富山鹿島町教会

礼拝説教

「あなたの罪は赦される」
詩編 第103編1〜22節
マタイによる福音書 第9章1〜8節

 私たちは今、礼拝において、マタイによる福音書を読み進めています。本日からその第9章に入るわけですが、8章と9章には、主イエスがなさったいろいろな奇跡、力あるみ業が語られています。これまでの8章に、らい病を患っている人の癒しを皮切りに、中風で苦しんでいる百人隊長の僕の癒し、熱を出して寝込んでいたペトロのしゅうとめの癒し、そして多くの病人や悪霊に取りつかれた人の癒しが語られてきました。病の癒しだけでなく、ガリラヤ湖の嵐を叱って鎮められたという奇跡もありました。先週のイースターには、悪霊につかれて墓場に住み、凶暴で誰も近づけなかった二人の人を癒し、悪霊を滅ぼされたというみ業を読みました。このように様々な恵みのみ業を主イエスがしてこられたことが8,9章にまとめて語られています。本日の箇所にも、そのような癒しの業、中風で寝たきりの人が起き上がり歩けるようになったという奇跡が語られているのです。しかし本日の箇所の癒しの奇跡は、これまでに読んできたところの癒しとはいささか違っています。どこが違うかというと、主イエスはこの病気の人を見て、ただちにその病気を癒されたのではなかったという点です。主イエスがこの人に対して先ず語られたこと、それは2節の「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」ということだったのです。

 「元気を出しなさい」という言葉は、前の口語訳聖書では「しっかりしなさい」となっていました。この言葉は、同じ9章の22節にも出てきます。十二年間出血の止まらない病気で苦しんでいた女性が、主イエスの衣の房に、後ろからそっと触れた、主イエスは振り向いて彼女に「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われたのです。その「元気になりなさい」が、本日の箇所の「元気を出しなさい」と同じです。また、14章27節にもこの言葉が出てきます。逆風に漕ぎ悩んでいた弟子たちの船に向かって、主イエスが湖の上を歩いて来られたのです。弟子たちは幽霊だと思っておびえました。その弟子たちに主イエスは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語りかけられたのです。その「安心しなさい」がやはり「元気を出しなさい」と同じ言葉なのです。この二つの箇所を読み合わせることによってわかるのは、この「元気を出しなさい」という言葉は、「大丈夫だ、安心せよ」というような意味だということです。「元気を出しなさい」とか「しっかりしなさい」と言うと、「もっと元気を出して頑張れ」というような激励の言葉のように思えてしまいますけれども、主イエスがここで語っておられるのは、激励や励ましの言葉ではなくて、「あなたは大丈夫なのだ、安心してよいのだ」ということなのです。ちなみに文語訳聖書では、この三箇所を全て「心安かれ」と訳していました。主イエスはそのように、「大丈夫だよ、安心しなさい」とこの人に語られたのです。

 この人はどのような人だったのでしょうか。彼は中風だったとあります。その言葉は、「麻痺」という意味です。体が麻痺して動かない病気だったのです。それもいろいろと程度があるでしょうか、この人は寝たきりで、自分で歩くことは勿論、起き上がることもできなかったのです。だから友人たちが彼を床に寝かせたまま主イエスのところに連れて来たとあります。体が麻痺して動かず、寝たきりで、起き上がることもできない、そういう状態に彼はいるのです。その人に対して主イエスは、「大丈夫だよ、安心しなさい」と語りかけられたのです。何が大丈夫なのでしょうか。どこに安心があるのでしょうか。私たちはこの主イエスのお言葉を、続いて起った癒しのみ業と結びつけて読んでしまいがちです。つまり、「私があなたの病気を癒し、歩けるようにしてあげる、だから大丈夫だよ、安心しなさい」と読んでしまうのです。しかし主イエスはここでそんなことは言っておられません。あなたの病気は治るとか、私が癒してあげるなどということは一言も語られていないのです。ただ、「大丈夫だ、安心しなさい」と言っておられるのです。主イエスがそう言われたことによって、現実は何も変わっていません。彼の体は依然として麻痺したままであり、寝たきりの現実は続いているのです。それでは、主イエスのこのお言葉は何の意味もない気休めにしか過ぎないのでしょうか。あるいは、この後行われる癒しへの導入の枕言葉のようなものに過ぎないのでしょうか。そうではありません。本日の箇所の中心は、この「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」というお言葉です。その後行われた癒しの奇跡は、このお言葉が真実なものであることを示すために、言わばつけ加えられているのです。つまりこの箇所の中心は癒しの奇跡ではなく、主イエスのこのお言葉なのです。

