富山鹿島町教会

礼拝説教

「ダビデの逃亡」
サムエル記上 第21章1〜22章4節
マタイによる福音書 第12章1〜8節

 いよいよ、紀元2000年の最後の日となりました。20世紀の最後の日でもあります。明日からは2001年、21世紀が始まります。この、今年最後の日、20世紀最後の日が、主の日、日曜日となりました。私たちは明日の元旦にも、本日と同じように礼拝を行います。20世紀最後の日を礼拝をもってしめくくり、21世紀最初の日を礼拝をもって始める、これは、牧師にとってはいささかしんどいことではありますが、意味深いことであると思います。しかしだからといって、何か特別な記念礼拝を行おうというわけではありません。先週はクリスマスの記念礼拝でしたが、本日は普段通りの礼拝を守ります。月の最後の主の日には、原則として旧約聖書サムエル記上よりみ言葉に聞いていますので、本日もその続きを読んでいこうと思うのです。毎回申しておりますが、サムエル記は、イスラエルが、士師の時代、即ちゆるやかな部族連合体の時代から、中央集権的な王国へと移行していった時代のことを描いています。イスラエルの最初の王として立てられたのはサウルでした。しかしサウルは結局神様に見捨てられてしまい、ダビデが新しい王として立てられていったのです。今私たちが読み進めているあたりは、サウルからダビデへの王権の交代、サウルの没落とダビデの台頭を語っているところです。しかしダビデはすんなりとサウルの後を継いで王となったのではありません。そこには様々な障害がありました。サウル自身が、ダビデを、自分の王位を脅かす者として恐れ、憎んだのです。前回、11月の終りに読んだ20章において、サウルがダビデを殺そうとしていることがはっきりとし、ダビデは決定的にサウルのもとを去って逃亡の生活に入らなければならなくなったことが語られていました。本日のところには、そのダビデの逃亡の様子が語られているのです。先程は22章の4節までを朗読していただきましたが、本日は22章の終りまでを読みながら、ダビデの逃亡の歩みを見つめていきたいと思います。

 サウルのもとを逃れたダビデが先ず身を寄せたのは、ノブという町の祭司アヒメレクのもとでした。祭司がいるということは、そこに聖所が設けてあり、主なる神様への捧げ物がなされていたということです。ノブは祭司の町でした。22章18節によると、そこには85人の祭司たちがいたのです。アヒメレクはその祭司たちの中心となる人物でした。22章12節と20節に、アヒメレクはアヒトブの子であったと書かれています。そしてサムエル記上14章3節を見ると、アヒトブはイカボドの兄弟であり、イカボドは、サムエル記の初めのところで少年サムエルが仕えた祭司エリの息子ピネハスの息子であるとあります。ちょっとややこしいですが、要するにアヒメレクは、祭司エリのひ孫に当るのです。由緒正しい祭司の家系である彼が、今、ノブという祭司の町の祭司集団を率いているのです。アヒメレクは勿論、ダビデがサウル王の有力な家臣の一人で、王の娘婿であることを知っていました。しかしそのダビデが供も連れずに一人でやって来たので、おかしいなと思い、不安を覚えます。ダビデは、「王の密命を受けて一人で来たのだ、従者たちとはある場所で落ち合うことになっている」と言います。そして、空腹であったダビデはアヒメレクに何か食べ物を与えてほしいと願います。あいにくその時、普通のパンはなく、聖所に備えられた聖別されたパンしかありませんでした。つまり、神様に捧げられ、神様のものとされたパンです。それは、聖所から下げられた後、祭司のみが食べることができるものと律法に定められていたのです。ダビデはそのパンを与えてくれるように願い、アヒメレクはそれをダビデに渡しました。またダビデは、ここには何か武器がないかと尋ねます。つまりダビデは武器を持ってくる余裕もなく、大急ぎで逃げてきたのです。このノブの聖所には、ダビデがかつてゴリアトを倒した時に奪った剣が奉納されていました。ダビデはこの剣を持っていくことにします。こうしてダビデはアヒメレクのもとで、食べ物と武器を調達したのです。この21章にはそのことしか書かれていませんが、22章を読むと、ダビデはそれだけでなく、この時、アヒメレクに、神様の託宣、つまり神様からの示しを求め、それを受けたということが語られています。祭司から、神様の示しを受けてこれからの歩みを決めるということがよく行われていました。食物と武器と、そして神の託宣、それらをダビデはアヒメレクから受けて、逃亡の歩みを支えられたのです。しかし22章を読むと、このことが、後で悲劇を生むことになります。

