富山鹿島町教会


特別伝道礼拝説教

「あなたを探し求めるキリスト」
マルコによる福音書 第5章25〜34節

堀岡 満喜子先生


今朝、私たちはこの富山鹿島町教会で、共に礼拝をささげております。ここに集っておられる方の中には、はじめて教会に来られた方もあるかも知れません。私も、普段は石川県にあります小松教会で礼拝をささげている者です。平日は、キリスト教の学校、北陸学院で聖書の教師をしております。12才から18才までの女性ばかりを相手に、暮らしています。
学校に来る生徒たちは、決してすべてがうまくまわっている人たちばかりではありません。厳しい家庭環境におかれている生徒も少なくありません。心が荒れている生徒も少なくはありません。地べたに座り込んで、友だちとしゃべり、携帯電話でメールをうち、けれどもどこか、人とまっすぐに向き合えない。心に風が吹き込んでくるような、寂しさを抱えている。授業などどうでもいい、この行き所のない心をどうすればいいの、と問われている気がいたします。
教師生活20年を越えるベテラン教師たちも、ここ5年で子どもたちが変わったと言い、とまどい、無力感に襲われています。私自身も、生徒のためにいる身でありながら、真剣に向き合いすぎると自分の身が持たないと感じるときがあるのです。

ああ、何かが壊れていく。崩壊するというのはこう言うことなのか…と思わされるのです。家庭崩壊、学校崩壊という言葉が使われはじめて久しいときが過ぎました。けれども、家庭は崩壊し続け、学校も壊れていこうとしているように感じます。暴走する列車のように、一向にブレーキがきかず、事柄は深刻になっていきます。私の言葉は生徒に届かず、短期間の内に生徒たちの心は何者かに突き崩されていきます。激しい地震によって街が崩されていくように、壊れていくのです。
高校生の中には、すっかり意欲をなくしている人もいます。何に対する意欲、というのではありません。なにもかもに対する意欲です。勉強もうざったい。授業もうざったい。先生も、友だちもうざったい。学校もうざったい。何が楽しいかと言えば、街で戯れている仲間たちと、地べたに座り込んでしゃべっているのが楽しいのです。ただ、何でもない話をしている。そこで、話して笑っている。それが、自分を出せる唯一の場所なのかも知れません。何が原因なのか、彼女自身にもよくは分からないのです。けれども、彼女たちと話していて感じるのです。そこには圧倒的な虚無感があります。全く、力が出せないのです。中間テストの時に、テスト用紙が配られます。用紙が配られて、名前を書いたとたんに、うつぶしてしまいます。うつぶしたまま、1時間を過ごすのです。
テストだけではありません。彼女は自分の生活すべてにまるでうつぶしたままのようになってしまいます。彼女を励まし慰めようと、周りの大人たちは、とりあえず、声をかけてみる。けれども、何の効果もありません。彼女にとって、それはどうでも良いこと。何もかもが、ばかばかしく見えているのです。

しかし、これは、私たちと無関係な状況なのでしょうか。わたしは、これは一種の病かも知れないと思います。虚無感が時代をおおっている。私どももやはり、この病と無関係にはおれないのではないか。圧倒的な虚無の力が襲ってくる。家庭崩壊、学校崩壊という言葉。ただ、家庭や学校だけが崩壊しているのではないのかも知れません。様々な場所で、今まで形づくられてきたものが崩壊していく。それを目の前にして、果敢に戦ってみても、一向にブレーキが利かない。自分たちの力の及ばない圧倒的な力が、壊しに掛かってきている感じがする。そうしたときに、どうしてなお力が出せるでしょうか。何もかもが、ばかばかしく見えてくるのも当然なのかも知れません。虚無感が襲ってくるのです。虚無を感じ、絶望し始めるのです。疲れはて、力つきるのです。自分自身が立つことも、やっとの思いです。

しかし時代が病んでいるならばなおさら、私どもは聖書の御言葉を、大事に聞きたいと思います。圧倒的な力で虚無が襲ってくる、静かに絶望し始める私どもに、語りかけられる御言葉です。
読んでいただいた聖書の御言葉は、絶望と空しさを心底味わった女性について語ります。12年間、出血の止まらなかった女性です。彼女は慢性の婦人病にかかっていました。12年間というのは、生まれた子供が小学校を卒業するまでに育つ年数です。生まれたばかりの弱々しい子どもが一人の人間に育てられていく年月、彼女はずっとその病にかかっていました。ただ、病気だったのではありません。律法によれば彼女は、汚れているものでした。ですから、彼女は自分が病気であるというだけではなく、汚れたものとして社会的な隔離状況に置かれていたわけです。いわゆる、村八分にされていたのです。ですから、10年以上の間、人の目に触れないように暮らさなければなりませんでした。彼女は静かに一人苦しみ、病気を治したくて、大変努力をしたのです。病気と、差別的状況とからくる二重の苦しみからとかれるために、力を尽くしたのです。たくさんの医者に観てもらいました。おそらく、あの医者が良いと聞けばそこに行ったのでしょう。ずいぶん多くの医者をあたったようです。そしてそのために、全財産を使い果たしてしまったというのです。