 主イエスは「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われました。「あなたの罪は赦される」、それが「元気を出しなさい、大丈夫だから、安心しなさい」というみ言葉の根拠であり、土台です。罪が赦されることこそ、主イエスがここでこの人に与えられた恵み、救いの根本なのです。しかしいったいこの人はどんな罪を犯したのでしょうか。当時のユダヤの社会にもあったし、今日の私たちの間にもあることですが、このような病気や障害は、何かの罪の結果だという考え方があります。本人が、あるいは先祖が、何かの罪を犯したので、その罰が当っているのだ、という感覚です。主イエスはそういう意味で、この人には特別な罪がある、赦されなければならない問題があると思われたのでしょうか。そうではありません。主イエスは、この人が特別に罪深い人だからこのように言われたのではないのです。この人は、病気であり、そのための障害を負っていましたけれども、その苦しみに負けて、心がひねくれてしまっていたわけではありません。そのことは、彼を床に寝かせたまま主イエスのもとに連れて来てくれた友人たちの存在が物語っています。床に寝かせたまま連れて来るというのはなかなか大変なことです。何人かの人々が協力しなければできません。彼のために、そのようにしようとする人々がいたのです。彼はそういう真実の友人を得ていた。それは彼が愛されていたということです。決して、ひねくれたいやな奴ではなかったのです。しかし主イエスはそのように人々に愛されているこの人に向かって、「あなたの罪は赦される」と言われました。そして、「だから、大丈夫だ、安心しなさい」と言われたのです。それは、罪が赦されるということこそが、この人が本当に大丈夫になり、安心して、平安に生きるためにどうしても必要な、なくてはならないことなのだ、ということです。そしてそれは、この人一人のことではなくて、全ての人、私たち一人一人にも言えることなのです。

 神様に罪を赦していただくこと、それこそが、私たちが本当に大丈夫になり、安心して、元気を出して生きていくために必要なことです。いったい自分がどんな罪を犯したというのか、と思う人もいるかもしれません。罪を、あれやこれやの悪いこと、悪い行い、と考えていれば、そういう思いにもなるでしょう。しかし罪というのは、関係におけることです。人と人との関係の中で私たちは罪を犯します。してはならないことをして相手を傷つけたり、なすべきことをせずに傷つけたりするのです。そのことが、神様と私たちの間においても起っています。神様に対して私たちは、してはならないことを沢山しているし、なすべきことを怠っているのです。そういうことによって人との関係が破れてしまうように、私たちの罪によって神様との関係、交わりが破れ、通じなくなっているのです。そのことは、人との間にどんなに良い交わり、友情を持つことができている人にも起っていることです。私たちは皆、そういう意味で、神様に赦していただかなければならない罪を負っているのです。その罪によって何が生じてくるのでしょうか。私たちの命は、この人生は、神様から与えられ、導かれているものです。自分で決意して生まれてきた者はいないし、自分で選び取ってこの人生を歩んでいる者もいないのです。勿論私たちは人生の歩みにおいて、自分でいろいろ決断し、道を選び取ることができます。そういう自由な決断が私たちには許されていますが、しかし大きく見れば、そういう私たちの決断、選択も、与えられた環境や能力の枠の中でのことです。自分の意志によってどうにもならない基本的な条件の下に、私たちの人生は置かれているのです。その条件を与えておられるのは神様です。つまりわかりやすく言えば、自分が今この時代に、この場所で、男としてあるいは女として、このような能力や資質を持った者として生きている、それは私たちが自分で決めることではなくて、神様から与えられていることなのです。その神様との関係が破れてしまい、交わりがなくなってしまうなら、人生は私たちにとって得体の知れない謎になります。あるいは単なる偶然の産物になります。偶然の産物は、あってもなくてもよいのです。そこには何の意味もないのです。私たちの人生の終わりである死も、たまたま生まれたものがたまたま死ぬというだけの話になるのです。だから死ぬことは何も恐ろしいことではない、というのも一つの論理的帰結ではあります。しかし私たちは、そこにぽっかりと口をあけている底なしの虚無に耐えることはできないのではないでしょうか。私たちに命を与え、この人生を与えている何かが、得体の知れない存在であるなら、生きることも謎であり、死ぬことは、その得体の知れない力に飲み込まれてしまうという恐ろしいことです。しかし私たちがその方とよい交わりを持っているなら、その方が私たちを愛しておられ、その愛によって私たちに命を与え、このような者として生かしていて下さることを知ることができるなら、私たちの人生は本当に大丈夫なものになるのです。安心して生きることができるものになるのです。そして死においても、自分を愛していて下さる方に身を委ねる平安の内にあることができるのです。「罪が赦される」というのはそういうことです。私たちの罪によって交わりが破れ、得体の知れない存在になってしまっていた神様が、私たちを愛していて下さる方としてご自身を示して下さるのです。そのことによってこそ、私たちの人生は本当に大丈夫になる、安心して、元気に生きることができるものとなるのです。

