富山鹿島町教会

礼拝説教

「あなたへの招待状」
出エジプト記 20:1〜11
ルカによる福音書14:15〜24

堀岡 満喜子先生


 ドイツの神学者にルドルフ・ボーレンという方があります。この方の著著に『天水桶の深みにて』というものがあります。この書物は、私どもの信仰を助け、私どもの存在そのものを支えるものを発見させる力のある示唆に富んだものであります。このボーレン氏の奥様は心の病のゆえに自殺をされました。この現実をずっと抱えながら、何故、人がこのような病に捕らえられなければならないか、このような病から解き放たれる力はどこにあるか、と問うてこられたのです。しかしボーレン氏は、この病についてごく一部の人の問題であるとは考えていません。現代人の誰もが潜在的なメランコリー、心の病の患者であると言われます。私は痛烈な、しかし実情を射抜いている言葉だと思いました。

 もし私ども自身が本当にこの患者であるとするならば、一体どのような病にかかっているというのでしょうか。ボーレン氏は、その人がどのようになるか、その症状を記しておられます。
「その人の思い浮かべること、思い込んでいることは、劣等感、無能、罪、不幸…それらのことを思い浮かべ、その人は自分をそのようなものであると診断し、苦しんでいく」 これがこの病を抱えた人の姿です。わたしはこの節を読みましたときに、本当にそのようなことが、私自身のこととして起こるということを痛切に感じました。私どもには自分の問題、自分の失敗、自分の生活の悩み、自分の願いと叶えられない希望、それらのことに目を留めて苦しんでいくということがあるのではないでしょうか。このような苦しみに埋没していく。この意味で、私自身が、私ども自身が、この患者であると言わざるを得ないように感じました。

 ある時に、現代日本を指して、神学者が次のような指摘をされました。
「今、日本ではどこに行くのか分からなくなっている人々が増えている。例えば、テレビドラマでも、記憶を失った人、いわゆる記憶喪失の人を主人公にした番組が増えてきている。これは、時代を象徴しているように思う」とおっしゃったのです。記憶喪失の時代。自分が誰で、何をしようとしている者なのかが分からなくなってしまった時代状況ではないか、というわけです。どのように生きていったらよいのか、分からなくなってしまった。私どものまわりでは非常に多くの混乱した事件が次々に起こるのも、このような理由によるものかもしれません。

 このように考えて見ますと、私どもの時代も私ども自身も、本当に悲惨な者であると感じます。しかし、これは個人的な問題、時代の問題というよりは、人間そのものの悲惨といわなければならないでしょう。人間を探求していくときに、もしこの私ども人間自身を追及したとすれば、私どもは本当に惨めな自己探求をしなければならなくなるのではないでしょうか。これは、おそらく年齢を重ねるほどに自分自身の惨めさをはっきりと知るに至るのではないか、と思うのです。

 けれども、私どもは今朝、このような意味での自己探求からの解放、このような自分自身や時代から自由になる道を発見したいと願います。ハイデルベルク信仰問答は、私どものみじめさについてその問答の中に記しています。問3からはじまる数問がそれです。人間の惨めさについての問答になっています。けれども、ハイデルベルク信仰問答、問の1から人間の惨めさについて語っていないのであります。これがこの問答の非常に優れたところだと思いますけれども、問1、問2において語られているのは、唯一の慰めについてなのです。

 ハイデルベルク信仰問答の第一の問いはこうです。
「生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは、何ですか。」

私どもは、今朝、自分の悲惨、他者の悲惨から目を離して、この唯一の慰めに目を上げたいと思います。

 今朝のみ言葉、主イエスのたとえ話を記しています。
ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招きます。宴会の時間になったので、僕を送って、用意ができたので、来てくださいといわせます。すると招かれていた人は次々に断るのです。それぞれの理由があります。畑を買ったので見に行く人。妻を迎えたばかりだという人。そこで、僕はその事情を主人に報告しました。すると家の主人は怒って、僕に言いました。町に行って貧しい人や体の不自由な人をここに招きなさい。ここがいっぱいになるまで、色々な人を引っ張ってきなさい。

