富山鹿島町教会


礼拝説教

「天の父への祈り」
詩編 第27編1〜14節
マタイによる福音書 第6章5〜8節

 本日この礼拝のために与えられております聖書の個所は、マタイによる福音書の第6章5節以下です。ここには、主イエスの、祈りについての教えが語られています。祈りは、信仰をもって生きることの基本であると言うことができます。信仰は、神様についての、あるいは人間やその救いについての知識ではありません。聖書の語っていることを知る知識も必要ですけれども、その知識をいくら身に着けても、それで信仰が得られるわけではないのです。信仰が信仰になるのは、祈りにおいてです。祈ることができるようになって初めて、私たちの信仰は知識の域を脱皮して、生ける神様との交わりとなるのです。

 先週、私共の教会員であった上野陽子さんがついに天に召されました。そのお葬式のために、上野さんが月報「こだま」にお書きになった二つの文章を改めて読んだのですが、昨年の4月の受難週祈祷会での奨励の文章の中に、こう語られていました。「祈らないとみ言葉を聞くには聞くが深く根をはったものにはならない」。礼拝においてみ言葉を聞いても、それだけではそれが自分の中に深く根をはらない。祈ることによってこそ、聞いたみ言葉が根をはり、ということはそのみ言葉が自分の中で生きて働き、力となり、それに支えられて生きることができる、ということです。また、こうも書かれていました。「主日の朝、眼が覚めると、今日は礼拝だ、嬉しい、と思いすぐに祈り始め、祈り続けながら朝の支度をし、教会への道すがらも祈りながら歩いてくるのですが、祈り始めはいつも『神さま、この週も祈ることの少なかったことをお許し下さい』なのです。そう祈り始めなければならない自分をふがいなく思います。」これは要するに、祈祷会に出席することができていない自分に納得できない、という思いです。今にして思えば、この頃すでに病気がだんだん進んできており、疲れを覚えるようになっておられたのだと思うのです。いずれにせよ、上野さんは祈ることを知っておられた。だから、病との戦いの中で、信仰を貫き通すことができたのです。知識だけではあのような戦いを戦い抜くことはできないでしょう。

 祈りはそのように、私たちの信仰の生命線です。なくてはならない大事なものです。その祈りについて主イエスはここで教えておられるのですが、ここで主イエスが言っておられることは、祈りは大事だから絶えず熱心に祈りなさい、ということではありません。そうではなくて主イエスはここで、祈りにおいて陥らないように注意しなければならない間違いを指摘しておられるのです。信仰においてなくてはならない大事なものである祈りが、しかしともすれば間違ったものになってしまう、主イエスはそのことに対する警戒を促しておられるのです。

 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない」とあります。「祈るときにも」というのは、その前に語られていたこととのつながりを意識した言葉です。先週読んだ1〜4節には、「施しをするときには」ということが教えられていました。「施し」に続いて「祈り」について教えられているのです。そしてそれらをひっくるめて言うならば、6章1節の「善行」という言葉になります。「善行」とは先週申しましたように「義」という言葉です。義なること、正しいこと、その代表として、施しがあり、祈りがあるのです。しかしそれらの本来は正しい、大切なことが、偽善になってしまうことがある。「熱心に施しをせよ」とか「絶えず祈れ」と教える前に主イエスはこの警告を語っておられるのです。

