富山鹿島町教会

礼拝説教

2000年 キャンドル・サービス
「その星を見て喜びにあふれた」
マタイによる福音書 第2章1〜12節

 教会のクリスマス、キャンドル・サービスにようこそおいで下さいました。今年は紀元2000年、20世紀最後の年です。今わたしたちは、20世紀最後のクリスマスを祝っており、あと数日で21世紀を迎えようとしています。この記念すべき20世紀最後のクリスマスを、皆さんと共にお祝いすることができるのは大きな喜びです。

 今終わろうとしている20世紀は、どのような世紀だったのでしょうか。様々なことが言われています。一つには、科学と技術の飛躍的な発展の世紀であったということです。例えば、ライト兄弟が飛行機を発明したのは1903年のことです。それから百年を経ずして、人類は月にまでその足跡を記し、今や有人宇宙ステーションの時代になろうとしています。今年日本人が化学賞を受賞したノーベル賞が始まったのは1901年ですが、その最初の受賞者となったのは、1895年にエックス線を発見したレントゲンでした。それに代表される、原子の世界についての知識とそれを活用する技術は、19世紀までにはほとんどなかった、今世紀になって実質的に得られ、そして飛躍的に進歩したものであると言えるでしょう。そのようなこの世紀における科学と技術の進歩によって、人間の生活は画期的に変わりました。本日のように、わざと電気を消してろうそくの火を灯してキャンドル・サービスを行うということも、そのような進歩が生んだ産物であると言うことができるでしょう。

 20世紀は、そのように科学と技術の世紀であった、と言われる時、必ず同時に語られることは、この世紀は戦争と殺戮の世紀であったということです。「世界大戦」というものは前世紀まではなかったのです。20世紀になって、世界は二度の世界大戦を経験しました。そして戦争の様相もすっかり変わりました。軍隊と軍隊がどこかで対戦して勝ち負けが決まるようなそれまでの姿から、一般の人々、いわゆる非戦闘員をも巻き込んでの殺戮になったのも今世紀からです。それは先に述べた科学と技術の進歩と結びついています。科学技術は、大量殺戮兵器をも生み出しました。その最たるものが原子爆弾です。今や地球上には、人類を何度も全滅させることができる量の核爆弾が存在する。我々はそういう爆弾をかかえて生きているのです。さらに、あのナチス・ドイツによるユダヤ人大量虐殺のことをも、今世紀の特筆すべき出来事として記憶に留めておくべきでしょう。一民族を根絶やしにしてしまおうということが、国の政策として、組織的に行われたというのは、少なくとも近代の世界においては例のないことです。その結果、600万人と言われるユダヤ人が虐殺されました。人間とはこのような残酷なこともできる存在なのだということが、この20世紀に明らかにされたのです。

 さらにもう一つ、20世紀は人口爆発と環境破壊の世紀であったということもあげておかなければなりません。いわゆる先進国では、少子化、高齢化が問題となっていますが、発展途上国を中心に、世界の人口はどんどん増加しています。それは公衆衛生の向上などによる喜ばしいことでもあるのですが、しかしそれは直ちに食料問題に結びついてきます。慢性的に飢餓をかかえている地域があります。そしてこの飢餓の問題は、今のところはまだ、世界全体の食料の絶対量が足りないということではなくて、むしろ一部の豊かな国にそれが集中しているという分配の問題、いわゆる南北問題なのです。これもまた、20世紀に生じてきた問題です。それに加えて環境の問題があります。環境汚染、二酸化炭素濃度の上昇、地球温暖化などは、人類の生存を脅かす大問題として、20世紀が21世紀に残すツケなのです。

 20世紀をふりかえって見る時、他にもいろいろなことをあげることができるかと思いますが、私たちは、このような世紀を終え、新しい21世紀へと歩み出そうとしています。21世紀はどのような世紀になるのでしょうか。それが明るい、希望ある世紀であって欲しいと誰もが思っています。しかし、今見てきたいくつかのことを考えてみるだけでも、私たちはそんなに楽観的ではいられない。この国のことだけをとってみても、先日、宮沢大蔵大臣が、「自分は大変な借金を残した大蔵大臣として歴史に残るだろう」と言いましたが、それと同じで、20世紀は、大変な借金、ツケを21世紀に残したまま終わろうとしているのです。それを負っていかなければならないのは私たちです。日本の借金は日本人が払っていかなければならない、20世紀のツケは、21世紀を歩んでいく私たちにかかってくるのです。

 それゆえに、21世紀を迎えようとしている今、私たちは、浮かれ騒いではいられません。明るい未来に向かって前進していく、というような気分ではいられないのです。むしろ私たちは今、深い闇の中で、私たちを導いてくれるものを求めているのではないでしょうか。あそこを見つめて、あそこへ向かって歩んでいけば、努力していけば未来が開かれる、そういう目あてを捜し求めつつ、私たちは20世紀から21世紀への転換点を迎えているのです。

