富山鹿島町教会


礼拝説教

「心の清い人は幸いである」
詩編 第24編1〜10節
マタイによる福音書 第5章8節

「心の清い人々は幸いである、その人たちは神を見る」。本日は、この主イエスのみ言葉に耳を傾けたいと思います。私たちはこのみ言葉をどのように受け止めているでしょうか。心の清い人、常に清い心を持って生きていける人というのは本当に幸いだろうな、でも自分はそのような心の清い人ではない、だからこの幸いを得ることはできていない、現に私は神様を見たことがない、私のような汚れた、不純な人間は神様を見ることなどできないのだ、だから何とか今よりももう少しでも心の清い人になろうと努力している、そのために、教会の礼拝に通い、聖書を読み、祈っている、そういうことによって、少しでも心の清い人になって、この幸いに近づきたい、そんなふうに私たちは思っているのではないでしょうか。つまり私たちは、信仰というのは、心の清い人になろうと努力することであり、そういう信仰に生きる者への励ましのために主イエス・キリストがこのように幸いを約束して下さっている、というふうにこの教えを読んでいるのではないでしょうか。そのような読み方が正しいかどうかは、ここでは保留にしておいて、まず、「心が清い」ということの聖書における意味を学んでいきたいと思います。

「清い」という言葉は、旧約聖書に数多く出てきます。「清いもの」と「汚れたもの」とを区別することが、旧約聖書の重大な関心事の一つです。例えば、こういう動物は清いものだから食べてもよい、こういう動物は汚れたものだから食べてはいけない、というような規定があります。また、人間も、皮膚病のある間は汚れているとか、女性は生理や出産において何日間かは汚れているとあります。そのような汚れている人に触れると、その汚れが移る、だからそのような人には触れてはならない、ということが言われています。イスラエルの民はそのように、自らを清く保つことに異常なまでに熱心だったのです。それは何のためだったかというと、神様のみ前に出ることができるためです。少しでも汚れている者は、神様のみ前に出ることができないのです。こういう感覚は何もイスラエルのみのことではありません。日本でも、神事に携わる人は斎戒沐浴して身を清めるという習慣があります。神社へ行くとお参りをする前に手を洗う所があります。神仏の前に出る時には身を清めなければならない、ということは、人間誰でも考えることなのです。ところで今、沐浴とか手を洗うと申しました。身を清めるために水で体を洗うということも、洋の東西を問わず共通していることです。聖書においても、汚れを落とし、身を清めるために、水で手や体を洗うことが命じられているのです。しかしこの水で洗うというのは象徴的行為です。水で洗うことによって、体の表面の物理的な汚れは落とすことができます。衛生状態は良くなるのです。しかし、神様の前に出るために必要な清さというのは、そういう表面的な清潔さとは違うはずです。神様は人間の外面よりも内面、心をご覧になります。そこにおいて清い者でなければ、神様の前に出ることはできないはずなのです。従って、水で身を洗うことは、それによって、心の中の汚れ、不純な思い、神様の栄光を汚すような思いをぬぐい去ることを象徴的に表しているのです。心の中の汚れをおとさないで、ただ体の表面だけを洗い清めても意味はないのです。

ところが、もともとはそのような象徴的な意味を持っていた清めの儀式が、次第にその本当の意味を見失い、この清めの儀式さえしておけばそれで清くなれるかのように思われていってしまう、ということが起ります。主イエスの当時、人々の信仰の指導者であったファリサイ派と呼ばれる律法学者たちはそのような間違いに陥っていました。彼らは、神様の律法を守ることに熱心でしたが、厳密にそれを守ろうとすることによってかえってその本当の精神を忘れ、外面的、形式的なことにこだわる律法主義者になってしまったのです。主イエスはそのような彼らを「偽善者」と呼び、厳しく批判されました。そのことがこの福音書の23章に語られています。その25、6節を読んでおきたいと思います。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる」。外側ばかりをきれいにしても、内側が汚れに満ちているのでは本当に清いとは言えないのです。本当の清さとは、むしろ内側の清さです。内面、心の清さです。内側が清ければ、その清さはおのずと外側にも現れてくるのです。「心の清い人々は幸いである」という教えも、このことを語っていると言えるでしょう。つまり「心の」に強調があるのです。神様の前に出ることのできる清さ、それは、外側の、外面の清さではなくて、心の清さなのだ、ということです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編第24編にもそのことが語られています。この詩は3節で「どのような人が、主の山に上り、聖所に立つことができるのか」と問うています。神様のみ前に出て礼拝をすることができる者とはどのような者か、ということです。そしてその問いに対して4節で、「それは、潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく、欺くものによって誓うことをしない人」と答えています。清い心の人こそが、神様のみ前に出て、礼拝をすることができるのです。

