富山鹿島町教会


礼拝説教

「主は心によって見る」
サムエル記上 第16章1〜23節
使徒言行録 第13章16〜23節

本日は、旧約聖書サムエル記上第16章より、み言葉に聞きたいと思います。サムエル記は、古代のイスラエルがそれまでのゆるやかな部族連合体から、王国になっていく、その過程を描いています。およそ紀元前1000年ごろ、つまり今から3000年前の話です。イスラエルの最初の王となったのは、サウルという人でした。彼はなかなか有能な王であったようで、イスラエルにそれまでなかった常備軍を設置し、周囲の諸民族と戦ってイスラエルを守りました。しかし彼の王国は一代限りで続かず、サウルの次に王になったのは、縁もゆかりもなかったダビデでした。彼らは、出身部族も違います。サウルはベミヤミン族の出身であったのに対して、ダビデはユダ族の出身です。そのこと一つをとってみても、イスラエルの初代の王サウルから、第二代の王ダビデへの継承は、困難と問題を含んだ、決してすんなりとはいかない事柄だったのです。本日の第16章は、第二代の王になるダビデが初めて登場する所です。ここから、ダビデへの王国継承の歩みが語られ始めるのです。ダビデは、ユダ族のベツレヘムという小さな、町というよりも村と言った方がよい所に住むエッサイという農民の息子でした。このエッサイのおじいさんがボアズという人で、その妻となったのがモアブ人出身のルツという女性だったということを、私たちはサムエル記の前に置かれているルツ記を通して読んできたわけですが、ルツ記からもわかるように、エッサイの家というのは、ベツレヘムのある程度豊かな農民ですが、イスラエルの歴史において特に政治的な影響力を持ったことはありません。無名の存在です。そのエッサイの8人の息子たちの末っ子だったダビデは、この時まだ少年で、ものの数に入れられていなかったような存在でした。父エッサイが、預言者であり最後の士師であるサムエルを迎えて、神様に犠牲を献げ、会食をする、その食事の席に連なることを彼はまだ許されていなかったのです。そのようなダビデがしかし、神様に選ばれて、油を注がれ、サウルに代わってイスラエルの王となる者と定められたのです。しかし油を注がれたからすぐにそこで王になるわけではありません。彼が実際にイスラエルの王として即位するのはそれから十数年後です。様々な紆余曲折を経て、ここでの神様の選びが実現していくのです。その第一歩として、この16章では、ダビデがサウルの宮廷に、竪琴を奏でて王の心を安らげる者として召し抱えられ、さらには王の武器を持つ者、日本流に言えば太刀持ちに取り立てられたことが語られています。そのようにしてダビデは、王となることへの第一歩を踏み出したのです。

さて、サウルを、次にダビデを、イスラエルの王として立てる、そのことを、神様のご命令によって実際に行なったのが、先程申しましたサムエルでした。サムエルは、サウルに油を注ぎ、彼を王として立てたのです。そしてこのたびはダビデに、同じように油を注いだのです。サムエルはそのように、イスラエルに王を立てる働きをしました。それゆえに彼のことをこれまでにも何度か、「キングメーカー」と呼んできました。しかしサムエルは自分の思いで勝手に王を選んだのではありません。それは全て、神様のご指示によることでした。油を注ぐという儀式は、神様がその人をお選びになり、お立てになる、ということを表すものだったのです。それゆえにサムエルは、神様が、お選びになり、お立てになったサウルを退けて別の人を王にする、と言われたことにとまどい、悲しみ嘆きました。そのことは、15章の10、11節に語られていました。「主の言葉がサムエルに臨んだ。『わたしはサウルを王に立てたことを悔やむ。彼はわたしに背を向け、わたしの命令を果たさない。』サムエルは深く心を痛め、夜通し主に向かって叫んだ」。彼が夜通し主に向かって叫んだのは、主がサウルの罪を赦して下さり、お選びになった王を見捨てないで下さるようにとの願いでした。しかしそのようなサムエルの執り成しも空しく、サウルは退けられてしまったのです。そのことについては、先月の最後の礼拝においてご一緒に読みました。本日の16章1節には、サムエルがなおもそのことで嘆き続けていたことが語られています。それはサウルのために嘆いたということでもありますが、自分が神様のご命令によって油を注いで王とした、その人が退けられてしまうということは、サムエル自身の働きが否定され、失敗であったということになる、ということでもあったでしょう。あなたが彼に油を注げとおっしゃったからそうしたのに、その人を見捨ててしまわれるなんて、私の立場はどうなるのですか、という思いがサムエルにはあったと思うのです。しかし神様はそのようなサムエルに、「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした」とおっしゃるのです。このお言葉は大事なことを語っています。つまり、神様は新しいことをなさる、ということです。神様が新しいことをなさろうとしておられる時に、私たち人間が、これまでのことにこだわり、あるいは自分の面子にこだわって、その神様の新しいみ業を受け入れようとしないのではいけない、ということが教えられていると言うことができるでしょう。私たちは、過去のことにいつまでもこだわり続け、嘆き続けていてはいけない、そういう時があるのです。勿論、私たちの勝手な思いで、都合の悪いことはさっさと忘れて次へ行こうとすることは間違っています。じっくりと過去を見つめ、こだわっていかなければならない場合もあります。例えば、「天皇を中心とする神の国」という考えの下に、他国の人々を苦しめ、国民にも大きな禍をもたらしたこの国の歴史を私たちは忘れてしまってはならないし、そういう歴史を無視する発言には断固として否を言わなければなりません。しかし、そういうこととは別に、神様が新しいみ業をなさり、私たちの歩みに、教会の歩みに、またこの国の、世界の歩みに新しい展開をお与えになる、その時には、過去を忘れて新しい道に歩み出していく、ということが求められるのです。私たちの教会は15年前に、総曲輪からこの鹿島町に移転をしました。そして教会の名前も、富山総曲輪教会から富山鹿島町教会に変更しました。その時に私たちがした決断は、神様の新しいみ業を受け入れ、過去の思い出にこだわるのではなく、新しい道に歩み出すということだったのです。サムエルに求められたのもそのような決断だったのです。

