富山鹿島町教会

礼拝説教

「人生の土台」
詩編 第62編1〜13節
マタイによる福音書 第7章24〜29節

 マタイによる福音書5章から7章にかけての、「山上の説教」を礼拝において読み進めてまいりまして、本日がいよいよその最後となりました。振り返って見ますと、この山上の説教を読み始めたのは、昨年の2月20日です。つまり丁度一年かけて山上の説教からみ言葉に聞いてきたわけです。2000年度の教会の歩みは、ほとんどこのことに費やされたと言ってもよいのです。

 山上の説教はどのような言葉によってしめくくられているのでしょうか。主イエスはここで、一つの喩えをもって語っておられます。家とその土台という喩えです。この喩えは私たちにも身近でわかりやすいものだと思います。家を建てる時には、その土台をしっかり据えることが大事です。外に現れている部分がどんなに立派でも、土台がしっかりしていなければ、その家は地震などの災害にあった時にひとたまりもなく壊れてしまいます。目に見えない、土台の部分をどれだけしっかりとしたものとすることができるかが、その家の本当の価値を決めると言えるのです。ここでは、岩の上に家を建てた賢い人と、砂の上に家を建てた愚かな人とが対比されています。岩と砂は、しっかりとした土台ともろい土台ということを表わしているわけですが、そこから読み取れるもう一つのことは、岩の上に家を建てるよりも砂の上に立てる方がずっと楽だろうということです。岩は、平らにするのも、杭を打つのも大変です。砂ならばそれは簡単です。ですからこれは、土台を何にするか、というだけではなくて、家を建てるのに、苦労して、時間をかけてするか、それとも安易な、楽な道を選ぶか、ということでもあると言えるでしょう。しっかりとした土台の上に家を建てるには、それなりの苦労と時間がかかるのです。簡単に、安易に建てようとすると、脆い土台の上に建てることになるのです。そのようにして建てられた家は、見かけがどんなに立派でも、いわゆる砂上の楼閣に過ぎないのです。

 家を建てるというのは勿論喩えであって、そこで見つめられているのは、私たちの人生、生き方です。自分の人生をどのように築いていくか、その基盤をどこに置くか、ということが問われているのです。人生を、しっかりとした岩の上に築いていく者は賢い者です。「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった」。人生の雨風、様々な苦しみが襲ってきても、土台がしっかりしていれば倒されてしまうことはないのです。しかし砂の上に、脆い土台の上に人生を築いていると、何もない時はいいかもしれないが、一旦雨風が起ってくると、それに耐えることができずに倒れてしまうのです。そうならないためには、私たちは自分の人生を、しっかりとした岩の上に築いていかなければなりません。それは簡単な、楽なことではありません。苦労があるし、時間もかかる、根気がいるのです。しかしそれを避けていたら、よい人生を築くことはできないのです。

 と、ここまでのことは、この喩えを読む時に私たちの誰もが理解することができることです。しかし問題は、それではその人生の土台となるべき岩とは何であるか、そしてその岩の上に自分の人生を築くとはどういうことか、です。私たちはそこにおいて自分なりにいろいろなことを考えます。そしてこれこそが人生を支える土台となる、と思うものを追い求めています。一流大学を出て、一流企業に勤めることがそれだ、と思っている人もいます。しかしこのごろではそういうのはあまりはやらなくなっていて、自分の好きなこと、やりたいことをすることこそ人生を本当に充実させる土台だ、という考え方も広がっています。いずれにしても、私たちはそれぞれ、様々なものを自分の人生の土台として生きていこうとしているのです。そういう私たちに対して、主イエスはここで、どのような岩、どのような土台を示そうとしておられるのでしょうか。

 「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」と主イエスは言われました。その逆に「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」と言われました。「わたしのこれらの言葉を聞いて行う」ことこそ、あなたがたが土台とするべき岩なのだというのです。私たちはこの言葉を聞いてどう思うでしょうか。「本当にそうだ、イエス様のお言葉を聞いて、それを実行することこそ人生の確かな土台だ」と思うでしょうか。はっきり言ってそういう人はあまりいないのではないでしょうか。むしろ私たちはこの言葉を聞くとこう思うのではないでしょうか。「確かに、イエス様の言葉を聞いてそれを実行していくことを土台にすれば、とても立派な、品行方正な、愛に満ちた歩みができるかもしれない。でもそれってあんまり魅力的なことではないな。自分が本当に自分らしく、生き生きと、充実した人生を送ることがそれによってできるとは思えない。むしろ自分の個性が殺されてしまって、正しいかもしれないがつまらない人間になってしまうのではないだろうか」。つまり、私たちが人生の土台として追い求めていく様々なことの中で、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う」というのはあまり魅力的な、これこそ土台になる、と思えるようなことではないのです。