 偽善者の祈りとはどのような祈りなのでしょうか。「偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」とあります。人が沢山集まる所で、人に見られながら祈ろうとする、それが偽善者の祈りです。それは、当時の社会において、祈ることが立派な、義なる行為、信心深さの現れとして尊敬されていたからです。今私たちの社会においては、そういう感覚は全くありませんから、このことはそのまま私たちにはあてはまりません。この社会において、例えば西町の交差点のまん中でじっと祈っている人がいたら、その人は尊敬されるどころか、「あいつ何やってんだ、おかしいんじゃないか」と思われるだけです。そういう中ではここに書かれているようなことはあり得ません。主イエスは6節で「祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と言われましたが、それはなるべく人目につかない所で、一人だけになって祈れということです。私たちはもともと祈る時にそうしようとします。人前で祈るなんて恥ずかしい、祈るなら誰も見ていない所で祈りたい、と思うのです。そのように、祈りというものの社会における位置づけが、主イエスの当時のユダヤ人たちと現代の日本の私たちとでは全く違うわけで、そうするとこの教えは私たちにはあてはまらない、私たちは祈りにおける偽善とは無縁だ、と言えるのでしょうか。表面に現れた現象だけを見るならばそのように言うこともできるでしょう。けれども、事柄をもっと掘り下げてみるならば、別のことが見えてきます。主イエスが、祈る時は奥まった自分の部屋に入って戸を閉めよとおっしゃったのは、確かに人目につかない所で祈れということですが、人目につかなければそれでよいということではないのです。「隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と言われていることが大事です。人は誰も見ていない、だから祈りが成り立つというわけではないのです。人の目はない、その所で、では誰の目を意識するか、「隠れたところにおられるあなたの父」である神様の目を意識していくことが、祈りを成り立たせるのです。私たちは、人の目を避けて一人になり、そこで、神様のまなざしを意識して祈っているでしょうか。人の目がなければ心は神様の方を向いている、と言えるでしょうか。人が見ていなければ人の目は気にならない、というほど私たちの心は単純ではないと思います。人が見ていなくても、私たちの意識や行動が常に人の目を気にするものとなっている、ということはいくらでもあります。その場合には、自分の目が人の目の代わりをしているのです。人の目はなくても、自分の目が常に自分を見つめています。その自分の目を意識して、自分の目に自分がどう映るかを気にしながら生きているということがあるのではないでしょうか。誰もいない部屋で祈ろうとする時にも、その自分の目は自分を見つめています。神様のまなざしよりも、その自分の目を意識してしまう、つまり自分の心の中でいろいろなことを思いめぐらし、堂堂巡りをしているばかりで、その祈りが天の父なる神様の方に向かっていかない、ということはいくらでもあるのです。

 また、自分を見つめる自分の目というのは、自分と人とを見比べる目でもあります。あの人に比べて自分はどうだ、ということで誇ってみたり卑屈になったりする、あの人があのくらいのことをしているから自分はもっと頑張らなければと思ったり、あの人があのくらいなら自分はこれくらいでいいか、と安心したりする。それは、人の目に自分がどう映るか、をいつも考えている目です。自分の目はそういう意味で人の目と表裏一体なのです。そういう思いの中では、祈りも、人と自分を見比べる一つのきっかけになってしまいます。あの人よりも自分の方が祈っている、あの人の祈りより自分の祈りの方が上手だ、と思ってみたり、あの人の祈りはすごい、あの人の祈りにはかなわないと思ったりするのです。例えば先程の上野さんの文章を聞いて、上野さんはすばらしい祈りの人だった、それに比べると自分の祈りなどは足元にも及ばない、と思ってしまう、まさにそこに、祈りにおいても人と自分とを見比べようとする私たちの思いが働いているのです。 主イエスが偽善者と言われたのは、まさにそのように、自分の、また人の目を気にしたり、人と自分を見比べたりすることによって、神様に向かって祈ることができていない者たちのことです。先週も申しましたように、偽善者という言葉は、俳優、演技する人を意味しています。人の目が自分をどう見ているか、自分の目に自分がどう映っているか、そういう人間の目を意識して、自分をよく見せようとして演技することが偽善です。それは自分を実際よりも良く見せようとするところに問題があると言うよりも、人間の目を意識することによって、神様の目の前で生きることが失われてしまうことが問題なのです。「彼らは既に報いを受けている」。これも先週のところに出てきた言葉です。「既に受けている」とは、領収書を書いてしまったという意味であると申しました。お代はもう十分いただきました。もうこれ以上は請求しません、ということです。人間の目の前で生きている者は、人間の評価、評判つまり人間の与える報いが得られれば、それでもう十分なのです。それ以上の報い、神様が与えて下さる報いは必要がないのです。必要がないと言うよりも、そもそもその報いを与えて下さる神様の前で生きていないのです。お祈りをしながら、神様の前で生きていない、神様を見つめていない、自分をも含めた人間のことだけを見つめ、人間の間での比べ合いの中で生きている、それがここに描かれている偽善者の姿です。それに対して主イエスは、あなたがたは、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる、と言われたのです。それは、ただ誰もいない部屋で人目を避けて祈れというだけのことではなくて、人間の目を意識するのではなく、神様の目の前で、神様との交わりにこそ生きよということです。祈るというのはそういうことなのです。

 つまり祈りにおいて私たちは、祈る相手をしっかりと意識し、見つめていくことが必要です。私たちの祈りは、自分の心の中で何かを念じることではないのです。念じるだけなら、相手はなくてもできます。何かよくわからないものに対して祈ることもできます。しかし真実な祈りには、相手が必要なのです。祈る相手がはっきりしないのに、何となく祈るということは私たちの信仰においてはあり得ません。私たちの祈りは、相手である神様のことをはっきりと意識している祈りなのです。その神様はどのような方なのでしょうか。