サムエルにとってこれはしかし命がけのことでした。神様に退けられたとはいえ、サウルはなお王としてイスラエルに君臨しているのです。その支配の中で、別の人を王として立てるなどということは、王に対する反逆になります。「サウルが聞けばわたしを殺すでしょう」とサムエルが言ったのは決して大げさなことではないのです。そこで神様はサムエルに一つの知恵を授けます。「主にいけにえをささげる」という口実を設けて行けというのです。サムエルは当時、イスラエルの民全体のための祭司のような役割を担っていましたから、あちこちへ言って犠牲を捧げ、礼拝を司ることは通常の働きです。それにかこつけて、主が新しく選んだ人に油を注げというのです。神様への礼拝を口実として用いるなんて、不謹慎、不信仰だと言わなければならないかもしれません。でもそれを命じておられるのが他ならぬ神様ご自身なのですから、この場合には許されることでしょう。出かけていくサムエルがこのように命がけであるのと同じように、迎える方も不安を隠せません。サムエルがベツレヘムに着くと、町の長老たちが不安げに出迎えて「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか」と尋ねたと4節にあります。サムエルが、「主はあなたをイスラエルの王位から退けた」と宣言してサウルと決別したことが既に15章に語られています。サウルとサムエルは敵対関係になったのです。そのサムエルを町に迎えるとなれば、サウルに対する陰謀の疑いをかけられ、とんだ迷惑を被るかもしれないと彼らは考えたのです。彼らもまた、主にいけにえをささげる、という礼拝のため、平和なことのためにサムエルが来たと聞いてようやく安心したのです。神様が新しいことをなさる、それについていくことは、サムエルにとっても、ベツレヘムの人々にとっても、なかなか大変なことだったのです。

サムエルはエッサイの家に客となりました。そして彼の息子たちを紹介されたのです。その中に、主が新しい王として立てようとしている者がいる、サムエルはその人が誰かを見極めようとしてその息子たちと会いました。まず、長男のエリアブが紹介されました。サムエルはその姿を見て、「この人こそ、主が選ばれた人に違いない」と思いました。しかし神様は彼にこう言われました。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」。こうして、7人の息子たちと会いましたが、主が「この人だ」と言う人はいませんでした。サムエルが、「あなたの息子はこれだけですか」と尋ねると、エッサイは、「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」と言いました。このことは、先程申しましたように、この末の子がまだ少年であり、サムエルを迎えて食卓に着くべき者の数に入れられていなかったということです。サムエルから、「あなたの息子さんたちに会いたい」と言われた時に、エッサイの頭にはこの末の息子のことはなかったのです。しかしその子が連れて来られた時、主なる神様はサムエルに、「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ」と言われました。人間がものの数に入れていなかった少年を、神様はイスラエルの王としてお選びになっていたのです。

