富山鹿島町教会


礼拝説教

花の日合同礼拝
「地の塩、世の光」

マタイによる福音書 第5章13〜16節

教会学校では、今年は1年かけて、マタイによる福音書を読んでいくことになっています。一方大人の礼拝でも、今、マタイによる福音書を順番に読んでいるところです。先ほど読んでいただいた聖書の箇所は、教会学校で今日学ぶことになっているところです。大人の人たちは、ちょうどひと月前にこの箇所を読んで礼拝をしました。ですから大人の礼拝に出ている人にとっては、ついこの間読んだところをもう一度聞くことになります。でもイエス様のみ言葉は何度聞いてももういい、ということはありません。それにこの礼拝は教会学校の子供たちと一緒に守る礼拝ですから、そういうつもりでお話をします。そこには、大人の人たちにとっても、新しい発見があるのではないかと思うのです。

さて、教会学校の皆さんは先週、イエス様が、「こういう人たちは幸いですよ」と教えられたみ言葉を学びました。その幸いな人、しあわせな人というのは、誰かよその人のことではなくて、私たちのことだったのです。教会に集まって、神様を信じて毎日を過ごすあなたがたは、こんなふうに幸いですよ、とイエス様は言われたのです。それに続いて今日のところでイエス様は、「あなたがたは地の塩ですよ、あなたがたは世の光ですよ」と教えて下さいました。塩っていうのは、お料理に使う、あの塩からい塩です。「あなたがたは塩だ」ってイエス様はおっしゃったのです。みんなはどう思うかな。「えー、あんな塩っからい塩だなんていやだ」と思うかもしれません。確かに、塩というのは、塩だけでなめてみても、塩からいだけでちっともおいしくありません。でも、塩というのは、なくてはならない大切なものなのです。お料理に、塩が全然使われていなかったら、まずくて、味けなくて食べられないと思います。まずいだけではなくて、人間が生きていくためには、塩が必要なのです。塩を全然とることができないと病気になってしまいます。塩は、そのままでは食べられないけれども、私たちの命を支えている大切なものなのです。それに塩は、食べ物が腐るのを防ぐ働きをします。お魚の干物とか、漬物というのは塩の働きで、腐らないで保存できるようになっているのです。昔は冷蔵庫なんてありませんから、塩を使うしか、食べ物をとっておく方法がなかったのです。ですから、昔から塩はとても大事な、貴重なものでした。そしてそう簡単には手に入らなかったものだったのです。昔はおもに、海の水から塩をとっていましたが、そうすると、海から離れた山の中では塩が手に入りません。だから塩はとても値段が高い貴重品だったのです。それで、昔は仕事をしてもらうお給料を塩でもらったこともあったようです。皆さんのお父さんお母さんが会社などで働いてもらうお給料のことを英語で「サラリー」と言いますが、それはもとは「塩」という意味の言葉から来ているのです。そういうふうに、塩というのはとても大事な、なくてはならない働きをするものです。イエス様は私たちに、「あなたがたは地の塩、つまり、私たちが暮らしているこの世界にとって塩のような、なくてはならない、大事な働きをする人なのですよ」と言っておられるのです。

もう一つ、イエス様は「あなたがたは世の光ですよ」とも言われました。光の大切さはお話をしなくても誰でもよく知っています。もし私たちの周りに光が全然なくなってしまったら、どうなるでしょう。いつも辺りは真っ暗で、何も見えなくなってしまいます。それはとても恐ろしいことです。私たちは、真っ暗な部屋の中に、小さな明かりが一つでもあればほっとするのではないでしょうか。光は、周りのものを照らし、明るくし、そして私たちに元気や勇気を与えてくれるのです。「あなたがたは周りの人たちを明るく照らして元気や勇気を与える光なのだよ」とイエス様は言っておられるのです。 でもどうでしょう。私たちは、塩にしても光にしても、そんな大事な、すばらしい働きを周りの人たちに対してすることができているでしょうか。塩のように、世の中においしい味をつけたり、世の中が悪くなってしまうのを防いだり、あるいは光のように周りの人たちを明るく照らして元気づけたりということを私たちはすることができているでしょうか。今日、お花を持って教会に集まって礼拝をし、この後このお花をいろいろな所にお届けしようとしています。大人の人たちは、ご病気の方や、お年寄りで教会に来ることができない方のところにお見舞に行きます。教会学校の皆さんは、磯部の交番と逓信病院に行きます。日ごろこの社会の安全ために働いておられるおまわりさんや、病院に入院しておられる人たち、あるいは看護婦さんたちに、ささやかな感謝の気持ちとお見舞いの気持ちを表すためです。こういうことも、地の塩、世の光としての私たちの働きの一つであると言えるかもしれません。でも、それは本当に小さなことです。これをしたから、私たちは地の塩だ、世の光だ、なんて胸をはって言えるようなことではありません。ご病人をお見舞いに行くことも、世の中の人たちがみんなしていることです。イエス様を信じている私たちだけがしているわけではありません。私たちは、地の塩、世の光と言えるような特別なことができているわけではないのです。教会学校の皆さんは、まだ子どもだからそんな特別なことはできない、と思うかもしれません。でも、今一緒に礼拝を守っている大人の人たちも同じなのです。私は地の塩、世の光としてこんなことをしていますよ、なんて言えるような人は一人もいないのです。

