富山鹿島町教会


礼拝説教

「義に飢え渇く者の幸い」
詩編 第42編1〜7節
マタイによる福音書 第5章6節

私たちは今、礼拝において、主イエスが語られた山上の説教の冒頭にある、「幸いの教え」を読み進めています。主イエスはここで、「こういう人々は幸いである」という仕方で、8つの幸いを私たちに示して下さいました。それを一つずつ読んでまいりまして、本日は第4の幸い、「義に飢え渇く人々は幸いである」という教えです。

ルカによる福音書第6章21節には、「今飢えている人々は幸いである。あなたがたは満たされる」という教えが語られています。「義に」という言葉と「渇く」という言葉が、ルカの方にはないのです。聖書の学者たちは、このルカの形の方が、もともと主イエスご自身が語られたものだと言います。主イエスはもともとは、貧しい、その日の食べ物も満足に得ることができずに文字通り飢えている、そういう人々に向かって、「あなたがたは幸いだ」と語ったのだ、というのです。そういう具体的な教えが、マタイ福音書になると、「義に飢え渇く人々は幸いである」という、精神的、抽象的な教えに変えられてしまった、これは本来の主イエスの教えからは離れてしまっているものだ、というのです。

確かに、「飢えている」というのと「義に飢え渇く」というのでは、「飢えている」の方が具体的です。「義に飢え渇く」というのはいろいろと説明をつけなければわからない、比喩的な言い方になります。主イエスはごく普通の民衆、いやむしろ貧しい、まさに飢えている人々に向かって語られたのだから、そんなややこしいことを言われたはずはない、単純に、直接的に、「飢えている人々は」と言われたに違いない、という主張はわかるような気がします。そしてそのように感じる私たちの心の中には、「義に飢え渇く」などというのは、食物の飢えが満たされ、生活に余裕がある者の、いわばぜいたくな飢え渇きだ、という思いがあるのではないでしょうか。そして私たちは、自分は飢えに苦しむことはなくなったが、まだまだいろいろと足りないもの、求めなければならないものがあり、義に飢え渇いているような余裕はない、と思ったりもするのです。

けれども果たしてそうでしょうか。主イエスは確かに、「飢えている人々は幸いである」と言われたのかもしれません。しかしそれなら、飢えている人々はいかなる意味で幸いなのでしょうか。「あなたがたは満たされる」と主イエスは言われました。飢えている人が満たされる、おなかいっぱいになる、それは本当でしょうか。主イエスはどうやって飢えている人々を満腹させられるのでしょうか。ルカ福音書における教えの鍵は、「今飢えている人々は」の「今」という言葉にあります。「今」、それは、今のこの世において、ということです。「今この世で飢えている人は幸いだ、あなたがたは満たされる」と言われたのです。その「満たされる」のは、「今」ではなく、「その日、その時」、つまり神の国が実現する時です。「あなたがたは今この世においては飢えているが、神の国においては、満ち足りることができるのだ、だから幸いである」と主イエスは言われたのです。同じルカ福音書の16章にある、「金持ちとラザロ」の話を思い出します。ある金持ちの門前に、ラザロという貧しい乞食がいました。彼らが二人とも死んだ時、ラザロは天国の宴会の、アブラハムのすぐそばの席に連れていかれ、金持ちは陰府の苦しみに落されたのです。助けを求めた金持ちにアブラハムは、「お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」と言ったのです。神の国においては、今のこの世の生活がこのように逆転する、そのことをもって、主イエスは飢えている人々に「幸いだ」と言われたのです。そうであるならば、ルカにおける「飢えている人々は幸いである」という教えも、そう単純な物質的な話ではありません。主イエスは、今飢えている人々の具体的空腹を満たしてやろうとしておられるのではないのです。そういうことはあの荒れ野の誘惑においてはっきりと拒絶なさいました。主イエスが満たそうとしておられるのは、飢えている人々の空腹ではないのです。語られているのは、彼らのこの世における苦しみを、神様が覚えていて下さり、いつか必ず報いて下さるということです。つまり、神様は生きておられる、苦しむ者が苦しむだけで終りということはない、一方に飢えている者がいて、他方に飽き足りて贅沢な暮らしをしている者がいる、その不公平、不平等が、そのままで終ることはない、飢えに苦しんだ者には、神の国において満ち足りる喜びが与えられるのだ、ということです。それは言い替えるならば、神様の正しさ、正義が貫かれるということです。飢えている者、苦しんでいる者がそれだけで終ってしまうなら、そこには正義が立たないのです。神様の正しさが貫かれなくなってしまうのです。主イエスはそのことを問題にしておられる。神様は正しい方なのだ、神様の正義は必ず貫かれるのだ、と言っておられるのです。飢えている者にとって、最大の飢え、苦しみは、食物の乏しさよりも、この、神様の正義が貫かれていない、ということです。それは言い替えるならば、神様が自分のこの苦しみを無視しておられる、ということです。神様がこの苦しみを見ていて下さらないなら、それはただ苦しみであるのみです。苦しみの日々がずっと続き、そして死んでいく、それで終りです。それは絶望以外の何物でもありません。主イエスは人々のその絶望に目をとめておられます。そして、あなたがたの歩みはそれで終りではないのだ、神様があなたがたの今のこの苦しみをしっかり見ておられるのだ、そして、神の国において、あなたがたをねぎらい、飢えを満たして下さるのだ、と語られたのです。それは、神様がそのようにしてご自分の正義を貫いて下さる、ということです。主イエスは飢えている人々に対してそのような慰めを語られたのです。

