富山鹿島町教会


礼拝説教

「結婚の清さ」
申命記 第24章1〜4節
マタイによる福音書 第5章27〜32節

今私たちが読んでいる聖書は、新共同訳といって、カトリックとプロテステントが共同して翻訳したものです。この聖書が出る前は、同じ日本聖書協会が1954年55年に出した「口語訳聖書」を用いていました。この口語訳から新共同訳になった時に、勿論いろいろと訳文が変わり、人の名前の表記や、いくつかの書の呼び方も変わったのですが、中でも非常に特徴的な訳文の変化が、本日の箇所、マタイによる福音書5章27〜32節に二つ見られます。

その一つは、28節です。「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」となっています。ここは口語訳では「だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」となっていました。「女」という言葉が「他人の妻」に変わったのです。これは、単に訳語が少し変わったという以上の意味を持つ変化です。「情欲を抱いて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」というのを日本語として素直に読めば、女性に対して情欲を抱くこと自体が姦淫の罪と同じだと言われていることになります。しかし、年頃になって、女性に対してそのような思いを抱かない男性などいないのです。したがって、このみ言葉を真剣に読んだ、特に若い男性たちは、みんな悩んだのです。特にその後の29、30節にこう言われています。「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである」。「右の目があなたをつまずかせる」それは当然、みだらな思いをもって女性を見るその目ということになるし、「右の手があなたをつまづかせる」それはその情欲を発散させる手ということになる。それをえぐり出し、切って捨てなければ、地獄に投げ込まれることになる、と言われているのです。だからこれを読んだ人々の多くは、さんざん悩んだあげく、自分はとうてい主イエスが命じておられるような清い者ではあり得ない、地獄に投げ込まれるしかない罪人だと思ったのです。そこから、主イエスによる罪の赦しの恵みを求めていったという人も多かったと思います。このみ言葉はそのように、特に男性たちに、自らの情欲の罪を意識させる働きをしてきたのです。ところが、その「女」という言葉が「他人の妻」になった。そうすると話は全然違うことになります。女性一般に対してそういう思いを持つことが罪とされているのではなくて、「他人の妻」いわゆる「人妻」に横恋慕することが戒められているということになるのです。つまり主イエスがここで「心の中での姦淫」として戒めておられるのは、女性に対して性的欲望を抱くことではなくて、既に結婚して夫のある、家庭を持っている女性になお情熱を抱き、彼女を自分のものにしようとする、そういう思いなのです。