 主イエスは「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われました。「子よ」という呼びかけがとても大事です。神様が私たちを、「子よ」と呼んで下さったのです。罪によって、神様との交わりが破れてしまっている間は、私たちは神様を父として意識することはできません。自分たちを支配しており、時として厳しく罰を与えるような恐ろしい存在としては意識することがあるかもしれませんが、本当に私たちを愛していて下さり、「子よ」と呼んで下さる父として知ることはできないのです。私たちが神様を「父」と呼ぶことができるのは、罪が赦されることによってです。罪が赦されるとは、神様が私たちに「あなたは私の愛する子だ」と語りかけて下さることなのです。それゆえに、「子よ」という語りかけと、「あなたの罪は赦される」という宣言とは、分かち難く結びついているのです。そしてそこにこそ、「あなたは大丈夫だ、安心しなさい」という平安があるのです。

 主イエス・キリストが私たちに与えて下さる救いの恵みは、この「あなたの罪は赦される」という宣言です。神様の独り子であられる主イエスが、人間となってこの世に来て下さり、私たちの罪を全てご自身に引き受けて十字架にかかって死んで下さった、この主イエスの身代わりの死によって、神様は私たちの罪を赦して下さるのです。そして私たちをも「子」と呼んで下さるのです。独り子主イエスの命をも与えて、私たちの罪を赦して下さったということは、神様が私たちをもご自分の子として愛していて下さるということです。神様のこの愛を受け、「子よ」と呼ばれて生きるところにこそ、本当の平安、安心、大丈夫な人生があるのです。主イエスはこの救いの恵みを人々に、私たちに与えるためにこの世に来られました。そしてこの恵みの徴として、数々の癒しのみ業をなされたのです。本日の箇所においても、この中風の人が、主イエスの「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」というお言葉によって癒され、その通りに起き上がり、床を担いで帰って行ったのです。私たちはこの癒しのみ業に目を奪われ、そこに主イエスの救いがあるように思ってしまいがちです。しかしここにはっきり言われていることは、この癒しは、6節にあるように、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」ということのためになされたということです。つまり癒しは主ではなくて従なのです。言ってみれば付け足しなのです。主イエスが与えておられる救いの中心はあくまでも、「罪の赦し」にあるのです。