ということは、ルカ福音書の「飢えている人々は幸いである」という教えと、マタイ福音書の「義に飢え渇く人々は幸いである」という教えと、そんなに違いはないということです。飢えている人々も、実は義に飢え渇いているのです。神様の正義が貫かれることを求めているのです。神様が自分の苦しみを無視しておられるのではない、という慰めを求めているのです。それはマタイにおける「義に飢え渇く」ことと同じです。つまり「義に飢え渇く」というのは、私たちが感じるような精神的、抽象的なことではないのです。あるいは、生活に余裕のある人のみが覚える、贅沢な、気楽な飢え渇きではないのです。それは私たちの具体的な生活における、深刻な飢え渇きです。私たちは人生において、この世の生活において、神様の正しさ、正義はいったいどこにあるのか、という思いに捕われることがあります。自分のこの苦しみをちゃんと見ておられる神様がおられるのか、と思うことがあります。それが義に対する飢え渇きです。私たちは様々な苦しみの中で、常に、神様の義、神様の正しさが貫かれ、実現することに飢え渇いているのです。

ルカ福音書の言葉の方に廻り道をしていたようでいて、実は私たちは既に本日の「義に飢え渇く人々は幸いである」という教えの中心に触れているのです。「義に飢え渇く」、それは、神様の正しさ、正義が貫かれることを飢え渇くように求めることです。私たちにとってこれは非常に切実な、深刻な求めです。特に苦しみ悲しみの中でその求めを切実に感じます。何故このような苦しみが、悲しみが自分にふりかかって来るのか、どうしてこのようなことが起こるのか、そういう現実の中で私たちは、神様の義、正しさはどこにあるのかと問わずにはいられないのです。そこで私たちはまさに飢え渇きに苦しむのです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編42編は、そういう飢え渇きを歌っています。その2〜4節をもう一度読んでみます。「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰ぐことができるのか。昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う、『お前の神はどこにいる』と」。詩人は、命の神を渇き求めています。「お前の神はどこにいる。どこにもいないではないか。お前を助けてくれないではないか」というあざけりが彼をとりまいています。まさに神の正義が見失われている状況の中に彼はいるのです。その苦しみの中で、「涸れた谷に鹿が水を求めるように」、彼は神を渇き求めているのです。水を求めて鹿が谷に降りてきても、川は乾期で涸れており、水が流れていないのです。渇きはますます激しくなる。神様の義、正しさに対するそのような激しい渇き。それを私たちも苦しみの中で覚えるのです。「義に飢え渇く」とはそういうことです。

