富山鹿島町教会


召天者記念礼拝説教

「主のために生き、主のために死ぬ」
詩編 第84編1〜13節
ローマの信徒への手紙 第14章7〜9節

 本日のこの礼拝は、召天者記念礼拝です。私たちの教会の教会員として、また共に礼拝を守る者として天に召された方々のことを覚え、ご遺族をお招きしてこの礼拝を守っています。お手もとに召天者の名簿をお配りしました。昨年のこの礼拝以降、新たに四名の方々がこの名簿に加えられました。野村キミさん、藤井すみ子さん、上野陽子さん、奥村和子さんです。一番最近ではこれらの方々のことを覚えて、私たちはこの礼拝を守っているのです。この名簿の42名の方々をみんな知っているという方はおそらくもういないでしょう。私自身も、直接存じ上げているのは19番の五百木定次郎さんからです。それ以前の方々は、私がこの教会に来る前に亡くなられた方々です。ということは、私は今17年目ですから、この名簿のもう半分以上はこの17年間に亡くなられた方々だということです。それ以前の、戦後3代の牧師たちの在任期間の全てを合わせたよりも、この17年間に亡くなられた方の方が多いわけです。この名簿だけを見るとそういうことになるのですが、この教会に連なりつつ天に召された方々は実はもっとおられます。戦争で一切の記録が失われてしまいましたから、戦前の、富山伝道教会時代の方々のことはわかりません。つまり私たちがお顔どころか名前も知らない多くの方々が、やはりこの教会に連なり、そして主のみもとに召されていった、そういう歴史の連なりの中を私たちは生きているのです。それらの、名前も知らない方々のことをも意識しつつ、そしてこの名簿によってお名前だけは知っているが会ったことのない方々のことをも覚えつつ、そして直接知っている、共に礼拝を守り、教会生活を送ったなつかしい方々のことを振り返りつつ、この礼拝を守りたいのです。

 世間の言葉で言えば、私たちはここでそれらの方々の供養をし、冥福を祈るということでしょうか。しかし私たちキリスト教会は、供養はしないし冥福を祈ることもしません。冥福とは死後の幸福という意味ですが、私たちは亡くなった方々の死後の幸福を祈ることはしないのです。それは、死んだ後のことはどうでもよい、ということではありません。そうではなくて、私たちの信仰においては、主イエス・キリストを信じて、教会に連なる者として天に召された方々の死後の幸福はもう定まっており、そのために私たちが祈る必要はもうないからです。それらの方々は、この地上の歩みを終えて、主なる神様のみもとに召されていきました。神様のみもとに召されたのであって、わけのわからない、どこに行き着くかはっきりしない霊界に迷い込んだのではないのです。主なる神様のみもととはどのような所でしょうか。先程、旧約聖書、詩編第84編が朗読されました。そこに、主なる神様のみもととはどんな所であるかが歌われています。その1〜5節を読んでみます。「万軍の主よ、あなたのいますところはどれほど愛されていることでしょう。主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。あなたの祭壇に、鳥は住みかを作り、つばめは巣をかけて、雛を置いています。万軍の主、わたしの王、わたしの神よ。いかに幸いなことでしょう。あなたの家に住むことができるなら。まして、あなたを賛美することができるなら」。主なる神様のいますところ、主の庭を深くあこがれ、慕う思いがここに歌われています。そこに住むことができるなら、どんなに幸いなことだろうと言われているのです。またこの詩編の11節にはこう語られています。「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。主に逆らう者の天幕で長らえるよりは、わたしの神の家の門口に立っているのを選びます」。主なる神様のみもとで過ごす一日は、余所での千日にまさる恵みなのです。召天者の方々が召されていった主なる神様のみもととはそういう所です。この地上を生きる人生には、様々な困難、苦しみがあり、悲しみがあり、病があります。神様のみもとに召される時、それらの全てから私たちは解放されて、この地上よりもはるかにすばらしい、恵みに満ちた所に迎えられるのです。召天者の方々はそういう主のみもとに迎えられたのですから、その方々が迷わないように私たちが地上から支援をしたり、その魂の幸福のために何かをするという必要はもうないのです。私たちがこの礼拝においてなすべきことは、召天者の方々のことを覚え、その方々が地上の生活において、このような恵み深い神様との出会いを与えられ、信仰を与えられて生きた、その神様の恵みに感謝し、神様をほめたたえることです。そして、なお地上の歩みを続ける私たちも、この方々に与えられたのと同じ恵みをいただき、同じ恵みによって生かされ、いつか同じ神様のみもとへと召されていくことを願い求めることです。私たちも、遅かれ早かれ、地上の歩みを終える時が来ます。その時に、私たちをみもとに迎えて下さる神様との交わりを、今この地上においてしっかりと結んでおきたいのです。それが信仰というものです。その神様との交わりの場、信仰を与えられる場が礼拝なのです。ですから召天者記念礼拝は、召天者の方々のためではなく、むしろ私たちのためにあるのです。あるいは別の見方をすれば、召天者の方々は、今、主の庭において、神様を讃美しつつ、なお地上を歩まなければならない私たちのために、私たちのことを覚えて、とりなし祈ってくれている、と言うこともできるでしょう。迷わないように支援されなければならないのは、むしろ私たち地上を生きる者なのです。

