イエスは、死の支配の下に嘆き悲しんでいる彼についてきて下さるのです。弟子が師に密着するように、ぴったりと寄り添って共に歩んで下さるのです。そして、「少女は死んだのではない。眠っているのだ」と言って、彼女を生き返らせて下さるのです。人間の力ではどうしようもない死の力、その支配を打ち破って下さるのです。それは、あの罪人たちを招いての喜びと祝いの宴を、死の力に捕えられ、悲しみと嘆きに満ちているこの家にもたらして下さるということです。主イエスによってもたらされた新しさである喜びを、この家にも持ち込み、悲しみと嘆きを追い出して下さるということです。主イエスが指導者の家に着いて、「笛を吹く者たちや騒いでいる群衆」を見て、「あちらへ行きなさい」と彼らを追い出したことにはそういう意味があります。死の悲しみと嘆きを追い出し、喜びと祝いをもたらして下さる、そういう救いのみ業を主イエスは行って下さったのです。

 その悲しみの家に至る途上に、十二年間出血の続く病気で苦しんでいる女性との出会いがありました。彼女の苦しみは単に肉体の病の苦しみだけではありません。出血が止まらないというのは、その女性が宗教的にいつも汚れた状態にある、ということを意味していました。そのために彼女は人々と共に祭りを祝うことができなかったのです。晴れの場所に出ることができず、日陰者として生きてこなければならなかったのです。社会における彼女の位置は、徴税人や罪人たちとある意味で似たようなものでした。神様の祝福から遠く、神様のもとでの祝いや喜びとは無縁な者とされてきたのです。そういう苦しみの中に十二年間生きてきた彼女が、後ろからそっと、主イエスの服の房に触れました。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったと書かれています。そういう彼女の思いは、迷信的なことです。服に触れるだけで病気が癒されるなんて、そんなものではありません。それは科学的にあり得ないと言うよりも、主イエスのお与えになる救いとはそういうものではないのです。マタイはここで注意深い書き方をしています。マルコとルカでは、彼女が主イエスの服の房に触れたとたんにその病気が癒されたとなっているのです。しかしマタイはそうではなく、主イエスが振り向いて彼女に「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われた、そのときに彼女は癒されたのだと語っています。彼女が癒されたのは主イエスの服の房に触れたことによってではなく、み言葉によってだったのだということをマタイは強調しているのです。そしてその主イエスのお言葉において、マタイは、これまたマルコとルカにはない一言をつけ加えています。「元気になりなさい」という言葉です。何気ない言葉ですけれども、ここに、マタイがこの話を語るに際しての深い思いが込められているのです。この言葉は、9章2節にも語られていたものです。中風で寝たきりの人が、友人たちによって床に寝かされたまま連れて来られたのです。それを見て主イエスは、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われたのです。その「元気を出しなさい」と本日の箇所の「元気になりなさい」は全く同じ言葉なのです。それは、病気で苦しんでいる人を癒してあげる時の決まり文句なのでしょうか。いや、そうではありません。2節で主イエスは、「元気を出しなさい」と言って彼を癒されたのではありませんでした。「元気を出しなさい」に続く言葉は「あなたの罪は赦される」だったのです。「罪が赦される」、その恵みを主イエスは彼にお与えになりました。「元気を出しなさい」は「罪が赦される」という恵みへの導入の言葉だったのです。彼の病の癒しは、その後、主イエスが罪を赦す権威を持っていることを示すためになされました。主イエスが与える恵み、救いの中心は、この「罪の赦し」です。それと「元気を出しなさい」が結びついているのです。その言葉が、この女性に対しても語られている。それは主イエスがここで、ただ彼女の病気を癒し、苦しみを取り除いてあげる、ということだけを考えておられるのではないこと示しています。主イエスは彼女にも、「あなたの罪は赦される」という恵みを、救いを与えておられるのです。つまり彼女をも、罪人たちを招く主イエスの喜びと祝いの食卓に招いておられるのです。徴税人や罪人たちと同じように、神様のもとでの喜びや祝いとは無縁な者とされてきた彼女を、主イエスによってもたらされた喜びと祝いにあずからせようとしておられるのです。あの喜びの宴の席から立ち上がった主イエスは、このように、死の支配の下に悲しみ嘆く人と共に行き、病によって喜びや祝いから遠ざけられ、日陰者として歩むことを余儀なくされていた人と出会い、彼らを、ご自分のもとでの喜びと祝いに、その新しさにあずからせて下さるのです。その喜びとは、新しさとは、「あなたの罪は赦される」という喜びであり、新しさです。あの中風で寝たきりだった人が、「あなたの罪は赦される」と宣言して下さる主イエスの力によって立ち上がったように、収税所に座っていた徴税人マタイが、主イエスの招きによって、その罪の中から立ち上がって弟子になったように、罪人である私たちが、赦されて、神様の祝福の内に新しく生きる者となるのです。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われた主イエスが、その罪人たちを招いて下さる祝宴の喜びを、私たちの悲しみ苦しみ嘆きの現実の中にもたらし、私たちをその喜びと祝いに巻き込み、悲しみや嘆きや苦しみを追いやって、新しい喜びを与えて下さる、マタイ福音書はそういう出来事としてこの話を語っているのです。

