富山鹿島町教会

礼拝説教

「決して渇かない水」
ヨハネによる福音書 第4章7〜26節

堀岡 満喜子先生


 今朝、私たちはそれぞれの生活を抱えながら、ここに集ってまいりました。初めて、教会に来られた方もあるかもしれません。今、道を求めて探しておられるという方もおありでしょう。しかしこのように、私たちが教会に共に集うことができ、聖書の言葉を聞くことができる。一人一人の生活の状況は、様々であります。私には今、ここから、お一人お一人の生活についてくわしく知ることはできません。しかし、人生の問題が、深く激しく一人の人を揺さぶり、なぎ倒そうとすることがあることを私もよく存じています。これでもか、これでもかと、一人の人を苦しめるに十分な問題がのしかかってくることがあります。今まさに、そのような問題に苦しんでいる方がおられるかもしれません。私たちは、このような人生問題を抱えると、何かを頼りにします。

 適切なアドバイスをしてくれる人はいないかと考えます。家族の助けを請います。友人を頼りにすることもあります。あるいは、まだ真の神を知らなかった時には日本の伝統的な神様を頼みにすることがあるでしょう。この神に働いてもらおうと考えて、普段以上のお賽銭をしたり、捧げものをしたりして何とか神様に喜んでもらって、ご利益を得ようと考えたりすることもあるかも知れません。占いや姓名判断に、すがるような思いで、人生を変えたいと考えることもあったでしょう。いや、結局は自分しか頼りにならないといって必死に知恵を絞ることもあったのではないでしょうか。

 人生の苦しい局面で、私たちは何かに頼って、それがたとえ自分自身であったとしても、何かを頼みとして、それを何とか乗り越えていこうとするものであります。けれども、私たちの正直な思いは、それが思いのほか、頼みにならないということではないでしょうか。自分にはこれがある。これさえあれば、これからもやっていけると言いきれるほどには、それが自分にとって本当の拠り所にはなっていないことに気づくのではないでしょうか。実のところ、私たちの先輩も先生も、家族も、友人も、占いも、そして、名高いご利益の神様さえも、はたまた、自分自身でさえ、本当の頼みになっていない、私を根底から支えてくれる拠り所になっていないということに、最後には私たちは思い至ってしまうのではないか。

 本当に、真実を見つめていくならば、私は結局、一人なのではないかと思い至るのであります。いや、自分自身でさえも結局、どれほどのものでもない。頼みにしていたものは、案外私について無関心であったということに気づかされるのです。あるいは、死別を含め、頼りにしていたものと、別れなければならなくなることもあります。裏切られ、ひどい決別を経験することもあります。親しいものであっても、最後のところで本当の助けにならないということを、自分自身についても周りの人々の中にも見るのです。

 あるいは、私たちが経験する最も厳しい問題の一つは、赦しの問題でありましょう。ゆるして貰わなければならない。自分の失態のために、自分の気の緩みのために、自分のふがいなさ、自分の問題のゆえに、このような事態を引き起こしてしまった。その時に、私たちは赦してもらわなければならないのです。けれども、本当に人に赦されることがあるでしょうか。実は、いつまでも、この私の失態を、人々は語り継いでいるのであります。この私のふがいなさを、この私の問題を、まるで剣山で刺すような心ない言葉で語り始め、私を痛めつけてくる。これが本当に、それまで頼みにしてきた仲間だったのだろうか。家族だったのだろうか。そう思えるほどに、心無く、無関心を装い、影で私を攻める言葉を語っているのです。被害妄想などではなく、真実に人間は、それほどにひどい悪口を平気で語るものであります。こう考えますと、私たちは、本当に赦されるということが、人間に赦されるということがあるのでしょうか。

 ここに今朝、共に集っておられる方々が、その生活の中でどのような状況を抱えておられるのか私には詳しく知ることはできません。しかし私には分かりませんけれども、今朝、私たちここに集う者を、その心の奥底までご存知の方があります。生活の状況を、あなたのことを、よく知っていてくださる方があります。私たちは、知られているのです。この私の生活、この私の心の奥深くに潜ませていることを、知っていてくださる方があります。そして、その問題と本気で向き合い、本当にそれを解決し、私たちを最も根底から支えてくださる方がおられるのです。その方がどなたであるのか、今朝は聖書の言葉を通して聞いてまいりたいと思います。

 時代は2000年ほど前のこと。サマリアという町でのことです。女性は毎日、井戸に水を汲みに行くのが仕事の一つでした。大きなカメを頭にのせて、水を汲んではそれを家に持ち帰ったのです。この日、一人の女性が井戸の水を汲みにやってきました。 時は、正午のことです。お昼、日が一番高く上っている暑いさなかです。他に、水を汲みに来ている人は、誰一人いません。彼女は、そのことを知っていて、この時をわざわざ選んで水を汲みに来たのです。正午に、この井戸に水を汲みに来る人はいないからです。井戸に女性たちが水汲みにやってくるのは、夕暮れ時か朝か、太陽が真上にない時です。お昼時には、この地方ではあまりにも日差しがきつく、これが、つらい仕事になってしまうからです。