 しかしこのように言いますと、疑問も出てくることと思います。主なる神様のみもとに召されると言うけれども、死ぬというのは本当にそういうことなのか、そしてその神様のみもとというのは、本当にそんなにすばらしい所なのか、それらはみな、人間の願望、こうだったらいいな、という思いの反映なのではないのか。死への恐れから、神様が造り出され、神様のみもとに召されるということが語られ、そのみもとはすばらしい所だと教えることによって死の恐怖を打ち消そうとしているのではないのか、そういう疑問も当然起ってくるのです。この疑問に対して、こういう理由でこちらが正しいということを証明して見せることはできません。疑問が完全に解消されてしまうということはないでしょう。最終的には、死んでみなければわからないということです。信仰は、証明できるような事柄ではありません。疑おうと思えばいくらでも疑えるのです。その中で、信じるという一つの決断をするのです。そういう意味ではこれは、パスカルという人が言ったように、一つの賭けです。彼は、「神様がおられるかおられないか、それは賭けだ。私はおられる方に賭ける」と言ったのです。そのように、神様がおられ、死ぬことは神様のみもとに召されることだと信じるか、それとも別の仕方で死を受けとめていくかというのは、私たちがどこかで決断しなければならないことです。「賭け」などと言ってしまうと、丁と出るか反と出るか、二つに一つの偶然のどちらかに人生の大事を委ねていくような印象を持ってしまうかもしれません。信仰は一世一代の大博打だなどということになってしまうかもしれません。しかしそれは決して、さいころの目に人生を賭けていくようなことではないのです。基本的には賭けかもしれないが、私たちが神様を信じることに賭けるのには、それなりの理由、根拠があるのです。その理由、根拠となって下さったのが、主イエス・キリストです。