口語訳から新共同訳になって、このような重大な変更がなされました。この変更は何を意味しているのでしょうか。どちらが主イエスの教えを正しく表しているのでしょうか。このことは、原文の言葉だけからは決められません。原文の言葉は「女、あるいは妻」という意味です。「他人の」という言葉は原文にはありません。原文からはどちらにもとれるのです。そうすると、事は主イエスの教えやみ業の全体から、さらには聖書全体から判断するしかありません。主イエスは、男性が女性に、また女性が男性に、性的欲望を抱く、そのこと自体を罪として否定しておられたのか、ということです。その答えは否です。主イエスは、男女のそのような思い、そしてそこに成立する結婚、そして子どもが生まれることを罪として否定するようなことはおっしゃっていません。この福音書の19章にも、離婚についての教えが語られていますが、そこで主イエスは、神様が人間を男と女とに創造され、二人が結婚して一体となることを祝福しておられることを語っておられます。男女の性的関係を汚れたことや罪とするという考えは主イエスにはないのです。もう一つの大事なヒントは、この教えが、27節にあるように「姦淫するな」という十戒の教えとの関わりにおいて語られているということです。5章21節から5章の終わりまでのところには、主イエスが、律法のいくつかの教えを取り上げ、「あなたがたも聞いている通り、このように命じられている。しかし、わたしは言っておく」という形で、その律法の教えに対するご自分の教えを語っておられるところです。ここでは、「あなたは姦淫してはならない」という十戒の第七の戒めがとりあげられているのです。姦淫の罪は、当時のユダヤ人社会において、結婚ないし婚約している女性が、夫ないし婚約者以外の男性と関係を持つことを言いました。つまり姦淫とは、女性の側から言えば、自分の結婚をないがしろにし、夫との夫婦の関係を壊すことであり、男性の側から言えば、他人の夫婦関係に割り込んでいってそれを破壊することだったのです。そういうことが律法で禁じられていました。しかしそれは実際にそういう具体的な行為をすることの禁止です。主イエスはこの律法をとりあげて、「しかしわたしは言っておく」とおっしゃり、主イエス独自の教えを語られたのです。それは、そのような具体的行為をすることだけが姦淫をすることなのではなくて、そのような思いを持つことが既にその罪を犯したことになるのだ、ということです。それが「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」という教えの意味です。従って、「他人の妻」という新共同訳の方が、ここでの教えの内容に則しているのです。しかし新共同訳が「既に心の中でその女を犯したのである」という言い方をしているのはいただけないと思います。「犯す」と訳されている原文の言葉は、「姦淫するな」という戒めの言葉と同じ、「姦淫する」です。ですからここは口語訳の「心の中ですでに姦淫をしたのである」の方がよいと思います。心の中でそのような思いを持つことが既に姦淫の罪に当るのだ、ということが語られているのです。 訳文についていろいろなことを言ってきましたが、要するにここで主イエスが言っておられるのは、性的な欲望を持ってはいかん、というようなことではなくて、人の、また自分の、結婚、夫婦の関係を大切に守れということです。しかもそれは、ただ「浮気をしない」というような外面的なことにとどまるものではない、「心の中で」のことまで含めて、結婚、夫婦の関係を大切にせよと主イエスは教えておられるのです。このことは、私たちが真剣に聞かなければならない、そして決して簡単ではないことです。「姦淫するな」という戒めを外面的に守るだけならば、そう難しいことではないかもしれません。いやそれだって、不倫ばやりの今日では、決して当たり前のことではなくなっているのかもしれません。結婚とセックスとを切り離して考えるという風潮は今日とめどなく広がっているようにも思います。そのような中で、「姦淫するな」という教えを真剣に受けとめ、しかもそれを心の中のことにまで拡大していく、という主イエスの教えに聞き従うことは、大変なことです。しかし同時に言えることは、私たち一人一人が、自分の心の中の問題として、自分のであれ人のであれ、夫婦、結婚を大事にし、それを大切に守り、またその清さを保っていくという思いを確立しなければ、今日のような性的モラルの乱れ、あるいはもはや何の規範も存在しないような現実に流されずに生きることは不可能だということです。「姦淫するな」「浮気は罪だ」などという外面的な規範をいくら叫んでも何の効き目もない現実の中に私たちはいるのです。

31節以下には、結婚に関するもう一つの掟がとりあげられています。「妻を離縁する者は、離縁状を渡せ」という掟です。これは十戒の掟ではなく、先程共に朗読された申命記24章に出てくることです。イスラエルにおいて、離婚できるのは夫の方からだけでした。夫は、妻に「恥ずべきこと」を見いだした時には、離縁状を書いて彼女に渡すことによって離婚できたのです。離縁状一枚で離婚できるなんて、夫の側にだけ都合がよい、妻の立場を顧みない制度であるという感じがします。確かにイスラエルは家父長制の強い社会で、女性の地位は低かったことは事実です。しかしこの離縁状というのは、「もうこの女は私の妻ではない」ということを証明するもので、その女性の「独身証明書」になります。それを持っていない女性が、他の男と関係したらそれは姦淫の罪になるのです。しかしそれを持っている女性は、他の男と再婚ができる、そういう意味ではこれは女性の立場を保護するための書類であると言うこともできるのです。律法によってイスラエルにはそのような制度が立てられていました。主イエスはそれをとりあげて、「しかしわたしは言っておく」とご自身の教えを語られました。それは「不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる」ということでした。

