富山鹿島町教会

礼拝説教

2000年 クリスマス記念礼拝
「あなたがたの天の父」
イザヤ書 第9章1〜6節
マタイによる福音書 第6章25〜34節

 私たちの人生は、思い悩みに満ちています。苦しみや悲しみ、不安、心配事、どうしたらいいのかわからないことを、私たちはそれぞれに自分の中にかかえて生きているのではないでしょうか。そのような中で、毎年、クリスマスがやってきます。クリスマスは、主イエス・キリストのご降誕を祝う、教会の最大の喜びの時です。教会においてだけでなく、世間の街中でも、明るく楽しいクリスマス・ムードが盛り上げられています。喜びの時クリスマス。しかしそれを本当に喜ぶことができるか否かは、私たちの心の状態による、何の悲しみも不安もなく、むしろ幸福を感じている時には、クリスマスの喜び祝いに心を合わせ、自分も喜ぶことができる、しかし思い悩みに陥っている時には、苦しみや悲しみの淵にいる時には、クリスマスの喜びや祝いにはついていけない、それはどこかよその世界のことのように感じる、というのが私たちの思いなのではないでしょうか。クリスマスを祝うことができるのは、悩みのない幸せな人だ。そのように感じる私たちに、本日このクリスマスの礼拝において与えられているみ言葉は、「思い悩むな」という主イエス・キリストのお言葉なのです。「思い悩むな」。何の悩みもない人にそんなことを言っても意味はないでしょう。思い悩みをかかえている人、クリスマスの祝いなど私にはそぐわない、お祝いをするような気持ちではない、そういう重たい気持ちをひきずってこの場に集っている人に対して、主イエス・キリストは今日、語りかけておられるのです。「思い悩むな」と。

 しかし、何故思い悩まなくてよいのでしょうか。「まあそうくよくよと悩んでいないで、気を楽に持って」などという無責任な慰めならごめんです。そんなことでは何も解決しないし、悩む者にとってはそういう言葉は、相手の悩みのない気楽な状態を見せつけられるようなもので、かえって苦痛を増すばかりです。主イエスがここで言っておられるのは、そんな無責任な話ではありません。そのみ言葉をもっと詳しく読んでみましょう。「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」と主イエスは言われました。「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか」、そういう思い悩みを主イエスは見つめておられるのです。日々の生活についての思い悩みです。それは些細なことではありません。これが語られた当時、その日の食物にも不足するような貧しい生活を多くの人々がしていたのです。ですからこれはまことに切実な、生きるか死ぬかという問題なのです。それを主イエスは、「自分の命と体」についての思い悩みと呼んでおられるのです。今日私たちは、「自分の命と体」についての思い悩みを、「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか」というのとは違う形で持っています。食べ物や着物は、私たちの社会ではそれに事欠くということはまずなくなりました。けれども命と体についての思い悩みは別の形で、ある意味ではより深刻な仕方で私たちを捕えているのです。

 「命」と訳されている言葉は、単なる肉体の命のことではありません。そういう意味はむしろ「体」という言葉の方に込められています。「命」は「魂」とも訳せる言葉です。私たちの魂を本当に養い支えはぐくむ糧とは何か、それはどこにあるのか、それが見失われてしまっているところに、今日の私たちの思い悩みの中心があるのではないでしょうか。ただ肉体として生きていくだけなら、なんとかできるようになった。昔の人はそのために必死になっていたのです。しかし今にして思えば、そういう時代はかえって幸せだったのかもしれない。物質的に豊かな社会となり、その日食べるものに困るようなことがなくなった今、私たちの魂がどうしようもなく飢えてしまっており、衰えてしまっていることを感じるのです。そしてこの命についての思い悩みと並んで、今、体についての思い悩みが、昔とは違った形で私たちを捕えています。医学の進歩などにより、人間の寿命は飛躍的に延びました。それは喜ばしいことですが、反面そこに、高齢化の問題が生じています。誰もが元気に老いていき、ある日突然ぱっと天国に行けるなら、こんな幸せなことはありません。しかし多くの場合そうはいかない。次第に弱っていき、自分の体が思うに任せなくなっていく、介護を必要とするようになっていく。それによって、介護を受ける側にも介護する側にも、大きな負担がかかってきます。そこには、体についての新たな思い悩みが生じているのです。私たちが今体験している様々な思い悩みは、とどのつまりはこれらのことに帰着するのではないでしょうか。

