礼拝説教「聖霊によって立つ」サムエル記上 第11章1〜15節 使徒言行録 第2章14〜42節 月の終わりの主の日には、旧約聖書サムエル記上からみ言葉に聞いています。本日はその第11章を読みます。先月、12月の終わりに、9、10章を読みました。そこには、イスラエルの最初の王として、サウルという人が神様によって立てられたことが語られていました。サウルは、預言者であり、最後の士師であったサムエルによって油を注がれ、また民の間で行われた、王を選ぶためのくじ引きに当って、イスラエルの初代の王となったのです。しかし、10章の終わりに語られている、サウルの王として即位の様子は、私たちが普通王様の即位ということで思い浮かべることとはかなり異なっています。24節で、民は喜びのうちに「王様万歳」と叫んだのですが、次の25節にはこうあります。「サムエルは民に王の権能について話し、それを書に記して主の御前に納めた。それから、サムエルはすべての民をそれぞれの家に帰した」。そして26節には「サウルもギブアの自分の家に向かった」とあります。つまり、サウルが王となり、いよいよイスラエルは王国になったわけですが、だからといって人々は、立派な王宮を建て、王の町を国の首都として、政治や軍事の中心として整えていく、というようなことはしなかったのです。王は定められたが、それだけで、人々は自分の家へ帰っていく、王となったサウルも、自分のそれまでの家に戻ってもと通りの生活を続けていくのです。彼の生活がそれまでと何ら違ったものでなかったことは、本日の5節からもわかります。「そこへ、サウルが牛を追って畑から戻って来た」とあります。王様が、牛と共に畑を耕しているのです。これは私たちの感覚からすると奇異なことです。王様になっても生活はそれまでと何も変わっていないのです。 聖書の学者たちは、このことを次のように説明しています。サウルが王となったことを伝えている伝説は、もともと3つの別々な話だった。それは、サムエルがサウルに油を注いで王としたという話と、民の間でくじ引きがなされてサウルが選び出されたという話と、そして11章の、サウルがアンモン人との戦いを率いて勝利し、王となったという話です。これらの3つの話は、もともとは相互につながりのない、別々の話だった。それらは別の町において言い伝えられてきた伝承だった。例えば本日の11章の話は、ギルガルという町に言い伝えられてきた話だった、というのです。そのもともと全く別のものである三つの話が一つにまとめられて今日のサムエル記の物語が生まれている。だから、王になったはずのサウルが次の話では全然それらしくない姿で出てきたりするのだ、というわけです。なるほど、この物語の成立ちはそういうことなのかもしれません。けれども私たちは、聖書が最終的にこのような形でまとめられた、そのことによって語られているメッセージがあるということを忘れてはなりません。もともとの話はこうだった、という研究は、聖書の素材を知るという点で意味のあるものですが、それと、聖書そのものが語っていることを知ることとは違うのです。このことは、皆さんが聖書を深く学ぼうと思っていわゆる注解書を読む時によく注意しておかなければならないことです。学者の書く注解書は、往々にして、聖書を素材に分解し、コマ切れにして、もともとこれはこんな話だった、というようなことを分析することに力が注がれている場合があります。しかし、その素材が今ある形にまとめられた、そこに込められている意味こそが、聖書の語ろうとしていることなのです。それを読み取ることこそが、聖書を本当に読むことです。料理に喩えるならば、この料理にはどんな食材が使われている、ということを分析していってもその料理を本当に味わうことはできないわけで、それらがどう組み合わされ、どう調理され、どう味付けされているかによって、その料理の命、味わいが決まるのです。 そういうわけですから、本日の箇所においもて、サウルが、油を注がれ、くじで選ばれて王になった後も、それまでと変わらない生活をしていた、ということに、私たちは一つの大事なメッセージを読み取ることができます。