私たちは今、礼拝の場にいます。神様のみ前に出て、礼拝をささげているのです。しかし私たちは果して、神様のみ前に出るにふさわしい清い心を持っているでしょうか。外面的には、外側においては、特に汚れたことをしているわけではないかもしれません。世間においては、あるいは周りの人々からは、「あの人は親切な、やさしい、立派な人だ」と思われているかもしれません。しかし神様は、そのような外側の清さではなくて、心の清さを求めておられます。人には見えない、わからない、隠しておくことができる、その心の中において、あなたは清い者であるか、と問われる時に、私たちは、自分がとても神様のみ前に出ることのできない、汚れた、罪深い者であることを覚えずにはおれないのです。それゆえに私たちは、神様を礼拝するその最初に、私たちの罪を告白し、神様の赦しと憐れみを求めなければなりません。私たちの礼拝の始めのところに、「悔い改め」が置かれているのはそのためです。そこにおいて本日は詩編第51編を交読しました。この詩は、ダビデが、自分の部下であるウリヤの妻に横恋慕して、策略をもってウリヤを殺し、彼女を自分のものにしてしまった、その罪を指摘され、自分の犯した罪の大きさに恐れおののきつつ、神様の憐れみと赦しを求めて歌ったものです。その中で彼は、「ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください、わたしが清くなるように。わたしを洗ってください、雪よりも白くなるように」と言っています。また「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」と言っています。神様が私を清くして下さい、神様が私の内に清い心を造り出して下さい、と願っているのです。これはある意味では身勝手な願いです。自分で罪を犯しておいて、神様に清くして下さいだの、清い心を与えて下さいだのというのはあまりにも虫が好すぎると言わなければならないでしょう。けれども、自分の罪、汚れに本当に気づき、おののく時に、私たちはこのように祈るしかないのではないでしょうか。自分で自分を清い者とする、清い心の持ち主になることはできないのです。身勝手と言われようが、虫が好いと言われようが、神様の憐れみにすがるしかありません。それが悔い改めるということであり、その悔い改めによってこそ私たちは神様のみ前に出て、礼拝をすることができるのです。

心の清い者こそが、神様のみ前に出て、礼拝をすることができるのです。しかしこうして考えてみると、主イエスがここで私たちに求めておられる心の清さというのは、私たちが普通にこの言葉から受けるイメージとはかなり違ったことであると言わなければならないでしょう。ここで主イエスの語られたたとえ話を一つ読んでみたいと思います。ルカによる福音書第18章9節以下です。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」」。二人の人が礼拝の場へと上ったのです。しかし義とされて家に帰ったのは一人だけでした。義とされたということは、神様が彼の礼拝を受け入れて下さったということです。つまり彼は「心の清い者」と認められたのです。その人とは、当時誰もが罪人の代表格と思っていた徴税人でした。彼は聖所から遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんで下さい」と祈ったのです。この礼拝、この祈りが神様に受け入れられ、彼は心の清い者と認められました。他方、ファリサイ派の人は神様に義とされなかった、彼は心の清い者とみなされなかったのです。

