富山鹿島町教会


礼拝説教

「主の言葉を退けるなら」
サムエル記上 第15章1〜35節
フィリピの信徒への手紙 第2章1〜18節

月の終わりの主の日には、旧約聖書サムエル記上を読み、み言葉に聞いています。本日はその第15章です。サムエル記は、イスラエルが、それまでのゆるやかな部族連合体から、王国になっていく、その過渡期を描いています。その転換期において、神様から遣わされて王を立てる働きをしたのが、サムエルです。サムエルは、文字通り、キングメーカーとしての働きをしたのです。勿論それはサムエルの勝手な思いによることではありません。彼は神様に示された人に油を注ぎ、王としたのです。そのようにして最初に立てられた王がサウルでした。しかしこのサウルは結局、神様のみ心に適うことができず、王としての地位を全うすることができなかったのです。彼は神様に捨てられてしまいました。次の16章では、神様はサムエルに、新しい別の人を王として立て、油を注ぐように命じておられます。本日の15章には、サウルがそのように神様に捨てられてしまう、そのことが決定的になったいきさつが語られているのです。

事は、サムエルがサウルに、アマレク人を攻め滅ぼせ、という神様の命令を伝えたことから始まります。このことは、神様のみ心から出たことです。神様がそのようにお命じになったのは、2節にあるように、イスラエルがエジプトを出て約束の地カナンへと旅してきた時、アマレク人がそれを妨害したことによります。このことは、出エジプト記の17章に語られていることです。そのアマレクとの戦いの時、モーセが山の上で手を上げている間はイスラエルが優勢となり、手を下げると劣勢になったのです。それで二人の補助者がモーセの手を支え続けた、それによってイスラエルはアマレクに勝つことができたのです。この「手を上げている」というのは祈りの姿勢です。つまり、モーセの祈りにより、神様の力が働いてアマレクに勝利することができたのです。その17章の14節には「わたしは、アマレクの記憶を天の下から完全にぬぐい去る」という神様の言葉が記されています。また16節にも「主は代々アマレクと戦われる」とあります。アマレク人は、イスラエルにとって、そして主なる神様にとって、宿敵とも言えるような存在なのです。そのアマレク人を徹底的に滅ぼせ、という命令が、神様からサウルに下ったのです。その命令は、ただ戦いを挑んで撃退せよ、というようなものではありません。本日の15章の3節にあるように、「アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない」という命令でした。 私たちはこれを読むと、神様がこんなことをお命じになるなんて、なんと残酷な、と絶句する思いがします。しかし、そのように感じる私たちの感覚そのものが、時代の産物であるということを忘れてはならないでしょう。今日の感覚を、約三千年前のこの時代の事柄にあてはめてみても仕方がありません。聖書は、特に旧約聖書は、神様とその時代の人間との関わりを描いています。その時代の人間の持っていた感覚を無視して、神様のみ言葉は語られ得ないのです。そしてこの時代の人間の感覚には、今日の私たちの常識となっているような人道的感覚はないのです。もしも今この時代に、これと同じことがなされたらば、それはとんでもない犯罪です。これと似たようなことをしようとしたのが、ヒトラーのナチスでした。三千年前にアマレクを絶滅させたユダヤ人が、今度はナチスによって絶滅させられようとしたのです。それは戦争犯罪として、国際法に照らして、また人道に対する罪として厳しく断罪されました。そうなったのは、世界的に、人間の感覚が三千年前とは大きく変わっていたからです。人類は、幾多の虐殺や破壊の苦しみを経て、そのような人道的な感覚を養ってきたのです。戦争においてもそうです。昔の戦争は、まさにルールなしの殺し合いでした。戦闘員も非戦闘員もない、部族と部族、民族と民族の虐殺の応酬でした。しかし時代が進むにつれ次第に戦争にもルールが生まれてきました。ルールに従って戦争をし、そのルールを破ると非難されるようになりました。だからここに書かれているようなことはとんでもない話だと思われるようになったのです。そういう人間の感覚の進歩を私たちはいちおう喜ぶべきでしょう。しかし今日はまた事情が変わってきています。核兵器というのは、それこそルールもへったくれもない殺戮手段です。「男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも」容赦なくみな殺しにするものです。今世界にはそういう殺戮手段が大量に貯め込まれ、いつでも発射できる状態になっています。それはある意味では三千年前と全く変わっていないということかもしれません。数百年後かあるいは数千年後かに、核兵器などが全く存在しない時代が来たとしたら、その時代の人々は今日の私たちのことを、ちょうど私たちがこの聖書の時代のことを見るような目で、何と恐ろしい残酷な時代だったかと思うかもしれません。いずれにせよ、この神様の命令はその時代を前提として受けとめるべきものなのです。