イスラエルにおいて王というのは、民を支配し、君臨する絶対君主ではないのです。イスラエルのまことの王は主なる神様です。その神様の下で、民を一つにまとめていく指導者として王は立てられているのです。そしてその王の指導力は、必要な時にのみ発揮される、ということを本日の話は語っていると言うことができるでしょう。その必要な時とは、イスラエルが敵に攻められ、危機に瀕した時ということです。そういう時にこそ、王は民を率いて敵と戦い、国を守るのです。そして戦いが終わればまたもとの畑を耕す生活に戻る、それがここに見つめられている理想的な王の姿なのです。 さて、この11章でイスラエルを脅かした敵は、1節にあるようにアンモン人のナハシュです。新共同訳聖書の後ろの付録の地図の4.「統一王国時代」というのを見ていただきたいと思います。キネレト湖(後のガリラヤ湖)と、塩の海(死海)の間を南北に流れるヨルダン川、その東側に位置していたのがアンモン人です。その中心の町はラバ、この町は今、ヨルダン王国の首都アンマンです。そこに「アンモン」の名の名残りがあります。ナハシュはそのアンモン人の王で、軍勢を率いて、イスラエル人の町、ギレアドのヤベシュを包囲しました。ヤベシュはヨルダン川のすぐ東側の町です。サウルが王になった頃のイスラエルは、ペリシテ人にもさんざん攻められ、国内はまとまらないという非常に乱れた、弱い状態でした。そういう弱みにつけこんで、アンモン人も勢力拡張をはかってきたのです。そのような弱い状態でしたから、ヤベシュの住民は、これは戦っても勝ち目はない、降伏するしかない、と思ったのです。彼らはナハシュに「我々と契約を結んでください。我々はあなたに仕えます」と言ったというのはそういうことです。降伏して町を明け渡しますから、我々を滅ぼさないと約束して下さいということです。それに対するナハシュの答えは恐ろしいものでした。2節「…」。ヤベシュの住民全員の右の目をえぐり出してやる、その上で命だけは助けてやろうというのです。何とも残酷は話ですが、古代の戦争においては、このようなことが多々ありました。戦いに負けるというのは、皆殺しにされるか、奴隷に売られるか、このようなひどい屈辱を与えられるかだったのです。そうならないために、戦わずして降伏すると言っているのに、戦って負けたのと同じような目に遭わせると言ってきたのです。ヤベシュの長老たちは、7日間の猶予を求めます。イスラエル全土に助けを求める、それで助けが得られないなら、仕方がない、覚悟を決めて、目をえぐられてでも生き残る道を選ぶというのです。ナハシュがこの求めを認めたのは意外です。彼はイスラエルの力をよほど見くびり、どうせ援軍など来ない、と思っていたのでしょう。だから、ヤベシュの人々があわてふためいて右往左往するのを見物してやろうと思ったのかもしれません。実際、イスラエルの人々には、ヤベシュからの助けを求める知らせを受けても、立ち上がる力はありませんでした。4節「使者はサウルのいるギブアに来て、事の次第を民に報告した。民のだれもが声をあげて泣いた」。民の誰もが声をあげて泣くことしかできなかったのです。「それは大変だ、みんなで行って助けよう」と言う者は一人もいなかったのです。イスラエルの民は誰もが、恐れにとりつかれ、臆病になっていました。それは、自分たちには本当は力があるのに、いたずらに臆病風に吹かれて、その力を過小評価していた、ということではありません。今目の前にある現実、その中で自分たちのできることを客観的に見つめ、考えるならば、とうてい敵に立ち向かい、ヤベシュの人々を救うことはできないのです。むしろ、明日はわが身で、今度は自分たちの町が同じような目にあうかもしれないのです。自分自身と周囲の現実の状況を見回した時には、そういう絶望的な思いにならざるを得ないのです。 そこに、サウルが、牛を追って畑から戻ってきました。彼は人々が皆泣いているのを見て、「何事か起こったのか」と聞いたのです。人々は彼に、ヤベシュからの知らせを語りました。