 さてアヒメレクのもとを去ったダビデは、ガトの王アキシュのもとへ行ったと11節以下にあります。ガトというのは、ペリシテ人の町です。あのゴリアトはガトの人であったと書かれています。つまりダビデは敵であるペリシテ人の王のもとに逃れて行ったのです。しかも、自分がゴリアトを倒して奪った剣を持ってです。これは驚くべきことであるようにも思えますが、ある意味ではよくわかることでもあります。つまり、国内で王から命を狙われているわけですから、その場合一番安全なのはその国と敵対している国に身を寄せることなのです。特にダビデはイスラエル軍の最も有名な将軍です。その将軍がねがえってくることは敵であるペリシテ人にとっては願ってもないことであると考えられます。そのためにダビデは、わざとゴリアトを倒した印である剣を持ってガトへ行ったと言うことができるでしょう。しかしこれは大変危険な賭けでもあります。つい先ごろまでダビデはペリシテ人と戦って、さんざん痛めつけていたのです。その彼がノコノコと単身でやって来たらどうなるか、「今からあなたがたの味方になる」と言っても信じてもらえず、直ちに殺されてしまうかも、あるいは少なくとも捕えられてしまうかもしれません。ダビデはそういう危険な賭けを打ったということでしょう。そして案の定、アキシュの家臣たちは、ダビデを信用することはできないと言います。この男は、「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と歌われた、我々の不倶戴天の敵ではないかと言ったのです。そこでダビデは、気が狂ったふりをしてガトを逃れたとあります。当時、気が狂った人というのは、神様に触れられた人と考えられ、恐れの対象でした。そういう人に危害を加えることは神の怒りを招くと思われていたのです。ダビデはそれを利用して、窮地を脱したのです。この時はこのように、この賭けは失敗でした。しかしこの後、サウルとの対立がはっきりとしていく中で、ダビデはもう一度アキシュのもとに行きます。そして今度はその家臣として迎えられ、一つの町を与えられ、ペリシテ軍の一翼を担う者となったということが27章に語られているのです。

 さて22章に入ると、ダビデがアドラムの洞窟というところに身を隠したことが語られています。彼のもとには、兄弟や親族が集まりました。ダビデがサウル王に命を狙われているとなると、その家族たちも安全ではおれないのです。また、2節には「困窮している者、負債のあるもの、不満を持つ者も皆彼のもとに集まり、ダビデは彼らの頭領となった。四百人ほどの者が彼の周りにいた」とあります。つまりダビデの周りに、社会において食いつめた者たち、不満分子が集まったのです。言ってみれば無頼の徒です。ダビデはそういう連中を自分の私兵として手元におき、力を蓄えていったのです。またそこにはダビデが、自分の両親をモアブの王に託したことが語られています。モアブは、ダビデのひいおばあさんであるルツの出身民族です。そのつながりもあったのでしょう。そのようにして、ダビデはサウルに追われる逃亡の生活の中で、様々に知恵を働かせつつ、利用できるつてを頼りつつ、次第に力を蓄えていったのです。このダビデの姿は、いわゆる信心深い人の姿であるとは言えません。彼は嘘もついているし、敵をも利用しようとしています。自分のために利用できるものは何でも利用して身を守り、力を蓄えようとしているのです。ある説教者はこのダビデについて、「彼は罪を犯しているのだ」と言っています。このような罪人であるダビデを、神はイスラエルの王としてお立てになったということをサムエル記は語っているのだ、というのです。

 しかしそこに一つの転機が訪れます。22章5節以下を読んでいきたいと思います。そこに、預言者ガドという人が登場します。彼はダビデに「要害にとどまらず、ユダの地に出て行きなさい」と言います。先にペリシテの地に身を寄せようとし、今またモアブの地にいるダビデに、「そのように外国に逃れて身の安全をはかっていないで、ユダの地、つまり本来あなたがいるべき場所に行け」と言ったのです。預言者によってこの言葉が語られたことが重要です。ダビデはそこに、神様のみ言葉を聞いたのです。神様は自分に、ユダの地に行けと言っておられる。彼は神様の選びによって、サムエルから油を注がれて、イスラエルの王となるべく立てられた者なのです。そのダビデがいるべき場所はイスラエルの地、自分の出身地であるユダの地です。そこにいてこそ、彼を王として立てる神様の約束が実現していくのです。自分の力や工夫で身を守り、勢力を蓄えようとするなら、安全な場所に留まっているのが賢明です。あるいは場合によっては、先にガトに行ったように、敢えて危険な博打を打つことも必要かもしれません。しかしいずれにせよそれは、「ユダの地に行く」ことではありません。ユダの地に行くとは、サウルと真っ向から対決する姿勢を表わすことであり、敢えて危険の中に身を置くことです。そしてそれは、自分を王として立てると約束された神様のみ言葉に身を委ねることです。22章3節でダビデは、両親をモアブの王に託した時、「神がわたしをどのようになさるか分かるまで」と言いましたが、ユダの地に行くとは、まさにそのことを明らかにしようとすることなのです。預言者ガドはそのことをダビデに求めたのです。