 先程読まれた新約聖書の箇所、ロ−マの信徒への手紙第14章7節以下をごらんいただきたいと思います。その9節にこうあります。「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」。「キリストが死に、そして生きた」そのことが見つめられています。そしてそのことが、「死んだ人にも生きている人にも」、つまり全ての人々と関わりのある出来事であり、それによってキリストが私たちの主となられたのだ、というのです。「キリストが死に、そして生きた」、「生き、そして死んだ」ではないのです。私たちは今生きており、やがて死んでいくものです。それが私たちの歩みです。しかしキリストは死に、そして生きた。それはイエス・キリストの十字架の死と三日目の復活を指しています。死んだということはその前は生きていたのですから、正確に言えばキリストは生き、そして死に、そして復活して新しく生きたのです。このことが、私たち全ての者と関わりを持っていると聖書は語るのです。私たちの側から言えば、そんなことは自分と何の関わりもないということになるでしょう。二千年前に、イエスという人が生き、十字架にかけられて死に、そして復活したとしても、それが私たちに何の関わりがあるか、それは過去の歴史の中の一つの出来事に過ぎないのです。このことが私たち全ての者と関わりのある出来事だということは、神様の側からのみ言えることです。イエス・キリストは神様の独り子であられました。父なる神様がご自分の独り子を、一人の人間としてこの世にお遣わしになったのです。それは、神様が私たち全ての者と関わりを持とうとされた、ということです。神様の方から、その独り子を遣わすことによって私たちに関わって来られたのです。そのキリストが「死んだ」。それは、神様が私たちと徹底的に、最後まで関わって下さっている、ということです。私たちは生き、そして死んでいく身です。神様は、その生きている私たちと関わって下さっただけではなくて、死んでいく私たちとも関わり、私たちの死とそこにおける苦しみをもご自分の体験として下さったのです。しかもキリストの死は、神様に背く罪人としての、最も苦しい悲惨な十字架の死刑でした。イエス・キリストは、ただ死をも体験して下さったというだけではなくて、私たちが神様に背き、罪を犯し、それによって裁かれ、神様に見捨てられて絶望の内に死ぬ、そういう死を引き受けて下さったのです。それは本来私たちが受けなければならないものであり、私たちが何の希望もなく、絶望の内に死ぬ、その死なのです。神様がそこまで、私たちに関わって下さり、その絶望の中での死を代わって引き受けて下さった、それがキリストの十字架の死なのです。そしてさらに、父なる神様は主イエスをその死から復活させ、新しい命を与えて下さいました。それは私たちからすれば、「へえ、そんなこと本当にあったのかいな」というようなことに思われるかもしれませんけれども、神様はこのことによって、死んでいく者である私たちと、その死をも越えた関わりを持とうとしておられるのです。キリストの復活は、単なる不思議な奇跡ではありません。神様がそこで、「私はあなたがたの罪を独り子キリストの十字架の死によって赦した。そしてあなたがたを支配している死の力を、キリストの復活によって打ち破った。このキリストによる恵みを信じて、キリストにつながる者は、死に打ち勝つ新しい命の希望に生きることができるのだ」と宣言して下さったのです。キリストが死に、生きたことによって、神様はこのように、死んでいく者である私たちと関わりを持ち、私たちに死をも乗り越える命を与えようとしていて下さるのです。「死んだ人にも生きている人にも主となられる」とあるのはそのためです。神様が関わって下さるのは、私たちが生きている間だけではありません。今生きている人もやがては死んだ人になっていくのです。そうなっても、神様の関わりは無くなってしまわない。キリストが死に、そして生きて下さったことによって、神様はどこまでも私たちと関わって下さり、キリストを死んだ人にも生きている人にも主として立てて下さったのです。私たちのために死んで下さり、そして復活して下さった方が主となって下さることによって、私たちは、神様の、神様の側からの、徹底的な関わりの中に置かれているのです。それゆえに今や私たちを最終的に支配するのは、死ではなくて、キリストによって打ち立てられた神の恵みであり、復活の命なのです。