 7、8節には、異邦人のように祈るな、と教えられています。異邦人とは、まことの神を知らない、まことの神の民とされていない人々です。つまり神様のことをはっきりと知らない人々です。その人々の祈りは、「くどくどと述べる」祈り、「言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる」祈りになるのです。それはどういう祈りなのでしょうか。「くどくどと述べる」というのは、「どもる」という言葉から来ています。それは異邦人たちが、呪文のようなわけのわからない言葉を繰り返したり、多くの神々の名前を羅列して祈っていたことを指しているようです。そのような祈りの言葉は、よく聞き取れないどもっている言葉のように聞こえたのでしょう。彼らがそういう祈りをするのは、呪文を唱えることによって、あるいは神々の名を呼ぶことによって、その神の力を自分の願いの実現のために利用しようとしてです。つまり祈りを聞き入れてもらうために、くどくどと述べるのです。そこには、祈りというのは神様を動かして自分の願いをかなえてもらうためにある、という思いが根底にあります。そこでは祈りは、神様を自分のために動かす方法になるのです。そう言うと不遜なことのようですが、私たちが、神様に聞き入れてもらおうとして熱心に祈る時の思いと、祈りによって神様を動かそうとすることとは大して変わらないのです。そしてこのような、神様を動かそうとする祈りにおいては、どうしても、くどくどと、言葉数多く祈ることになります。ある一つの願いを、一度祈っただけで聞き入れてもらえるとは思えない、やはり二度三度、繰り返してお願いしなければかなえられそうにはないと思うのです。日本にも、「お百度を踏む」という言い方があります。願いごとをかなえてもらうには、百度繰り返して祈り願う、そのくらいすれば、神様も聞き入れて下さるだろう、ということです。これがまさに「言葉数が多ければ聞き入れられると思い込んでいる」異邦人の祈りなのです。まことの神を知らない、まことの神の民とされていない異邦人にとって、神様とはこのようなものであり、祈りとはこのようなことです。つまり彼らは、神様が自分に恵みを与えて下さるのかどうか、わからないのです。だから何度も何度も繰り返し祈り願い、何とか自分の願いを神様に通じさせようとするのです。あるいは、多くの神々の名を呼ぶのです。どの神が恵みを与えてくれるかわからない、だから知る限りの神々の名を呼んで、どれかが恵みを与えてくれることを期待するのです。このような祈りをしている人々と、彼らが呼び求めている神々との間は、限りなく遠いと言わなければならないでしょう。限りなく遠い神々を必死に呼び、自分の願いに気づいてもらい、出てきてもらう、そのために祈りがあるのです。

 主イエスはこのような異邦人の祈りの姿を描きつつ、ご自分の弟子たち、ご自分に従って来た信仰者たちに、「彼らのまねをしてはならない」とお教えになりました。それは、彼らのようにくどくどと言葉数多く祈るのではなく、もっと簡潔に一言祈ればいいのだ、という長さの問題ではありません。主イエスは私たちに、私たちが祈る相手である神様とはどのような方であり、その神様と私たちとの関係はどのようであるのか、を教えて下さったのです。それが、8節の言葉です。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」。あなたがたが祈る相手である神様は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じである方だ。ここには、異邦人が呼び求め祈っている神と、私たちが祈る相手である神との、根本的な違いが語られています。異邦人の神は、人間が、その願い求めを何度も何度も祈り求め、それを理解させなければならない神です。何度祈っても、神は本当に自分の願いを聞いて下さったのか、分かって下さったのか、はっきりしないのです。だからかなえられるまで百度でも祈り求めることになる。しかし主イエスが私たちに教えて下さっている、私たちが祈る相手である神様は、そんなことをする必要のない方です。この神様は、一度祈ればそれでもうちゃんと分かって下さる、二度三度祈る必要はない、私たちが考えるならばそんなふうに言うところですが、そうとすらも言われていません。まことの神は、「願う前から、あなたがたに必要なものをご存じ」なのです。私たちは、自分の必要、願いを神様に伝えるために、一度すらも祈る必要はないのです。神様の方が先に、私たちの必要を、求めを、知っていて下さるのです。ということは、私たちは、祈りによって、神様の目を自分の方に向けさせる必要はない、ということです。異邦人の神は、自分の方を見ていてくれない神です。神との距離が遠いと言ったのはそういうことです。遠くにいて、そっぽを向いている神の目を、何とか自分の方に向けさせ、自分に関心を持ってもらい、願いを分かってもらう、そのために祈りがあるのです。ところが私たちが祈る相手である神様は、私たちが神の方に目を向け、願う前から、つまり私たちが信仰を持ち、祈る前から、私たちのことを見つめ、私たちの必要に関心を持っておられる方なのです。つまりご自分の方から私たちの近くに来て下さった方なのです。そして、私たちの必要をご存じである神は、その必要なものを、必要な時に、与えて下さるのです。私たちが祈り願ったらではなく、神様の方から、愛によってです。私たちが祈る相手である神様とはこのような方なのです。

