富山鹿島町教会

礼拝説教

「富は天に積め」
詩編 第40編1〜18節
マタイによる福音書 第6章19〜21節

 マタイによる福音書第6章を読み進めながら、クリスマスに備えるアドベントの時を歩んでいます。マタイ福音書の第5章から第7章は、「山上の説教」と呼ばれている所です。すでに何度か、この山上の説教全体の構造ということについてお話しました。山上の説教は、主イエスの教えをただやみくもに並べただけのものではなくて、そこには非常に周到に考えられた構造があるのです。それを図にしたプリントを「聖書を学び祈る会」においてお配りしました。それは受付の棚のファイルに収められていますから、関心のある方はお持ちいただきたいと思います。その図を見ていただくと早いのですが、山上の説教は、最初と最後のところが対応しており、一番外側の枠を作っている、その内側にさらに何層にも枠がある、言わばたまねぎ構造になっているのです。そのたまねぎの中心、芯の部分が、「主の祈り」です。主の祈りを中心にして、それを包み込むように様々な教えが配置されているのです。その主の祈りを直接包んでいる部分が、6章1〜18節です。ここには、施し、祈り、断食という三つの信仰の行為について語られていました。それを、「見てもらおうとして、人の前で」するなと教えられていたのです。その第二の「祈り」についての教えの中に、主の祈りが語られていたのです。そのような構造を見ていくと、本日の19節からは新しい部分に入るということがわかります。6章1〜18節を包んでいるもう一つ外側の枠の部分に入っていくのです。この部分はどこまで続いているかというと、7章11節までです。私たちの持っている訳では、7章11節と12節の間には切れ目がありませんが、本来ここには段落を設けるべきところです。6章19節から7章11節までが一つのまとまりをなす部分なのです。そしてここと対応して枠を作っている部分はどこかと言うと、5章21〜48節です。そこには、「律法にはこう教えられている、しかしわたしは言っておく」という形で、旧約聖書の律法をさらに深め、完成させる主イエスの教えが語られていました。律法は神様がイスラエルの民に、神の民として生きるための指針としてお与えになったものです。当時の人々は律法の文字にとらわれ、それを法律の条文のように受け止め、それさえ守っていれば救いが保証されるかのように考えていました。主イエスはその律法において神様が本当に求めておられたこと、目指しておられたことを明らかにし、そのみ心に従って神様の民として生きる生き方をお示しになったのです。この部分と対応して枠を作っているのが、本日の所から始まって7章11節に至る個所です。ここにも、神様の下で、神様の民として生きる者のあり方が教えられています。信仰を持って生きるとはこういうことだ、ということが様々な形で示されているのです。そして面白いことに、6章19節から7章11節と、5章21節から48節とでは、長さが同じです。長さが同じとは原文においてのことで、翻訳ではそれははっきりしませんが、出版されている新約聖書ギリシャ語原典で数えてみると、この二つの部分はぴったり同じ行数なのです。そこに非常に技巧的なものが感じられます。主の祈りを芯とする中心部分の前後に、同じ長さの、神の民、信仰者としての生き方を語る部分が置かれているのです。山上の説教はそのように周到に考えられた構造を持っているのです。

 さてそういうわけで、本日の所から、信仰者としての生き方が教えられている新しい部分に入ります。その冒頭にあるのは、「地上に富を積んではならない」という教えです。「富」という言葉がここで大事な役割を果たしています。富とは、私たちが持っているもの、有形無形の財産です。しかしそう言っただけでは十分ではないと思います。富とは、私たちが拠り所としているもの、これがあるから自分の人生が、生活が支えられる、と思って大事にしているもの、これを失うまいと大切に守っているものです。その富をどこに積むか、どこにそれを蓄えているか、が問われているのです。

 「地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする」。確かに、地上に蓄えられた富は失われていくものです。あるいは目減りしてしまうものです。このごろでは、銀行の預金すらどうなるかわからない。銀行や証券会社の経営破綻が相次いでいく中で、不安を覚えます。保険だって、何年か前にかけた時には、満期になれば相当増えて返ってくると言われていたのが、今では元本割れしなければめっけものというような時代になってきています。年金制度も危機に瀕している。そういうことを聞くにつけ、まさに、地上に積まれた富はあてにならない、それは失われてしまうことがある、ということを私たちは痛切に感じるのです。  主イエスは、「富は、天に積みなさい」と言われます。それはどういうことでしょうか。「そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない」とあります。地上の銀行は破綻することがある、しかし天の銀行は決して破綻しない、そこに預けたものはしっかりと守られ、必ず、豊かな利息がついて戻ってくる、ということでしょうか。しかし私たちはいったいどうしたら、天の銀行に口座を持つことができるのでしょう。そこに預金するにはどうしたらよいのでしょう。これは大変難しい問題です。