 神様がこのように私たちに徹底的に関わって下さっているから、私たちはその神様に応えていくのです。7、8節に語られているのはそういうことです。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」。ここに語られていることを間違って読んではなりません。「わたしたちは、だれ一人自分のために生きてはならず、だれ一人自分のために死んではならない。生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ななければならない」と語られているのではないのです。つまりここにあるのは、私たちがこうするべきだ、という戒めや教えではありません。そうではなくてこれは単純な事実を語っているのです。私たちは、自分のために生きているのではないし、自分のために死ぬのでもない、主のために生き、主のために死ぬのだという事実です。そう言うと私たちはすぐに、いや自分は主のためよりもむしろ自分のために生きているし、主のために死ぬなんていうことはできそうもない、と思ってしまいます。それは、「ため」という言葉の訳し方の問題だと言うこともできます。「自分のため」「主のため」と訳すと、「自分の思いを第一にしているか、それとも主のみ心を第一にしているか」とか「自分の欲望に仕えているのか、それとも主に仕えているのか」というような意味で考えてしまいます。しかし原文の言葉はそういう意味ではなくて、うまく日本語にしにくいのですが、強いて直訳すれば「自分自身へと生きている」「主へと生きている」あるいは「自分自身に対して生きている」「主に対して生きている」となるのです。英語の訳の中には、to という言葉を使って、We do not live to ourselves. We do not die to ourselves. つまり「私たちは自分自身へと生きるのでも、自分自身へと死ぬのでもない」と言い、さらに8節では We live to the Lord. We die to the Lord. 即ち「私たちは主へと生き、主へと死ぬ」と言っているものもあります。つまりここで問われているのは、私たちがどこを向いて生きており、どこを向いて死んでいくのか、ということなのです。自分自身の方を向いて、自分自身のことを見つめながら生き、死んでいくのか、主なる神様の方を向いて、神様を見つめながら生き、死んでいくのか、その二者択一の中で、私たちは神様の方を向いて、神様を見つめながら生きており、死んでいくのだ、と言っているのです。それは、そうすべきだとか、そうしなければ救われないぞ、ということではありません。神様が、その独り子イエス・キリストによって、私たちに徹底的に関わって下さり、生きている者にも死んだ者にも主となって下さったから、私たちもそれに応えて神様の方を向き、神様を見つめていくのだ、ということなのです。神様が独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さって、私たちと関わりを持って下さったがゆえに、それに応えて私たちは神様の方を向いて生きることができるのです。独り子キリストが十字架にかかって死んで下さり、死んでいく私たちと、その死においてすらも関わりを持って下さったがゆえに、それに応えて私たちは神様の方を向いて死んでいくことができるのです。「主のために生き、主のために死ぬ」というのはそういうことです。ですからそれは何か特別に立派な生き方や死に方をすることではありません。自分のことなんかそっちのけで神様に仕えていくことや、神様の栄光のために自分の命を投げ出すというようなことが意味されているのではないのです。私たちは少しも立派な者ではないし、むしろ罪深い、神様に背き逆らってばかりいる者です。ところがそういう私たちに、神様は、独り子イエス・キリストによって徹底的に関わって下さり、私たちのために死んで下さり、私たちのために復活して新しい命を約束して下さったのです。神様の方から、そのように私たちに顔を向け、私たちと関わり、恵みを与えて下さったのです。それゆえに、自分自身は少しも立派ではないし、罪深い者だけれども、その神様に、私たちも関わり、その神様の方を向いて生きていき、その神様の方を向いて死んでいく、それが、主のために生き、主のために死ぬことなのです。8節の後半には「従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」とあります。どう生きるか、どう死ぬかではなくて、主のものとして生き、主のものとして死ぬことが大事なのです。そして私たちが主のものとなるのは、私たちの正しさや清さ、立派な行いによるのではなくて、神様が主イエス・キリストによって私たちと徹底的に関わって下さり、私たちを恵みの内に捕えて下さり、私たちの死においてさえも、そのみ手を決してお離しにならない、その恵みによってなのです。私たちは、神様を信じ、主イエス・キリストに従っていくという信仰の決断をした後でも、しばしば、神様から目を離してしまい、手を離してしまい、神様に向かって生きることをやめてしまうことがあります。その時私たちは、自分自身に向かって、自分自身を見つめて生きる者となるのです。しかし自分自身のみを見つめて生きることは孤独です。多くの隣人に囲まれているとしても、根本的には一人ぼっちです。そのような孤独の中で死ぬことは、身の毛のよだつような絶望なのではないでしょうか。自分とどこまでも関わりを持って下さる主イエス・キリストの父なる神様のもとで生き、そして死ぬことができる者は、本当に幸いなのです。

教会が覚える召天者の方々は、主イエス・キリストの父なる神様が、どこまでも関わりを持って下さっている中で生き、そして死んでいった方々です。この名簿の中には、途中で教会から離れていってしまった、神様を礼拝する生涯を全うすることができなかった、そういう人も含まれています。それらの人々は、途中で神様から手を離し、目を背けてしまったと言えるでしょう。あるいは、礼拝を何度か守ってはいたけれども、洗礼を受けるには至らなかったという人も含まれています。その人たちは、まだちゃんと神様に目を向け、手をつないではいなかったということになるでしょう。しかしそういうことは決定的な事柄ではないのです。決定的なのは、神様がその人たちと関わりを持って下さったということです。神様は、ご自分が関わりを持った、その手を決して離すことはなく、常にみ顔をその人たちに向けておられたのです。それゆえに私たちはその方々をも、召天者の名簿に加えて覚えていくことができるのです。また最初に申しましたように、この名簿以外にも、私たちが意識すべき方々は沢山おられるはずです。私たちはそれらの方々のお名前も知らないし、どのように生き、どのように死なれたのかもわかりません。けれども一つだけ確かなことは、主イエス・キリストの父なる神が、それらの人々のお一人お一人と徹底的に関わって下さり、恵みのみ手をさし伸べ続けていて下さったということなのです。そのことを信じて、私たちは神様をほめたたえるのです。そして同時に覚えるべきことは、その恵みが今私たちに同じように与えられているということです。神様は私たち一人一人と徹底的に関わっていて下さり、恵みのみ手をさし伸べ続けていて下さるのです。この神様を信じて、私たちの顔をこの神様の方へと向けていく決断、それが信仰です。そこに、「生きるにしても死ぬにしてもわたしたちは主のものです」という、本当に幸いな人生と、そして主なる神様のみもとに召されていく幸いな死が与えられていくのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2000年10月29日]

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