 そうであるならば、「あなたの信仰があなたを救った」というみ言葉は何を語っているのでしょうか。ここで言う「信仰」とは何でしょうか。指導者は、主イエスが手を置いてくだされば、死んだ娘は生き返るでしょうと言っています。彼は主イエスには死者を復活させる力があると信じている、それが彼の信仰なのでしょうか。あの女性は、主イエスの服の房に触れさえすれば治してもらえると思った、主イエスに対するそのような素朴な信頼が信仰なのでしょうか。彼らはそのように主イエスの力を疑わずに信じた。その信仰が彼らを救った。だからあなたがたもそのような純粋な信仰を持てと言われているのでしょうか。しかし、この指導者にしてもあの女性にしても、果してそのような確固たる信仰を持って主イエスのもとに来たのでしょうか。主イエスが手を置けば死んだ娘が生き返る、それは彼の信仰と言うよりも、悲しみ、絶望の中での切なる願いなのではないでしょうか。彼女が主イエスの服の房に触れたのも、そうすれば病気が治ると確信していたというよりも、正に溺れる者が藁をもつかむ思いで、主イエスの癒しを願った、ということなのではないでしょうか。彼らはいずれも、確固たる信仰を持った模範的な信仰者などではないのです。むしろ彼らは、この世の様々な苦しみ悲しみ嘆きに翻弄され、その中でずたずたになっているのです。彼らはその中から、主イエスに「助けてください」と必死の思いで願ったのことです。そのような彼らの切なる願いを、主イエスが受け止めて下さったのです。そしてそれを「あなたの信仰」と呼んで下さったのです。「あなたの信仰があなたを救った」、それは、この人たちが立派な信仰を持っていたから、その信仰の力で救いを得ることができた、ということではありません。そもそも、私たちの信仰が私たちを救うのではありません。私たちを救うことができるのは、私たちの信仰ではなく、主イエスの恵みです。主イエスが私たちを、罪人を招く喜びと祝いの宴へと招いて下さり、それにあずからせて下さる、その恵みによって私たちは救われるのです。その救いにあずかるために、私たちの信仰が何らかの力を持ち、役割を果たすことはないのです。私たちにできることは、この主イエスに救いを求めて叫び願うことだけです。この二人の人がしたのもそういうことでした。その彼らの思いを、主イエスが受け止めて下さり、彼らと共に歩んで下さり、あるいは振り向いて出会って下さり、彼らの思いを「信仰」と呼んで下さったのです。そして本当はご自身の恵みによって与えて下さる救いを、「あなたの信仰があなたを救った、あなたは私を信じる信仰者なのだ、その信仰によってあなたは救いにあずかっているのだ」と言い表して下さったのです。つまり、「あなたの信仰があなたを救った」という言葉は、私たちの信仰の力を語っているのではなくて、私たちを信仰者と呼んで下さる主イエスの恵みの大きさを語っているのです。