本当に地の塩、世の光になって下さった方はただお一人です。それはイエス様です。イエス様は、私たちのために、私たちのところに来て下さった神様の独り子です。イエス様が来て下さったことによって、私たちのこの世は、あるいは私たちの毎日の生活は、神様がいっしょにいて下さるすばらしいものになったのです。味わいのあるものになったのです。イエス様と一緒に歩いていく時、私たちの生活は塩で味つけられたものになります。明るい光に照らされたものになります。いろいろな苦しいこと、つらいことがあっても、イエス様が慰めと支えを与えて下さいます。そしてイエス様は、私たちが神様と人々に対していつもしている悪いこと、罪を全部引き受けて、十字架にかかって死んで下さいました。イエス様によって私たちは、私たちの悪いことを神様に赦していただいて、いつも新しくされて生きることができるのです。イエス様こそ、私たちの、そしてこの世の、本当の塩、本当の光になって下さった方なのです。

私たちは、このイエス様が私たちの救い主として、いつもいっしょにいて下さることを信じて、イエス様といっしょに歩いていきます。さっき、「やさしい目が」という讃美歌を歌いました。イエス様のやさしい目が、今日も私を見ていて下さる。イエス様の大きな手が、今日も私を支えて下さる。イエス様の限りのない広い心が、今日も私を守って下さる。そういうふうにイエス様が見ていて下さる、支えて下さる、守って下さる中で私たちは毎日を過ごすのです。イエス様が私たちの地の塩、世の光であられるというのはそういうことです。そしてそのことを私たちは、毎週の礼拝で示されるのです。イエス様が私たちのために地の塩、世の光としていっしょにいて下さることが、礼拝を通して私たちにわかってくるのです。そして私たちはイエス様の塩によっておいしく味つけられていきます。私たちが間違ったことに陥って腐ってしまいそいうになる時、イエス様が塩として、それを防いで下さいます。またイエス様の光が、どんな闇の中でも私たちを照らして、元気と勇気を与えて、道を示して下さるのです。

そしてそういうふうに、イエス様という地の塩、世の光の恵みをいただいていく時に、私たちも、周りの人たちに対して、地の塩、世の光となっていくことができるのです。私たちが自分で何かをする力はちっぽけなものです。何もできないと言った方がいいかもしれません。でもその私たちが、地の塩、世の光であるイエス様に見つめられ、支えられ、守られながら、明るく、喜んで、神様に感謝しながら毎日を過ごしていくならば、そのことは周りの人々にも伝わっていくでしょう。何か特別な大きなことをする必要はないのです。塩は、料理の中に入ったらもう見えません。とけてしまって、どこにあるのかわからなくなるのです。でも食べればちゃんとおいしい味がついています。光も、いちいちここから光が出ているぞ、なんてことはみんなあまり意識はしません。それにあまり明るすぎてもまぶしくてよく見えません。みんなが意識はしていなくても、私たちがものを見ている、そこには光があるのです。私たちが地の塩、世の光だというのも、そういうことだと思います。イエス様がいっしょにいて下さるならば、私たちはそのように、目立たなくても大事な働きをしていくことができるのです。そしてそういうことを通して、みんなが一緒に、天の父なる神様をあがめるようになっていくのだ、とイエス様はおっしゃいました。ここに捧げられたお花も、これから私たちがお花を持って出かけることも、ささやかなことではありますが、そのことのためのに用いられていくのです。このお花を持ちよった私たちと、このお花を受け取る人たちとが、地の塩、世の光であられるイエス様に導かれて、いっしょに天の父なる神様をあがめることができるように、お祈りしましょう。

牧師 藤 掛 順 一
[2000年6月18日]

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