富山鹿島町教会

礼拝説教

「善をもって悪に勝つ」
サムエル記上 第24章1〜23節
ローマの信徒への手紙 第12章17〜21節

 月の最後の主の日には、旧約聖書サムエル記上よりみ言葉に聞いています。本日はその第24章を読むわけですが、ここは、サムエル記上の中でも、最も劇的な場面であると言うことができます。サムエル記上は、イスラエルが王国となり、最初に立てられた王サウルが神様のみ心に適わずに没落していき、代ってダビデが王となっていったことを描いています。王権がサウルからダビデに移っていった、その事情を語っているのです。サウルからダビデへの王権の継承は決してすんなりと円滑にいったわけではありません。サウルは、自分の王権に固執し、神様に見捨てられてしまった後もそれを手放そうとしませんでした。そして、ダビデを、自分の地位を脅かす者として憎み、その命をつけ狙ったのです。サウルとダビデの間には、そういう敵対関係がしばらく続きました。その両者の対立、葛藤の中で起った最も劇的な出来事が、この24章に記されているのです。サウルとダビデの物語をもし映画にでもするならば、この場面こそそのクライマックスとなり、最も感動的な場面になるところです。

 ダビデは、サウルの手を逃れてあちこちに隠れ住んでいました。その様子は23章に語られています。24章の前提として、まずここをも見ておきたいと思います。23章1〜5節には、ダビデが、ペリシテ人に襲われたケイラという町を救ったことが語られています。ダビデのもとには、食い詰めた人たちや不満分子たちが集まっていたということが既に22章にありました。その数は22章2節では400人、23章13節では600人と次第に増えています。ダビデはこの手下たちを率いて、ケイラのペリシテ人を打ち破ったのです。本来このように、ペリシテ人に襲われた町を救い出すのは、王であるサウルの使命です。ところがサウルは、国民を救うことよりも、自分の敵であるダビデを殺すことばかりを考えているのです。そういう中でダビデが、本来王がなすべき働きをしたということです。しかもそれは決して余裕があったからではありません。彼に従う兵たちは恐れていたことが3節にあります。「我々はここユダにいてさえ恐れているのに、ケイラまで行ってペリシテ人の戦列と相対したらどうなるでしょうか」と彼らは言っています。サウルに負われてただでさえ危険の中にいるのに、よその人々を助けている余裕などない、ということです。しかしダビデは主なる神様にお伺いを立てます。「主に託宣を求めた」のです。主は「ケイラを救え」とお命じになります。ダビデはそれに従って出陣し、大勝利を得てケイラを救ったのです。

 ところがそのことを聞いたサウルは喜びます。7節に「神がダビデをわたしの手に渡されたのだ。彼は、扉とかんぬきのある町に入って、自分を閉じ込めてしまったのだ」というサウルの言葉があります。これは、それまであちこちを移動していてなかなか居所がつかめなかったダビデが、ケイラの町に入ったことによって、袋の鼠にすることができる、ということです。サウルは兵士全員を招集してケイラのダビデを攻めようとします。この町がペリシテ人に襲われたと聞いても動かなかったサウルが、ダビデがそこにいると聞いたとたんに行動を開始したのです。さあダビデはどうすればよいか。ダビデの運命を左右するのは、ケイラの町の人々が自分の味方となり、守ってくれるかどうかです。彼はそこでも神様の示しを求めます。すると答えは、「ケイラの町の人々はおまえをサウルに引き渡そうとしている」ということでした。つまりケイラの人々は、ペリシテ人から救ってくれたダビデの恩を仇で返そうとしているのです。それでダビデはケイラを去り、再び放浪の生活を余儀なくされたのです。