私どもは、何か問題を抱えるとき、自分のためまた、自分の家族の問題のためにあらゆる手段にあたってみるものです。どんな医者にもかかり、それでもダメなら占いや姓名判断にまですがりつきます。何かにすがりつき、裏切られ、またすがりつき、うまくいかず、そういうことを繰り返すのです。彼女も同じです。12年の間、あの医者この医者にかかってきた。けれども、何の役にも立たなかったのです。しかも、何の役にも立たなかっただけではありません。医者にかかることによって、ひどく苦しめられ、益々悪くなるだけであったとあります。
医師にかかるのは良くなりたいためであり、治療を行ってもらうためです。しかし、逆に苦しめられたのです。肉体的な苦しみだけとは限らないでしょう。精神的に苦しめられたかも知れません。婦人病ですから、女性として屈辱を味わわされたのかも知れません。汚れたものとして、ろくな治療をしてもらえなかったのかも知れません。まともに相手にしてくれなかった医者もあったやも知れない。ともかく、どの医者も本気になって彼女の病と取り組んではくれなかったのです。12年の間、彼女は色々な医者にかかり、全財産をそそぎ込んだのです。これは、財産を全部そそぎ込んだというだけではなかったでしょう。彼女のできるすべてをしたのでしょうし、力の限りの努力を惜しまずやり尽くしたということだろうと思います。

彼女は決しておっくうがったりはしなかったわけです。けれども、医者は匙をなげ、状況はより困難になり、もはや文字通り為すすべもなく、力つきているのです。
私どもは、問題を抱えるとき、自分の努力、できる限りのことをまずやってみます。やってみたけれども、一向に状況が開かれない。ますます悪くなるばかりということになれば、悶々とした思いを抱え、どんよりと暗い気持ちの中に沈んでいってしまうのではないでしょうか。
この時もう、どうでも良いという思いがわき上がってくる。虚無感が広がるのです。すべての努力が無駄であった。無駄であったばかりか、益々逆効果にばかりなる。そう、結局すべては空しい努力だったと思えてくるのです。疲れはて、完全に力つきて、脱力してしまうのです。どこまで歩いても、どのように解決しようと努力しても、まるで意味がないのですから。もう、死んでしまったほうが楽なのではないかとさえ思うようになり、すべてが、崩れてしまうのです。

彼女は、その様なときに主イエスのことを聞きました。主イエスの何を聞いたのでしょうか。この女性の記事の直前に、主が悪霊にとりつかれた人を癒されたという出来事が記されています。悪霊にとりつかれて苦しんでいた人から悪霊を追い出して下さったというのです。彼女は、主イエスが色々なところで人々の苦しみをいやしておられるということを聞いたのでしょう。
かといって彼女が、それほどに楽天的にこの話を聞いたとは考えられません。この12年間、彼女は幾たびこのようなうわさに裏切られ続けてきたことだったでしょうか。あの医者が良いといううわさに、どれだけ期待し、またどれだけ裏切られてきたのでしょう。今度こそは、今度こそは…という期待がどれほどに空しく終わってきたのでしょうか。絶望に絶望を重ねるばかりだったのです。それでも、彼女は行かずにはおれない。彼女を苦しめ続けている病、彼女を人々から切り離してしまうこの病をかかえて、他に何ができるというのでしょう。もはや、期待をするわけでもなく、ただ、ふらふらと群衆にまぎれていたに過ぎなかったと思うのです。
顔を明かせば、忌み嫌われるだけです。深く衣を身にまとい、顔を隠すようにして誰にもばれないように群衆にまぎれています。そして、そこを通りかかった主イエスの衣に触れてみたのです。「この方の服にでも触れれば癒していただける」ふらふらになった体と心とを、ただ傾けるようにして彼女は主イエスの衣に触れてみたのです。