 ダビデはそれに応えて、ユダの地に出て行き、ハレトの森という所に進出しました。それは、サウルにとって、ダビデがはっきりと自分に対立し、この国の王となろうとする意志を表明したということを意味していました。サウルが7、8節で言っている言葉は、そういう状況の中での、彼の怒りと、部下たちに対する苛立ちを表わしています。そしてその時、ダビデがアヒメレクのもとに身を寄せ、食料と武器を手に入れ、さらに主の託宣をも得たということが、ドエグというエドム人によって伝えられたのです。ドエグは21章8節にあったように、ダビデがアヒメレクのもとに来た時、そこにいたのです。このことを聞いたサウルはその怒りをアヒメレクに対して爆発させます。彼はアヒメレクとノブの祭司たちすべてを呼び出し、詰問します。13節。「サウルは言った。『何故、お前はエッサイの子と組んでわたしに背き、彼にパンや剣を与え、神に託宣を求めてやり、今日のようにわたしに刃向かわせ、わたしをねらわせるようなことをしたのか』」。アヒメレクは自分の無実を主張します。14、5節。「アヒメレクは王に答えた。『あなたの家臣の中に、ダビデほど忠実な者がいるでしょうか。ダビデは王様の婿、近衛の長、あなたの家で重んじられている者ではありませんか。彼のため神に託宣を求めたのはあの折が初めてでしょうか。決してそうではありません。王様、僕と父の家の者に罪をきせないでください。僕は事の大小を問わず、何も知らなかったのです』」。しかしサウルは聞く耳持たず、彼ら全員に死刑を宣告します。家臣たちはさすがに、祭司たちに手を下すことを躊躇したので、サウルはエドム人であるドエグに命じて彼らを殺させます。こうして、祭司85人が殺され、さらに、祭司の町ノブの人々が、男も女も、子供も乳飲み子も、牛もろばも羊も、皆殺しにされたのです。元来このような皆殺しというのは、イスラエルがカナンの地を攻め取った時に、その町々に対して行われたことでした。それが今、同じイスラエルの、しかも祭司の町に対して行われたのです。サウルはこのことによって、自分が神様に見捨てられた者だということをはっきりと表わしてしまったと言うことができるでしょう。もはやサウルは自分の気に入らない者を皆殺しにする単なる暴君となってしまったのです。アヒメレクの息子が一人だけ、この難を逃れてダビデのもとに逃げてきました。アビアタルという人です。ダビデは、「こんなことになってしまった原因は私にある」と言って詫び、アビアタルに、自分のもとに留まるように、自分が必ずあなたを守ると約束します。