この二人はどこが違うのでしょうか。そこに、「心が清い」ということで主イエスが考えておられることを知る鍵があります。ファリサイ派の人は、神殿の聖所のまん前に堂々と立ち、目を天に向けて祈っています。まさに、自分は神様の前に立つことができる清い者だ、という思いでいるのです。しかし、彼が祈っていることは何か。それは、自分がいかに正しい者であり、いかに罪から遠ざかり、よいことをしているか、ということです。彼はほかの人と自分とを見比べています。特に徴税人と見比べ、自分がこのような罪人でないことを感謝する、と祈っています。そのような祈りにおいて、彼が見つめているものは何か、それは自分です。自分がいかに良い者、立派な者、罪から遠い者であるか、そういう自分の姿を彼は見つめているのです。彼の祈りは言わば鏡に向かって語っているようなものです。目を天に向けていても、彼の目は神様を見ているのではなくて、自分自身を見ているのです。それに対して、あの徴税人は、遠く離れて立ち、目を天に上げようともしていません。しかし彼はただひたすら、神様を見つめています。罪人である自分の姿を嘆き悲しみつつ、その自分からは目を離して、ただ神様の憐れみを求めているのです。この違い、つまり、神様を本当に見つめているのか、それとも実は自分自身を見つめているに過ぎないのか、そこに、神様に義とされるか否かの、つまり心の清い人と認められるか否かの分かれ道があるのです。心の清い人とは、まっすぐに神様を見つめ、神様の憐れみを求める人です。神様から目を離し、自分の姿、自分がどれだけ良い者であるか、立派な者であるか、あるいは罪人であるか、人と比べてどちらがどうであるか、そういうことを見つめるようになる時、私たちの心は、誇り、高ぶり、プライド、あるいは嫉み、うらみ、卑屈な思いなどの汚れで満たされていくのです。

心の清い人々とは、自分を見つめ、自分と人とを見比べる思いから解放されて、神様をこそ見つめている人々です。「その人たちは神を見る」と主イエスはおっしゃいました。神様をこそ見つめている人々は、神様を見るのです。つまりこの教えは、私たちが自分の心を清めていって、汚れた思い、悪い思いをなくしていけば、そのうち神様のお姿を見ることができるようになる、ということではないのです。自分の心を清めていこう、汚れた思いをなくしていこうとする時、私たちは自分を、自分の心を見つめています。自分の姿を鏡に写して、ここがまだ汚れている、あそこをもっと清くしなければ、と言っているようなものです。主イエスが教えておられるのは、そのように自分の姿を良きにつけ悪しきにつけ見つめているのをやめて、神様をこそ見つめ、神様の憐れみを願い求めなさい、ということです。そこでこそ、あなたがたは神様を見ることができる、神様と出会うことができる、と主イエスは言われるのです。あの徴税人はひたすら神様を見つめ、その憐れみと赦しを願いました。その彼は義とされて帰った、それは、彼が神様と出会い、その赦しと恵みをいただいたということです。つまり彼は神を見たのです。神様を見ることは、何の汚れも罪もない、清い純粋な心になることによってではありません。むしろ罪や汚れの中にいる者が、その中から、神様の憐れみと赦しを求めて祈る、その時そこで、神様を見ることができるのです。神様がそこでご自身を示して下さり、恵みをわからせて下さるのです。何によってでしょうか。それは、独り子イエス・キリストによって、なかんずくその十字架の死と復活によってです。私たちが自分の罪や汚れの中から、神様の憐れみと赦しを祈り求める時、そこには、神の独り子イエス・キリストがおられるのです。イエス・キリストは、私たちの罪と汚れを全てご自分の身に引き受け、私たちの身代わりとして十字架の苦しみと死とを受けるためにこの世に来て下さいました。今週はその主イエスの御苦しみと死とを特に覚える受難週です。主イエス・キリストにおいて私たちは、私たちの罪の赦しのために苦しみ、死んで下さった神の独り子と出会うのです。そして来週の日曜日はイースター、復活祭です。神様は、私たちのために十字架にかかって死んだ主イエスを、復活させ、新しい命、神様の恵みの下に永遠に生きる命を約束して下さったのです。この主イエス・キリストの十字架の死と復活に、神様の恵みが示され、表されています。罪と汚れの中で神様の憐れみを求める私たちに、神様はこの主イエス・キリストにおいてご自身を示して下さるのです。「神を見る」幸いはここにあります。私たちは、夢や幻の中で神様を見るのではありません。大自然の中で神秘的な思いになることが神を見ることでもありません。私たちは、主イエス・キリストにおいて、私たちの罪の赦しのために十字架かかって死んで下さった神を見るのです。よそ見をしないで、つまり自分の良さや立派さ、あるいは罪や汚れを見るのではなく、ただひたすら主イエス・キリストの十字架を見つめていく者こそが心の清い人です。神様はその人にご自身を示し、その恵みをはっきりと分からせて下さるのです。