 彼女は、そのことを承知して、わざわざこの時間に水汲みにやってきたのです。しかも、近所から水を汲みに来たわけではなかったようです。彼女の町は、このヤコブの井戸から1・5kmも離れたところにありました。頭に大きな水汲み用のかめをのせて、1・5kmの道のりを歩いてきたのです。彼女は、毎日それを繰り返していました。毎日、毎日、わざわざこの1・5kmを重いカメを頭にのせて歩いてくるのです。彼女の町に井戸がなかったわけではありません。彼女にも、涼しい時間帯に自分の町の井戸から水を汲もうと思えば、それも可能なことでした。けれども、彼女には、そうすることができなかったのであります。

 彼女には、抱えている問題があったからです。彼女は、5人の夫を持っていました。どのような理由からかは分かりませんが、次々に夫を変えたのであります。そして、今連れ添っている人は、夫ではありません。同棲している相手です。つまり、彼女は男性の問題について、非常にだらしなかったのであります。5人も夫をとりかえて、なおも真実の愛を見つけることができず、仮の夫と同棲している人間。人を愛そうとし、人に愛されたいと願いながら、果たすこともできず、男性遍歴の結果、愛することにも愛されることにも期待は失われ、身も心もぼろぼろになってしまった人間。真剣に愛し愛されることについては、もはや無資格、無能力と自他共に認めていた人間。このような女性でしたから、彼女を知る人たちの間では悪評がたっていたのです。ですから、彼女は他の女性たちが井戸に水汲みにくる時間を避け、これほどまでに遠い場所に水をわざわざ汲みに来ていたのです。毎日、彼女は人を避けて、自分に向けられる厳しく、突き刺すような目とその人々の言葉とを受けずにすむように、この道のりを日照りの中、歩き続けているわけであります。

 決して赦してはもらえない、これほどのふしだらな女を誰の目も結局、赦してはいないのであります。「あなたは、神の前であまりにもひどい。いや、今もなお、その過ちを重ね続けているではないか。あなたは、どれ一つまともな結婚をしたことがなく、その上、今現在、なお真実の結婚をすることができない」彼女を取り巻く人々の声が、彼女には十分に聞こえていたのでありましょう。自分は、決して赦されることはない。ここに日陰者の孤独があり、村の共同体から疎外された者の姿があります。彼女は、心を頑なにして自分の生活に閉じこもっていかざるを得なかったのです。どこかで開き直るようにして、自分を愛し、自分の生活にのみ心を向けていくのです。

 彼女の姿は、まさに私どもの現実なのではないでしょうか。拠り所のない私。日常はなんとか取り繕って生きているけれども、結局、最後の砦のない私。赦されていない私。私どもの現実は、その心の中では、彼女に少なからず重なるところがあるのではないでしょうか。わたしどももまた、何とか開き直るようにして、自分の生活にのみ心を向けていくのではないか。

 彼女は、この日も、いつものように、カメを頭にのせて、ヤコブの井戸に水を汲みにやってきました。長い道のりを歩き、ようやく井戸についた時、いつもと違う風景がそこにはありました。一人のユダヤ人の男性が座っているのです。誰もいないはずの井戸に、人がいる。しかも、ユダヤ人の男性であります。

 この頃、ユダヤ人と、サマリア人とは非常な敵意を抱いていました。この時代をはるかに遡りまして、もともとサマリア人もユダヤ人も一つの民でした。ところが、他の国に占領される中で、サマリア人は混血民族となりました。またその時に、他の国の宗教がサマリアに入り込んできました。そういう中で、サマリア人は混血民族となり、宗教的にも問題があるとして、ユダヤ人はサマリア人を軽蔑するようになりました。また、その後も色々な出来事がありまして、サマリア人とユダヤ人との関係は最悪なものとなり、この時代には、凄まじい敵意を互いに抱くようになっていました。ユダヤ人は、万が一でもサマリア人が自分たちの神殿の立つ町エルサレムに入って来ようものなら、石を投げて追い返したと言います。ですから、同じ器に唇をつけることは絶対にあり得なかったし、互いに親切にするようなことはなかったのです。

 このようなサマリアの井戸にユダヤ人の男性が座っているということは、大変、奇妙なことでした。ユダヤ人はサマリアを避けて通りませんでしたし、ましてこんな昼間に一体、何をしているというのでしょうか。