神様は何故このダビデをお選びになったのでしょうか。12節には、「彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった」とあります。ダビデのそういう美しい姿が神様に選ばれた理由なのでしょうか。そうではない、ということが、先程の7節に語られていました。姿の立派さ、見た目の美しさということにおいては、長男エリアブもダビデに勝るとも劣らなかったのです。だからサムエルはこの人こそ選ばれた人だと思いました。しかし神様は「この人ではない。容姿や背の高さに目を向けるな」と言われました。神様は、そのような外見で人を選ぶことをなさらないのです。そのことが「わたしは人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」という言葉によって言い表されています。人間が人を見て判断するその見方と、神様が人を判断するその見方とは違うのだ、ということです。人は「目に映ること」、つまり容姿や背の高さなどの外見で判断するが、神様は「心によって見る」、そういう人間とは違う見方によって、神様はダビデを選ばれたのです。しかしそのように言うと、皆さんの中には、反発を覚える方もいるのではないでしょうか。「自分は人を外見だけで判断したりはしない。もっとその人の中身を、心を見るようにしている。人は目に映ることしか見ていない、などと言われるのは心外だ」。そう思う人が必ずいると思います。つまり、人をその外見ではなく心によって判断することは、神様だけがしているわけではなくて、私たち人間だって多かれ少なかれそうしているのです。そうすると、ここで言われている、神様と人間との見方の違いはそう本質的なことではなくなります。神様は外見にとらわれることがない。しかし人間はどうしてもある程度外見にとらわれてしまう、その程度の違いだということになるのです。しかしここで語られているのはそういうことなのでしょうか。このことを考える上で注目しなければならないのは、「主は心によって見る」という言い方です。ここは以前の口語訳聖書では「主は心を見る」となっていました。人は外見を見、主は心を見る、そうなっているなら、今申しましたような反発は覚えるにせよ、意味は明確なのです。ところが新共同訳は「主は心によって見る」となっています。この「よって」はどういう働きをしているのでしょうか。実は原文を直訳すると、この新共同訳のように、「心によって」となるのです。あるいは「心において」です。「心を」というと「心」は見る対象、目的語でしかないわけですが、原文にはそこに「によって、において」という前置詞がついているのです。「主は心によって見る」、それは、単純に「心を見る」というのとは違うことです。そして、それと同じ前置詞が、「人は目に映ることを見るが」という所にも実は使われています。こちらも直訳するならば、「人は目によって、あるいは目において見る」となるのです。「目に映ることを」というのは、原文にない言葉を補った訳です。「人は目によって見るが、主は心によって見る」これがこの文章の直訳なのです。そうするとこれは、「人間は目に見える外見で人を見るが、主はその人の心を見る」というのとは違うことを言っていると考えることができます。ここに語られているのは、「人を外見で判断してはいけない」という教訓話ではないのです。「人は目によって見る」、それは相手の外見だけを見るということではなくて、私たちが、自分の目やその他の様々な「自分の感覚」によって、人のことを総合的に見て、判断する、そこには相手の心を理解して判断することも含まれている、そういう私たちの人についての判断の仕方を総合して「人は目によって見る」と言われているのです。それに対して「主は心によって見る」、これは、相手の外見ではなく心を見て判断するということではなくて、主なる神様が、神様ご自身のみ心によって人をご覧になる、そういう意味なのです。このダビデの選びについて言うならば、主は、ダビデが、その心において正しく、正直であり、神様を信じる信仰を深く持っている、だからダビデをお選びになったのではないのです。そういう見方はむしろ「目によって見る」人間の見方です。神様は、ご自分の心によって人を見る。ということは、神様は、相手がどうであるか、外見であれ、心においてであれ、どんな人間であるか、ということにによって人を見ることをなさらないのです。人間は、相手がどうであるか、ということによって人を見、判断します。人は目によって見るとはそういうことです。それに対して、神様は、相手がどうかではなく、ご自分のみ心によって人をご覧になるのです。そして人を選び、お立てになるのです。だから、ダビデは何故選ばれたのか、その理由を、ダビデ自身の中にいくら捜しても答えは得られません。答えは、神様のみ心にこそあるのです。そこにしかないのです。

このことは何も驚くようなことではありません。私たち一人一人において、同じことが起っているのです。私たちは神様に選ばれて、信仰を与えられました。教会に連なる者とされました。あるいは今日、この礼拝へと導かれました。それは、神様が多くの人々の中から私たちを選び、招いて下さったということです。私たちは何故選ばれたのでしょうか。その答えは、私たちの中にあるでしょうか。私たちが特別に信心深い、敬虔な人間だからでしょうか。違います。私たちが人一倍努力して清い生活を送っているからでしょうか。違います。私たちの心が正直で、素直で、やさしさに満ちているからでしょうか。違います。そんな理由は何一つ、私たちの中にはないのです。では私たちは何故選ばれたのか、それは、神様のみ心によるのです。そこにしか理由はないのです。

