富山鹿島町教会


礼拝説教

イースター記念礼拝
「平和の主イエス」

イザヤ書 第2章1〜5節
マタイによる福音書 第5章9節

私たちは今、毎週の礼拝において、主イエス・キリストが語られた八つの幸いの教えを、一つずつ読んでおります。本日のイースターの礼拝においても、それを続けたいと思います。本日は、第9節の、第七の幸い、「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」という教えです。この幸いの教えが、本日のイースターの礼拝に与えられたことは、意味深いことであると思うのです。この教えとイースター、主イエス・キリストの復活とはどのように結びつくのか、そのことには後でふれるとして、まず、この幸いの教えについて考えていきたいと思います。

「平和を実現する人々は幸いである」と主イエスは言われました。前の口語訳聖書では「平和をつくり出す人たちは」となっていました。平和を実現し、つくり出す者は幸いだ、そういう者になれ、と主イエスは私たちに言っておられるのです。しかしこのことは、いかに困難な、大変なことでしょうか。私たちは誰でも、平和を願っています。平和に生きたいと思っています。戦いや争いを好み、わざわざそれを求めていく人はいないでしょう。しかしそれは、平和を実現し、つくり出すこととは違います。主イエスは、「平和を好む人は幸いだ」と言われたのではないのです。もしそう言われたなら、誰でも、ああそれは私のことだ、私は平和を好んでいる、争いは嫌いだ、と言うことができるでしょう。しかし主イエスが求めておられるのは、平和を好むことではなくて、それを実現すること、つくり出すことです。その間には、天と地ほどの開きがあるのです。平和を実現するとは、争いや対立がある所に、平和を確立すること、人と人とが、あるいは自分と人とが対立し、いがみ合ってしまう、その問題を解決し、関係を正すことです。しかし私たちは、そのように平和を実現するのではなくて、ただ争いを避け、問題から逃げ、先送りしてしまうということが何と多いことだろうか。それは、平和を好んでいることではあるかもしれないが、それを実現していることにはならないのです。平和を実現する、つくり出すというのは、大変難しいことです。ただ争いを避けているだけでは平和を実現することはできない。それでは、もっと争ったらよいのか、争うことによってかえって平和が実現されるのか、というと、そうも言えないと思います。雨降って地固まると言いますが、そういうこともあるでしょうが、雨降って、降り続けて、地面が流れてしまうということだって起る。争いというのは、お互いが自分の正しさを主張しているところに起るのです。少なくともお互いにある言い分があるのです。相手に、自分の正しさを認めさせ、自分の言い分を受け入れさせる、そうなれば事柄が正常になり、平和が実現する、とお互いが思っているから争いが起るのです。自分の正しさを確信している者ほどそういう争いをしたがります。争いを避けて事柄を先送りしているようではだめだ、ここはちゃんと白黒決着をつけなければならない、そうしなければ平和は来ないと言います。しかしそれは結局、自分が勝利し、相手を徹底的にたたきのめす、相手の間違いを白日のもとに明らかにし、屈服させる、それによって平和が実現する、ということです。しかしそれが本当に平和を実現することなのでしょうか。神ならぬ身の人間がすることです。争いや対立において、どちらかが完全に正しくてどちらかが完全に間違っていたりすることはないのです。争って決着をつけようとするならば、そこに起ることは要するに、力の強い者が勝ち、弱い者は負けて屈服する、ということです。そういう仕方で本当に平和が実現するのでしょうか。それはただ、争いが止む、ということに過ぎないのではないでしょうか。つまり、平和を実現することは、争いを避けていてもできないし、さりとて争って決着をつければよいというものでもないのです。それではどうすればよいのか。全くお手上げというのが、私たちの現実なのではないでしょうか。