 次の場面はジフの荒れ野のホレシャという所です。その地の人々がサウルに密告したためにダビデの居所が知れ、サウルはまた兵を率いてやってきます。ダビデは逃げていきますが、マオンの荒れ野という所で、ついに追いつかれてしまいました。ダビデの軍勢は600、それに対してサウルは24章3節によればイスラエルの全軍からえりすぐった三千の兵を率いていました。いよいよダビデは絶体絶命の危機です。ところがその時サウルのもとに、「ペリシテ人が国に侵入しました」という知らせが届きます。ケイラの町が襲われた時よりももっと大規模な侵入だったのでしょう。サウルはダビデの追撃をあきらめてペリシテ軍との戦いに赴いたのです。それによってダビデは奇跡的に助かったのでした。このような、サウルに追い回されるダビデの姿が23章には語られています。ダビデの生涯の中でも最も苦しかった時期と言ってもよいでしょう。しかしその中でダビデは今も見たように不思議な導きによって助けられたのです。そのことを23章14節後半がこのように言い表しています。「サウルは絶え間なくダビデをねらったが、神は彼をサウルの手に渡されなかった」。サウルに絶え間なく命をつけ狙われるダビデが無事だったのは、神様の守りがあったからなのです。神様が彼をサウルの手に渡すことなく守られたのです。

 さて、24章はこの23章の続きです。ダビデは今度は、エン・ゲディという所にいます。ここは、死海の西岸近くです。聖書の付録の地図の3.「カナンへの定住」というのを見ていただくとその位置がわかります。ダビデはそこのある洞窟の奥に身を潜めていました。するとそこに、三千の兵を率いてダビデを追ってきたサウルが入ってきたのです。サウルはその洞窟にダビデと供の者たちがいることを知りません。彼がそこに入ってきたのは、4節にあるように、「用を足すため」でした。ここは前の口語訳聖書では「足をおおうため」となっていました。これが直訳なのですが、その意味は、「トイレをする」ということです。ですから「用を足すため」と訳されたのです。何も知らずにトイレをしているサウル。それはダビデにとっては、自分を殺そうとしているサウルを逆に撃ち殺す千載一遇のチャンスでした。ダビデの供の者たちも、「主があなたに、『わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。思いどおりにするがよい』と約束されたのは、この時のことです」と言いました。要するに、これは神様が与えて下さったチャンスです、これを逃す手はありません、ということです。しかしダビデは、サウルの上着の端の布をそっと切り取ることしかしませんでした。サウルに手をかけようとはしなかったのです。6節には、彼が、上着の端を切り取ったことをすらも後悔したと語られています。それは、「わたしの主君であり、主が油を注がれた方に、わたした手をかけ、このようなことをするのを、主は決して許されない。彼は主が油を注がれた方なのだ」という理由によることでした。ダビデはサウルをなお「わたしの主君」と呼んでいます。それはサウルがまだイスラエルの王であるからです。まだ王であるサウルに手をかけ、殺すことは許されざる反逆である、という気持ちをダビデは持っていたのです。それで、自分がサウルを殺すつもりがないことを明らかにするために、その上着の端を切り取ったのです。しかしそれすらも、ダビデにとっては良心の呵責なしにはできないことでした。サウルが洞窟を出て先に進もうとした時、ダビデは背後から声をかけます。10節以下です。「ダビデがあなたに危害を加えようとしている、などといううわさになぜ耳を貸されるのですか。今日、主が洞窟であなたをわたしの手に渡されたのを、あなた御自身の目で御覧になりました。そのとき、あなたを殺せと言う者もいましたが、あなたをかばって、『わたしの主人に手をかけることはしない。主が油を注がれた方だ』と言い聞かせました。わが父よ、よく御覧ください。あなたの上着の端がわたしの手にあります。わたしは上着の端を切り取りながらも、あなたを殺すことはしませんでした。御覧ください。わたしの手には悪事も反逆もありません。あなたに対して罪を犯しませんでした。それにもかかわらず、あなたはわたしの命を奪おうと追い回されるのです。主があなたとわたしの間を裁き、わたしのために主があなたに報復されますように。わたしは手を下しはしません。古いことわざに、『悪は悪人から出る』と言います。わたしは手を下しません。イスラエルの王は、誰を追って出て来られたのでしょう。あなたは誰を追跡されるのですか。死んだ犬、一匹の蚤ではありませんか。主が裁き手となって、わたしとあなたの間を裁き、わたしの訴えを弁護し、あなたの手からわたしを救ってくださいますように」。サウルはこれを聞くと声をあげて泣いたとあります。そしてこう言いました。18節以下です。「お前はわたしより正しい。お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した。お前はわたしに善意を尽くしていたことを今日示してくれた。主がわたしをお前の手に引き渡されたのに、お前はわたしを殺さなかった。自分の敵に出会い、その敵を無事に去らせる者があろうか。今日のお前のふるまいに対して、主がお前に恵みをもって報いてくださるだろう。今わたしは悟った。お前は必ず王となり、イスラエル王国はお前の手によって確立される。主によってわたしに誓ってくれ。わたしの後に来るわたしの子孫を断つことなく、わたしの名を父の家から消し去ることはない、と」。これはまことに感動的な場面です。サウルは、ダビデが自分を簡単に殺すことができたのにそうしなかったことを知り、自分はダビデに悪意をもって対していたがダビデは自分に善意を尽くしたことを悟ったのです。「お前はわたしより正しい」と彼は言いました。「私の負けだ」ということです。そして彼は「お前は必ず王となり、イスラエル王国はお前の手によって確立される」と言っています。ダビデが自分に代って王となることをサウルは認め、受け入れたのです。

