礼拝説教「荒れ野で叫ぶ者の声」イザヤ書 第40章1〜5節 マタイによる福音書 第3章1〜12節 私たちは今、礼拝において、マタイによる福音書を読み進めております。そのように図ったわけではないのですが、たまたま、昨年のクリスマス前のアドベントに入る直前からマタイ福音書を読み始めることになりまして、アドベントからクリスマスにかけて、ちょうど主イエスの誕生に関わる部分を読んできました。クリスマス記念礼拝において2章の後半を読み、そしてこの新年第一の主の日の礼拝において、3章に入るわけです。そのように、クリスマスの出来事に続いて語られているところを読んでいくわけですが、しかし第2章と第3章の間には、実は時間的に大きな隔たりがあります。この第3章には、主イエスが教えを宣べ伝え始めるに先立ってその準備をした洗礼者ヨハネの活動のことが語られています。そのヨハネは、ルカ福音書によれば、主イエスとほとんど同世代ですから、主イエスの誕生を語る2章と、ヨハネの活動開始を語る3章の間には、20年から30年に近い歳月が経っているのです。ルカ福音書はこの間に、主イエスが12歳の時のエピソードを語ったりしますが、マタイはそういうことをせずに、誕生からヨハネの登場へ、一足飛びに進んでいます。しかも、マタイの書き方はこの間の時間的隔たりを感じさせません。3章のはじめに「そのころ」とあります。あたかも、主イエスがお生まれになったのと同じ頃にヨハネが登場したかのように語っているのです。マタイがこのような語り方をするのにはわけがあります。そのことには後でふれたいと思います。 さてヨハネは、2節にあるように、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と語りました。そして3節には、このヨハネこそ、イザヤが預言していた「荒れ野で叫ぶ者」だということが語られています。そのイザヤの預言というのは、本日共に読まれたイザヤ書40章の3節です。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫ぶ声が荒れ野で響く。そのようにして、主なる神様のために、その神様が遣わされる救い主のために道備えをする者が現れると預言されているのです。それこそが洗礼者ヨハネです。ヨハネは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と語ることによって、救い主イエス・キリストのために道を整えたのです。この洗礼者ヨハネのことは、四つの福音書全てが語っているのですが、ヨハネが人々に宣べ伝えた言葉をこのように記しているのは実はマタイだけです。そしてこのヨハネの言葉は、この後の4章17節にある、主イエスご自身が伝道を始められた言葉と全く同じなのです。主イエスも、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められたのです。ここに、マタイ福音書が語る洗礼者ヨハネの姿の特徴があります。ヨハネは、主イエスと全く同じことを語った、そのようにして、主イエスの道備えをしたことをマタイは強調しているのです。 ヨハネは主イエスと同じことを語った。そこに、マタイにおけるヨハネの姿の特徴があります。そのことから見えてくる、他の福音書とは違うマタイのヨハネの独自性は、彼が、「天の国は近づいた」と語ったということです。ヨハネが人々に「悔い改め」を求めたことは他の福音書も語っています。マルコもルカも、彼が「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」と言っているのです。しかし、「天の国は近づいた」ということをヨハネが語ったことは、マタイのみが記す特徴です。マタイは、ヨハネと主イエスとのこの点での共通性を強調しているのです。 「天の国は近づいた」。「天」というのは、神様のことを言い替えた言葉です。ですから天の国イコール神の国です。それはどこかにある場所のことではなくて、神様のご支配という意味です。神が王として支配される王国、それが天の国、神の国なのです。ですから、「天の国は近づいた」というのは、神様の王としてのご支配が確立する時が迫った、ということです。神様が王として来られる日が間近い、ということです。主イエス・キリストはそのように語って伝道を開始されました。それは、神様の独り子イエス・キリストがこの世に来られ、いよいよ神様の救いの知らせ、福音を宣べ伝え始められる、そのことによって、神様の王としてのご支配が確立する時が決定的に迫っているということです。