今考えてきたのは、人と人、個人と個人の間に、つまり私たちが隣人との間に平和をどう実現するか、ということです。しかしこの「平和を実現する人々」ということを考える時には、目をもっと広く、社会の問題にも向けていかなければならないでしょう。国と国、民族と民族の間の平和をどう実現していくか、ということです。私たちの国は、国権の発動たる戦争を放棄し、軍隊を持たないことを謳った平和憲法を持つ平和国家です。実際には自衛隊は世界有数の軍事力なのですが、しかしあれは軍隊ではないことになっています。そのように、軍隊を放棄し、戦争をしないと宣言する、それが平和を実現する道だ、というのが、日本国憲法の精神でしょう。私たちキリスト信者は、このことを、本当にその通りだ、と無条件に受け入れることが多い。軍隊があるから、軍備を持つから戦争が起るんだ、「剣を取る者は剣で滅びる」と主イエスも言っておられるではないか、というわけです。けれども、ここは冷静に考えなければならないと思います。戦後55年、この国が平和を享受してきたのは、この憲法を持っていたからと言うよりも、アメリカとの同盟関係の中で、アメリカの軍事力の傘の中にいたからではないでしょうか。パックス・ロマーナという言葉があります。「ローマによる平和」という意味です。二千年前の主イエスの当時、ローマ帝国の支配が確立したことによって、地中海沿岸世界に平和が訪れた、つまりローマの軍事力の下での平和ということです。パウロの伝道旅行も、そしてキリスト教がローマ帝国の全域に急速に広まっていったのも、このローマによる平和の下でだったのです。そういう意味では、ローマ帝国は平和を実現したと言えます。それは軍事力によってでした。第二次大戦以後の世界の平和は、これになぞらえて、パックス・アメリカーナと呼ばれます。アメリカの軍事力によって平和が維持されているという面が確かにあるのです。しばらく前までは世界は米ソ両軍事大国のバランス・オブ・パワーのもとにありました。ソビエト連邦が崩壊して東西冷戦が終わり、それで平和が実現するかと思いきや、今度は各地で局地紛争が始まりました。ソビエトの力の支配の下に抑えつけられていた様々な民族間の対立が、その力がなくなったことによって噴出してきたのです。これらのことを見るにつけ、この世界の平和は、軍事力によって守られているという現実を無視することはできません。軍隊があるから戦争が起る、とも言えるけれども、軍隊が平和を守っているという面もまた確かにあるのです。そのような中で、軍隊を持たない、戦争を放棄するというわが国の憲法は、確かに平和を好む精神を言い表してはいるけれども、本当に平和を実現するものであると言えるのか、ということは考えなければならないだろうと思います。わが国だけが、戦争はしない、と宣言していれば世界に平和が実現するのか、それは先程の個人の場合にあてはめるならば、争いは嫌いだと言ってそれを避け、問題から逃げてしまうことと同じではないか。しかしだからと言って、一部の人たちが言っているように、憲法を改正し、日本も軍隊を持って、交戦権を確立する、そういう「普通の国」になることが、平和を実現する道であるのかというと、これもまた疑問です。個人の場合においても、争いを避けていては問題は解決しないけれども、だからといってむやみに争うことが平和を実現するわけではないのと同じことです。要するに私たちはここにおいても、平和を実現する、つくり出すことがいかに難しいことであるかを感じずにはおれないのです。

さて私たちはこれまで、平和を実現するということを、争いを避けるか、それとも敢えて争いの中に身を投ずるか、ということにおいて考えてきました。そしていずれにしても、平和を実現することは大変に難しい、というのが結論です。それでは、主イエス・キリストがこの教えを語られた時に、このことの困難さをどう考えておられたのでしょうか。そもそも主イエスは、「平和を実現する」ということで何を考えておられたのでしょうか。「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と主イエスはおっしゃいました。平和を実現する人々は、神の子と呼ばれるのです。神の子、それは神のような人ということでしょう。平和を実現することのできる人がいたら、その人は、神のような人なのです。この言葉によって、主イエスが、平和を実現することの困難さ、難しさをよく知っておられることがわかります。平和を実現する者となれ、ということは、私たちに、神のような人になれと命ずることなのです。私たちはこのみ言葉に対して、「そんな無理なことを」と抗議する他ないのではないか、とも思います。しかし主イエスは、その無理なことを敢えてここで語っておられます。無理を承知で私たちにこのことを命じておられるのです。主イエスにはそのようにお命じになる根拠があるのです。それは何でしょうか。