 私たちがそのように感じるのは何故でしょうか。それは、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う」ということを、主イエスが教えた道徳律を守り行うこと、というふうに理解しているからだと思います。私たちの中には、宗教というのは、たとえば「人に親切にしなさい」というような道徳律を教えるものだという理解、イメージが抜き難くあります。主イエスの教えもそういうものとして読んでしまうことが多いのです。「わたしのこれらの言葉」というのは、これまでに語られてきた山上の説教の全体を指すわけですが、そこに語られてきたことも、主イエスが教えた道徳律として読んでしまうということが起る。確かに、主イエスが語ってこられたことの中には、道徳律のように見える教えがあります。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」という教えは、「黄金律」と呼ばれて、それこそ道徳律の中の道徳律のように受け止められてきたのです。あるいは「人を裁くな」という教えにしても、「右の頬を打たれたら左の頬をも向けなさい」という教えにしても、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」という教えにしても、そうすることによって正しく立派な者になることができるという道徳律として読むこともできるのです。あるいは、「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」という教えも、こんな厳しい道徳律はない、これを完全に守り行える男などいない、と思ってしまいます。主イエスの教えをそういうふうに受け止めていると、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う」というのはそれら一つ一つの道徳律を守り行って生きることになり、それは、とても品行方正だがつまらない、魅力のない生き方、ということになってしまうのです。けれどもそれは、主イエスの教えの読み方が間違っているのです。山上の説教は、「これを行うことによって正しく立派な者になれる」という道徳律ではありません。むしろそれとは正反対なものなのです。そのことを私たちはこの一年かけて学んできたのではないでしょうか。

 山上の説教を正しく読み理解するための一番大事な鍵となる言葉は、「あなたがたの天の父」という言葉です。この言葉が、繰り返し繰り返し語られています。神様の独り子であられる主イエスが、ご自分の父である神を、「あなたがたの天の父」と呼んで下さったのです。「わたしの父はあなたがたの父でもある、神はあなたがたの父となり、あなたがたを子として愛して下さっているのだ」と宣言して下さっているのです。それが、山上の説教の中心的なメッセージです。山上の説教が教えているのは、天の父なる神様の下で、その子として、神様の父としての愛を受けて生きることなのです。父である神様は、子である私たちを、養い、守り、導いて下さいます。それは私たちがよいことをし、立派な人間となり、神様に愛されるに相応しい者となれば、ではありません。あるいは私たちが熱心に求めるならばそれに応えて恵みを与えて下さるというのでもありません。父なる神様は、私たちがどんな者であろうとも、父として愛して下さるのです。罪人であり、神様の愛に相応しくない私たちの父となって下さるのです。そして私たちが求めるより先に、私たちに必要なものをご存じであり、それを与えて下さるのです。だから、その神様の父としての愛に信頼して歩みなさいと教えられているのです。それが、「何を食べようか何を飲もうか何を着ようかと思い悩むな」という教えです。「何を食べようか何を飲もうか何を着ようかと思い悩む」というのは、自分で自分の人生を支え、自分の持っているものを土台として、それによって人生を充実させていこうとするところに生じてくることなのです。自分が何を持っているか、何をすることができるか、そういう自分の中にあるものを拠り所、土台にして生きようとしている私たちに対して、この教えは、神様の天の父としての愛が既にあなたを支えている、あなたの土台となっている、と宣言し、そこにこそ人生の本当の拠り所があるのだと教えているのです。「地上に富を積むのではなくて、天に富を積め」という教えも、そのことを語っています。地上の富というのは、私たちが自分のもの、自分の力、自分の正しさとして持っているものの全てです。そこに拠り所を置き、それを土台にしようとするのが地上に富を積むことです。それに対して天の富というのは、天の父なる神様の愛であり、神様が養い、導いて下さるという恵みです。その天の富、神様の恵みにこそ寄り頼んでいくことが、天に富を積むことなのです。先ほど、山上の説教は道徳律とは正反対なものだと言ったのはこのことによります。道徳律は、それを行なうことによって自分が正しい者、立派な者になる、そのようにして自分の中に富を積み、それを人生の土台としようとすることです。山上の説教はそういうことのために語られているのではありません。自分の中に正しさ、立派さという財産を築いていくのではなくて、天の父なる神様の愛に信頼して生きることが教えられているのです。道徳律は地上に富を積むための教えであるのに対して、山上の説教は天に富を積むための教えなのです。それもまた誤解を受けないように言い直しておかなければならないかもしれません。天の富は私たちがよい行いをして積むものではなくて、神様の天の父としての恵みです。私たちは、そこにこそ富があり、私たちを支える土台があることを信じ、受け入れ、その富にのみ寄り頼んで生きるのです。それが天に富を積むことです。それを別の言葉で言うならば、山上の説教の冒頭の教え「こころの貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」となるのです。「こころの貧しい人」とは、これまでに何度も申してきましたが、自らの中に何の豊かさも、富も、誇るべきものも持っていない、ただ神様の憐れみにすがって生きる者です。天の国、神様の救いはそのような者にこそ与えられる。この冒頭の一言に、山上の説教全体の主題が掲げられていると言うことができるのです。