ダビデの選びは神様のみ心による。それでは神様はどのようなみ心によってダビデをお選びになったのでしょうか。そのみ心は、この時にはまだ誰にもわかりませんでした。十数年後、ダビデが実際に王として即位した、その時にもそれはまだわかりませんでした。ダビデの治世の間に、一人の預言者が、その神様のみ心を伝えました。サムエル記下の第7章12節以下を読んでみます。「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が過ちを犯すときは、人間の杖、人の子らの鞭をもって彼を懲らしめよう。わたしは慈しみを彼から取り去りはしない。あなたの前から退けたサウルから慈しみを取り去ったが、そのようなことはしない。あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる」。ここに、ダビデをお選びになった神様のみ心が語られています。イスラエルの国が、ダビデの子孫に引き継がれ、ダビデ王朝によって治められていく、そのダビデ王朝を神様は見捨てることなく守り導いて下さる、それによってイスラエルが揺るぎなく支えられていく、その恵みのために、ダビデは選ばれたのです。しかし、この預言も実は、神様のみ心をまだ十分に言い表してはいませんでした。そのみ心が本当に明らかになったのは、ダビデからおよそ千年後、このダビデの子孫として、ベツレヘムの町で、主イエス・キリストがお生まれになった、そのことにおいてでした。本日共に読まれた新約聖書の箇所、使徒言行録第13章16節以下のパウロの説教がそれを語っています。その23節「神は約束にしたがって、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです」。これが、本日のサムエル記上第16章で名もない少年ダビデが選ばれ、油を注がれて王として立てられたことの最終的な目的です。神様はこのみ心、このご計画によって、ダビデを選び、お立てになったのです。

つまり、主が、容姿や背の高さなどの外見によってではなく、み心によってダビデをお選びになった、そこには、神様の私たちに対する限りない愛と、救いの恵みがあったのです。神様は、外見や、また心が、立派で清く、正しく、あるいは愛に満ちている、そういう人を、その立派さのゆえに愛し、救って下さるのではなくて、むしろものの数に入らないような、とうてい選ばれる値打ちがない、いや、候補者のリストにすらあげられることのない者を、選び、ご自分のもとへと招き、救いにあずからせて下さるのです。そのみ心によって神様は、ご自分の独り子イエス・キリストを遣わして下さいました。イエス・キリストは、良い人、立派な人を救うためではなくて、罪人を、弱い者を救うために、その人々のために十字架にかかって死んで下さるためにこの世に来られたのです。神様は、この主イエス・キリストによる救いの恵みのみ心によって、人間を、私たちを見ておられます。私たちが教会へと導かれ、信仰を与えられ、また礼拝へと招かれているのは、このみ心によることです。神様は私たちを、外見や、また私たちの心によってではなく、主イエス・キリストによる救いの恵みのみ心によって見つめ、選び、招いておられるのです。だから、清くもない、正しくもない、愛に満ちてもいない、罪人である私たちが、神様の救いの恵みにあずかることができているのです。

み心によって選ばれたダビデに、主の霊が降りました。ダビデは聖霊の導きを受けて歩む者になったのです。一方サウルは、主から来る悪霊によって苦しめられるようになりました。主に選ばれた者と見捨てられた者との歩みはこのように交差していくのです。しかしここで大事なことは、選ばれ、聖霊の賜物を与えられたダビデが、見捨てられ、悪霊に悩まされるようになったサウルに仕え、竪琴を奏でてその心を休めるための働きをしていったということです。それもまた神様の導きによることでした。神様が、次の王として選び、お立てになったダビデに、まず第一にお命じになったことは、神様のみ心においては退けられたサウルに仕えることだったのです。このことは、神様に選ばれた者がなすべきことは何かを教えています。選ばれた者、恵みをいただいた者は、そのことを誇ったり、人よりも偉くなったように思うことは許されないのです。むしろ、選ばれた者が、選ばれていない人に仕えていくことこそ、主が求めおられることです。ダビデはこの後、サウルに代って王となっていく過程において、常に、サウルを、主によって立てられた主君として尊重しました。サウルの王位を自分から纂奪しようとはしなかったのです。しかし王国は主の導きによって彼に与えられていったのです。従って私たち、今神様に選ばれ、招かれてこの礼拝に集っている者も、まだ選ばれていない、ここに共に集っていない人々に仕える者でなければなりません。私たちを恵みのみ心によって見つめ、選び、招いて下さった主なる神様は、それらの方々をも同じみ心によって見つめ、選び、招いていて下さるのです。自分や、人々の、外見や、また私たちが自分の目で見るところのその人の心のあり様にではなく、主イエス・キリストによって赦しの恵みを与えて下さった神のみ心にこそ目を向けて、そのみ心に感謝しつつ歩む者でありたいと思います。

牧師 藤 掛 順 一
[2000年6月25日]

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