ところがその時から、状況が一変しました。彼女の体が反応し、出血が止まり、病気が癒されたとあります。この12年の間悩まされ続けた病が、たちどころに治ってしまったのです。彼女にとっては、驚くべき出来事だったでしょう。12年来、感じたことのない体の軽さを感じたかも知れません。どの医者にも治せなかった、まともに相手にもされなかった病が、あっという間に治っていくのです。おしよせる群衆のそのざわめきの中で、彼女は一人、主イエスによって癒されたことを静かに実感しているのです。しかし、その実感は、彼女一人のもののようでありながら、実はもう一人そのことを感じ取っておられる方があったのです。群衆のざわめきと彼女の一人静かな実感を中断させるかのように、主イエスは立ち止まられました。振り返って言われたのです。「私の服に触れたのは誰か」
相手は大勢の群衆です。人の波が押したり引いたりしている。その群衆を前にして「私の服に触れたのは誰か」と問われるのです。弟子たちは言いました。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれが私に触れたのか』とおっしゃるのですか」
弟子たちは見つかるわけがないと、考えている。見つからなくても別によいではないか、と考えている。けれども、弟子たちだけではなかったでしょう。群衆も、そんなことはどうでよいことだと考えているのではないでしょうか。誰が触れようが、そんなことはどうでもよいことだ。これだけの人がいるのだから、誰か一人くらい、主イエスの衣に触れようとするものもあるだろう。それが、何だというのだ。どうでも良いことではないのか。
けれども、主イエスにとってそれはどうでも良いことではないのです。見つからなければ仕方がない、というような探し方ではありません。他の誰もが、どうでもよいと考えたに違いないその状況で、主イエスだけはゆるまないのです。今、ご自分から出ていった力を、誰が、必要としていたのかを知ろうとされるのです。

私どもは、考えてみれば分かります。彼女にとっての12年間が、どれほどのことであったかを考えてみれば分かるのです。本気になって目を留めてくれる医者はなく、絶望せざるを得なかった彼女を知れば分かるのです。
けれども、弟子たちがそうであったように、おそらく群衆もそうであったように、私たちは案外冷たい。浅はかにも、彼女を発見する必要がないかのように、群衆にまぎれているのだから見つからないとまことしやかな理由を付けて、その場をやり過ごそうとするものです。ただ、主イエスをのぞいて、私どもを含むすべてが彼女を探そうとはしないのです。そして、先を急いで再び自分の道を歩き始めようとするのです。

張本人である彼女自身も、進み出たいとは思いませんでした。堂々と人前に胸を張って出ていけるような、自信のある人ではありません。一人でこもって、できるだけ人前をさけ、隠れていたいのです。できるならば、そっとしておいていただきたい。放っておいていただきたい。そっと、一人で家に帰らせていただきたい。それが、彼女の思いだったと思います。
ところが、主イエスはただ一人、その場を去ろうとは考えられないのです。もう行きましょう、見つかりませんよ、と言うまわり中の声に逆らって、そっとしておいていただきたいという本人の気持ちにも逆らって、主イエスはその場にとどまろうとされるのです。彼女を捜し出すためです。あたりを見回し続けられるのです。誰もが向けてはくれなかった真剣な眼差しで、医者さえも匙を投げ、誰もが忌み嫌った彼女を探し出すために、決してあきらめようとはされないのです。

彼女は自分の身におこったことを知って、恐ろしくなりました。ですから、震えながら進み出て、ひれ伏したのです。主イエスの衣にさわるということが、どういうことなのかが治ってみて、分かったのです。今、自分が手に触れたその方が、ただならぬ方であることが分かったのです。ですから、恐ろしくて、震えながら、ひれ伏したのです。そして、ありのままをすべて話しました。おそらく、とつとつと今までの事を話したのでしょう。これまでの12年間、病と人々との断絶とに苦しめられ、絶望を味わってきた自分のこと。そして今、自分の身に何が起こったのかということも。もはや、すべてを洗いざらい告白するかのように話したのでしょう。
主イエスに差し向かいに向き合われて、彼女はその真剣な主の耳に向かって、心からの本当の言葉を語ったのではなかったでしょうか。彼女に対して無関心な群衆に囲まれて、しかし、あなたを問題にしている、今、私にはあなたが問題なのだ、と向き合って下さるただ一人の方を前にして、彼女は少しも取り繕うことなく、すべてを差し出しているのではないでしょうか。

この彼女に向かって主イエスは、「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。けれども、彼女はそれほどに信仰があったのでしょうか。自分を救い得るような信仰が、彼女にあったのでしょうか。彼女は、それほどにキリストを信頼し、確信に満ちてキリストを求めたのでしょうか。
この時に彼女にあったのは、何の確かなものでもなかった。彼女は力を振り絞って、主イエスを求めたわけではありません。微力でも努力して衣に触れたというのでもなかったでしょう。無力なままに、信じてよいと言ってくださる方にそっと触れただけなのです。無気力であり、不作法であり、もう破れかぶれのままにただ触れさせていただいた。ただ、それだけなのです。ですから、彼女はキリストが立ち止まり、振り向かれ、自分を捜しはじめられたとき、堂々と出ていくことはできなかったのです。自分がしたことは、胸を張って言えるようなことではなかったからです。ひれ伏す以外にない、それ以上のことは何もできない自分です。
キリストは、「あなたの信仰」とおっしゃって下さっている。けれども、まさにそれはキリストの確かさだと思うのです。主イエス・キリストがどこまでも私たちに対して、真剣であって下さる。あなたが私にとって問題なのだと言って、立ち止まり、振り返り、探して下さる。そして、見つけだして語りかけて下さるのです。
キリストの側の確かさのゆえに、その語りかけて下さるお言葉によって彼女の中に、また私どもの中に信仰が生まれてくるだけなのです。
そして、その信仰があなたを救った、とキリストはおっしゃる。信仰によって病気が治った、と言われたのではありません。もちろん、病気が治ったことは彼女にとって重大な出来事だったに違いありません。今までの人生を大転換させるできごとだったでしょう。それは彼女が抱えてきた人生最大の問題だった。けれども、キリストはこうおっしゃる。あなたのその信仰があなたを救った。