けれども、神様の正しさ、正義が貫かれることを渇き求めることは、そのような私たちの苦しみにおけることに留まりません。いや、留まっていてはいけないのです。私たちは、自分に関して、自分の人生、生活において、神様の正しさ、正義が貫かれることを求めます。それが見失われると渇きを覚えます。それなら、他の人たち、この世界に共に住む人々においても、神様の正しさ、正義が貫かれることを求め、そのために力を尽くしていかなければなりません。ですから「義に飢え渇く」というのは、この世界に存在する不正義、不平等と戦っていくことをも意味しているのです。例えば、私たちの国をはじめ、一部の国に世界の食糧が集中し、無駄遣いされている一方で、多くの国々には飢えに苦しみ死んでいく人々がいる、という現実は、正義からかけ離れています。私たちは自分の苦しみにおいてだけではなく、例えばこのようなことにおいても、つまり人のため、この社会や世界のためにも義に飢え渇く者でありたいのです。主イエスは、飢えている人々に、神の国において満ち足りるようになるという希望を語られました。しかしそれは、私たちが、飢えている人をそのままにしておいてよいということではありません。「金持ちとラザロ」の話において、金持ちは自分の門前にいるラザロを助けるべきだったのです。そのことをしなかったから、彼は死んだ後陰府の苦しみに落されたと言うこともできるでしょう。私たちは、自分のために義に飢え渇くのみではなく、同じように義に飢え渇いている隣人の存在にも目を向けていかなければならないのです。

このように、義に飢え渇くこと、神様の正義が貫かれることを渇き求めることは、私たちが、自分のなすべき正しいこと、正義をしっかりと行なっていくように熱心に努める、ということをも意味します。神様にだけ正義を貫くことを求めているわけにはいかないのです。そのことを求めることは必然的に、私たちも、義なること、正しいことを倦まずたゆまず行なっていく者であろうとすることと結びつくのです。つまり、「義に飢え渇く」というのは、神様の正しさが貫かれることを渇き求めることであると共に、私たちの正しさをも貫くことを熱心に追い求めていくことなのです。

そういう者たちは「幸いである」と主イエスは言われました。そういう者たちは何故幸いなのでしょうか。それは「その人たちは満たされる」からです。義への飢え渇きは必ず満たされる、と主イエスは言われるのです。しかしそれはどのようにしてでしょうか。私たちは苦しみの中で、神様の義を求めます。神様の正しさが貫かれることを求めます。その求めが満たされることは果たしてあるのでしょうか。私たちが思っているような仕方では、つまり苦しみの原因がきれいさっぱり取り除かれるという仕方ではそれは与えられないでしょう。いやそういうことも与えられるかもしれません。しかしそういうことがあったとしても、それが義への飢え渇きが満たされることではないのです。神様の正しさはどこで貫かれるか、それは、独り子イエス・キリストの十字架の死においてです。神様は、ご自分の独り子を、人間としてこの世に遣わされました。その独り子イエス・キリストは、私たちの罪を背負って、その贖いのために十字架にかかって死んで下さいました。まことの神であられる方が、私たちの罪の赦しのために、苦しみを受け、命を捨てて下さったのです。神様の正しさはそこに貫かれています。そして神様の正しさ、義が、そのように貫かれたことによって、私たちは救われたのです。もしも神様の正しさが、私たち人間に正しさを求め、正しい者、正義を行なう者のみを救うという形で貫かれたとしたら、私たちは救われないのです。そこでは、神様の正しさは、私たちが滅ぼされることによって貫かれることになるのです。汚れた者、罪人である私たちが救われ、なおそこで神様の正しさが貫かれるためには、独り子主イエスが、十字架の苦しみと死とを引き受けなければなりませんでした。つまり、神様の独り子が、私たちのために、私たちに代わって滅ぼされて下さったことによって、神様の正しさが私たちの救いとなったのです。神様の義はこのようにして貫かれました。従ってその義は、神様の恵みと言い替えることもできるものであり、私たちの救いと言い替えることもできるのです。私たちの飢え渇く義は、このようにして満たされているのです。