 「わたしのこれらの言葉を聞いて行う」というのは、山上の説教が教えているこれらのことを受け止め、この教えに従って、天の父なる神様の子として生きることです。自分の財産、自分の富、地上の富に寄り頼むのではなく、神様の父としての愛が自分を支えていることを信じて生きること、天の富に寄り頼んで生きることです。そこにこそ、私たちの人生を本当に支える土台がある、と主イエスは言っておられるのです。この2000年度の教会の宣教計画の目標は「天の父なる神のもとで生きる」です。それは、山上の説教を学んでいくということを意識して掲げられた目標です。天の父なる神のもとで、その子として生きる、それこそが、「山上の説教を聞いて行う」ことなのです。ですから逆に「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない」というのは、主イエスが教えられた道徳律を守らない、実行しない、ということではなくて、主イエスが示して下さった天の父なる神様の愛、私たちを子として養い、導き、支えていて下さるその恵みの下で、その恵みによって生きていくのではなくて、自分の中の何か、自分の持っている豊かさ、財産を拠り所として生きるということです。それは、砂の上に家を建てるようなものではないか。自分の持っているもの、自分の富、豊かさを土台として、その上に人生を築いていく時に、その家は人生の本当の荒波、風雨に耐え得るだろうか。人生に時として襲ってくる苦しみは、私たちが拠り所としている自分の富、豊かさを根こそぎ押し流してしまうようなものではないのか、そのことが、ここで問われているのです。

 ですから、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う」ことこそが人生の土台となる岩である、ということについての、先ほど申しました感想、「それでは自分が本当に自分らしく、生き生きと、充実した人生を送ることはできないのではないか。自分の個性が殺されてしまって、正しいかもしれないがつまらない人間になってしまうのではないだろうか」という思いは、全くの誤解なのです。山上の説教の言葉を聞いて行う時に、私たちは、画一化された、品行方正だが面白みのない、個性のない人間になるのではありません。むしろ私たちはそこで、自分を本当に愛していて下さり、支えてくれていて下さる方と出会うのです。そして、もはや自分の中に自分を支える土台、拠り所を持たなくてもよくなるのです。そのことによって私たちは本当に自由になります。思い悩みから解放されます。人の目を気にして、人に自分をよく見せようとする偽善からも解放されます。また、天の父なる神様が、私たちに必ず良いものをくださるという希望を与えられます。この土台、自由、希望の中で、私たちは本当に自分らしく、生き生きと、充実した人生を歩むことができるのです。自分の人生を切り開いていくために努力することができるのです。信仰に生きるとはそういうことです。もしも信仰に生きることが私たちの個性を殺し、自分らしく生き生きと生きることを阻害するように感じてしまうとしたら、それは私たちがまだ、主イエスの教えを、単なる道徳律としてしか受け止めていないということでしょう。「あなたがたの天の父」である神様のことが見えていないということでしょう。天の父としての神様の愛ということなしに、ここに語られているいろいろな教えを実行していこうと必死になったとしても、それは結局自分の正しさという砂の上に家を建てることにしかならないのです。