 このように、命のこと、体のことについての思い悩みは、新しい仕方で私たちを捕えています。自分はそういう思い悩みと関係がない、と言える人はいないでしょう。そういう私たちに対して主イエスは、「思い悩むな」と言われるのです。それは何故か。「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」と主は言われます。これはわかるようでわからない言葉です。命の方がそれを養う食べ物よりも大切であり、体の方がそれを守る衣服より大切なのはその通りです。しかしだからといって食べ物や衣服がなくてもよいということにはならないはずです。この言葉の意味を理解するためには、その後の26節以下を読んでいかなければなりません。そこには、空の鳥を見なさい、野の花を見なさいという教えが語られていきます。空の鳥は、種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない、野の花は、働きもせず、紡ぎもしない、つまり、鳥も花も、思い悩まずに生きているのです。そういう姿を見なさいと主イエスは言われるわけですが、これも私たちには納得できない点があります。鳥や花に感情や言葉があったとして、彼らに「君たちは何の思い悩みもなくのんびりと生きていていいねえ」などと言ったらどう言うでしょうか。鳥は悠々と空を飛んで遊んでいるように見えますが、彼らはその日の食べ物を得るために必死になっているのです。花が美しく咲いているのも、ファッションを楽しんでいるのではありません。花粉を飛ばし、虫を呼び、種の保存のために努力しているのです。ですから彼らを、思い悩みなしに暢気に生きている例とするのは失礼というものです。実は主イエスもそういうことを言っておられるのではありません。空の鳥を見なさい、野の花を見なさいというのは、彼らの暢気さを見習えということではないのです。大切なのは、「あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる」「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる」という言葉なのです。神様が、鳥たちを養っていて下さる、神様が、野の花を、栄華を極めたソロモンにもまさる仕方で美しく装っていて下さる、その神様の養い、守り、導きの恵みを、鳥や花を通して見なさいと主イエスは言っておられるのです。そして、それぞれのところに、「あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」「まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」という言葉が加えられています。神様が空の鳥や野の花を養い、装っていて下さるなら、あなたがたにはなおさら、それ以上の養い、装い、導きを与えて下さらないはずはない、あなたがたは、鳥や花よりもはるかに価値のあるものなのだ、そう主イエスは言っておられるのです。

 人間は鳥や花よりも価値ある存在だ、と言うと、「それは人間の傲慢だ、そういう考えから、自然破壊が始まるのだ、そういう考えは捨てて人間を自然の一部と考えるべきだ」と目くじら立てて言う人がいるかもしれません。しかしこれはそういう話とは違うのです。ここに語られているのは、人間が、自分たちは鳥や花よりも価値あるものだと主張しているということではなくて、神様が、私たち人間のことをどれだけ大事に思っていて下さるか、ということです。神様は、ご自分がお造りになった自然を、大事に養い、装っていて下さいます。空の鳥、野の花はその代表です。しかしそれ以上に、私たち人間を愛し、養い、守り、導いていて下さるのです。「あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる」とあります。神様は「あなたがたの天の父」なのです。私たちが、鳥よりも価値あるものであるというのは、神様にとって、私たちが子であるということです。鳥や花は、神様に創られた被造物です。私たち人間もそうです。しかし神様は、私たちを、他の被造物とは違って、ご自分の子と呼んで下さる、私たちの父となって下さる、父として、私たちをはぐくみ、養い、守り、導いて下さるのです。「まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」というのはそういう神様の私たちに対する特別な恵みを意識した言葉なのです。

 25節の「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」という言葉も、この神様の恵みを前提として読まれなければなりません。それは、命と食べ物と、体と衣服と、どちらがより大切かという話ではないのです。神様は、あなたがたを子として愛しておられ、あなたがたの命と体を養い、守り、はぐくんでいて下さる、そうであるならば、その命のために必要な食物を、体のために必要な衣服を、必ず与えて下さるのだ、ということです。命と体は本質的なものです。食物と衣服はそれを支える補助的なものです。本質的なものが神様によって守られているなら、補助的なものが与えられないはずはないのです。それが、「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」という言葉の意味なのです。そうするとそこから、「思い悩むな」という教えに込められた大事なメッセージが浮かび上がってきます。天の父なる神様が、私たちを、子として、その命と体、本質的なものを養い、守り、はぐくんでいて下さる、そのことを信じて生きる時に、私たちは、補助的なものへの思い悩みから解放されるのです。私たちの抱く思い悩み、それは常に補助的なものに対する思い悩みなのではないでしょうか。命と体を支え、充実させ、養っていくためには、あれが必要だ、これも必要だ、しかしあれも不足している、これも足りない、そういう中で私たちは思い悩んでいくのです。それが、食物や衣服のための思い悩みです。しかし主イエスは私たちに、「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」と言われます。それは、あなたがたの命と体を、つまりあなたがたの本質的なところを、養い、守り、はぐくんでいて下さる天の父なる神様がおられるのだ、その神様の恵みに目を向けなさい、ということです。