 それではこの救いの中心である罪の赦しに、癒しの業がつけ加えられていったのは何故か。それが3〜5節に語られていることです。「あなたの罪は赦される」という主イエスのお言葉に対して、ある律法学者が「この男は神を冒涜している」と思ったのです。どういう意味で冒涜なのか、マタイはそれを詳しく語っていませんが、マルコによる福音書の並行箇所を見ると、彼は「神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」と思ったとあります。つまり、「あなたの罪は赦される」という主イエスのお言葉は、神様お一人しか出来ないはずの罪を赦しを自分が与えている、そういう意味で神への冒涜だと彼は思ったのです。主イエスを私たちと同じただの一人の人間と理解するならば、この批判はその通りだということになるでしょう。しかし主イエスは神様の独り子であられ、人間であられると同時にまことの神であられたのです。その主イエスの、まことの神としての罪を赦す権威と力を証しするために、この癒しの業は行われたのです。  しかしそこにはもう一つの理由があります。5節で主イエスは「『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか」と逆に問いかけられました。律法学者は、「あなたの罪は赦される」と言うのは簡単だ、何故なら、罪が赦されたかどうかは誰にも確かめることはできないから。しかし「起きて歩け」と言うことは、目に見える形で起ることだから、すぐにそれが本当か嘘か明らかになる、だからこちらの方が難しい。イエスは、誰にも確かめられないのをいいことに、「あなたの罪は赦された」というハッタリで人を惑わしている、と思ったのでしょう。これは、私たちが抱く思いでもあります。十字架と復活による罪の赦し、それが主イエスによる救いだ、と聞かされる時、そんなことは言葉だけの、何の実体も伴わない、虚しいことではないか、救いというのはもっと実質的な、例えば病気が治るとか、体の障害が取り除かれるとか、あるいは生活が豊かになるとか、そういうことでなければ本物ではないのではないか、「あなたの罪は赦される」などということは何の力にもならない、腹の足しにならない、そのように思うことが私たちにはあるのです。それはこの律法学者の思いと同じであると言わなければならないでしょう。主イエスの問いかけは、そのような私たちに対する問いでもあるのです。

 本当のところはどうなのでしょうか。「あなたの罪は赦される」と言うのと、「起きて歩け」と言うのと、どちらが易しいのでしょうか。私たちにとってどちらが易しいかということは問題になりません。私たちは、人の罪を本当に赦すことも、寝たきりの人を癒して起き上がらせることも、どちらも出来ないのです。「あなたの罪は赦される」と言うだけなら、誰にでもできる、などと思ったら大きな間違いです。私たちが「あなたの罪は赦される」と言ってみたところで、それが何の力も持たないことは明らかです。それは私たちが、寝たきりの人に「起きて歩け」と言っても何も起らないのと大して変わりはありません。問題は、主イエスにとって、神様にとってどうかということです。主イエスは、これまでにも、またこの後にも、数々の癒しのみ業をなさっています。悪霊を追い出してもおられます。神の独り子としての権威をもって命じれば、悪霊も退散するのです。癒しのみ業はそのような主イエスの権威、力によって、ある意味ではいとも簡単になされるのです。それでは、罪の赦しも、それと同じように簡単になされるのでしょうか。悪霊に「出ていけ」と命じると出て行くように、罪の赦しも行われるのでしょうか。そうではありませんでした。罪の赦しは、つまり神様と私たちの交わりの回復は、主イエスが、私たちの罪を背負って苦しみを受け、十字架にかかって死んで下さることを通して実現したのです。主イエスにとってそれは、神の子としての栄光を捨て、人となって苦しみを受け、命を投げ出すことでした。父なる神様にとってそれは、愛する独り子の命を犠牲にすることでした。神様が、その独り子主イエスが、そのような犠牲を払って下さったことによって、私たちの罪の赦しは実現したのです。「あなたの罪は赦される」という宣言は、主イエスが、私たちのために十字架の苦しみと死を引き受けるという覚悟をもって語って下さっていることです。主イエスにとっては、そのことよりも、「起きて歩け」と言って病気を癒すことの方がずっと易しいことなのです。