 さて以上が21章22章のあらすじです。ここには、逃亡の生活の中であらゆる手段を使って身を守り力を蓄えようとするダビデの様子と、ますます血迷って暴君と化していくサウルの姿が描かれています。ここから私たちはどのようなことを読み取ったらよいのでしょうか。アヒメレクのもとでダビデが食物と武器とそして神様の託宣を得た、という話は、新約聖書において、主イエスがそのことに触れておられます。本日共に読まれたマタイ福音書12章にそれが語られています。ある安息日に、主イエスの弟子たちが空腹だったので麦の穂を摘んで食べていたのを、ファリサイ派の人々が、安息日にしてはならないことをしている、と非難したのに対して主イエスは、ダビデがアヒメレクのもとで、祭司しか食べてはいけないはずの聖別されたパンを食べたことをあげて反論しておられるのです。そこで主イエスが言っておられるのは、安息日の掟も、こういう緊急の場合には破られることがある、ということではありません。主イエスは「もし『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪のない人たちをとがめなかったであろう」と言われました。つまり、神様が、安息日の掟を人々に与えられたのは、憐れみのみ心によるのであって、人々を空腹のままで放置させておくためではない、ということです。神様のみ心は、人々が必要な糧を与えられて豊かに養われていくことなのです。そのためには、聖別されたパンをダビデに与えることも、弟子たちが安息日に麦の穂を摘んで食べることも、神様はよしとなさるのです。つまり、このアヒメレクのもとでのダビデの話は、緊急時の特例としてではなくて、神様が、困窮の内にあったダビデを養って下さったという、神様の憐れみのみ心の表れとして見つめられているのです。そしてダビデがこの時養われ、支えられたのは、食物と武器という物質的なものだけではありませんでした。先程見たように彼はここでアヒメレクから神様の託宣を得たのです。み言葉の示しを受けたのです。それは食物や武器にも勝る養いであり支えでした。食物もなく、一ふりの剣も持たずに単身逃げていくダビデは、ここで、必要なものを与えられ、さらに神様のみ言葉による励ましを与えられたのです。そのみ言葉による励ましと導きは、次の22章においては、預言者ガドによっても与えられました。「ユダの地に出て行け」との示しは、先程申しましたように、神様が自分をどのように導き、どうなさろうとしておられるのか、それがはっきりする場に身を置けということです。預言者の示しによってダビデはその勇気を与えられ、それによって道が開かれていったのです。この預言者ガドはダビデと行動を共にしていったようです。この人は、サムエル記下の24章にもう一度登場します。そこには、「ダビデの預言者であり先見者であるガド」という言い方がなされています。ダビデは逃亡の歩みの中で預言者ガドと出会い、彼と共に歩み、常に彼を通して神様のみ言葉を聞き続いていったのでしょう。ダビデの歩みはここから、預言者と共なる歩みとなったのです。

 ダビデがアヒメレクのもとに身を寄せたために、22章に語られている大きな悲劇が起こりました。それはサウルがもはやイスラエルの王としての資格を完全に失ったことを明らかにする出来事でした。しかしそれと同時に、このことによって、アヒメレクの息子アビアタルがダビデのもとに来て、やはり行動を共にするようになりました。そしてこのアビアタルは後に、ダビデ王のもとで、祭司としての務めを担う者となったのです。エリの血を引く、由緒正しい祭司が、ダビデのもとに来て、共に歩むようになりました。ダビデの歩みはここから、祭司と共なる歩みとなったのです。つまりこの逃亡の生活とそこで起こった悲劇を通して、ダビデのもとに、預言者と祭司とが来て共に歩むようになったのです。それは彼が王となっていくための、重要な準備となりました。預言者を通して神様のみ言葉を聞きつつ、祭司によって神様を礼拝しつつ、彼は王となる供えをしていったのです。ダビデが逃亡の生活の中で、このような神様の導きと養いのもとに置かれたということを、私たちはここから読み取ることができるのです。

 神様はこのように、ダビデに必要な助けを与え、彼を養い、導いて下さいました。その養いと導きの中心には、預言者と祭司の働きがあります。それらを通してダビデの歩みは、神様のみ言葉によって導かれるものとなり、また、神様を礼拝しつつ、神様と共に歩むものとなったのです。私たちは今、このダビデに与えられたのと同じ神様の養いと導きを、主イエス・キリストによって与えられています。主イエスは、私たちにみ言葉を示して下さる預言者であり、また私たちと父なる神様との間をとりなして下さり、私たちの礼拝と祈りを導いて下さる祭司であられます。まことの預言者であり、まことの祭司である主イエス・キリストが、私たちと共に歩んで下さっているのです。この主イエスによって私たちは、神様のみ言葉を示されています。主イエスご自身が、人となったみ言葉です。そのみ言葉は、「わたしが求めるのは憐れみであっていけにえではない」と語っています。神様は、私たちから何かを要求し、私たちを空腹のままでいさせようとなさるお方ではなくて、私たちに必要なものを与え、豊かに養って下さる方なのです。そして主イエスは、その憐れみのみ心のゆえに、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さいました。祭司の務めは、人々の罪の贖いのために犠牲の動物を捧げることです。しかし主イエスはそのためにご自身の命を捧げて下さったのです。この主イエスによって、私たちは、神様のみ言葉による導きを受け、神様を礼拝しつつ、神様と共に歩むことができるのです。迎えようとしている2001年、21世紀最初の年が、私たちにとってどのような年となるのか、誰も知ることはできません。このダビデのように、苦しい、つらい歩みを強いられることもあるでしょう。しかし、まことの預言者でありまことの祭司である主イエス・キリストが常に私たちと共にいて下さるのです。この方の養いと導きの中で、私たちは、自分にとってのユダの地へと、勇気をもって歩み出していきたいと思います。

牧師 藤 掛 順 一

[2000年12月31日]

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