 しかしそれは本当だろうか。神様が、私たちが願う前から、私たちの必要をご存じであり、それを与えて下さる、そのように私たちを愛し、関心を持ち、近くに来て下さっているというのは本当のことだろうか。それが本当のことであるのは、この教えを語られた主イエス・キリストのご生涯を見ることによってわかるのです。主イエスは、父なる神様によってこの世に、私たちのところに遣わされた独り子であられました。神様が独り子を遣わして下さったのは、人間がそのように祈り求めたからではありません。それは神様の一方的な恵みのみ心によることです。そしてその主イエスは、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さいました。このことも、私たちがそのように祈り求めたのではありません。私たちが求めない先に、神様は、独り子を遣わし、その主イエスの十字架の死と復活によって、私たちの罪を赦し、新しく生かして下さる恵みを打ち立てて下さったのです。私たちに本当に必要な救いを、恵みを、神様はこのようにご存じであり、それを、私たちが願う前に、与えて下さったのです。主イエスはご自分の父なる神様を、ここで繰り返し、「あなたがたの父」と呼んで下さっています。神は独り子の命をも与えて、私たちを愛して下さった。それは、私たちの父となり、私たちを子として愛して下さっているということです。私たちはこの、主イエスの父であり、私たちの父となって下さった神様の恵みのまなざしの中で生かされています。この天の父のまなざしを覚え、その中で、神様の子として、父との交わりに生きることが私たちの祈りなのです。

 ですから私たちの祈りは、神様を動かし、自分の方を向いてもらい、願いを聞いてもらうためのことではありません。そんなことはできないと言うよりも、する必要がないのです。私たちが願うより前に、神様は天の父として、私たちのために必要なものを全て備え、与えて下さっているのです。それなら、祈ったって祈らなくたって変わりはないではないか。わざわざ祈る必要などないのではないか。と思う方がおられるかもしれません。何かの願いをかなえてもらおう、ということにおいては、確かにその通り、祈ったって祈らなくたって変わりはありません。私たちが祈ればそれだけ願いがかなえられる確立が高まる、というわけではないし、祈らないとかなえられない、というわけでもありません。神様が、その願いを、私たちにとって必要であるとお考えになるならば、それは必要な時にかなえられるし、それは必要ではないとお考えならば、どんなに願ったってかなえられないのです。だから祈ったって祈らなくたって同じことです。このことをわきまえておかないと、私たちの祈りも、どこかで、「言葉数が多ければ聞き入れられると思い込んでいる」異邦人の祈りと同じになってしまうのです。けれども、それでは祈ることには意味がないか、祈ったって仕方がないか、というとそんなことはありません。私たちは、願う前から私たちに必要なものをご存じであり、それを与えて下さる天の父なる神様の恵みの中にあるのです。私たちが神様に関心を持ち、祈るようになるよほど前に、神様は私たちに関心を持ち、独り子イエス・キリストを与えて下さったのです。だから、祈ったって祈らなくたっていいのです。それほどに、私たちに近く、愛をもって共にいて下さる父なる神様がおられるのです。むしろ私たちが覚えるべきことは、それほどに私たちを愛していて下さる神様がおられるのに、その神様とコミュニケーションを持たずに、対話をせずに、そっぽを向いて生きるのは、人生における大損である、ということです。それは喩えて言うならば、せっかく一億円の宝くじに当ったのに、それをお金に替えようとしないようなものです。父なる神様の恵みは、主イエスを通して、私たちが願う前から、確かに私たちに注がれています。そのことを私たちはみ言葉によって知らされます。しかしその神様の恵みが私たちの現実となり、私たちがその恵みの中で喜んで感謝しつつ父なる神様の子どもとして生きることは、祈りによって実現するのです。信仰が知識の域を脱皮して生ける神様との交わりとなるというのはそういうことです。上野さんが、「祈らないとみ言葉を聞くには聞くが深く根をはったものにはならない」と言われたのもそういうことでしょう。祈りは、信仰が本当に信仰になるためになくてはならない大切なものです。祈ることをしない者は信仰者ではないのです。しかしそれは、「信仰者たる者、祈らなければならない」というような掟や戒律ではなくて、私たちは、祈ることを許されている、ということです。祈りにおいて、私たちに必要なものを全てご存じであり、それを恵みをもって与えて下さる天の父なる神様との交わりに生きることができるのです。本日共に読まれた詩編第27編の4節の言葉で言えば、祈りにおいて、「命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎える」ことができるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2000年8月13日]

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