 ルカによる福音書の12章に、ここと共通する教えがあります。33節です。そこを読んでみたいと思います。「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない」。ここには、擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積むための具体的な道が示されています。それは、「自分の持ち物を売り払って施しなさい」ということです。自分の持っているものを全て、貧しい人にあげてしまう、それが富を天に積むことだと言われているのです。

 これはすばらしい愛の行為です。貧しい人、困っている人のために自分を犠牲にして尽くす、究極の愛の行為であると言えるでしょう。天に富を積むとは、そういう愛の行為をすること、世のため人のために尽くすこと、良い行いをすることだということなのでしょうか。そういう良い行いは、神様がそれを私たちの預金として天に蓄えて下さり、後で豊かに報いて下さる、ということなのでしょうか。しかしそれは、私たちが地上に積む富の虚しさ、はかなさを感じているその思いとはかみ合わない、すれ違った教えであると言わなければならないでしょう。地上に富を積んでもそれは確かではない、安心できない、本当に安心できる所に蓄えを持ちたい、つまり自分の富をしっかり持っていることのできる場が欲しい、それが私たちの思いです。ところが、持ち物を売り払って施せというのは、その私たちの富、蓄えを全て捨てよということです。それでは、安心、確かさの基が失われてしまう。神様が豊かに報いてくれると言うが、それはいったいいつのことか。野たれ死にしたら天国に迎えてくれるというのでは困る。愛の業、良い行いをするのはよいが、それでメシが食えるか、と私たちは思うのです。

 私たちの思いと主イエスの教えのこのすれ違い、これに気づくことがまず必要です。私たちは、自分の富、自分が持っている有形無形の財産を、しっかり確保して、自分の人生の土台としたい、しっかりとした拠り所を得たいと思っています。天に蓄えることでそれが保証されるならそうしようと思います。しかし主イエスがそこで求めておられるのは、自分の富を捨てることです。それは、自分が持っているもの、様々な意味での自分の財産、それを拠り所とすることをやめることです。その富、財産の中には、良い行いという財産も含まれています。ですから、「自分の持ち物を売り払って施す」ということを、「自分を犠牲にして人のために尽くすすばらしい愛の行為」ととり、そういう良い行いという財産を天に蓄えて自分の預金とする、と理解したらそれは間違いなのです。それはお金とは違った形で自分の富を蓄え、それを拠り所として生きることです。そうなると、何か良い行いをするごとに、これで天国銀行の自分の口座の預金額が上がったと、まるで自分の預金通帳の預金額が次第に上がっていくのを喜ぶような思いで考えるようになります。そして、これだけがんばって沢山預金したのだから、神様は自分にしっかりと報いて下さるべきだと、神様に貸しを作ったような思いになります。そこにもし何か不幸なことが起こってきたりすると、今まであんなに頑張って良い行いを天に蓄えてきたはずなのに、あれは何だったのか、自分の預けたあの富はどうなってしまったのか、と思うようになります。つまり、虫も食わず、さび付くこともなく、盗まれることもないはずの天に蓄えたつもりの富も失われてしまうのです。それは、その富が本当に天に蓄えられてはいなかったということです。「自分の良い行い」という富は、天にではなく、自分の心の中に、つまり地上に蓄えられているのです。主イエスが、「自分の持ち物を売り払って施しなさい」と言われたのは、愛の業、良い行いという富を蓄えなさいという意味ではありません。このお言葉のポイントは、「施す」ことにあるのではなくて、「自分の持ち物を売り払う」ことにあるのです。つまり、自分の富、財産を捨てることです。自分の持っているものにより頼み、そこに安心、確かさを求めることをやめることです。そこで捨て去るべき富は、よい行いという富でもあるのです。それはよい行いをやめよということではありません。愛の業に生きることはよいことであり、求められていることです。しかし、それを「自分の富」とすることをやめなければならないのです。愛の業をすることで、何か自分がより豊かな者になった、より立派な者になり、それだけしっかりとした人生の土台を得たかのように思うことをやめるのです。これまで読んできた所に語られていた、「見てもらおうとして、人の前で」良い行いをしようとする偽善者の姿も、良い行いを自分の富として、自分の豊かさとして意識するところから生じていると言うことができるでしょう。いわゆる財産にせよ、良い行いにせよ、それを自分の富として蓄えておこうとする時に、それは地上に蓄えられた地上の富なのです。