 ところが、サムエル記の記述はそう単純ではありません。本来ならば、これでハッピーエンドになり、ダビデは再びサウルの宮廷に迎え入れられ、あるいはさらにサウルからダビデへの譲位がなされてダビデの即位式が行われる、ということになってもよさそうなものです。映画であれば、そうなれば収まりがつくのです。しかしそういうことは起っていません。24章の最後にあるのは、「サウルは自分の館に帰って行き、ダビデとその兵は要害に上って行った」ということです。つまりここでサウルとダビデは別れて、またそれぞれの歩みをしていくのです。確かにサウルはダビデを追うことをやめました。しかし二人の関係は基本的には少しも変わってはいないのです。そして、実はこの後の26章に、24章とほとんど同じ話がもう一度語られていくのです。そこにおいても、サウルは精鋭三千を率いて、ダビデを追い詰めています。そしてこちらは、洞窟における話ではなくて、夜、ダビデとその側近の者が、サウルの陣営に忍び込み、サウルたちが皆眠っている間に、その枕もとにあった槍を盗んできた、という話になっています。側近の者はやはり、「今がチャンスです。サウルをこの槍で突き殺しましょう」と言います。しかしダビデは「殺してはならない。主が油を注がれた方に手をかければ、罰を受けずには済まない」と言います。そして、陣営から離れた山の上から大声で呼ばわり、サウルの槍が今自分の手にあることを見せて、自分がサウルを殺すことができたのにそうしなかったことを示したのです。サウルはそれを聞いて自分の過ちを認め、二度とダビデに危害を加えることはしないと言います。これは、場所や設定は違っていますが、24章と全く同じ話です。おそらく一つの話が、違う場所で違う仕方で言い伝えられてきたのでしょう。サムエル記の著者はそれをどちらも組み込んで語っているのです。そして、この26章においては、さすがに二回目ともなるとサウルも本当に改心して和解が成り立ったということが語られるかというと、そうではありません。26章をしめくくっているのは、「ダビデは自分の道を行き、サウルは自分の場所に戻って行った」という言葉です。これも24章と同じです。二人はお互いにそれぞれの道を歩み続けるのです。ダビデはペリシテの王のもとに身を寄せ、その傭兵となったりもしています。そしてサウルは最終的に、ペリシテとの戦いにおいて戦死していくのです。