すると、6、7節「それを聞くうちに神の霊がサウルに激しく降った。彼は怒りに燃えて、一軛の牛を捕らえ、それを切り裂き、使者に持たせて、イスラエル全土に送り、次のように言わせた。『サウルとサムエルの後について出陣しない者があれば、その者の牛はこのようにされる。』民は主への恐れにかられ、一丸となって出陣した」。サウルは怒りに燃えたのです。そしてイスラエル全土、全部族に「わたしのもとに結集せよ」と檄を飛ばしたのです。それも、激しい、言わば脅迫的な仕方でです。牛を殺して切り裂き、その破片を送って、「わたしに従って出陣しない者の牛はこのようになるぞ」と言わせたのです。その結果、全イスラエルから、33万の軍勢が集まったと8節にあります。この数字はいささかオーバーであると思われますけれども、サウルのこの呼び掛けによって、臆病になり、泣いているばかりだったイスラエルの民は、結束して敵に立ち向かうことになったのです。 ここに、サウルの、王としての働きの大事な一面が語られています。民を結集させて、その先頭に立って敵と戦うということです。王のなすべき働きの最も大事なことの一つは、国の安全を守ることです。そのために王は軍隊を率いるのです。しかしそれはただ強い軍隊を持っていればよいということではありません。国民全体の意識が、何とかしてこの国を守ろうということで一致していなければ、軍隊だけで国を守れるものではありません。サウルはここで、恐れ、泣いているだけのイスラエルの人々を、そのような思いに結束させた、それが、彼の王としてのめざましい働きだったのです。 しかしこのことは、サウルが人心を掌握し、勇気づけ、皆の思いを一つにまとめていく特別な力や才能を持っていた、ということではありません。彼がこのような働きをすることができたのは、神の霊が激しく彼に降ったからであるとここに語られています。このことをなしたのは、サウルの能力ではなくて、神の霊の力なのです。神の霊、聖霊の働きによって、サウルは檄を飛ばしたのです。そこに聖霊が働いて下さったからこそ、泣くばかりだったイスラエルの民が、サウルのもとに馳せ参じたのです。7節の終わりに「民は主への恐れにかられ、一丸となって出陣した」とあることにも注目しなければなりません。切り裂かれた牛を送られて、人々が恐れたのは、それを送ったサウルではなかったのです。人々が出陣したのは、言うことを聞かないとサウルが我々の牛をこんなにするかもしれない、と思ったからではなかったのです。主なる神様への恐れが彼らをとらえたのです。その恐れが、アンモン人への恐れに打ち勝ったのです。それは、聖霊の働きによって引き起こされたことです。サウルは、この聖霊の働きのために用いられたのです。 聖霊が激しく降ったことによって、サウルは怒りに燃えたと言われていることにも注目したいと思います。サウルは聖霊によって怒ったのです。その怒りは何に対しての怒りでしょうか。一つには勿論、イスラエルを侮辱し、ヤベシュの人々にひどいことをしようとしているアンモン人ナハシュに対してです。しかしそれと同時に、この怒りは、そのナハシュに侮辱され、同胞がひどい目に遭わされようとしているのに、絶望の内に座り込み、ただ泣いているばかりであるイスラエルの人々に対する怒りでもあると言うことができるでしょう。切り裂いた牛を送りつけるという威嚇的な行為は、その怒りの現れであると思われるのです。アンモン人に対してと、イスラエルの人々自身に対するこの二重の怒りは、サウル個人の感情ではありません。それは聖霊によって与えられた、神の怒りです。神様が、この両者に対して怒っておられるのです。サウルは、その神の怒りの体現者、その怒りを体で現わす者となりました。私たちがここからしっかりと見つめなければならないのは、この神の怒りです。神は何を怒っておられるのか、どのようなことが神を怒らせるのか。 アンモン人は、ヤベシュの住民の右の目をえぐり出すと言っています。それによって全イスラエルを侮辱してやると言っているのです。そのイスラエルの民は、主なる神様の民です。