さてサウルは神様からのこの命令を受け、兵士を召集してアマレクに対する陣をしきました。6節に語られていることは、彼がアマレク人と共にいたカイン人に対して、あなたがたを共に滅ぼしたくはないから避難するように伝えたということです。この「カイン人」は別の所では「ケニ人」とも訳されていて、モーセのしゅうとがその民族だったとされています。そういう関係もあって、彼らはエジプトから出てきたイスラエルに好意的であり、助けてくれたのです。その人々を避難させてからアマレクを討つ、というサウルのやり方は、沈着かつ周到です。サウルという人は決して、逆上して前後の見境がつかなくなるような人物ではないのです。彼はそういう意味で王としての資質に欠けていたわけではありません。今、森総理大臣が、「日本は天皇中心の神の国」と発言したことをめぐって、総理大臣としての資質を問われていますが、少なくともあの人よりはサウルの方がよほど慎重に事を進めることができる、一国の指導者たるにふさわしい資質を持っていたと言えるでしょう。そのサウルがしかし、このアマレクとの戦いの中で、神様に見捨てられ、王位を追われていくようなことをしてしまったのです。彼は何をしたのでしょうか。

彼に率いられたイスラエル軍は、アマレクを討ち滅ぼしました。神様の命令の通り、みな殺しにしたのです。しかし、アマレクの王アガクだけは生け捕りにし、捕虜にしました。また、羊と牛の最上のもの、肥えた動物、小羊、その他の上等なものは滅ぼし尽くさなかったのです。神様の命令は、王をも含めた全てのものを皆殺しにし、動物たちも全て打ち殺せということでした。サウルはその命令の通りにしなかったのです。私たちは、サウルがしたこのことを正確に理解しなければなりません。彼がしたことは、神様は全てを皆殺しにしろと命じられたが、それはいくらなんでもかわいそうだ、という思いで、一部を生かしておいた、ということではないのです。彼がしたことは決していわゆる人道的見地からのふるまいではありません。人間について言えば、彼が生かしておいたのは王であるアガク一人だけです。他の者は、女も子供も老人も乳飲み子も全て殺したのです。動物について言えば、彼が生かしておいたのは上等なもの、肥えたもの、つまり値打ちのあるものだけです。9節の終わりにあるように、「つまらない、値打ちのないものだけを滅ぼし尽くした」のです。

何のためにアガクを生かしておいたのでしょうか。古代の戦争においては、勝った王はいわゆる凱旋のパレードをして、人々に自分の勝利を示すことが行われました。その凱旋行進の中に、打ち破った敵の王を捕虜として引いていき、人々にその姿を見せるということがよく行われたのです。捕えられた敵の王の姿を実際に見ることで、人々は勝利を実感するし、王の威光が増すのです。サウルは諸国の王たちがしているように、アガクを自分の凱旋行進に引いていきたかったのでしょう。アガクだけを生かしておいたのはそのためです。彼のそのような思いは、12節に、彼が自分のために戦勝碑を建てたとあることからも伺えます。自らの勝利を記念し、祝い、それを人々に覚えさせようとする、そういう思いが働いているのです。

動物のことはどうでしょうか。サウルが神様のお命じになったように、それらを全て滅ぼし尽くさなかった、そのことをサムエルが責めた時、サウルはこう答えました。15節です。「兵士がアマレク人のもとから引いて来たのです。彼らはあなたの神、主への供え物にしようと、羊と牛の最上のものを取って置いたのです。ほかのものは滅ぼし尽くしました」。「兵士たちがしたのだ」と彼は言っています。21節でも同じように「兵士が、ギルガルであなたの神、主への供え物にしようと、滅ぼし尽くすべき物のうち、最上の羊と牛を、戦利品の中から取り分けたのです」と言っています。それはその通りだったのでしょうか。24節では彼は自分のしたことを罪であったと認めてこう言っています。「わたしは、主の御命令とあなたの言葉に背いて罪を犯しました。兵士を恐れ、彼らの声に聞き従ってしまいました」。アガクを生かしておいたのは彼自身の思いからでしたが、家畜を生かしておいたのは兵士たちの希望によったのです。その兵士たちの思いは何だったのでしょうか。今読んだ15節と21節には、主なる神様にお献げするために取っておいたのだ、と言われています。それは一見大変信仰深いことのように思われます。しかし、そもそも、全てを滅ぼし尽くすということ自体が、全てを神様にお献げする、という意味なのです。この戦いは、宿敵アマレクによる脅威を取り除くというよりも、彼らを全て神様にお献げするための戦いだったのです。神様への献げものにはいくつか種類があって、その中に「焼き尽くす献げ物」というのがあります。全てを焼き尽くして神様に献げるのです。このたびの戦いは、アマレクをこの「焼き尽くす献げ物」とするためでした。ところが兵士たちはその中の上等なものを取っておいて、神様への献げ物としようとした、それは、「焼き尽くす献げ物」とするのではなくて、普通の献げ物にしようということです。普通の献げ物においては、献げた人間もその一部にあずかることができるのです。献げられた動物の肉の一部が祭壇で焼かれ、残りは献げた人のものになるのです。兵士たちはそれをねらっている。ですから「神様にお献げするため」というのはいかにも信仰深そうな言い訳であって、実際は自分たちへのおこぼれを求めているのです。戦いにおいて全部を滅ぼしてしまったら、そのような分け前にあずかることができないのです。サウルはこの兵士たちの求めを受け入れたのです。アガクを自分のために生かしておいた、そのうしろめたさから、兵士たちの思いをもかなえてやったのかもしれません。いずれにせよ彼はそのようにして、神様のご命令の一部を実行しつつ、その他の所では自分の思いの通りにしたのです。