しかしそうは言っても、この世を生きる私たちは、神様をこの肉体の目ではっきりと見ることはできません。神様の恵みも、誰が見てもはっきりそれと分かるような客観的なものとして示されるわけではありません。この世を生きる私たちは、信仰によって神様を見るのです。神様の恵みも、信仰によらなければわからないのです。つまりそれは、今は隠された真理なのです。しかしその隠された真理が顕になる時が来ます。私たちが神様を、顔と顔とを合わせて見ることができる日が来ます。神様の恵みのご支配が、誰の目にもはっきりと明らかになる日が来るのです。それは、世の終わりにおいて、復活して今は天におられる主イエス・キリストがもう一度この世に来られる時です。その時には、今は蔽い隠されている全てのことが顕になるのです。そのことを、使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一の13章12節でこう言い表しています。「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」。昔の鏡は今のようにクリアーにものを映すことはできなかったのです。鏡に映ったものを見るとは、はっきりしない、おぼろげな姿を見ることでした。今私たちが信仰によって神様を見ているのもそれと同じです。しかしその時には、世の終わりには、顔と顔とを合わせて、はっきりと、神様を見ることができるのです。「その人たちは神を見る」という幸いの約束は、世の終わりに成就完成するのです。

今は、鏡におぼろに映ったものを見ている、そのことをパウロは、「今は一部しか知らない」と言い替えています。今この地上で私たちが主イエス・キリストを信じる信仰によって神様の恵みを知る、それは、ほんの一部を知っているに過ぎません。しかし「そのときには」、世の終わりには、神様の恵みをはっきりと、完全に知ることを許されるのです。パウロはそこで「はっきり知られているようにはっきり知ることになる」と言っています。口語訳聖書では「わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう」となっていました。世の終わりに、私たちは神様を、その恵みを、はっきりと、完全に知る者となる。けれども実はその前に、今既に、神様は私たちのことを完全に知っておられるのです。私たちの全てを、私たちの罪も、汚れも、弱さも、苦しみも、悲しみも、その全てを神様は知っていて下さり、その私たちを、憐れみ、愛して、独り子イエス・キリストの十字架と復活による罪の赦しと新しい命の恵みを与えて下さっているのです。このように神様が私たちの全てを、完全に知っていて下さり、なお愛していて下さるから、私たちは自分の罪や汚れや弱さから目を離して、神様を見つめていくことができるのです。神様をまっすぐに見つめる清い心をもって生きることができるのです。自分自身を見つめるならば、私たちは決して清い者ではありません。外面的な、人に見える部分だけならば、何とか取り繕って清く見せることもできるかもしれませんが、しかし心においては、清い者であることのできる人は一人もいないのです。しかしそのような私たちを、主イエスが、十字架の苦しみと死、そして復活の恵みによって招いて下さり、神様をまっすぐに見つめ「罪人の私を憐れんでください」と祈る清い心を造り出し、与えて下さるのです。礼拝の始めに「悔い改め」があります。しかしさらにその前にあるのは、「神の招き」です。神様が主イエス・キリストの恵みによって招いていて下さるから、私たちは悔い改めることができるのです。神様をまっすぐに見つめ、憐れみと赦しを祈り願うことができるのです。そこで私たちは神を見る。私たちのために十字架の苦しみと死とを引き受けて下さった恵みの神を見るのです。主イエス・キリストによる神様の招きによって、自分自身から目を離し、神様の憐れみと赦しを求めていく者が、主イエス・キリストにおいて恵みの神を見る。そしてそのことによってますます、神の招きを確信し、ますますまっすぐに神を見つめる者となっていく。これは悪循環ではない、良い循環です。その良い循環の中に身を置くことこそ、心の清い者の幸いなのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2000年4月16日]

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