さてここに、最初に申しました、新共同訳になって変わった特徴的な訳文の第二のものが出てきます。それは「不法な結婚でもないのに」というところです。ここは口語訳では「不品行以外の理由で」となっていました。「不品行」というのは、性的な罪のことです。つまり先程の姦淫の罪に通じることです。妻にそういう罪があったのなら仕方がないが、それ以外の理由で離婚するべきではない、というのが口語訳の意味になります。実際ここの原文に用いられている言葉は「ポルネイア」という言葉です。それは「ポルノ」という言葉の語源になったもので、性的な不道徳、罪を意味する言葉なのです。ですからここは「不品行」と訳した口語訳の方が原文に忠実であるということになります。それが新共同訳で「不法な結婚でもないのに」となったのはなぜか。それは、カトリック教会との共同訳だからです。カトリック教会では、ご存じのように離婚を認めません。それは結婚を洗礼や聖餐と並ぶ、教会のサクラメントの一つとしているからです。洗礼が取り消されることはなく、再び繰り返されることがないように、結婚も神様が二人を夫婦として結びつけたのだから、離婚は認められないのです。ところが本日のこの箇所は、主イエスが、ある場合には離婚を認めているという内容になっています。妻が浮気をした場合には離婚してもよい、と言っておられるように読めるのです。それを認めてしまうと、結婚をサクラメントとし、離婚を禁じるカトリック教会の基本的な教えと矛盾してしまいます。それでカトリック教会はここを「不法な結婚」と読んできたのです。それはつまり、この結婚はもともと不法であり成立していなかった、その場合には、ということです。例えば何親等以内の肉親どうしだったとか、そいういう場合にのみ離婚はあり得る、それはもともと結婚として成立していないからだ、というのです。これはあまりにも無理な読み方ですが、しかしカトリック教会はそれを譲ることができないので、このような訳になったのです。つまりこの「不法な結婚でもないのに」というのはカトリックとの共同訳ならではの訳文であるわけです。ですから私たちとしては、口語訳にあったように、「不品行以外の理由で」と読んでおきたいと思います。

さて、新共同訳を使っているとここでどうしてもそういう説明をしなければならなくなるのですが、主イエスがここで語っておられることのポイントは別のことです。「妻を離縁する者は離縁状を渡せ」という旧約の律法においては、先程申命記を読みましたように、夫は「妻に何か恥ずべきことを見いだしたら」離婚できたのです。その「恥ずべきこと」とは何かということについて、ユダヤ教の律法学者たちの間にいろいろな議論がなされていました。当時の律法学者の中には、妻が料理を焦げつかせた、それも「恥ずべきこと」になる、という人もいました。それに対して、別の律法学者は、恥ずべきこととは、妻が夫を裏切って他の男と関係を持った、つまり姦淫の罪を犯したことに限られると主張しました。主イエスは、こちらの立場に立っておられるのです。妻を離縁できるのは、つまり結婚を解消できるのは、不品行、姦淫の罪によって関係が裏切られ、破壊された時のみだ、ということです。ここに、主イエスが結婚、夫婦の関係を最大限に重んじ、大切にしようとしておられることが示されています。「料理を焦げつかせた」ことも「恥ずべきこと」になるというのは、夫は少しでも気に入らないことがあったら妻を離縁できる、ということです。そこには、結婚、夫婦の関係を大切に守り育てようとする姿勢はありません。気に入らなくなったらそれで終わりです。当時は、夫の方からしか離婚ができませんでしたからこういう言い方になっていますが、今日の私たちにおいては、夫と妻の立場は対等か、あるいは逆転しているかもしれません。夫にせよ妻にせよ、相手のことが気に入らなくなったらもうおしまい、それが「料理を焦げつかせたら」ということに代表される思いです。それに対して主イエスは、それは姦通の罪を犯すことと同じだ、と言われるのです。何故なら主イエスの教えにおいては姦通の罪とは、先程見たように、自分の、また人の結婚の関係、夫婦の関係を大切にしようとしない行動と思いの全てを指しているからです。姦淫の罪によって自分の、また人の結婚の関係を破壊するのと、相手に気に入らないことがあるからといって関係を断ち切ってしまうのとは同じことなのです。ともすればそういう思いに陥っていく私たちに対して主イエスは、そのような思いを起させるものは、右の目であってもえぐり出して捨ててしまいなさい、右の手であっても切り取って捨ててしまいなさいと言っておられるのです。右の目や右の手、それは私たちにとって無くてはならない大切なものです。決して失いたくないものです。しかしそういうものすらも、結婚の相手との関係に比べれば何ほどのことはない、捨ててもよいものだ、と主は言われるのです。つまりここで主イエスが言っておられるのは、罪を犯さないで生きるために、自分の目や手をも切り捨てよという、神経症的な潔癖症の教えではなくて、あなたの妻や夫は、あなたの目や手よりも大事なものではないか、ということなのです。妻や夫のためには、自分の大事な目や手をも切り捨てよと主は言っておられるのです。