 マタイによる福音書が語るクリスマスの物語が先程読まれました。そこには、星に導かれてはるばる旅をし、生まれたばかりの幼子イエス・キリストを拝み、贈り物をささげた人々のことが語られています。それは東の国から来た占星術の学者たちです。占星術というと今日の「星占い」を想像してしまいますが、当時の占星術というのは今日で言えばむしろ天文学であり、彼らは当時の最先端を行く学者たちだったのです。様々な知識を持ち、世の中のこと、その国の、また世界の状況などをよくわきまえていた人々だったでしょう。その人々が、ある時、自分の国、家族、学者としての生活から一旦離れて、長い、危険な旅に出たのです。それは、ある特別な星が現れたのを見たからでした。その星は、ユダヤの国に、王様が生まれたことを告げる星でした。それが単にユダヤ人の王というだけであるなら、ユダヤ人ではない彼らには何の関係もないことだったでしょう。しかし彼らがそこに見たのは、全世界のまことの王、救い主、世界の希望の星の誕生の徴だったのです。つまり自分たちをも本当に治め、導いてくれるまことの王の誕生を彼らは確信したのです。そこで彼らは、そのまことの王に会うために旅立ちます。その王がどこにいるのか、彼らにはわかりません。ただ、その誕生を知らせる不思議な星の方向へと彼らはひたすら歩いていきます。その星だけを見つめ、その星が常に真正面にあるようにして、おそらくラクダに乗って、砂漠を旅していったのです。広い砂浜でまっすぐに歩くためにはどうしたらよいか、という話を聞かれたことがあろうかと思います。そのためには、自分の足元を見ていたのではだめなのです。遠くの一点をじっと見つめて、そこから目を離さずに歩いていくときに、その足跡はまっすぐになるのです。学者たちの足跡も、まっすぐなものとなったでしょう。あの星を見つめ、ひたすらその方向へと歩んでいったからです。

 20世紀から21世紀へと歩み出そうとしている私たちが、今捜し求めているのは、この星なのではないでしょうか。それを見つめ、そこへ向かって努力していく目あて、それがしっかりと見定められれば、私たちの歩みはまっすぐなものになるのです。しかしそういう目あてとなるものが見えていないと、目先のものに左右されて、あっちへ行ったりこっちへ来たり、ふらふらとした歩みになってしまうのです。暗闇の中で新しい道を模索しているのが今の私たちです。その道は、足元を見ていても見出すことができません。むしろはるかかなたに、輝く星を見出すことが必要なのです。そしてその星を見たなら、そこへ向かって旅立つことが必要なのです。今こうして教会のキャンドル・サービスに来られた皆さんは、ある意味で、それぞれの家や生活から旅立ってここへ来られました。一念発起して来られたと言ってもよいでしょう。その皆さんが、ここで、はるかかなたに輝く星を見出し、その星を目指してさらに旅を続けていかれることを期待したいのです。

 学者たちは、星に導かれて旅していきました。それは何のための、何を目指しての旅だったのでしょうか。今より良い生活をするため、より豊かになるため、より充実した人生を送るために旅していったのでしょうか。はるかかなたに輝く星を見出し、その星を目指して旅していくというのは、例えば若い人が、自分は将来このような仕事につき、このような家庭を持ち、このような財産を蓄え、豊かな生活をしたい、そういう希望や理想を思い描き、そこへ向かって努力していく、というようなことと同じなのでしょうか。そうではないのです。学者たちは、星に導かれてついにその目的地に着きました。そこで彼らがしたことは、「彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」ということでした。つまり彼らは、自分のまことの王様、救い主の前にひれ伏したのです。その方を拝み、礼拝したのです。そして自分の最も大事にしているものを献げたのです。彼らはそのことのために旅してきたのです。彼らが見つめ、そこへと向かって旅してきた星は、自分の希望や理想を実現するという星ではなくて、自分が本当にひれ伏して、その方に身を捧げる、そういう相手を見出すこと、自分を本当に正しく治め、導き、守り、支えてくださる王の前に膝をかがめることだったのです。そして実はそのことこそ、私たちの人生に本当の喜びを与えるのです。私たちが喜んでこの人生を歩み、暗闇の中でも光を見つめて生きていくことができる力は、その喜びからこそ来るのです。「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」とあります。本当にひれ伏して拝むべき方のもとへと導かれる時、私たちは本当の喜びに生きることができるのです。

 21世紀へと歩み出そうとしている私たちが今見つめるべき星はこの星なのではないでしょうか。20世紀の歩み、それは、人間が主人になって、中心になって、人間のために科学や技術を用い、人間のために自然を破壊してきた歩みでした。それらのことのツケが次の世紀にまわされようとしています。今後私たちは、20世紀とは違う星を見つめ、新しい道を歩んでいかなければならないと思うのです。それは、自分が主人になり、中心になるのではなくて、まことの王の前にひれ伏し、その方に従っていくという歩みです。勿論その王様は誰でもよいわけではありません。その王が、ここに出てくるヘロデのような王であったり、あるいはヒトラーのような者だったら、それは大変なことになります。しかし、東の国の学者たちがそのみ前にひれ伏した、2000年前、ベツレヘムの馬小屋でお生まれになった主イエス・キリストはそのような方ではありません。この方は、私たちのために、苦しみを引き受け、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さった方です。神様が、命がけで私たちを愛し、導いて下さる、その恵みがこのイエス・キリストにおいて示されているのです。この王は、その恵みによって私たちを治めるためにこの世に来て下さったのです。クリスマスはこの、私たちのまことの王であられる主イエス・キリストの誕生を喜び祝う時です。この方のもとへと私たちを導いていく星が、今私たちの心に輝いているのです。その星を目あてに、ご一緒に旅立とうではありませんか。そこには、私たちが20世紀の歩みの中でどこかに置き忘れてきてしまった、本当の喜びへの道があります。「その星を見て喜びにあふれた」。その喜びを私たちも味わいつつ、21世紀へと歩み出していきたいのです。

牧師 藤 掛 順 一

[2000年12月24日]

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