 天に富を積むとは、そういう地上の富を捨てることです。自分の豊かさを求め、それにより頼むことをやめることです。それではいったい何を拠り所として生きればよいのか。それは天の父なる神様の恵みです。自分の豊かさにより頼んで生きることをやめて、天の父である神様の恵みにより頼んで生きる者となる、それが、地上に富を積むのではなく、天に富を積むことなのです。山上の説教の冒頭に、「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」と語られていたことと、これは同じことを教えています。「心の貧しい人」とは、自分の心に、何一つ豊かさを持っていない、より頼むべき富を持っていない、ただ神様の恵み、憐れみにすがって生きるしかない、そういう人です。地上に蓄えられた富を全く持っていない人です。その人こそ、幸いである。天の国はその人のものである。天の国とは神様のご支配という意味です。それは、神様が、天の父として、恵みを与え、養い、導いて下さるということです。その天の富によって支えられ、土台を与えられている、そこに本当の幸いがあるのです。この幸いに生きることこそ、富を天に積むことに他ならないのです。

 ルカによる福音書は、実はそのことをマタイよりももっとはっきりわかる形で述べています。もう一度ルカの12章に戻りたいと思います。先程は33節だけを読みました。しかしこの教えは、22節からのつながりの中にあるのです。22節以下には、「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」という教えが語られています。何故そのように思い悩まないでよいかというと、あなたがたの父である神様があなたがたを養って下さるからです。32節には、「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」とあります。神様は喜んで、私たちを養い、導き、守って下さるのです。そのことを受けて、「自分の持ち物を売り払って施しなさい」と教えられていくのです。ということはこれは、自分の全てを犠牲にして人のために尽くす、という悲壮な決意を求めている教えではありません。喜んで神の国を下さる、私たちを養い、導いて下さる、その父なる神様に全てを委ねて、その恵みにより頼んで生きよということです。神様が私たちを責任をもって養い導いて下さる、その恵みに信頼して、安心して生きるからこそ、自分の持ち物を売り払って施すことができるのです。自分の富に固執せずに生きることができるのです。富を天に積みつつ生きることは、天の父なる神様の恵みに信頼して、思い悩むことなく生きることと一つなのです。この「思い悩むな」という教えは、マタイにおいてはこの後、6章の終りに出てきます。ルカにおいて示されているように、「天に富を積め」という教えはこの教えと一つであることをしっかりと意識していきたいのです。

 天に積まれた富は、虫が食うことも、さび付くこともなく、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。その意味も、このことから明らかです。天に積まれた富とは、父なる神様の恵みです。それは、失われることもなければ、目減りすることもないのです。私たちが自分のものとして蓄える富は、財産であれ、良い行いであれ、バブルのように泡と消えていくものです。しかし神様の恵みはそんなものではない。そのことを私たちは知っています。何によってそれがわかるのか。それは、主イエス・キリストによってです。神様の恵みは、独り子イエス・キリストにおいて現され、与えられています。神様が、その独り子を、私たちと同じ人間としてこの世に生まれさせて下さった、それが第一の恵みです。今そのことを喜び祝うクリスマスに備えつつ私たちは歩んでいるのです。そして主イエスは、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さいました、それによって私たちは罪の赦しを与えられ、神様の恵みのもとに立ち返ることができました、それが第二の恵みです。さらに神様はその主イエスを死者の中から復活させ、新しい、永遠の命を与えて下さいました。それによって、主イエスを信じる私たちにも、肉体の死を超えた彼方に新しい命、永遠の命に生きる希望を与えて下さったのです。それが第三の恵みです。そしてさらに、復活して天に昇られた主イエスが、いつかもう一度この世に来て下さり、それによって、今は隠されている神様の恵みのご支配が顕になり完成する時が来る、その希望が与えられています。これが第四の恵みです。クリスマスに備えるアドベントは、この主イエスの再臨、第二の到来を待ち望む信仰をはぐくみつつ歩む時でもあるのです。これらの恵みが、主イエス・キリストにおいて、私たちに与えられています。この恵みは、私たちがどんな人間であろうとも、またこの世にどのようなことが起ころうとも、決して失われたり、目減りしたりすることはないのです。