しかしこのことは、私たちの飢え渇きがもう満たされてなくなっている、ということではありません。主イエス・キリストにおいて、神様の義、正しさが貫かれている、ということが、直ちに、私たちの苦しみにおける飢え渇きを満たすことにはならないのです。そこにはなお大きな隔たりがあります。平たく言えば、苦しみの中で義に飢え渇いている人に、イエス・キリストにおいて神様の義が満たされているのですよといくら言っても、その飢え渇きは満たされないのです。この大きな隔たりが乗り越えられるのは何によってでしょうか。ここで思い起したいのは、この「幸いの教え」を含む「山上の説教」が誰に向かって語られたのか、ということです。5章1節には、主イエスが山の上で腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た、とあります。この説教は、弟子たちに向かって語られているのです。弟子たちの廻りには多くの群衆たちもいます。その群衆たちは、4章25節によれば、あちこちから来てイエスに従った人々でした。つまり弟子たちにしろ群衆たちにしろ、主イエスに従っている人々なのです。その人々に向かって主イエスは語っておられるのです。主イエスに従い、主イエスと共に歩むことにおいてこそ、あの隔たりは乗り越えられます。つまり私たちは、苦しみの中で、義に飢え渇きつつ、主イエスに従うのです。その主イエスは、私たちのために十字架の苦しみと死を受けて下さった方です。特に今、レント(受難節)を歩みながら、私たちはこの主イエスの苦しみと死とを覚えています。それぞれの負っている苦しみ悲しみの中で、主イエスの十字架の苦しみと死とを見つめつつ歩む時に私たちは、自分の苦しみの傍らに、自分のために苦しんで下さった主イエスがいて下さることを示されるのです。そしてそこで、主イエスの苦しみと死において貫かれている神の義、神様の私たちへの恵みを実感することができるのです。その時私たちは苦しみの中で、義への飢え渇きを満たされるのです。苦しみは相変わらず苦しみであり、飢え渇きは続いているけれども、しかしそれは絶望に陥ることのない、満たされた飢え渇きとなるのです。「義に飢え渇く人々は幸いである。その人たちは満たされる」という主イエスの教えは、この幸いを語っているのです。ルカ福音書における教えは、今飢えている人が、神の国において満たされるという、終りの日の希望を語っていました。マタイにおける教えは、勿論その終りの日の希望をも見つめていますが、むしろそれが、今のこの世の歩みにおいて、この人生において、現実となることを見つめているのです。それは、主イエス・キリストの十字架の苦しみと死とにおいて、神様の義がこの世に貫かれているからです。私たちの苦しみ悲しみが、主イエス・キリストの苦しみと死とによって担われているからです。主イエス・キリストによって、私たちの義への飢え渇きは、この世において確かに満たされているのです。

そしてそこでこそ私たちは、隣人に対して、この社会に対して、義を行なっていく、なすべき正しいことをしていくことに熱心に努めることができるのです。飢え渇くようにこの社会の、私たちの義を求めていくことができるのです。それは私たちが、主イエス・キリストの苦しみと死とによって神様の義がこの世に貫かれていることを知っているからです。この信仰を失い、神様の正義が貫かれない、私たちの苦しみを見ておられ、慰めと支えを与えて下さる生ける神などおられない、そう思ってしまう時、そこには絶望が支配します。絶望が支配する時、私たちの生活は、必ずしも暗くなってしまうのではありません。むしろそこにはある気楽ささえ生まれるのです。「どうせ正義が貫かれることはないのだ。だからせいぜい自分の好きなことをして、やりたいようにすればよい。正義を貫こうなんてしゃかりきになっても損をするだけだ」。そして、明るく楽しくその日その日を流れに任せて送っていく、それは気楽なことです。今の時代はそういう気楽さが流行り、ウケるのです。けれどもそれは絶望の現れではないでしょうか。義に対する飢え渇きが何によっても、どこへ行っても満たされない、結局世の中に義なんて、正しいことなんてないんだ、という思いの中で、もはや義に飢え渇くことをしなくなってしまっている、それは、この社会を絶望が支配しているということです。私たちだって、人のことをとやかく言ってはいられない。義を追い求めること、正しいこと、なすべきことを追い求めることにはエネルギーがいるのです。それはつらいことでもあり、損をするようなことでもあるのです。そんな中で、つい、楽な方に流されていく、義を求めることをやめてしまうということが多々あります。主イエスはそういう私たちに、「義に飢え渇く人々は幸いである」と言われるのです。「その人たちは満たされる」。義への飢え渇きは満たされるのです。この世には、確かに、神の義が貫かれているのです。主イエス・キリストの十字架と復活においてです。主イエスを遣わされた父なる神様は、独り子の苦しみと死とにおいて、私たちへの愛を貫いて下さり、罪人である私たちを赦し、救うみ心を貫いて下さったのです。この神の義、神の恵みと愛とに満たされているから、私たちは、どんな時にも絶望せずに、義に飢え渇く者となることができるのです。私たちが、義を得てしまうことはないでしょう。この社会に義が完全に達成されることもないでしょう。それが与えられるのは神の国においてです。この世においては、いつまでも飢え渇きの状態が続くでしょう。しかし私たちは、主イエス・キリストによる神の義に満たされ、支えられているから、義に飢え渇き続けることができるのです。そこに私たちの幸いがあるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2000年4月2日]

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