ヨハネもそれと同じことを語ったのです。彼は、11節にあるように、自分の後に、自分よりも優れた方が来られることを知っていました。その方は、12節「そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」。これは、その方によって人々が裁かれ、麦と殻とに分けられる、救いか滅びかを定められる、ということの喩えです。つまり自分の後から来る方は、神としての権威をもって人々を裁き、支配するまことの王であられる、自分はその方が来られるための道備えをしているのだという意識をヨハネは持っていたのです。そのまことの王が主イエスである、ということは彼もまだこの時点ではわかっていません。けれどもそのまことの王がまもなく現れ、そのご支配が実現するということははっきりと知っていたのです。「天の国は近づいた」と彼が語っていることにはそういう意味があるのです。 主イエス・キリストが、私たちのまことの王として来られる。これは、私たちがこのクリスマスに読んできた、マタイ福音書の語る主イエスの誕生の意味です。主イエスはユダヤ人の王としてお生まれになった、そのことが東の国から来た学者たちによって告げられ、それを聞いたヘロデ王が不安を覚え、その新しい王を殺してしまおうとする、ということを軸に、2章のクリスマスの物語は展開しています。まことの王としてこの世に来られた主イエス、その王を恐れ、抹殺しようとする人々、しかしその中で東の国の学者たちは、まことの王に出会った喜びに溢れ、主イエスの前にひれ伏して礼拝し、自分たちの宝を献げたのです。この物語は私たちに、あなたはどちらの生き方を選ぶのか、と問いかけています。ヘロデのような生き方か、東の国の学者たちのような生き方か、その問いかけが、そのまま本日の洗礼者ヨハネの言葉につながっているのです。いよいよ、天の国は近づいた、主イエスが王として支配し、世を裁く時が近づいている、このまことの王の前で、あなたはどうするのか、とヨハネは人々に、そして私たちに問いかけているのです。先程申しました、2章と3章が、30年近い時間的隔たりにもかかわらず、「そのころ」という言葉で結びつけられていることの理由はここにあります。内容的に、2章と3章は直結しているのです。そこに流れている問いかけが共通しているのです。 天の国は近づいた、主イエスのご支配、その王国が確立しようとしている、そのことを踏まえて、主イエスが、そしてヨハネが私たちに求めているのは、「悔い改める」ことです。ヨハネは、悔い改めの印としての洗礼を授けました。人々は、彼のもとに来て、罪を告白し、洗礼を受けたのです。悔い改めることは、何よりもまず、罪を告白することです。自分の犯している罪を認め、それを神様に対して告白し、赦しを願うのです。私たちは日々、隣人を傷つけたり、なすべきことを怠ったり、自分の利益だけを追い求めたりという罪を犯しています。罪を犯さずに一日を過ごすことはないと言ってもよいでしょう。しかしそういう一つ一つの悪いことの根本には、神様に対する罪、神様に従わず、自分が主人になって生きようとする、自分が王であろうとする思いがあるのです。罪を告白するというのは、私はあんなことをしました、こんなことをしました、と一つ一つの罪を数えあげるよりも、この根本的な罪、自分が神に背き逆らっているという事実を認め、その赦しを乞うことです。そうでなければ、自分のあれこれの罪を数え上げながら、結局はいつまでも自分が王であり続け、主イエスをまことの王として受け入れないということになってしまうのです。悔い改めは、例えば年頭に当たって、これまでの自分の悪かったところを反省してこれからはもっとよくなろうと決意するようなこととは違います。それはもっと心の根本における向きが変わることです。自分が王であったものが、その王座を主イエス・キリストに譲り渡すことです。それこそが、ヘロデがどうしてもしようとしなかったことであり、東の国の学者たちがしたことだったのです。天の国は近づいた、という知らせによって私たちに求められているのは、このような意味で、罪を告白し悔い改めることなのです。 ヨハネのもとに、多くの人々がやって来て、罪を告白し、洗礼を受けました。その中に、ファリサイ派やサドカイ派の人々もいました。この人々は、当時のユダヤ人たちの中で、宗教的な指導者だった人々です。ファリサイ派は「律法学者」とも呼ばれています。