主なる神様とこの民の関係は、アブラハムにまで遡ります。神様はアブラハムと契約を結び、彼の子孫を大いなる国民とし、神の祝福を担う民とする、と約束されました。イスラエルの民はその後、エジプトに住むようになり、そこで奴隷とされて苦しめられていましたが、神様は民の苦しみを顧み、モーセを遣わして彼らをエジプトから脱出させて下さったのです。そしてその救いの恵みに基づいて、改めて契約を結んで下さいました。「あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」と宣言して下さったのです。そして今、彼らはこのカナンの地を神様の導きによって与えられ、そこに住んでいるのです。イスラエルの民の歩みはそのように、神様との契約の歴史であり、その契約に基づく神様の恵みに支えられた、神の民としての歩みだったのです。アンモン人はそのイスラエルの民を侮辱し、彼らに危害を加えようとしています。それは、他ならぬ主なる神様に対する侮辱であり、敵対なのです。申命記の32章10節にこういう言葉があります。「主は荒れ野で彼を見いだし、獣のほえる不毛の地でこれを見つけ、これを囲い、いたわり、御自分のひとみのように守られた」。詩編第17編の7、8節にこう歌われています。「慈しみの御業を示してください。あなたを避けどころとする人を、立ち向かう者から右の御手をもって救ってください。瞳のようにわたしを守り、あなたの翼の陰に隠してください」。ゼカリヤ書2章12節にもこうあります。「栄光によってわたしを遣わされた、万軍の主が、あなたたちを略奪した国々に、こう言われる。あなたたちに触れる者は、わたしの目の瞳に触れる者だ」。このように、イスラエルの民は主なる神様にとって、ご自分の目の瞳のような大切な存在なのです。ナハシュはそのイスラエルの民の目をえぐり出すと言う、それは神様の目をえぐり出そうとするに等しい振舞なのです。それに対して神様がお怒りになるのは当然のことです。 そしてこの神様の怒りは、同時にイスラエルの民自身にも向けられるのです。それは、彼らが、自分たちは神様の民であり、神様の契約の恵みの中に置かれており、神様が自分たちをご自分の目の瞳のように大切に思っておられるということを見失ってしまっているからです。神様の契約の恵みを忘れ、その守り導きを見失ってしまっているから、目に見える周囲の状況だけしか目に入らなくなり、恐れにとりつかれ、ただいたずらに泣き悲しむことしかできなくなっているのです。それは彼らの不信仰です。その不信仰に対して、神様はお怒りになるのです。臆病な同胞に対するサウルの怒りは、この神様の怒りの表れです。ですからそれは、同胞が敵に苦しめられようとしているのに助けに行かないとは何だ、情けない、という怒りと言うよりも、自分たちが神様の民であることを何と心得るのか、神様の契約の恵みを忘れたのか、という怒りなのです。それゆえに、この怒りの印である切り裂かれた牛を送られたイスラエルの人々は、主への恐れを覚えたのです。主なる神様が、ご自分を信頼しない民に対して怒っておられる、ということをそこに感じたのです。 サウルの怒りに燃えた呼び掛けによって、イスラエルの人々は主なる神様を恐れる思いを取り戻し、馳せ参じました。サウルのもとにと言うよりも、主なる神様のもとにです。サウルはその人々を率いて、アンモン人を打ち破り、ヤベシュを救ったのです。その勝利は、サウルの勝利と言うよりも、サウルを立て、動かした聖霊の力の勝利、神様の力の勝利です。言い替えるならば、神様の契約の恵みを再び思い起し、神様をこそ恐れる信仰を回復した民に、神様が与えて下さった勝利です。この勝利によって、サウルは完全な意味でイスラエルの王となったのです。神様に選ばれて油を注がれ、民のくじ引きによって選び出されていた彼は、この軍事的勝利によって、全ての人々から王として認知されたのです。12節には、人々が「『サウルが我々の王になれようか』と言っていた者はだれであろうと引き渡してください。殺します。」と言ったことが記されています。