 このことは、私たちがこれまで、19節以下で読んできたこととつながります。そこには、地上にではなく、天に富を積め、ということが教えられていました。神と富とに共に仕えることはできない、とも語られていました。それは、私たちを本当に支え、養い、導いてくれる拠り所は、地上に、つまり私たちが自分のものとして持っているなにものかにではなく、天に、つまり神様の恵みにこそある、ということでした。地上の富、自分が持っている様々な意味での財産、力、そういうものに目を向け、それにより頼んで生きるのが、地上に富を積み、富に仕える生き方です。それに対して、神様の恵みをこそ拠り所として、そこに目を向け、それにより頼んで生きるのが、天に富を積み、神に仕える生き方です。このことがそのまま、本日の個所にもつながっていきます。命と体、その私たちの本質的なものを養い、守り、はぐくんで下さる天の父なる神様の恵みに目を向けることが求められているのです。それに対して、食物と衣服について、補助的なものについて思い悩んでいくこと、それは、自分が持っているもの、自分の財産、力に目を向け、それにより頼んでいくところに起こってくることなのです。私たちが「あれがない、これが足りない」と思い悩むものは全て、私たちが何らかの意味で持つもの、私たちの力や知恵です。つまり、地上に富を積み、その自分の富に仕えて生きようとするところに、思い悩みが生じるのです。ですから「思い悩むな」という教えは、「天に宝を積め」という教えと同じことを言っているのであって、あなたがたの天の父である神様の恵みを信じ、その恵みをこそ見つめ、そこに拠り所を置いて歩めということなのです。

 しかしこのことは何によって保証されるのでしょうか。神様が私たちの天の父であられ、私たちのことを、何にも増して、子として愛しておられるということは、どうして言えるのでしょうか。実はそれこそが、クリスマスの恵みなのです。クリスマスは、神様の独り子イエス・キリストが、人間となってこの世に生まれて下さったことを覚え、記念する時です。主イエス・キリストは神様の独り子です。神様がご自分の子として愛し、また神様を父と呼ぶことができるのは、本来この主イエス・キリストだけなのです。しかしその独り子主イエスが、人間となってこの世に生まれて下さいました。しかもベツレヘムの馬小屋の中で、人間の居場所にいることもできない貧しさの極みの中で、私たちのところに来て下さったのです。そのようにして神様の独り子主イエスが私たちのところに来て下さり、共にいて下さるのです。それがクリスマスの恵みです。そしてその主イエスが、ご自分の父なる神様を「あなたがたの天の父」と呼んで下さるのです。私の父はあなたがたの父でもあると言って下さるのです。あなたがたも私と共に神の子となるのだと言って下さるのです。私たちはこの主イエス・キリストを通して、神様を天の父と呼ぶことができます。主イエス・キリストを通して、神様は私たちの天の父となって下さり、私たちを子として愛して下さるのです。独り子主イエスがこの世に来られたのはそのためでした。クリスマスの恵みによって神様は、「私たちの天の父」となって下さったのです。

 「思い悩むな」と教えられた主イエス・キリストは、私たちの数々の思い悩み、苦しみ、悲しみを背負って歩まれました。主イエスご自身の歩みは、決して思い悩みや苦しみのない、暢気なものではなかったのです。そしてその歩みの果てに、主イエスは私たちの罪を背負って十字架にかかって死なれました。神様の独り子が、罪人である私たちの身代わりとなって死んで下さったのです。神様が私たちを、ご自分の子として特別に愛して下さっている、その恵みは、そこにまで至るものだったのです。クリスマスの出来事に始まる、主イエス・キリストの、私たちの悩みや苦しみや罪を負って下さる歩みを通して、私たちは神様の天の父としての愛を受けているのです。だから、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って、思い悩むな、と主は言われます。「それはみな、異邦人が切に求めているものだ」。異邦人とは、まことの神を知らない人々です。独り子主イエスをこの世に遣わし、主イエスによって私たちをも子として愛して下さる天の父なる神様を知らない人々は、自分で自分の命と体とを守り、養い、支えていかなければならないのです。そのために様々な地上の富を得ようと必死になるのです。しかし、「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」。主イエス・キリストによって私たちの父となって下さった神様の愛を知っている者は、神様が、私たちの命と体を養って下さり、そのために必要なものを全てご存じであり、それを与えて下さることを信じて生きることができるのです。