神の子とは、神のような人ということだと申しました。私たちにあてはめるならばそのようなことになります。しかし、文字通り神の子であられる方が、一人だけおられるのです。それは主イエス・キリストご自身です。主イエス・キリストは、人間となってこの世に来られた神の独り子です。この神の子主イエスは、平和を実現する方として来られたのです。主イエスこそが、平和を実現なさる方なのです。それはどのようにしてでしょうか。そのことを語っている別の箇所を読んでみたいと思います。エフェソの信徒への手紙第二章14節以下です。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです」。ここに、主イエス・キリストが私たちの間に平和を実現して下さったことが語られています。どのようにしてでしょうか。「御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」とあります。私たちの間に、敵意という隔ての壁がある。それが平和を妨げているのです。ベルリンの壁が東西の敵意の象徴だったように、私たちは敵意によって人との間に見えない壁を築いてしまうのです。主イエス・キリストはその壁を取り壊して下さった。「御自分の肉において」です。それは、主イエス・キリストが十字架にかかって死なれたことをさしています。そのことが、15節の後半から16節にかけて語られています。「こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」。御自分の肉においてとは、御自分が十字架にかかることによってです。その十字架の死において、敵意を滅ぼし、対立する両者を一つにし、平和を実現して下さったのです。十字架の死において敵意が滅ぼされるとはどういうことでしょうか。ここには、人間の敵意は、罪から生まれるという洞察があります。私たちが人に対して敵意を抱き、隔ての壁を築いてしまう、それは私たちの罪によることなのです。自分は正しい、という確信に基づく対立においてもそれは同じです。そもそも対立というのは、先程も述べたように、自分が正しいとお互いが思っているところに生じるわけですが、たとえ自分が正しいとしても、そのことが人に対する敵意となって現れる時、私たちは罪に陥っているのです。罪のとりこになっているのです。そして聖書は、罪というのは、その根本にあるのは神に対する敵意だと教えています。私たちは神様に対して敵意を持っている。神様が、自分の自由を奪い、束縛しようとしている、神様のもとで生きることは窮屈な、不自由なことだと思っているのです。その神様に対する敵意が、人に対しても向けられていきます。自分の自由を奪い、思い通りに歩むことを妨げる人に、私たちは神様に対するのと同じように敵意を抱いていくのです。そのような、神様と人とに対する私たちの敵意、罪が平和を妨げています。主イエス・キリストの十字架は、その私たちの罪、敵意を、主イエスがご自分の身に引き受けて下さったということです。主イエスは、人々の敵意を引き受け、その敵意を御自分の肉体に受けとめ、それによって死なれたのです。私たちの、神様に対する、また隣人に対する敵意、罪が、神様の独り子イエス・キリストに全てふりかかり、主イエスを苦しめ、殺したのです。その苦しみと死を主イエスがご自分から進んで引き受けて下さったことによって、神様は私たちに和解を与えて下さいました。私たちの敵意を、神様が乗り越えて下さり、平和を宣言して下さったのです。私たちと神様との、敵意による対立関係は、もうこれで終わり、我々は和解した、もはやここには敵意はない、と宣言して下さったのです。「御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」とはそういうことです。これは神様の一方的宣言です。主イエスが十字架にかかって死んで下さった今も、私たちはなお神様に対する敵意、罪に生きています。神様に、そして隣人に敵意を抱きます。けれども神様は、その敵意はイエス・キリストの十字架によってもう滅ぼされた、我々は和解し、敵意はもうない、と言って下さるのです。私たちがどんなに敵対し、罪を犯し続けても、その神様の宣言は変わることがないのです。主イエス・キリストは、そのような平和を実現して下さったのです。

主イエス・キリストが実現された平和は、私たちが考え、実現しようとする平和とは大きく違っています。私たちは、争い、対立において、その争いを避けるか、あるいは争いに身を投じてその中で自分の主張を通すか、あるいは相手の主張との折り合いをつけるか、そういう仕方で平和を実現しようとするのです。しかし主イエスはそのどれでもない、全く別の仕方で平和を打ち立てられました。それは、相手の敵意をご自分の身に引き受け、それによって死ぬことによってでした。つまり敗北することによってです。しかもその敗北の中で、敵を怨むのではなくて、赦すのです。そして、もう敵意は滅ぼされた、もうここには敵意はないと宣言するのです。神の子イエス・キリストは、そのようにして、私たちの内に平和を実現して下さっているのです。

