礼拝説教「責任ある言葉」出エジプト記 第20章7節 マタイによる福音書 第5章33〜37節 礼拝においてマタイによる福音書を連続して読んでおりまして、今、第5章〜7章の、「山上の説教」と呼ばれる、主イエスの教えをまとめた部分を読み進めています。5章の21節から48節にかけては、主イエスが、旧約聖書において、あるいは口伝えの教えにおいてユダヤ人たちの間に伝えられてきた神様の掟、律法の教えをとりあげて、それに対して、「しかし、わたしは言っておく」と主イエスの教えを語られた部分です。律法の教えとは対照的な主イエスの教えがここに示されているのです。「対照的」と言っても、主イエスは律法の教えを廃棄して、捨てて、新しい教えを語られたのではありません。律法の教えをより深める、あるいは、その本来の意味を明らかにする、そういう仕方で主イエスの教えは語られています。5章17節には、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」というみ言葉が記されていますが、まさに主イエスは律法を完成する教えを語られたのです。 本日の箇所、33〜37節もまさに、主イエスが律法の教えをより深め、完成させておられる、そういうところです。33節に「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている」とあります。これが律法の教えです。「偽りの誓いを立てるな」、それはつまり、本当でないことを「本当です」と誓うな、偽証を立てるな、ということです。また「主に対して誓ったことは、必ず果たせ」、つまり一旦主なる神様に対して誓いを立てたなら、それを必ず実行せよ、ということです。この律法の教えに対して主イエスは、「しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない」と言われました。「一切誓いを立ててはならない」というのは、誓ったことをもし守れなかったら大変だから、誓わないでおいた方がよい、ということではありません。主イエスは37節で、「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである」と言われました。この教えは、ヤコブの手紙第5章12節にも繰り返されています。「わたしの兄弟たち、何よりもまず、誓いを立ててはなりません。天や地を指して、あるいは、そのほかどんな誓い方によってであろうと。裁きを受けないようにするために、あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい」。「然りは然りとし、否は否としなさい」、それが「『然り、然り』『否、否』と言いなさい」という教えの意味です。つまり主イエスがここで言っておられるのは、誓っておいて守れなくなったら大変だ、ということではなくて、誓わなくても、あなたがたの言葉は常に真実でなければならない、偽りのないものでなければならない、そして、誓ってはいなくても、言ったことはちゃんと責任をもって守らなければならない、ということなのです。誓った時だけではなく、常に、私たちの言葉が責任ある、真実なものとなる、それを主イエスは求めおられます。「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」という律法の教えを、主イエスはそのように深め、完成させておられるのです。 この、主イエスによる「誓い」に関する律法の完成が、私たちに何を教えているか、それをさらに掘り下げるために、まずはあの律法の教えについて考えていきたいと思います。「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」という掟は、そのままの形で旧約聖書に出ては来ません。これは、口伝えで伝えられた律法です。しかしそのもとになっている教えはあります。その一つが、先程共に読まれた、出エジプト記の20章7節、つまり十戒の第3の戒めです。「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」。この戒めが、「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」という掟のもとになっているのです。この十戒の第3の戒めは、私たちにはあまりピンと来ないものです。神様のみ名をみだりに唱えるとはどういうことか、私たちの生活の中にはそのような場面がないので、よくわからないのです。この、「主の名をみだりに唱える」というのは、一つには、「誓い」において起ることです。誓いをするときに、神様のみ名を引合いに出すということが行われたのです。日本でも、「神仏にかけて」とか「天地神明にかけて」誓うということがあります。