 サムエル記が、24章と26章に、同じ内容の話を二度記しているのは、この話をとても大事なものとして位置づけているということでしょう。サウルとダビデの物語において、この話がクライマックスとなっていることは間違いありません。この話は私たちに何を語りかけているのでしょうか。24章18節のサウルの言葉が印象的です。「お前はわたしより正しい。お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した」。この二つの話において描かれているのは、このダビデの姿です。自分が何か悪事をたくらんだわけではないのに、命を狙われ、追い回され、23章に語られていたように、あちこちを逃げ回らなければならない、そういう苦しみをサウルから受けていたダビデが、それに対する復讐の機会、サウルによる身の危険を決定的に取り除く絶好の機会を与えられたのに、二度までもそれをせず、サウルを見逃し、むしろサウルを王として尊重する態度を示した、そのことをサムエル記は語っているのです。そこから思い起こされるのは、本日共に読まれた新約聖書の個所、ローマの信徒への手紙12章17節以下の言葉です。「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」。ダビデがしたことはまさにこの通りだと言うことができるでしょう。悪をもって悪に返すことをせず、自分で復讐をするのではなくて、神様に任せたのです。彼は悪に負けることなく、善をもって悪に打ち勝ったのです。ここに、ダビデの、イスラエルの王たるに相応しい資質が示されていると言えるでしょう。彼は23章の始めにあったように、自らが苦境にあったにもかかわらず、ペリシテ人に襲われた同胞の町を救ったりもしています。このダビデの姿と比べた時に、サウルの、王としての務めをないがしろにして、自らの嫉妬のゆえに罪のないダビデを追い回す姿は、まことになさけない、王たるに相応しくない姿なのです。サウルが捨てられ、ダビデが王として立てられていったのは当然だ、とこれを読む者は誰でも思うのです。

 この話がそのように、ダビデとサウルの対比を語っているのは間違いないでしょう。しかしそれだけなら、「ああ、ダビデというのは立派な人だったのだなあ」ということで終ってしまいます。この話を、私たちに対する神様の語りかけとして読む時に、何が見えてくるのでしょうか。ダビデは、サウルの悪に対して悪をもって返さず、善をもって悪に勝ったのです。ローマの信徒への手紙の教えが実践された例がここにあるのです。私たちはそれを学び、見習っていくべきでしょう。しかしそこにおいて、私たちが見つめていかなければならないことがあると思います。それは、ダビデが「善をもって悪に勝った」、とは具体的にどういうことだったかということです。先ほど見たように、この話の前と後で、サウルとダビデの関係は基本的には少しも変わっていません。ダビデの善意に感動したサウルが、これまでの自分の非を認め、ダビデを自分の後継者として迎え入れ、王の位を譲る、というようなことは起っていないのです。26章にも同じ話が繰り返されているということをそのまま受け止めるならば、サウルは24章の体験にもかかわらず、なお、ダビデを殺そうとして追い続けたということです。つまりサウルは変わっていないのです。その時には、涙を流して自分の非を認め、もうお前を追うことはしないと言っても、しばらくすればまた同じことが繰り返されるのです。そういう事態がここには見つめられ、描かれています。ダビデはそのようなサウルの悪に対して、善を行い、行い続けているのです。ここに、「善をもって悪に勝つ」ということの本当の姿が描き出されていると言うことができます。善をもって悪に勝つとは、善を示すことによって悪が屈服して、悔い改めて、もう悪を繰り返さなくなる、そこに和解、仲直りが成立する、ということでは必ずしもないのです。いや、そんなことが起るのは、映画か小説の中だけかもしれません。サムエル記が語っているのは、決してお涙頂戴の感動的な話ではありません。ここには、私たちが直面する人間の現実の姿が、醒めた目で、リアルに描き出されているのです。ダビデはそういう私たちが直面する人間の現実の中で、善をもって悪に勝ったのです。それは、悪に対して悪を返さず、善を行い、そして行い続けたということです。悪に対して悪ではなく善を行う、その自分の善に対して、相手は再び悪をもって対してくるのです。その相手の悪に対して、なお悪ではなく善をもって対する、それがダビデのしたことであり、善をもって悪に勝つとはそういうことなのです。私たちは、「善をもって悪に勝て」という教えを受けて、それを実行しようとします。人が自分に対して悪を行い、自分を傷つける時、それを赦し、自分はむしろ善をもって相手に対そうとします。そしてそれをすると、自分も善をもって悪に勝つことができた、と思って満足するのです。しかし、事はそこで終わらないのだということをこの話は教えています。そのように善をもって悪に対していった時、相手はどうするか、私たちのその善に感動して、「私が悪かった」と言ってあやまり、メデタシメデタシになる、などということはめったにありません。むしろ、その善に対してなお悪をもって返してくる、悪が繰り返されていくことの方が多いのです。私たちはその時に、「なんだ、せっかく善をもって悪に対してやったのに、恩知らずな奴だ、もう許さない」と思ってしまう、それが、悪に負けるということなのです。善をもって悪に勝つための戦いは、むしろそこから始まるのです。