 このたとえ話は、終わりの日について語るものです。宴会の時間になった、というのは終末の時が来たと言うことです。私どものこの歴史の時が熟して、主イエス・キリストが再びこの世界に来られる時です。この主イエスの再び来られる時、歴史が終わって新しい時が開始される時、これを終末と言いますけれども、この終末における神の御前での祝宴、祝いの宴(うたげ)を描いているたとえ話といえます。しかし、このたとえ話、キリストが語られたのですけれども、実はユダヤ教世界にすでに、これによく似たたとえ話があったようなのです。

ユダヤ教では、主イエスの時代、モーセの十戒からはじまった律法は、すでに膨大に膨れ上がっていました。禁止命令が365か条、そして248か条の命令事項からなっている613にも及ぶ規定にまで発展していました。今朝、読んでいただいた旧約聖書はモーセの十戒のはじめの部分ですが、このモーセの十戒の頃は、まだ10の戒めだけだったわけです。これが、時を経るに従って、色々な分野にまで規定が細かく別れていったのでしょう。しかしながら、このようなものは、実際には、経済的なゆとりがあり、あるいは、時間的なゆとりのある人でなければ、守れなかったようです。貧しく、忙しい人というのは、細かい規定の隅々まで守っているようなゆとりはなかったのでしょう。そういうわけで、金持ち以外は律法を守れないゆえに、神の国に入れないという風に一般的に思われていたというのです。杜会の下層の人たちは、いわゆる罪人と同じように、神の国から遠いものと考えられていました。このような状況がユダヤ世界の中にあったわけです。

 あるユダヤ教の先生と弟子たちのやりとりが残されております。終末に関する話です。
ラビ、エリエゼノレは言った。『死ぬ1日前に悔い改めるがよい』彼の弟子は問うた。『人は、いつ死ぬか知り得ましょうか』彼は答えた。『一番よいことは、今日、悔い改めなさい。明目、死ぬかも知れないから。そして、悔い改めれば、その後も悔い改めの日々を過ごすことになるから。』
 またラビ、ベン・ヨカナン・ザッカイは一つのたとえ話を語った。
『王が臣下たちを晩餐に招いた。ところが彼は日時を知らせなかった。臣下の中の賢い者たちは、身をきれいにして宮殿の入り口に座っていた。なぜなら、彼らは王宮に何の不足物もないので、つまり、必要なものはすべて蔵にそろっているので、準備の時間を要しないと考えたからである。愚かな者たちは、自分の労働を継続していた。なぜならば、彼らは、準備なしに晩餐会が催されることはあるまいと考えていたからである。ところが王は、急に、臣下たちを招いた。そこで、賢い者たちは自分の身をきれいにして王の前にやってきた。ところが、愚かな者たちは汚れたままでやってきた。王は賢い者たちを喜び、愚かな者たちに対しては怒った。彼は、愚かな者たちを怒って言った。晩餐会のために身をきれいにしてきたものは席について飲み食いしなさい。他の者たちは、立ってみていなさい、と』。
 ラビ、マイヤーの義理の息子が、ラビ、マイヤーの名において語った。『そこでは、愚かな者たちは召使いのようであった。(王は、こう言った。)すべての者を座らせよ。しかし、清い者をして飲み食いさせ、汚れた者をして飢えしめ、渇かしめよ。』」

 このたとえ話は、キリストのたとえ話(大宴会のたとえ)に似ています。似ていますけれども、内容はずいぶん違っています。ユダヤ教のたとえ話では、問題の焦点は、招待された者が、身を清めて待っているかどうかにかかっています。つまり、律法を守っているかどうかということです。膨大に膨れ上がった律法の中心は、清浄規定だったと言われます。神にふさわしいものになるために身を清めよ、と言う規定です。ですから、終末において一番問題にされることは、神の国に入るにふさわしく身を清めているかどうか、と言うことです。身を清めて待っている者が賢い者であり、その者たちだけが神の国に入れるというわけです。ですから、このたとえもまた、あなた方も身を清めて待ちなさい、との教えになっています。