 私たちのために、このような、決して失われることのない富が天に蓄えられています。その富をこそ拠り所として生きるのが、信仰者の生き方なのです。しかし主イエスはここで、「富は天に積め」と言っておられます。つまり自分で富を天に積めということです。神様の恵みという富を、私たちが天に積むとはどういうことなのでしょうか。そのことが、21節の「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」というみ言葉と関係しています。「富は天に積め」という教えとこの言葉とのつながりはそう簡単ではありません。「あなたの富のあるところに、あなたの心もある」とは、こう言い換えることができるでしょう。「あなたが富として寄り頼んでいるもの、最も大事にしているもの、そこにあなたの心は向いている」。そこに込められている思いは、「そのあなたが富として寄り頼んでいるものが地上の富、自分の豊かさであるならば、あなたの心はそこへと、つまり自分自身へと向いている。もしそれが天の富、神様の恵みであるならば、あなたの心は神様へと向いている」、ということでしょう。つまりここで私たちに問われているのは、私たちが何を本当に自分にとっての富として、拠り所としているかということです。ここでは「あなたの」と単数で語られているのですから、私たち一人一人が個別にそれを問われていると言わなければなりません。あなたにとっての富とは何か、と主イエスはこの私に、皆さんお一人お一人に問うておられるのです。その問いに対してどう答えるか。そこで、神様が主イエスにおいて与えて下さった恵みこそ私の富です、そこにこそ私の拠り所があります、と答えること、それが「富を天に積む」ことなのです。そうではなくて、なお自分の持っているもの、様々な意味での豊かさに寄り頼み、自分の富を土台として生きようとするならば、それは「地上に富を積む」ことです。天に富を積むか、それとも地上に富を積むかは、私たちが、何を本当の富とするか、どこに心を向けて生きるか、ということにかかっているのです。

 本日は、詩編の第40編が共に読まれました。この詩は、富を天に積みつつ生きている信仰者の歌です。その冒頭に、「主にのみ、わたしは望みをおいていた」とあります。これが、「富を天に積む」者の姿なのです。主に望みを置いて生きる者の幸いをこの詩は歌っていきます。その6,7節に「わたしの神、主よ。あなたは多くの不思議な業を成し遂げられます。あなたに並ぶものはありません。わたしたちに対する数知れない御計らいを、わたしは語り伝えて行きます。あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず、焼き尽くす供え物も、罪の代償の供え物も求めず、ただ、わたしの耳を開いてくださいました」とあります。神様はこの詩人に、「多くの不思議な業」によって、「わたしたちに対する数知れない御計らい」を示して下さいました。つまり、神様の恵みが彼に豊かに示されたのです。神様は彼に、いけにえや、供え物を求めず、彼の耳を開いて下さいました。つまり、彼と神様との関係は、彼がどれだけ神様に供え物をしたか、どれだけ良い行いをして神様に仕えたかによるのではなくて、神様が彼の耳を開いてみ言葉を聞かせて下さったことによっているのです。そのみ言葉によって示されたのが、神様の恵みです。彼のよい行いに対する報いとしてではなくて、神様がご自身の恵みによって彼と相対して下さったのです。そのみ言葉を受けて彼は、8節で「そこでわたしは申します。御覧ください、わたしは来ております。わたしのことは巻物に記されております」と語るのです。「わたしのことは巻物に記されている」、それは、神様の恵みのみ手の中に自分はしっかりと入れられている、神様の救いのご計画の中に自分の名がしっかりと書き記されている、という確信、信頼の表明でしょう。神様が自分の名を、自分の歩みの全てを、み手の内に置き、恵みをもって導いていて下さる、そのことを信じて告白し、その喜びの内に神様をほめたたえて生きる彼のこの姿こそ、自分のための富が天に、神様のもとにしっかりと積まれていることを信じる者の姿なのです。この詩人と共に私たちも、私たちのための豊かな富が、主イエス・キリストによって天に、神様のもとに蓄えられていることを信じ、そこにこそ私たちの心を向けつつ、このアドベントの時を歩みたいと思います。

牧師 藤 掛 順 一

[2000年12月10日]

メッセージ へもどる。