 ダビデは、この戦いに勝利したのです。悪に対して善を返し続けたのです。そのことを、彼の個人的な偉大さに帰してしまってはならないでしょう。彼がそうすることができたのには、理由があるのです。供の者が「今こそチャンスだからサウルを撃ち殺しましょう」と言った時に彼が答えた言葉にそれが示されています。「わたしの主君であり、主が油を注がれた方に、わたしが手をかけ、このようなことをするのを、主は決して許されない。彼は主が油を注がれた方なのだ」と彼は言いました。これは、「サウルは私の主君だ、主君に反逆することはできない」というだけのことではありません。サウルが主君であり、イスラエルの王であるのは、主なる神様が彼に油を注がれたからです。神様がサウルに油を注いで王としてお立てになったのです。ダビデ自身も、同じ油注ぎを受け、王となる者として選ばれ、立てられました。しかし今はまだサウルが王位にある、それは、神様がサウルに油を注がれた、そのみ心がまだ生きているということです。ダビデはその神様のみ心を尊重する思いから、サウルを殺さなかったのです。もしここでサウルを殺して自分が王になるとしたら、それはダビデが自分の力で王位を奪い取ることになります。しかしイスラエルの王とはそのようにしてなるものではないのです。神様が、しかるべき時に、しかるべき仕方でお立てになる、その時を待つことが大事なのです。

 ですから、ダビデがサウルの悪に対して善をもって返したのは、彼の善意ややさしさからではありません。主なる神様のみ心を尊重し、神様に自分のこと、自分とサウルの間のことを委ねる、という信仰によることです。23章の、あの逃亡の生活の中で、ダビデが繰り返し主の託宣を求め、神様のみ心を求めながら歩んでいったということにもその信仰が表れています。そのようなダビデを、神様はサウルの手に渡すことなく守られたのです。ダビデが善をもって悪に勝つことができたことの秘密はここにあります。善をもって悪に勝つ、悪に対して善を返し続けることは、私たちの善意によって出来ることではありません。私たちの善意は、せいぜい一度か二度、相手の悪を辛抱して善をもって返すことができるのが精一杯です。悪に対して善を返し続け、本当の意味で悪に打ち勝つことはできないのです。しかし私たちが、そのような自分の善意によってではなく、神様のみ心に従い、そのみ心に身を委ねて生きようとする時に、善をもって悪に勝つ道が開けてくるのです。

 神様のみ心を私たちは、主イエス・キリストによって示され、教えられています。主イエスが私たちのためにして下さった救いのみ業、それはまさに、私たちの悪に対して、善をもって対し抜き、その悪に打ち勝って下さったということでした。主イエスが、私たちの罪を身に負って十字架の苦しみと死を受けて下さったことは、神様がご自身の善によって私たちの悪を打ち破って下さった出来事だったのです。善をもって悪に対し続けることには、苦しみが伴います。いわれのない、不当な苦しみを受けることになるのです。だからそれは、私たちの善意で追いつくことではないのです。しかし神様の独り子であられる主イエスが、私たちのために、その苦しみと死とを引き受けて下さったことを見つめ、その神様のみ心に身を委ねて生きようとする時に、私たちもダビデと共に、善をもって悪に勝つために苦しみを引き受けていく者となることができるのです。

牧師 藤 掛 順 一

[2001年1月28日]

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