神様はこのサウルの行動を問題にされました。そして11節でサムエルにこう言われたのです。「わたしはサウルを王に立てたことを悔やむ。彼はわたしに背を向け、わたしの命令を果たさない」。神様の命令を一部だけ行い、一部は自分の思いによって行動する、それは神様に背を向け、その命令に背くことだ、そのような者をイスラエルの王としたことを悔やむと言われたのです。サムエルは、「深く心を痛め、夜通し主に向かって叫んだ」とあります。これは、サムエルがサウルのために、神様がサウルを赦し、見捨てないで下さるようにと必死にとりなし祈ったということでしょう。サムエルはサウルを守ろうとしたのです。しかし、夜通し祈った末に彼が示された神様のみ心は、サウルをイスラエルの王の位から退ける、ということでした。22、23節にそのことが語られています。「主が喜ばれるのは焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。反逆は占いの罪に、高慢は偶像崇拝に等しい。主の御言葉を退けたあなたは、王位から退けられる」。主の御声に聞き従うこと、耳を傾けること、それこそがイスラエルの王たる者に求められている根本的資質なのです。サウルはその主の御言葉に背き、それを退けた、それゆえに神様は彼を王位から退けられるのです。

このことを読む時に私たちは、なるほど、サウルが神様に捨てられてしまったのは、神様のご命令、み言葉に聞き従うことをしなかったから、「こうせよ」と言われていたことを全部その通りにしなかったからだったのだ、と納得します。そして、納得すると共にそこには、ある後味の悪い思いが残るのではないでしょうか。なるほど確かにサウルは、神様の命令をその通りに行わなかった、そこには自分の名誉を求める思いや、兵士たちの希望を認めてやろうという思いがあっただろう。しかし根本的には彼は神様のご命令通りに、アマレクを滅ぼしたのです。その意味で命令の目的は達せられている。それなのに、このような枝葉のところでの多少の命令違反をとりあげて、彼を王位から退けるというのは酷ではないか、神様はそんなに細かい、重箱の隅を楊枝でつっつくような方なのか、人間的に言えば、ちょっと神経質過ぎるのではないか…そんなふうに私たちは感じるのではないかと思うのです。そのことについて、もう少しみ言葉に即して考えてみたいと思います。神様がサウルに、おまえは私の言葉を退けたと言われた、その思いは、私の言ったことを一から十までその通りにしなかった、だからおまえはダメだ、ということなのでしょうか。たとえば一から九まではその通りにしても、最後の一つにおいて従わなければ、その他の九つは全てが無になるということなのでしょうか。神様の思いはそういうところにあるのではないと思うのです。そのことは、17節のサムエルの言葉を読むことによって見えてきます。「あなたは、自分自身の目には取るに足らぬ者と映っているかもしれない。しかしあなたはイスラエルの諸部族の頭ではないか。主は油を注いで、あなたをイスラエルの上に王とされたのだ」。「あなたは、自分自身の目には取るに足らぬ者と映っているかもしれない」とサムエルは言いました。サウルは、自分自身を取るに足らぬちっぽけな者と思っている、そのためにこのようなことをしたのだ、というのです。それはどういうことでしょうか。サウルは、アガクを生かしておいて、自分の凱旋行進に加えさせ、それによって自分の勝利を人々に示し、威光を高めようとしました。それは、彼が、そのように自分の力を人々に示すことによって王としての威光を保とうとしているということです。そういうことをしなければ民は自分を王として尊敬し、従って来ないのではないか、と彼は不安に思っているのです。また、家畜の分け前にあずかりたいと願う兵士たちの思いを彼が認めたのも、そうやって兵士たちのご機嫌をとらなければ彼らの心が自分から離れていってしまうかもしれないと思ったからです。24節でサウル自身が言っているように、彼は「兵士を恐れ、彼らの声に聞き従ってしまった」のです。つまり彼がしたことは、人々の心を、また兵士たちの心を、自分のもとにつなぎ止めておくための小細工だったのです。そういうことをするのは、彼が、自分は弱い、取るに足りない者であって、いつ王位から追われてしまうかもしれない、と思っているからです。しかしサムエルはその彼に対してこう言うのです。「しかしあなたはイスラエルの諸部族の頭ではないか。主は油を注いで、あなたをイスラエルの上に王とされたのだ」。つまり、あなたは自分が考えているような取るに足りない者ではない、あなたは主なる神様によって油を注がれ、イスラエルの王として立てられた者なのだ、あなたの王位を守り支えているのは、人々の評判でも人気でもなくて、主なる神様なのだ。兵士たちがあなたに従い、戦いに勝利することができるのも、あなたが気前よく彼らの要求に答えてやるからではなくて、主なる神様の力によることなのだ。あなたはこの、主なる神様による選びと支え、導き、守りの中で自分が王として立てられているということを常に覚えているべきだった。それが、イスラエルの王たるもののあり方なのです。ところがあなたはそれを忘れてしまった。それを忘れたとたんに、自分のちっぽけさが目につき、自分は取るに足りない者であることを恐れるようになり、自分で何とかして王位を守ろうとしてしまった、それが彼がしてしまったことだったのです。つまり、彼がしたのは、神様のご命令の細かい部分を守り損ねた、ということではなくて、神様が自分に与えて下さっている大きな恵みを忘れ、神様が自分をどんなに大切に重んじて下さっているかを見失って、自分を取るに足りないちっぽけな者としてしまったことだったのです。彼は主の御言葉を退けた、それは、滅ぼし尽くせという命令を実行しなかったというだけのことではありません。もっと根本的な所で、彼はみ言葉を退けてしまったのです。わたしはあなたを選び、イスラエルの王として立てる、イスラエルのまことの王である私が、これからはあなたを通してこの民を守り、導き、恵みを与えていくのだとおっしゃる、その神様のみ言葉を彼は退けてしまったのです。神様が大切に思い、重んじて下さっているのに、そのみ言葉を退けて自分を取るに足りない者としてしまったのです。