 ところが、どうでしょうか。キリストの語りかけは、違います。キリストが問題にされているのは、その日、自分の色々な事情を理由に「招きを断ること」です。それぞれに生活の事情があります。畑を買ったところなので見に行く人、妻を迎えたばかりだという人が出てきました。自分の事業のこと、家庭のこと、あれやこれやと生活上の事情があるのです。そのどれもが大事なものであるがゆえに、招きを断らざるを得ないもっともな理由となる。それで、キリストのご招待をお断りするということです。このことが、キリストのたとえの中では一番の問題にされています。

 しかし、これは非常に鮮烈な問いかけであります。今朝、私どもは生活の様々な事情をひとまず置いて、礼拝堂へと参りました。これは、神の招きによるものですから、私どもはいわば、神からのご招待をいただいてここに集っているものであると言えます。それぞれ、招待状をいただいたので、自分の生活の様々を置いて、ここに参じたというわけです。しかし、私どもはここに集えない者があることを知っておりますし、ここ長らく、ここに集おうとしない者があることも知っております。また私ども自身が、それなりの理由を述べてここに集わないということがあるかもしれません。様々な事情がありましょう。理由を考えれば納得せざるを得ない場合もあると私どもは考えている。それぞれなりの、確からしい理由があるからであります。しかし、生活上のあれやこれやの理由を一つ一つ考えて見ると、本当にこの生涯の中で最も重要な事柄を受け入れないほどの価値ある理由なのでしょうか。つまり、問題はこうなのです。私どもの心がどこにあるのか、ということです。畑を買ったばかりだとその事業に心を留め、妻を迎えたばかりだからと家庭のことに心を留めて、そうやって自分の問題を第一に考えていく私どもの心はどこにあるのでしょうか。私どもの心は、いつでも自分自身へと向かっていってしまうのであります。 心、ここにあらずです。あなたにも来て欲しい、あなたにも来て欲しい、そう言って招待状を準傭して下さっているキリストに対して、冷たくあっさりとお断りする心が私どもの中にあるのではないでしょうか。しかし考えて見ますならば、キリスト・イエスがこのご招待状を準備なさったのは、十字架へ向かいつつでありました。この招待状をよく見るならば、私どもは気づくはずであります。その文字がなんと真剣に記されていることか!あなたに、あなたたちにぜひ、この招待を受けてほしい、必ずここに来てほしいとの真剣なキリストの願いが、その文字に刻み込まれているではありませんか。そしてその封印は、キリストの血の滴りを思わせるではありませんか!

 私どもが主の日の礼拝に招かれる、ということはこの宴に招かれるということと同じです。私どもは終わりの日に、大宴会に招かれようとしています。私どもの手元にはすでに、この宴会へのご招待状が届いております。しかし、私どもはすでに、この大宴会を前にして、この生涯の中で何度ものキリストに招きを受けて、宴に集っている。それがこの礼拝であります。キリストが真剣に準備し、すべてを整えてここに私どもを招いておられるのであります。

 では、私どもは神の宴としての主の日の礼拝に、どの様にして招かれればよいのでありましょうか。この世の宴にも、パーティーの心得があるように、神の国の宴にも心得があるのでしょうか。ユダヤの宴には、身を清めて集わねばならないという掟がありました。しかし、私どもが招かれる宴には、身の清さについて全く問題とされていません。自分の身の汚れを恐れる必要はないのです。神の宴に出るには、私はまだふさわしくないから、神の国の門に入るにはわたしはまだ汚れているから、もう少しきちんとしてから招きにお答えしようなどと考える必要はありません。神の宴の受付係には、私どもの身の汚れをチェックする者はいないからであります。私どもの世の中が要求する身奇麗さは、ここでは問題ではありません。