本日はイースター、主イエス・キリストの復活の記念日です。人々の敵意によって十字架につけられて殺された主イエスを、父なる神様は三日目に復活させられたのです。それは、人々の敵意を引き受けて死なれたその主イエスの死を、父なる神様が、私たちと神様との和解のための死、私たちの罪を赦し、敵意を滅ぼすための死として認め、この死においてこそ、神様との和解、平和の内に生きる新しい、永遠の命が与えられる、と宣言して下さったということです。敵意を引き受けて死なれた主イエスの十字架の死によって、その敵意が、罪が滅ぼされ、神様の和解の恵みが勝利したことが、復活によって高らかに宣言されているのです。神様と私たちとの間に、敵意はもうない、あるのは神様が与えて下さる復活の命、死に勝利する恵みなのだということが、ここに明らかになっているのです。私たちは、この主イエスの復活の恵みを覚え、その記念日、小さなイースターである毎週日曜日に神様を礼拝しつつ歩みます。そこにおいて、主イエス・キリストが私たちの平和となり、平和を実現して下さったこと、神様が主イエスの十字架によって私たちの敵意、罪を乗り越え、赦して下さったという宣言を常に新たに聞きながら生きていくのです。「平和を実現する人々は幸いである」という教えは、そのような私たちの歩みにおいて、意味と力を持ってきます。私たちは、主イエス・キリストによって神様が与えて下さった平和の中で、その主イエスに従うことによって、平和を実現する者となっていくのです。それは争いを避けることによってでも、争いに勝利し、あるいは妥協することによってでもありません。敵意を引き受け、赦すことによって敵意を乗り越える、そういうことによってです。ウィリアム・バークレーという人が、この「平和を実現する人々の幸い」を解説している文章の中に、一人のアメリカの黒人の少女が、イエス・キリストを信じたことによってあなたは何を得たか、という問いに対して、一言、「キリストは、私の父を殺した人をゆるすことができるようにしてくださいました」と語ったことを紹介しています。また、マーティン・ルーサー・キング牧師の次の言葉も「平和を実現する人」の言葉です。「あなたがたの他人を苦しませる能力に対して、私たちは苦しみに耐える能力で対抗しよう。あなたがたの肉体による暴力に対して、私たちは魂の力で応戦しよう。どうぞ、やりたいようになりなさい。それでも私たちはあなたがたを愛するであろう。どんなに良心的に考えても、私たちはあなたがたの不正な法律には従えないし、不正な体制を受け入れることもできない。なぜなら、悪への非協力は、善への協力と同じほどの道徳的義務だからである。だから、私たちを刑務所にぶち込みたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。私たちの家を爆弾で襲撃し、子どもたちを脅かしたいなら、そうするがよい。つらいことだが、それでも私たちは、あなたがたを愛するであろう。真夜中に、頭巾をかぶったあなたがたの暴漢を私たちの共同体に送り、私たちをその辺の道端に引きずり出し、ぶん殴って半殺しにしたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。国中に情報屋を回し、私たち黒人は文化的にもその他の面でも人種統合にふさわしくない、と人々に思わせたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。しかし、覚えておいてほしい。私たちは苦しむ能力によってあなたがたを疲弊させ、いつの日か必ず自由を手にする、ということを。私たちは自分たち自身のために自由を勝ち取るだけでなく、きっとあなたがたをも勝ち取る。つまり、私たちの勝利は二重の勝利なのだ、ということをあなたがたの心と良心に強く訴えたいのである」。「あなたがたをも勝ち取る」、それは、あなたがたを友として勝ち取るということです。今黒人を差別し、暴力によって抑えつけようとしている白人たちと黒人との間に、平和が実現するということです。そのことを、「苦しむ能力、苦しみに耐える能力」によって実現していくのだというこの言葉は、まことに、「平和を実現する者」の言葉です。そして彼がこのように語ることができるのは、主イエス・キリストが、十字架の死によって、人々の敵意、罪を身に受け、死んで下さることによって敵意を滅ぼして下さっていることを知っているからです。そして彼が、いつの日か私たちは必ず勝利する、と確信をもって語ることができるのは、父なる神様が主イエスを死者の中から復活させ、死の力にも勝利していて下さることを知っているからです。彼は、平和を実現する神の子イエス・キリストを信じ、主イエスに従っていくことによって、平和を実現する神の子となったのです。キング牧師は39歳で暗殺されました。しかし、主イエス・キリストの復活によって、神の恵みが死の力に勝利したことを信じる私たちは、彼のこの言葉を受け継ぎ、平和を実現して下さる主イエスの後に従っていくのです。その時私たちも、平和を実現する神の子らのはしくれに加わることができる。平和を実現する者たちの幸いに生きることができるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2000年4月23日]

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