 主イエスの癒しの奇跡は、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせる」ためになされていることです。その権威は、主イエスが私たちのために命を捨て、十字架の苦しみと死を引き受けて下さるところに与えられています。その罪の赦しの恵みの徴として、癒しがなされているのです。それはこの癒しだけではありません。主イエスのなさった奇跡は全て、同じ目的でなされているのです。つまり本日の箇所は、様々な癒しの奇跡を通して主イエスが人々に、私たちに本当に与えようとしておられる恵みは何かを示している、言い換えれば癒しのみ業の本当の意味と目的を教えているのです。

 私たちは主イエスの十字架と復活によって、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」という宣言を与えられています。主イエスによって罪を赦していただき、神様の子とされて、主イエスと共に神様を父と呼び、よい交わりに生きる恵みを与えられています。その恵みにあずかって生きるのが、教会であり、信仰者なのです。しかしそれだけではありません。私たちには、さらに大きな恵みが与えられているのです。本日の最後の8節にこうあります。「群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した」。人々は恐ろしくなったのです。ただ癒しの奇跡を見ただけなら、驚くことはあっても、このように恐れることはなかったでしょう。彼らが恐れたのは、神様が人間にこのような権威を委ねられたのを見たからです。「このような権威」とは、罪を赦す権威です。「あなたの罪は赦される」と宣言することができる権威です。「だからあなたはもう大丈夫だ、安心しなさい」と言うことができる権威です。それが人間にゆだねられた。その人間とは誰でしょうか。それは勿論主イエスのことだ、と私たちは思います。しかし、ここの原文にはわざわざ「人間に」という言葉が使われており、しかもこの言葉は複数の形なのです。ですから正確に訳せば、「人々にこれほどの権威をゆだねられた」となります。それはもう主イエスお一人のことを言っているのではありません。マタイはここで、主イエスを信じ、従っている私たち信仰者、教会のことを考えているのです。教会は、私たちは、「あなたの罪は赦される」と宣言する権威を、神様からゆだねられているのです。考えてみれば私たち自身、教会を通して、その礼拝において、「あなたの罪は赦される。だからあなたはもう大丈夫だ、安心してよいのだ」という宣言を受けました。そしてその宣言を受け入れ、信じて洗礼を受け、その群れに加えられたのです。今度はその私たちが、世の人々に、「あなたの罪は赦される。だから大丈夫だ、安心してよいのだ」と宣言していくのです。教会の使命はそのことに尽きるのです。本日午後、教会総会が行われます。昨年度一年間の教会の歩みを振り返り、新年度の計画を立てます。そこにおいて私たちが全てのことの土台としなければならないのは、私たちは主イエスから、「あなたの罪は赦される」と宣言する権威をゆだねられている、ということです。このご委託に応える歩みができたかを振り返らなければならないし、このご委託に応えていくための体制を整えなければならないのです。私たち自身は、まことに力弱く、罪と汚れに満ちた者です。私たちの力で、「あなたの罪は赦される」などと言える者ではないし、人の病を癒すことのできる者でもありません。しかし私たちが、この礼拝において、主イエスの「あなたの罪は赦される」という宣言を常に新たに受け、神様の父としての愛の中で、神様とのよい交わりに生きていくならば、その私たちによって、「あなたの罪は赦される」という主イエスの宣言が、さらに多くの人々へと伝えられ、告げ広められていくのです。本日の箇所においても、友人たちが、病気の人を床に寝かせたまま主イエスのもとに連れて来ました。主イエスはその友人たちの信仰を見て、病気の人に、「あなたの罪は赦される」と宣言して下さったのです。私たちも、この友人たちと同じ働きをすることができるのです。この礼拝における毎週の説教は、一人の兄弟の奉仕によって、明日の月曜か火曜の内に、教会のインターネットホームページに載ります。そして火曜日には、私たちの教会の仲間の一人で、半身の麻痺と戦っておられる兄弟が、自宅でそれをプリントアウトして読んでおられるのです。説教を読んでも、それで麻痺が癒されるわけではありません。体の障害の現実は依然として続いていく。しかしそこには、「あなたの罪は赦される。あなたは私の愛する子だ。だからあなたは大丈夫なのだ。安心せよ。元気を出せ」という神様のみ声が響いていくのです。

牧師 藤 掛 順 一

[2001年4月22日]

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