同じことが私たちにおいても起こるのではないでしょうか。神様は私たちを大いなる恵みによって選び、教会へと導き、主イエス・キリストの十字架と復活による救いにあずからせ、神様の民として新しく生かして下さっています。私たちは、神様によってそのように重んじられ、大切にされ、用いられいるのです。ところが私たちはその恵みのみ言葉を退けて、自分を取るに足りないちっぽけな者としてしまう、そして恐れに捕らわれ、自分の力でなんとかしようとあせってしまう、そのことの中で、神様のみ言葉に従うよりも、自分の思いを第一にして歩んでしまうのです。つまり、み言葉への不従順、み言葉をないがしろにする歩みというのは、神様が自分のことを本当に大切にし、愛し、重んじて下さっていることを見失う所に起ってくるのです。神様が自分のことを本当に大事に思い、重んじ、そして自分を立て、用いてくださっている、ということを知っている者は、神様のみ言葉を大切にするのです。それに従順に歩むのです。主イエス・キリストを見ればそのことがよくわかります。主イエスは、父なる神様のみ言葉にどこまでも従順に歩まれました。そのことが、本日共に読まれた新約聖書の箇所、フィリピの信徒への手紙の第二章に語られています。まことの神であられた方が、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順であられたのです。主イエスはそのように、父なる神様のみ言葉への徹底的な従順に生きられました。何故そのように出来たのかと言えば、主イエスは父なる神様が自分のことを本当に大切にし、重んじ、信頼して、そして自分を大事な使命のために立て、遣わして下さったことを知っておられたからです。神様が自分を重んじていて下さることを知っている者は、神様をも重んじ、み言葉を大切に聞き、それに従順に生きるのです。「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか」というみ言葉は、そういうことを教えています。私たちが、どんなによく整えられた礼拝を守り、どんなにすばらしい献げ物をしたとしても、主なる神様との間に、深い信頼の関係がなければ、神様が私たちのことを本当に愛し、大切にしていて下さることを私たちが知り、私たちも神様のみ言葉を大切に聞き従っていく、ということがなければ、それは虚しいことになってしまうのです。

神様は、私たちのことを本当に愛し、重んじていて下さいます。私たちはそのことを、主イエス・キリストによって知らされているのです。神様は、独り子イエス・キリストの命を与えて下さるほどに私たちを愛し、大切にして下さいました。毎週の礼拝において与えられるみ言葉によって、そのことを常に示されながら私たちは歩んでいるのです。そのみ言葉にしっかりと耳を傾けていくことによって、私たちは、取るに足りないちっぽけな自分ではなくて、神様が本当に愛し、重んじて下さっている大切な自分を見出すことができるのです。それによって私たちは、サウルとは違う道を歩むことができるようになるのです。

 

牧師 藤 掛 順 一
[2000年5月28日]

メッセージ へもどる。