 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と主イエスは言われました。「これらのもの」とは、「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか」という、命と体を支えるために私たちが持っていなければと思うもの、拠り所としているものです。しかし主イエス・キリストによって神様の子とされている私たちは、命と体を支えるために自分が何かを得ようとするのではなくて、まず、神の国と神の義とを求めていくのです。神の国とは神様のご支配、神の義とは神様の御心にかなった歩みです。つまり神様が私たちを支配して下さり、私たちが神様に従い、その御心にかなったことを行っていく、そのことをこそ求めていくのです。その神様のご支配とみ心によってこそ、私たちの命と体が支えられ、養われ、はぐくまれていくからです。そのために必要なものを神様は必ず加えて与えて下さるのです。このことは、この6章の少し前のところに教えられていた、「主の祈り」を祈るということでもあります。私たちはまず、「御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と祈るのです。そう祈った上で、「私たちに必要な糧を今日与えて下さい」と祈っていくのです。そしてそのように祈ることができるのは、「天におられるわたしたちの父よ」と神様に呼びかけることができるからなのです。

 「思い悩むな」との教えは、私たちに、天の父である神様への信頼に生きることを教え、求めています。信仰とは、結局はこの神様への信頼です。神様を信頼して生きるか、それとも自分が持っているもの、自分の豊かさ、力を、つまり地上の富を信頼して生きるか、そのことが問われているのです。天の父なる神様は目に見えません、その恵み、養いや導きも、はっきりと目に見えるものではありません。目に見えるものしか信頼しない、というのであれば、まず神の国と神の義とを求めることはできないでしょう。信仰とはそれゆえに一つの冒険です。目に見えない方の恵みを信頼して、目に見える支えではなく、まず神の国と神の義とを求めていくという、信頼の冒険なのです。私たちがこの冒険を敢えてするのは、神様の独り子がこの世に来て下さったからです。2000年前、ベツレヘムの馬小屋で、主イエス・キリストがお生まれになった。それは神様が、その独り子を、罪に満ちた、苦しみと悲しみに満ちたこの世に送ってくださるという冒険を敢えてして下さったということです。しかもその冒険は、私たちの罪を背負って主イエスが十字架の苦しみと死を引き受けて下さるということに至る冒険です。つまりそれは自分のための冒険ではなくて、私たちのための、私たちを神様の子として新しく生かして下さるための愛の冒険なのです。主イエス・キリストがこの世にお生まれになり、その愛の冒険を開始して下さった、それがクリスマスの出来事の意味です。その主イエスの、神様の、愛の冒険に支えられて、私たちも、罪深い自分が、様々な思い悩みを持ちつつ、天の父なる神様の子とされているという恵みを信じて、神様への信頼の冒険に旅立つのです。

 神様が、私たちの天の父として、私たちの命と体を養い、支え、はぐくんで下さる、その恵みに信頼して、まず神の国と神の義とを求めて生きていく、その私たちの信仰の歩みは、全く思い悩みのない、暢気なものになるのかというと、そうではありません。34節に「だから、明日のことまで思い悩むな、明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」とあります。信仰を持ち、神様に信頼して生きる歩みにおいても、その日その日の苦労はあるのです。思い悩みがあるのです。しかし、その思い悩みは、私たちを押しつぶし、もう明日へ向かって歩んでいくことができなくなってしまうようなものではありません。「あなたがたの天の父」が、私たちの命と体のために本当に必要なものをご存じであり、それを与えて下さる、この地上における命が取り去られる時にも、神は父としての恵みをもって私たちを導いて下さる、その信頼を与えられている者は、その日の苦労をその日の苦労として背負っていく力を与えられるのです。思い悩みがなくなってしまうことはない。しかし、自分の命と体のことを、基本的に天の父なる神様にお任せして、信頼と安心の内に生きることができるのです。私たちにそのような歩みを与えるために、主イエス・キリストはこの日、この世にお生まれになり、そして今、「思い悩むな」と私たちに語りかけておられるのです。

牧師 藤 掛 順 一

[2000年12月24日]

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