日本の神様はただ一人のはっきりとした神様ではありませんから、「神仏」になったり、よくわからないが神様らしきものということで「天地神明」と言ったりするのです。しかしそこでなされていることは洋の東西を問わず同じです。人間を越えた、神様やそれに類するものを引合いに出して誓いがなされるのです。何故そうするのでしょうか。誰かが、「天地神明にかけて誓います」と言っている場面を思い浮かべてみればわかります。それは、「私の言っていることは嘘ではありません。本当のことです」ということです。そう言わなければならないということは、その人の言っていることが、嘘ではないか、という疑いをかけられているからです。普通に「これはこうです」と言っても、信じてもらえない、疑われる、だから「天地神明にかけて」と誓うのです。つまり誓いというのは基本的に、人間の言葉があてにならない、信頼できない、という現実の中で起ることです。信頼されない、疑いをもって聞かれる、そういう言葉の信頼性を保証し、疑いを取り除くために誓いがなされるのです。そのために神様が持ち出される。誰も証人がいなくても、神様がご存じだ、神様は私の言葉が真実であることを知っておられる、そう言うことによって、自分の言葉の真実性を主張するのです。つまり誓いにおいて神様が持ち出される時に、神様は、私たちの言葉の真実性を保証する証人として用いられているのです。そのようにして、人間が神様を、自分の主張の正しさを裏付けるために利用していくのです。十戒が「主の名をみだりに唱えてはならない」と言っているのは、そういうことを戒めるためです。神様のみ名をやたらに唱えるなというのは、神様を自分のために利用するな、ということなのです。この十戒の戒めから、「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」という律法が生まれました。主のみ名によって偽りの誓いを立てるのは、嘘をまことと言いくるめるために主なる神様を利用することです。それは神様へのとんでもない冒涜です。また、主に対して誓ったことを結局果たさなければ、偽りの誓いを立てたのと同じことになってしまいます。主のみ名によって誓うことは、常に本当でなければならないし、それが将来の約束であるならば必ずそれを果して本当のことにしなければならない、それがこの律法の趣旨です。つまりこの律法は、単に「嘘をついてはならない」とか「約束は必ず守れ」という道徳の教えではなくて、主なる神様を敬い、そのみ名を汚すなという信仰の教えなのです。 ところが主イエスはこの律法に対して、「いっさい誓いを立てるな」と言われました。そもそも「誓い」ということをするな、と言われたのです。主イエスは何故、何を思ってこのように言われたのでしょうか。34節の後半から36節にかけては、「これこれのものにかけて誓ってはならない」という教えが繰り返されています。「天にかけて、地にかけて、エルサレムにかけて、自分の頭にかけて」誓うなというのです。当時のユダヤ人たちがこのような誓い方をしていたということでしょう。つまり、主なる神様のみ名にかけて誓う代わりに、天、地、エルサレム、あるいは自分の頭にかけて誓うことが行われていたのです。そこに働いている思いは、神様のみ名にかけて誓うことは、「主の名をみだりに唱えてはならない」という十戒にひっかかる恐れがあるし、もしそうやって誓ったことを果たせなかったら主のみ名を汚す大きな罪を犯すことになる、しかし、神様のみ名ではなくて、天とか地とかエルサレムとかにかけて誓うならば、十戒を破ることにはならないし、万一果たせなくても神様を冒涜することにはならないですむ、ということです。ここには、人間が、神様の掟にしろ、人間の法律にしろ、常に「抜け道」を考える、ということが典型的に表れています。主のみ名によって偽りの誓いをするな、み名によって誓ったことは必ず果たせ、という戒めがあると、主のみ名以外のものにかけて誓うなら、果たせなくてもいいだろう、という思いです。私たちは、神様に対して、いつもこういう抜け道を考えている、あるいは神様に従わないことの言い訳を考えている、ということがあるのではないでしょうか。主イエスが「一切誓いを立ててはならない」と言われたのは、そのような人間の思いを打ち砕くためです。抜け道を作らせないため、言い訳をさせないためです。「天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である」。天とは、神様がおられる所なのであり、天にかけて誓うのは神様にかけて誓うのと同じなのです。「地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である」。「地は神の足台である」というのは、神様が地を踏みつけておられるとか、足台として利用しておられるということではなくて、地もまた神様のものであり、地にかけて誓うのも神様にかけて誓うのと同じだ、ということです。「エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である」。エルサレムはイスラエルの王の都ですが、イスラエルのまことの王は主なる神様です。ですから「大王の都」というのは「神様が統べ治めたもう所」ということで、エルサレムをさして誓うのもやはり神様にかけて誓うのと同じなのです。「あなたの頭にかけて誓ってはならない」。これまでの三つが、ユダヤ人たちの誓いの仕方であったのに対して、これは、ギリシャ、ローマの誓いの仕方ではないか、という説があります。ギリシャ人、ローマ人たちは、自分の頭、つまり自分の体の中の一番大切な所にかけて誓ったのです。神様にかけて誓うよりも、自分自身にかけて誓う、そこにギリシャ、ローマの、人間を中心とするものの考え方が表れていると言ってもよいと思います。そして今日の私たちの社会は、こういう人間中心主義の影響を強く受けています。「自分の頭にかけて、自分自身にかけて」という誓いの方が私たちには馴染み深いものかもしれません。しかしそういう誓いに対して主イエスはこう言われました。「あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである」。頭の毛一本すら、私たちは白くも黒くもできない、少なくなっちゃったのを多くするこもできない。それは要するに、「あなたがたは自分の体は自分のものだと思っているが、その体のこんな一部ですら、思い通りにできないではないか。あなたがたの体は、神様が造り、与え、そして養い導いておられるものだ。健康も病気も、あるいは障害も、全ては神様がみ心によってあなたがたに与えておられるものなのだ。だから、自分の頭にかけて、自分自身にかけて誓うとしても、それは神様にかけて誓っているのと同じことなのだ」ということです。主イエスはこのようにして、私たちが何にかけて誓うとしても、神様にかけて誓っているのと同じことなのだ、と言っておられるのです。ここに挙げられている四つのもの以外のものにかけて誓えば神様とは関係なくなる、ということではありません。私たちは、神様が与えて下さり、養い導いておられる体をもって生きています。私たちの体は、人生は、私たちのもののようであって、私たちの自由にはならない、神様のみ手の内にあるのです。その私たちが、何を引合いに出して誓おうとも、それは神様と無関係ではあり得ないのです。いや、事はもはや誓いということを越えています。誓うとか誓わないではなく、私たちの語る全ての言葉が、神様と無関係ではあり得ない、神様の前での言葉なのです。神様がそれをちゃんと聞いておられ、その語られたことが真実であるかどうかを知っておられ、語られた約束が果たされるのかどうかを見ておられるのです。自分の語った言葉の責任を神様から問われるのは、誓った時だけではないのです。普段の何げない言葉の一つ一つが、例えば酒の席での言葉なども含めて、全て、神様のみ前での言葉なのです。「一切誓いを立ててはならない」という主イエスの教えはそういうことを語っています。誓いを立てることによって、誓った時の言葉だけを神様の前での、責任ある言葉とし、それ以外は神様の前での言葉でない、責任を負わない言葉にしてしまおうとする人間の思いに対して主イエスは、そうではないのだ、あなたがたの語る言葉はすべて、神様のみ前での言葉なのだ、と言っておられるのです。 このように、主イエスがここで教えておられることは、私たちが語る全ての言葉が、神様のみ前での、責任ある言葉になっていかなければならない、ということです。しかしそうであるならば、私たちはもう一言も語れなくなるのではないでしょうか。全ての言葉に神様の前での責任が問われてくるのならば、不用意なことは一切語れなくなる、いや、よく考えて語った言葉ですら、真実から遠いものだったり、その通りにできなかったりすることが多々あるのだから、もう言葉なんか一切語れないということになるのではないでしょうか。主イエスはこの教えによって、私たちから言葉を奪おうとしておられるのでしょうか。 あなたがたの言葉は全て、神様のみ前での言葉だ、ということを教えるために主イエスは、「髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできない」と言われました。髪の毛一本に象徴される、あなたがたの生活、人生、体の全ては神様のみ手の内にある、だからあなたがたの語る言葉の一言一言も全て、神様のみ前での言葉なのだ、ということです。その「髪の毛一本」ということを、主イエスは別の箇所でもお語りになっています。この福音書の10章29〜31節を読んでみたいと思います。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」。