 ところで、ここには「雨が降り、川があふれ、風が吹いて襲ってくる」ということが語られています。それは私たちの人生において襲ってくる苦しみのことだ、と申しました。そういう苦しみにおいても私たちを本当に支えてくれる土台は何か、ということが問題であるわけです。しかし人生の苦しみの、最後最大のものは死です。そしてこの死というものは、他の様々な苦しみとは違って、私たちの人生をまさにその根底から全て押し流してしまうようなものです。死に直面する時、自分の中にどんな土台、財産、拠り所を持っていてもそれは虚しいことが明らかになります。その土台そのものを押し流してしまう大洪水が死なのです。そういう意味では、私たちの人生というのは、結局この死という大洪水によって押し流され、消えうせてしまうものだと言わなければならないでしょう。私たちがこの人生の中で見出す土台は、結局生きている間だけのもので、死の力の前ではそれは無力である、ということかもしれません。しかし主イエスがここで、土台として示している岩は、生きている間だけの、死は考えに入れない,限られた範囲のみにおける土台なのではありません。「岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」「砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」の「似ている」という言葉は、原文においては未来形が用いられています。「似ているであろう」です。その未来形は、この世の終りの、神様による最後の審判を意識しているのです。つまり、「雨が降り、川があふれ、風が吹いて襲ってくる」というのは、この世の人生における苦しみのみのことではありません。最後の審判における神様の裁きが見つめられているのです。そのことは、13節以下の、山上の説教の結びの部分に共通していることです。13、14節の、「狭い門と広い門」の教えにおいても、「滅びに通じる門と命に通じる門」という言い方がなされていました。命と滅びは、世の終りの神様の裁きにおいて確定することです。その裁きが視野に入れられているのです。15節以下の「偽預言者」についての教えにおいても、19節に、「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」とありました。この火は、最後の審判における神様の裁きの火です。また21節以下においても、「主よ、主よ」と言うだけで、「わたしの天の父の御心を行わない者」は、「かの日」つまり最後の審判の日に、主イエスから「あなたたちのことは全然知らない」と言われてしまうと語られていました。山上の説教はそのしめくくりにおいて、世の終りの裁きを見つめているのです。そうであるならば、「雨が降り、川があふれ、風が吹いて襲ってきても倒れない」、それは、世の終りの裁きにも耐える、そこにおいても滅ぼされることなく、命に至ることができる、ということです。「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」は、そういう土台の上に人生を築くことができるのだと言われているのです。ですからこの土台は、肉体の死においても失われてしまうことがない、そこにおいてもなお私たちを支え、世の終りの裁きの時まで支え続けてくれる土台です。そういう土台は、私たちが自分の中に、自分のものとして持っていることはできません。その自分そのものが失われていくのが死なのですから、私たちが自分の中に持つことができる土台は、生きている間だけのものであり、死に打ち勝つことはできないのです。私たちの外にある、天の父なる神様の愛だけが、死においても私たちを支える土台です。天の父なる神様は、その愛によって、独り子イエス・キリストを遣わして下さいました。そして主イエスは私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さいました。このことによって、神様は私たちの罪を赦し、私たちの父となって下さり、私たちを子として下さったのです。そして神様は主イエスを、十字架の死から復活させて下さいました。死の力に対する神様の恵みの勝利がそこにあるのです。主イエスによって、天の父なる神様の愛を人生の土台として与えられて生きる者は、その父としての愛が、死の力にも打ち勝って新しい命を与えて下さることを信じて生きることができるのです。神様の、天の父としての恵みは、私たちの人生を支える土台であるだけでなく、死においても私たちを支え続け、終りの日の裁きにおいても、私たちをしっかりと立たせ、命に至らせて下さるのです。そのような土台こそが、人生の本当の土台です。死において私たちを支え得ないものは、生きている間だって本当の支えにはならないのです。

 本日は教会修養会が持たれ、「教会の葬儀」について学び、考えます。要するに、自分の葬儀にどう備えるか、という話です。そのように私たちは自分の死を見つめて生きます。それは、だんだんに高齢化してお年寄りが増えてきたからというようなことではありません。これは私たちの信仰の本質から来ることなのです。私たちの信仰は、死を真正面から見つめる信仰です。それは、死においても私たちを確かに支えて下さる天の父なる神様の恵みという岩を土台としているからできることです。この岩は、私たちの中にはありません。私たちが何かを努力して、そういう確固たる土台を自分の中に作り上げることができるようなものではないのです。この岩は、主イエス・キリストです。主イエスを遣わして下さった父なる神様の愛です。主イエスが私たちのために十字架にかかって死んで下さり、父なる神様がその主イエスを復活させて下さった、その恵みのみ業です。この岩を土台として与えられているから、私たちは死を真正面から見つめ、葬儀について語り合い、それに備えていくことができるのです。先日も家庭集会で、葬儀や死についていろいろと語り合っていたら、ある求道者の方が、「こんなふうに死について、恐怖や、忌むべきものとしてでなく語り合ったのは生まれて初めてだ」とおっしゃっていました。教会の葬儀は、それに参列した方は一様に、大変よかったとおっしゃいます。それは、意味のわからないお経がただ読まれるだけの葬儀ではなく、分かる言葉で、聖書が読まれ、讃美歌が歌われ、祈りがなされ、亡くなった方のこと、その信仰が語られるということもあるでしょう。しかし、教会の葬儀のよさの根本は、それが、死においても私たちをしっかりと支えて下さる天の父なる神様の恵みという岩の上に建てられているということにあるのです。この岩が、私たちの人生の土台としても与えられているのです。

牧師 藤 掛 順 一

[2001年2月18日]

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