イスラエルの民が守るべき神様の掟、戒めを人々に教え、それを守る生活を指導する人々です。サドカイ派はエルサレム神殿の祭司たちを中心とする上流階級の人々でした。この人々もまた、ヨハネのところに来て、洗礼を受けようとしたのです。ところがヨハネは彼らには、非常に厳しい言葉を投げかけました。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」。「だれが教えたのか」って、ヨハネ自身が、罪を告白して悔い改め、その印である洗礼を受けることによって、罪の赦しが与えられると語ったのです。彼らも、その教えを伝え聞いて洗礼を受けにやって来たのでしょう。ところがヨハネは彼らに対しては、「おまえたちは神の怒りを免れることはできない」と語ったのです。何故彼らはだめなのか。いや、絶対にだめだというのではありません。8節に「悔い改めにふさわしい実を結べ」とあります。彼らは、悔い改めにふさわしい実を結んでいない、だから罪の赦しを得ることができないというのです。これは彼らファリサイ派やサドカイ派の人々のみの問題ではありません。私たちだって、罪を告白して悔い改めると言っても、本当に悔い改めにふさわしい実を結んでいるかというと、はなはだ心もとないと言わなければならないでしょう。だとすると私たちも、罪の赦しを受けることができないということになるのです。「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」とはどういうことなのでしょうか。 私たちはともするとこれを、悔い改めを実行に移すこと、行動に表すことだと考えます。隣人を傷つけている、という罪を反省するだけではだめで、隣人を愛するようにならなければいけない、自分のことだけを考えるのをやめて、人のために尽くす者にならなければいけない、そういうふうに、私たちが積極的に何かよいこと、愛の業をしていくことが、悔い改めにふさわしい実を結ぶことだと考えるのです。けれどもヨハネはここで、そういうことを言ってはいません。おまえたちはよい行いが足りない、と言っているのではないのです。そもそも、ファリサイ派やサドカイ派の人々というのは、律法に従うという点では、一般の人々よりもはるかに厳格な生活をしていたのです。彼らが、悔い改めにふさわしい実を結んでいないと言われたのは、そういうことによってではありません。9節にこうあります。「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」。「我々の父はアブラハムだ」と思っている、それが、彼らが悔い改めにふさわしい実を結んでいないとされることの中心なのです。「我々の父はアブラハムだ」。それは、自分たちはアブラハムの子孫であり、神に選ばれた民、神の救いにあずかる者なのだ、ということです。イスラエルの民の歴史はアブラハムから始まります。それが、神様の救いの歴史なのです。それを担っているのがイスラエルの民、ユダヤ人です。ファリサイ派やサドカイ派の人たちのみでなく、ユダヤ人たちはみんな、自分たちは、神様と関係のない異邦人ではない、神の民なのだ、という意識を強烈に持っていました。ファリサイ派やサドカイ派の人々は、民衆のそのような思いを代表する者であり、またそのように人々を指導していたのです。 「我々の父はアブラハムだ」という思いこそが、悔い改めにふさわしい実を結ぶことを妨げている。それは、この思いによって、神様の救いが既に自分のものになってしまっているかのように思ってしまうからです。アブラハムを父として持つことによって、もう神様の救いの中にいる、自分は救われる者なのだ、ということが前提になってしまう、そうすると、悔い改めが本当の悔い改めにならないのです。悔い改めて神様の赦しを得ることにこそ救いがある、というのではなくて、救いはもう別の所で確保されてしまっている、それはもう自分のものになってしまっている、後はそこに、「悔い改め」という添えものをつけて、救いをさらに完璧なものにする、ということになってしまうのです。私たちはユダヤ人ではありませんから、「我々の父はアブラハムだ」などとは思いません。しかし私たちも別の仕方で、同じような思いに陥ってしまうことがあるのではないでしょうか。つまり、悔い改めるということが、何か自分の正しさであるかのように思ってしまう、より良い者、正しい者であろうと努力している自分が、悔い改めというさらなる正しさ、あるいはそれは自分の罪を認めるという謙遜さと意識されることもありますが、それを得る、それによってますます正しい者、良い者になっていく、そして、自分もこれくらい悔い改めることができるようになったと心の中で誇ったりする、そういうことがあるのではないでしょうか。