これは、10章の終り、27節に「しかしならず者は、『こんな男に我々が救えるか』と言い合って彼を侮り、贈り物を持って行かなかった。だがサウルは何も言わなかった」とあったこの「ならず者」たちのことです。しかしサウルは、この提案を退けました。「今日は、だれも殺してはならない。今日、主がイスラエルにおいて救いの業を行われたのだから」。この言葉には、サウルが、この勝利は決して自分の力によって得たものではない、神様が救いの業を行って下さったのだ、ということをはっきりとわきまえていることがうかがえます。自分の力ではなく、神様の救いの業、聖霊の働きによる勝利によって、彼の王位は確立したのです。それゆえに彼は、自分に敵対する者、反対する者をも、力で抑え込むのではなく、彼らに対しても寛容であることができるのです。 サウルは、聖霊の働きによって、このようなすばらしい勝利を与えられ、イスラエルの王として立てられました。本日共に読まれた新約聖書の箇所、使徒言行録第2章14節以下には、同じように聖霊によって新しく立てられて、力強い働きを与えられた一人の人の言葉が記されています。それは使徒ペトロです。この第2章の始めには、主イエス・キリストが十字架にかかって死なれ、三日目に復活され、弟子たちにご自身をお示しになった、そして40日後に天に昇られた、その後、弟子たちが、主がお命じになった通りに集まって祈っていたところに、聖霊が降った、そのいわゆるペンテコステの出来事が語られています。その聖霊の力を受けて、ペトロが語っていった最初の説教がこれです。このペトロは、つい先ごろの、主イエスが捕えられて十字架にかけられる時には何をしたかというと、主イエスの逮捕の時には見捨てて逃げ出し、その後も、「おまえはあのイエスの弟子だろう」とつめよられて、「そんな人は知らない」と三度も主イエスとの関係を否定したのです。その時の彼は恐れにとりつかれ、ただ泣くことしかできませんでした。丁度ヤベシュからの知らせを受けたイスラエルの人々と同じような状態だったのです。しかし彼は、復活された主イエスとの出会いと、そして聖霊が彼に降ったことによって、そういう恐れと弱さの中から立ち上がりました。そしてここにあるように、力強く主イエス・キリストのことを証しし、「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は復活させ、主、メシア、即ち救い主として下さったのだ」と語るようになったのです。このペトロに起ったことは、サウルに、そしてサウルを通してイスラエルの人々に起ったことと同じです。聖霊の働きによって、彼らは新しくされ、力強く立つ者とされたのです。それは、聖霊によって超自然的な不思議な力が注入されたということではありません。聖霊は、私たちに、神様が私たちをご自分の目の瞳のように愛し、守り導いていて下さることを示し、教えてくれるのです。神様は、私たちを目の瞳のように大切に思って下さるがゆえに、ご自分の独り子イエス・キリストをこの世に遣わし、その十字架の死によって私たちの罪を赦し、復活によって新しい命の約束を与えて下さったのです。私たちはその神様の契約の恵みの内に置かれています。そのことを私たちに示し、信じさせ、常に思い起させて下さるのが聖霊の働きなのです。私たちはしばしばその恵みを忘れ、見失い、そのためにこの世の目に見える現実しか見えなくなり、恐れにとりつかれ、臆病になり、立ち上がることができなくなります。聖霊は時として、そんな私たちをどやしつけて下さるのです。神様の恵みを何だと思っているのか、それを信頼しようとしない者に対して、主は怒っておられる、座り込んで泣いていないで、さっさと主イエス・キリストのもとに馳せ参じ、この主に従って生きよ、と威嚇して下さるのです。それもまた神様の恵みです。それによって私たちの中に、この世の何物よりも主なる神様を恐れる思いが、つまり信仰が生まれるなら、その時私たちは、座り込んでいる所から立ち上がることができるのです。そして、主が行って下さる大いなる救いの業を見ることができるのです。
牧師 藤 掛 順 一 |