本日のところに語られていたのは、私たちは自分の髪の毛一本も思い通りにはできない、ということでした。しかしここに語られているのは、あなたがたの父なる神様が、あなたがたの髪の毛一本までも数えていて下さる、ということです。数えておられるというのは、知っておられるということであり、それは即ち愛しておられるということです。天の父なる神様が、私たちのことを父として愛していて下さり、愛するゆえに私たちの髪の毛一本までも数えていて下さるのです。神様は、私たちの語る言葉の一つ一つの責任を問うために、採点表をもって私たちの言葉に聞き耳を立てているような方ではありません。私たちの体を、人生を、日々の生活を、愛によって見守り、導いていて下さる方なのです。私たちの語る言葉の一言一言も、この天の父なる神様のみ前で語られるのです。「だから、恐れるな」と先程の10章31節にありました。私たちは、神様のみ前にあって、恐れて何も語れなくなってしまうことはないのです。神様は、私たちがみ前で言葉を失ってしまうことを望んでおられるのではなくて、私たちが、神様の愛のもとで、恐れずに、大胆に、語っていくことを望んでおられるのです。 責任ある言葉を語らなければならないと申しました。私たちの語る言葉には責任が伴うのです。言葉によって、私たちは人を傷つけたり、殺したりしてしまうのです。だから無責任な言葉は慎まなければなりません。言葉によって犯される罪の大きさを私たちは意識しなければならないのです。しかしまさにそこにおいて、神様の独り子、主イエス・キリストが、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、罪を赦して下さったことを覚えなければなりません。主イエスが十字架にかかって、私たちの身代わりとなって苦しみ、死んで下さった、そのようにして主が負って下さった私たちの罪の中には、私たちの無責任な言葉における罪、偽りや、約束を果たさない罪も含まれているのです。それらの罪の全てを主イエスは担って下さり、十字架の死によってそれを赦して下さったのです。私たちの罪の責任を全て主イエスが負って下さったのです。私たちが無責任な、偽りの、人を傷つける言葉を語ってしまう、その罪の責任を主イエスが全て引き受けて十字架にかかって死んで下さったのです。私たちの髪の毛一本までも数えていて下さる父なる神様は、このようにして私たちの語る言葉の一言一言に対する責任を引き受けて下さったのです。 主イエス・キリストは、私たちの罪の責任を引き受けて下さる愛の中で、この「一切誓いを立ててはならない」という教えを語っておられます。それは、私たちから言葉を奪うためではなく、主イエスの恵みの中で、本当に責任ある言葉を語っていくことへと私たちを招いて下さるためです。私たちは、主イエス・キリストが責任を負っていて下さるがゆえに、恐れずに、神様の恵みに応える言葉を語っていくのです。教会の営み、信仰の歩みにおいて、私たちは誓いをします。例えば、私たちが洗礼を受けて信仰者、教会の一員となる時に、父、子、聖霊なる神を信じ、教会員としての務めを果たしていくことを誓約するのです。あるいは教会において、長老や執事に選出され、その任につく時にも、誓約が求められるのです。牧師が就任する時にも誓約があります。そしてまた、教会で行われる結婚式は、その中心に結婚の誓約があります。教会の営み、私たちの信仰の生活の節々に、誓約、誓いがあるのです。それは、「一切誓いを立ててはならない」と言われた主イエスの教えに反することでしょうか。そうではないのです。教会で行われるこれらの誓約は、私たちが神様の恵みに応えて、神様を信じ、神様に従い、神様に仕える者として生きていきます、という約束をすることです。主イエスは、私たちが、神様の恵みに応えてそのような約束をすることを喜んでおられます。そして私たちも、主イエス・キリストが責任を負って下さる、という恵みに信頼して、より頼んで、自分の力ではとうてい負い切ることができないこの約束をするのです。洗礼を受けて生涯教会のえだとして、信仰者として生きていくことも、牧師や長老、執事として教会に仕える働きを担っていくことも、あるいは神様が結びつけて下さった夫婦として生涯を共に歩んでいくことも、私たちの力や責任感によってできることではありません。私たちと共に歩んで下さり、私たちのために責任を負って下さる主イエス・キリストがおられるから、その恵みの中でこそ、この約束を果たしていくことができるのです。私たちそれぞれが、もう一度、主の恵みの中でなしたそれぞれの誓約を思い起したいと思います。主は私たちのその誓約が本当に誠実なものとなるために、十字架にかかって死んで下さったのです。「誓ったから」ではなく、この主の恵みのゆえに、約束した言葉に責任をもって歩んでいきたいと思います。主は私たちの言葉が責任あるものとなるように、見守っていて下さるのです。
牧師 藤 掛 順 一 |