「救い」とは、神さまとの関係が和解することです。神さまとの関係がすっと、通るようになったと言うことです。彼女は、震えながら進み出て、キリストの前ですべてを話し、その関係をつながせていただいた。12年の間、神さまのことを考えたことがあったでしょうか。うまくいかない人生の局面で、はじめの頃は神さまに訴えたことがあったかもしれない。けれども、だんだん文句さえ言わなくなり、次第に神さまから遠ざかってしまっていたのではないか。もはや、自分の人生を恨むような日々だったのではないしょうか。
その人生を中断するかのように、今日、キリストが彼女の人生に入り込んでこられたのです。これは、病気が治るとか治らないとかいう問題を越えています。人生に入り込んでこられ、神さまとの関係を取り戻して下さったのです。キリストは、彼女が衣に触れたことを放っておくこともお出来になったでしょう。でも、そうはなさらなかった。彼女を真剣に捜し求めて下さる、そして絶望した、虚無感に襲われたその彼女をもう一度、神さまとの豊かな関係に生きるものとして取り戻して下さったのです。そこに、救いがあります。

私たちの「救い」は私どもの努力の一切が終わったときに、力つき、疲れはてたときに、なお確かな方がおられると言うことです。主イエス・キリストが疲れはてることなく、あきらめることなく、中途半端に投げ出すことなく、十字架の死に至るまでどこまでも、私どもを真剣に捜し求めてくださるということです。
私どもの弱々しい中途半端な信仰にも関わらず、それに目を留めず、探し求めて下さるキリストが今、私どもと真剣に向き合おうとしてくださっている。キリストの真剣な眼差しが、あるということです。

「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
もう、その病気にかからず、元気に暮らしなさい。その病気とは、彼女の抱えた肉体的な病気にとどまらないでしょう。12年間の苦しみの中で、彼女が陥った絶望と虚無の病。神を忘れたもののかかる病です。その病から、彼女は救われたのです。

私どもの周りでは、あらゆる事が崩壊しています。家庭が崩壊し、学校が崩壊し、政治がよどみ、人間関係が壊れていく。自分自身さえも壊れていこうとするのです。すべてのものが壊され、積み上げようとする努力の一切を無意味にするように感じるかも知れません。そうして、圧倒的な力をもって絶望と虚無感が大手を振るって私どもの前をすすんでいきます。瞬く間に、人々をとりこにし、「ああ、空しい」とつぶやかせます。このブレーキの利かない状況下で、一体どうすればよいのだろうか。私どもはそう、天を仰いでよいのです。静かに、何もできない自分をキリストの前に差し出してよいのです。
群衆が押し迫ったときにも、「探しても無駄だ」という群衆の勢いの中、ただお一人、キリストだけが彼女を探して下さいました。キリストだけはあきらめることなく、真剣に、見つけだすまで探して下さるのです。キリストだけは確かな方なのです。
私どもも虚無と絶望の病に冒されていたのかも知れません。しかし、今朝、キリストが確かに私どもを捜して下さっています。誰もが私どもの本当の悩みに無関心であっても、キリストだけは真剣であってくださる。そして、私どもは今朝、この様にキリストの教会に招かれてまいりました。

みんな、キリストに探し出され、教会に呼び集められたものばかりです。無力なままに、疲れ、重荷を抱えたままに、キリストのもとに集められてまいりました。これが、教会です。ここに集う人間をみるならば、まるであの女性のように力つき、堂々と人前に出られない者たちばかりかも知れません。けれども、キリストの確かさのゆえに、探し出され、招かれた者たちばかりなのです。あの女性が探し出され、キリストの前に呼び出されたように、です。私どもも、ただキリストの御前に進み出て、ひれ伏し礼拝する以外にありません。

今朝、はじめて教会に来られた方もあるかもしれません。どうぞ、続けてキリストのもとに共に集いたいと願います。もうあの虚無と絶望の病にかからず、元気に暮らしなさい、そうおっしゃって下さるキリストに信頼し、共々にキリストのもとに集うものであり続けたいと願います。

[2000年10月15日]

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