そのように言われる時、私たちは、情欲を抱く罪を犯すならば目や手を切り捨てよと言われるのと同じようなとまどいと恐れを感じずにはおれないのではないでしょうか。私たちは、自分の妻を、夫を、自分の目や手よりも大事にしているだろうか、目や手を失っても妻や夫を愛する、そういう愛に生きているだろうか。私たちが、妻を、夫を愛する、その愛はまことに身勝手なものであることが多い。結局自分のために、自分に都合のよい仕方でしか妻を、夫を愛することができていないのではないだろうか。そしてそういうことが、心の中での姦淫を生み、気に入らないことがあればもうおしまいという思いを生んでいくのです。主イエスはそのような罪と汚れに常に陥っていく私たちの結婚、夫婦の関係を、本当に清いものとしようとしておられるのです。

しかしそれは、ただ主イエスのそのような教えのみで実現するものではありません。妻を、夫を、自分の目や手以上に大切にしなさいと教えられて、そのようにできる、というものではないのです。そうしようと心で思っても、結局やはり自分勝手な愛し方しかできない、というのが、罪人である私たちの現実なのではないでしょうか。主イエスはそのような私たちを、まさにご自分の目や手以上に大切にし、愛して下さいました。それが主イエスの十字架の死です。神様の独り子であられる主イエス・キリストが、私たちのために、十字架にかかって死んで下さったのです。それは、神様が、私たちを、ご自分の独り子よりも大切にして下さったということです。主イエスは、ご自分の目をえぐり出し、手を切り捨ててまで、私たちの罪を赦して下さったのです。私たちは、この主イエス・キリストによる神様の恵みの下にいます。私たちの結婚、夫婦の関係も、この恵みの下に置かれているのです。そのことを知らされていくことによってこそ、ここに教えられている真実な夫婦の関係が打ち立てられていくのです。結婚式において必ず読まれる聖書の箇所である、エフェソの信徒への手紙第5章25節以下にこのようにあります。「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです」。夫が、自分の体のように妻を愛する、それは「キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように」です。それは主イエスが私たちのために十字架にかかって死んで下さったことを指しています。キリストが私たちのために命をささげ、十字架にかかって死んで下さった、そのような愛をもって夫は妻を愛する。それは自分の体のように、いや自分の体以上に妻を愛するということです。自分の右の目や右の手よりも相手を愛することです。私たちの愛はいつも、それにはほど遠い、欠けだらけの愛です。しかし主イエス・キリストによって、そのような愛の模範、目標が示されているのです。私たちの夫婦の関係が、このキリストと教会の関係に重ね合わされていくことを、エフェソの信徒への手紙は教えています。このことを通して、主イエスがここで教えて下さった夫婦のよい関係が現実のものとなっていくのです。

キリストと教会の関係になぞらえられる夫婦の関係においては、赦しの思いこそがその中心に据えられることでしょう。主イエスは、不品行、つまり姦通の罪以外の理由での離婚を否定されました。しかしそれは、不品行があった時は離婚をしてもよい、あるいは、離婚すべきだ、ということではありません。それ以外の勝手な理由での離婚を否定された主イエスは、不品行においても、離婚を積極的に勧めておられるわけではないのです。その場合でも、相手の罪を赦して、夫婦であり続けるということも大いにあり得ることです。そしてまた逆に、不品行以外の理由でも、やむを得ず離婚に至るということもまたあり得ることです。ここに語られているのは、こういう場合にはこうしなさいという掟ではありません。主が求めておられるのは、互いに相手を本当に大切にする夫婦の交わりを、主イエス・キリストの恵みの下に築いていくことです。どのように罪に満ちた、愛に欠けた者をも、主イエスはそのような交わりへと常に招いていて下さる、そのことを信じて歩みたいのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2000年7月2日]

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