そこにおいては、救いは、自分の正しさによって獲得されていることになるのです。悔い改めはそこに添えられる飾りのようになっているのです。しかしそれは本当の悔い改めではありません。本当の悔い改めは、救いの飾りではなくて、悔い改めることにこそ救いがあるのです。悔い改めるという自分の行為に救いがあるのではありません。悔い改める者を赦して下さる神様の恵みにこそ救いがあるのです。その救いをひたすら求めて神様の前に立ち、罪を告白して赦しを求めることが悔い改めなのです。その悔い改めの印がヨハネの授けた洗礼です。洗礼はもともとは、ユダヤ人でない者が、主なる神様を信じて神の民であるユダヤ人の仲間に加えられる時に受けた儀式であったようです。ところがヨハネはそれを、ユダヤ人たちに受けるように求めたのです。ユダヤ人がユダヤ人であるから救われるのではない、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、神様のみ前に悔い改めて罪の赦しをいただくことによってのみ救われるのだというのが、この洗礼の意味なのです。 ヨハネは、「天の国は近づいた」ことを語り、来たるべき救い主によって、神様のご支配が確立し、その裁きが行われることを告げました。そしてその天の国の接近に備えるために、悔い改めることを求めました。しかもその悔い改めが本物になり、悔い改めにふさわしい実を結ぶことを求めました。そして、よい実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれるのだと語りました。このヨハネのメッセージは、私たちにとって、恐ろしいものです。果たして自分は、本当に悔い改めにふさわしい実を結ぶことができているだろうか、自分も、差し迫った神の怒りを免れない者なのではないか、と思わずにはおれないのです。ヨハネの後から来られた主イエス・キリストも、ヨハネと全く同じく、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言ってその伝道を始められました。しかしこの主イエスにおいて、事はヨハネが語ったのとはいささか違う方向へと進んでいったのです。主イエスによって到来した天の国、神様のご支配は、良い実を結ばない木を片っ端から切り倒して火で焼き尽くしていくようなものではありませんでした。そうではなくて、神様の独り子イエス・キリストが、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さる、それによって神様が私たちの罪を赦して下さる、その恵みによるご支配だったのです。このご支配が確立するために、切り倒され、火に投げ込まれたのは、私たちではなくて主イエス・キリストご自身でした。主イエス・キリストは、私たちの罪の赦しのために死んで下さる、そういう王としてこの世に来られたのです。天の国はそのようにして実現していったのです。この主イエスが、今私たちに、「悔い改めよ」と言っておられます。それは、悔い改めなければ滅ぼすぞという脅しによることではありません。私が、あなたの罪を背負って十字架にかかって死んだ、それによってあなたの罪は赦されている、だから、あなたは悔い改めることができる、悔い改めにふさわしい実を結ぶことができるのだ、と主は語りかけておられるのです。ヨハネの授けた洗礼は、悔い改めの印としての洗礼でした。しかし、私たちが受ける、主イエス・キリストの洗礼、教会の洗礼は、それ以上のものです。私たちの洗礼も、罪を告白し、悔い改めることを意味しています。しかしそれはそういう私たちの決意や努力の印ではなくて、主イエス・キリストが、その十字架の死と復活とによって、私たちの全ての罪を赦し、新しい命を、神様の怒りではなく恵みの下に生きる新しい生活を与えて下さる、その恵みの印なのです。この恵みの中で、私たちは悔い改めにふさわしい実を結んでいくのです。「神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」。そこらにころがっている石のように何の取り柄もない、また石のように頑なな私たちですけれども、そのような私たちに神様は、悔い改めを与え、私たちをアブラハムの子、神の民として下さるのです。
牧師 藤 掛 順 一 |