 彼女は、そ知らぬ顔をして水を汲み始めようとしていました。しかし、その手の動きを止めるかのように、この男性は言葉をかけました。「水を飲ませてください」  彼女はいぶかしげにその言葉に、問い返します。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私に、どうして水を飲ませて欲しいと頼むのですか。」彼女にとって水を汲んであげること自体は何でもないことでした。けれども、彼の頼みは疑いたくなるほど奇妙なものに思えたのです。なぜなら、彼女に井戸の水を汲んでもらい、その水を飲むということは、彼女のもってきた器を使うことを意味していたからです。ユダヤ人とサマリア人とは決して、そのような交際の仕方をしませんでした。

 このサマリアの女性は、その日常の生活の中で共同体から閉め出され、悪口と軽蔑のまなざしとを受け続けていました。自分の存在が人々の目に軽蔑されている。しかも、それは自分自身の失態と不甲斐なさの故でありました。彼女は、日常的に自分を情けないものとして、軽んじられる屈辱にさらされていたのです。彼女の周囲の人たちも、彼女の使っている器から水を飲むことはなかったでしょう。まして、ユダヤ人との間には、立ちふさがる「敵意」という大きな壁があり、ユダヤ人はサマリア人に対して非常に差別的であり、決して交際しようとしないはずなのです。ですから彼の願い出は、すんなり聞けるものではありませんでした。彼女の心は、彼を疑う以外に道を知りません。「水を飲ませてください」と言って彼女を"からかい"、その気になって彼女が水を汲んだあげくに、「こんな器で水が飲めるか」といってあざ笑うのではないか。そう考えるほうが、よっぽど筋が通ります。人の心無さを良く知っている女性です。慎重に相手を疑ってかかる、これが彼女の鉄則であったに違いありません。

 しかし「水を飲ませてください」そう言って彼女に願い出たこのユダヤ人の男性こそは、主イエス・キリストでした。旅の疲れで、この井戸の場所で休んでおられたのです。弟子たちが、食べ物を買いに出かけている間、お一人でここに座っておられた。そこに、サマリアの女性がやってきたのです。主イエスは、単純にのどの渇きから、この言葉を言われたのでしょう。世間では決して食卓を共にすることはない罪人や売春婦とも食事を共にし、彼らを受け入れられた主イエスにとって、サマリアの女性もまた一人の人でありました。主イエスにとって、のどの渇きを癒すため、この言葉で彼女に願うことは、ごく自然なことでした。彼女がサマリア人であることは、主イエスにとって彼女との関係をさえぎる壁にはなり得ません。主には、彼女は"水を汲んでもらいたい"、"水を飲ませてもらいたい"、そう願ってよい一人の人であったのです。ところが、周囲の人にとってはそれが奇妙に写るのです。サマリアの女性自身が、この言葉をどう理解してよいのか分からないというわけです。

 主イエスは続けて語られます。「もしあなたが、神の賜物を知っており、『水を飲ませてください』と言ったのが誰であるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」

 主イエスは、ご自分ののどの渇きより、はるかにひどい渇きを彼女が抱えていることをすでにご存知でした。彼女は「生きた水」を飲むことなく、渇ききっている。この彼女の生活をご存知で、彼女に呼びかけておられるのです。あなたが求めたとすれば、頼んだとすれば、私はあなたに「生きた水」を与えることができると語りかけておられるのです。主イエスは、彼女に願って言われました。「水を飲ませて欲しい」主イエスにとって彼女は、水を汲んで飲ませて欲しい一人の人間であり、また「生きた水」を汲んで飲ませたいと願っている相手なのであります。

 しかし彼女はこの言葉を誤解して、言います。「主よ、あなたは汲む物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。」

 彼女にとって、主イエスは依然、ユダヤ人の一人の男性に過ぎません。彼に一体、何ができると言うのだろうと彼女は考えています。道具一つ持たないで、この私に何をしてくれるというのだろうか。どこから、私に水を汲んできてくれると言うのか。男性の扱いにはそれなりに慣れている女性です。彼女は世間話でもするかのように、上手く話しを交わしながら、軽く笑顔で会話をつないでいるかのようです。彼女にとっては、この男性は、水汲みに来た女性とただ言葉を交わして面白がっている人にすぎません。サマリア人の女性を"からかい"、本当は飲むつもりもない水を汲むように求めて吐き出すに違いない。彼女の疑いは尽きることがありません。これ以上、人の言葉や行動に傷つくわけにはいかない、彼女はその痛みを恐れて自分を守ろうとしているのでしょう。