 説教のはじめに、ルドルフ・ボーレンという方の話をいたしました。この方の書物が、私どもにとって重要であると言いました内容をすべてここでお話しすることはできません。しかし、今朝、私どもがぜひ心に刻み込みたいことがあります。それは、わたしどもがメランコリー、心の病の患者となるのは、何故かということなのであります。それは、私どもが「自分」から離れようとしないからなのです。私どもは、「自分」にこだわりすぎるからなのです。この身に染み込んでしまっている罪が気になって仕方がない。他者と比較しては、劣等感を持つ。あの人はあれもこれももっているのに、わたしには与えられないと嘆く。自分の無能さ、弱さに泣けてくる。私どもはそうやって自分のひどさ、醜さを心に抱えて半泣きの思いで生きるということになってしまうのです。その時に、私どもがしていることは「自分」を見つめ、「自分」を分析し、「自分」を何とか良いものにしようと努力するのです。しかし、ボーレン氏はこのことがまさに、心の病の症状であるといいます。そして、私どもに呼びかけるのです。「自分から離れて向きを変え、み言葉に向かうこと」「自分から方向をそらし、み言葉に向かい、自分を解放すること。」「心を晴れやかにしてくれるものに身を向けること。」だといいます。

 私どもはあまりにも「自分」にこだわり、「自分」に執着し、「自分はだめだ」「自分は罪人だ」「自分は醜い」といって嘆くことに明け暮れてしまいます。だから、その眼差しを自分からそらし、あなたの心を自分自身に向かうことから離して、その目を神の言葉へと向けていきなさいと促しているのです。ボーレン氏はそのための方法として、ハイデルベルク信仰問答などのカテキズムを暗記してしまうこと。心に刻み込んで、自分自身の言葉にしてしまうことの重要さを語っています。

 私どもが、キリストのご招待を受けるときも同じです。自分の生活、自分の汚れ、自分、自分といって心が自分に向かっていくとき、私どもはキリストの招きを断ってでも自分を立てていこうとするのです。しかし、神の国の宴は、あなたが身一つで、手土産を持たずに来ることを求めているのです。ただ神に目を向けて、神の救いの言葉にすがりつつこの招きにお答えすればよいのです。私どもは自分自身で自分を責める。神に対して申し訳ないから宴に出ないと言う。しかし、神はそのあなたに、何の功績がなくても、ただ恵みによって、あたかもあなたが、何の罪も犯したこともなく、またそれを持ったことさえなかったかのように見なしてくださいます。キリストが果たしてくださった、完全な服従を、完全に行ったものであるかのように、あなたがこれを信じて受けさえすれば、この贖いと義とをあなたのものとしてくださるのです。

 私どもは、気づいているでしょうか。キリストが送ってきてくださった招待状。それについてきた優待券のあることを。この優待券と引き換えに、私どもはもはや何の支払いをすることもなく、ただ信じてこれを手にし、神の国の宴に参加するものとなってよいのであります。

 はじめに、ハイデルベルク信仰問答は、人間の惨めさについて語ることからはじめていないということを申し上げました。唯一の慰めを語ることからはじめているのです。問いの1はこうでした。
「生きている時も、死ぬ時も、あなたの唯一つの慰めは、何ですか。」
この答えはこうです。
「わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります。」

 この慰めの言葉を、心に刻み込みましょう。私どもにささやく悪の言葉を、一切かなぐり捨てて、この言葉を心に掘り込もうではありませんか。

 私どもは今朝、そのキリストに招かれて礼拝に集うことができました。私どもはそれほどには真剣に招待状を読んでいなかったかも知れません。しかし、キリストは私どもを今朝も心待ちにして招いて下さったのです。わたしどもはいつでも、御言葉を聞いたとき、互いに手を携えて、共々に神の前に出向こうではありませんか。毎週、この宴に喜んで身一つで集ってこようではありませんか。そして、終わりの日、どんなことがあってもこの神の国の宴に、あれもこれも全部おいて、一同相集いたい。私どもの主、イエス・キリストと顔をあわせるその日、地上で共に礼拝した仲間と共にその宴にいるその時を私どもは夢見てよいのであります。

[2004年2月8日]

メッセージ へもどる。