 この女性は十二年間苦しんできた病気を癒されました。指導者の娘は死から生き返らせていただきました。それは彼らが自分の信仰によって得た救いではなくて、罪人たちを招いて祝宴にあずからせて下さる主イエスの恵みによることでした。主イエスはその恵みを与えるために、祝宴の席から立ち上がり、悲しみ苦しみ嘆きの中にいる人々のもとに来て下さったのです。神様の独り子であられる主イエスが、人間となってこの世に生まれて下さったことにはそういう意味があります。そしてそのような主イエスの歩みの行き着く先は、十字架の死だったのです。罪人を招く主イエスの招きは、その罪人の罪を背負って十字架にかかって死んで下さることにまで及んでいるのです。またそうでなければ、本当に罪人を招いているとは言えないでしょう。主イエスのこの癒しのみ業、また死者を生き返らせるみ業は、ご自身が十字架の死への道を歩んでおられることと無関係ではありません。むしろそのような道を歩んでおられる主イエスだからこそ、これらのみ業を行うことができたのです。死んでしまった少女について、主イエスは、「少女は死んだのではない。眠っているのだ」と言われました。これも、主イエスご自身の十字架と復活抜きには考えられないことです。主イエスが、十字架にかかって死んで下さり、三日目に復活された、そのことによって、主イエスを信じ、従っていく信仰者たちに、死は終りではなく、目覚める時を待つ眠りであるという希望が与えられたのです。この少女の復活は、信仰者に与えられているその希望の先取りであると言うことができます。その希望を切り拓いて下さったのが、主イエス・キリストの復活なのです。「少女は死んだのではない。眠っているのだ」という言葉は、それゆえに、信仰者たちにとって、自らの肉体の死を希望をもって見つめる信仰を言い表す言葉となっていきました。死は眠りであって、必ずそこから目覚める時が来るのです。主イエスはご自分の復活を通して私たちにその希望を与え、神様の恵みが死の力に打ち勝って私たちに新しい命を与えることを教えて下さっています。罪人を招いて祝宴にあずからせて下さる主イエスの恵みは、肉体の死をも越えるこの希望を私たちに与えて下さるのです。来月、信仰懇談会が計画されています。主題は「教会の葬儀U」です。2月に、教会修養会としておこなったものの続きです。どうも、「お葬式」について扱うと、皆さんの出席率がいいようです。しかし私たちがそのように自らの葬儀について、死について、避けずに見つめ、語り合うことができるのは、死は滅びではなく、眠りであり、そこから目覚める時が来るという約束を与えられているからです。主イエスが罪人である私たちを招いて着かせて下さる祝宴の喜び、祝いは、肉体の死によっても失われてしまわないものなのです。

 私たちはこの喜びと祝いに招いて下さっている主イエスの恵みを求めて主のもとに集い、礼拝をしつつ生きていきます。その私たちの信仰は決して確固たるものではないし、主イエスへの信頼も、この世の様々な苦しみや悲しみ、また私たちの罪の現実によってすぐに揺らいでしまうのです。しかし主イエスは、そのような弱い信仰の私たちを受け止め、「あなたの信仰があなたを救った」と語りかけて下さるのです。あなたは私を信じる信仰者だ、信仰による救いを得ている者だ、と宣言して下さるのです。この主の宣言によって私たちは、主に望みを置いて生きる者であることができる。イザヤ書40章31節に、「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」とあります。「あなたの信仰があなたを救った」というみ言葉は、私たちを、自分の信仰にではなく、主に望みを置く者とすることによって、力強く生かすのです。

牧師 藤 掛 順 一

[2001年5月20日]

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