 主イエスは硬く閉ざされている彼女の心が、開かれるように再び語りかけられます。「この水を飲むものは誰でもまた渇く。しかし、私が与える水を飲むものは決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で、泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」  主イエスが彼女に差し出そうとしておられる水は、借り物の水ではありません。彼女に与えられる水です。彼女のものになる水です。無くなってしまったり、少なくなってしまったりしない、完全に彼女に与えられ、泉のように次から次から湧き出でてくる水です。これは、彼女の人生と関係のある命の水、永遠の命の水であると主は言われます。 ここで主が、真剣にこの言葉を語っておられるとすれば、これは私たちの人生にとっても決定的なことを言っておられるのです。

 主イエス・キリストが彼女に、また私たちに差し出してくださっている水。これは、主イエスが命をかけて汲んでくださった水であります。

 私たち人間は、この私も含めてあまりにも身勝手であり、自分については色々と権利を主張するのに、あまりにも他人について無関心であり、損得でものを考え、悪口と不正に満ちており、誠実であるよりは不真実であり、謙虚と言うよりも傲慢であり、熱心と言うよりも怠惰であり、情欲にとらわれ、酒に酔いしれ、お金のこと、自分の生活のことにはいやに執着し、結局は自分が世界の中心であるかのように、世界の王であるかのように自分を中心にすべてを考えてしまう。自分で自分を律し、コントロールすることすらできない。熱心に自分のためには心を砕く。それが、駄目になると急に自分を捨てて自暴自棄になる。多くの失態の責任を親しい者に押し付け、必要以上に他者を悪く評価し、どこまでも醜い姿をさらすのであります。このような私たちの在りようは、神の前で決して赦されるようなものではありません。

 私たちをお造りになった神は、このような姿へと落ち込んでいってしまった私たちを大変な怒りと悲しみをもってご覧になりました。「あなたは、一体どこに行ってしまったのか」と神は私たちに問うておられます。このような不愉快な罪を抱える者として、神は人間をお造りにはなりませんでした。神との関係の中で、人との関係の中でもっと豊かな命を生きることのできる者として神は人をお造りになったのであります。けれども、私たちといえば、このざまです。神は激しい悲しみと怒りとをお持ちになり、このような者は滅びる以外にないと死を宣言されたのであります。私たちのこのような罪は、死ぬことを持ってしか償えないと言われたのであります。つまり、私たちのこの罪に対する判決は、死刑なのであります。

 しかし、神は、激しい怒りを一方で抱えながら、ご自分のお造りになったこの世界を、また私たち人間を、あなた自身を、深く愛してやまないとおっしゃってくださったのです。この罪深い、本当にどこまでも落ちてしまった私ども、死刑の判決を受けるような私ども、この私どもを神は、失うわけにはいかないとおっしゃってくださったのです。そこで、神はご自身でこの罪を肩代わりし、ご自身でこの罪の贖いを引き受けてくださったのであります。これが、主イエスキリストの十字架の死です。ですから、キリストの十字架というのは、私たちが自分の負わねばならなかった罪の償いの身代わりであります。あの十字架のゆえに、私たちは罪赦され、釈放されたのであります。洗礼を受けた私たちは、自分自身で償うことのできなかった罪を、キリストに贖っていただいたのであります。それゆえに、キリストという真っ白い衣を着せていただいて、私たちは神の御前に進み出ることができるのです。

 主イエスキリストが十字架において命をかけて汲んでくださった水。この水を、主イエスは、彼女に差し出そうとしておられるのです。あなたのために、私が水を汲むから、あなたはこの水を飲みなさい。この水を飲んで欲しい、主イエスがこの一人の人を失わないために汲んでくださった水を差し出してくださっているのです。私たちは、今日ここで洗礼を受けたということは、実にこの差し出していただいた水を受けたということであると感謝したいと思います。

 彼女は、しかし、未だに的を外した話をしております。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」

 彼女の関心事は、相変わらず自分の生活のことです。自分がここに毎日来なければならない。彼女自身が蒔いてしまった種ではありましたけれども、彼女は1.5kmの道のりをカンカン照りの中、歩いてこなければならない。このつらい仕事から、解放してくれるというのなら、その水をくださいというのです。そんな不思議な水があるとも思えないけれども、もしあると言うなら、どうぞください。この仕事は何かと大変ですから、と言っているのです。主イエスの命がけの水を受ける者の考えることとしては、あまりにも的を外していると言わなければならないでしょう。

 主イエスは、しかし、彼女がその状態に留まったままで放置されはしませんでした。さらに言葉を重ねて語りかけられます。「あなたの夫をここに呼んできなさい」

 この言葉は彼女の心をぐさりと刺し貫く力があったでしょう。彼女の心は一瞬にして、凍ってしまったのではないか。一番触れられては困る、彼女の人生問題の最も繊細な部分に入ってこられたのであります。彼女のそれまでの、どこか気楽な応答、主イエスの言葉に対してさほど真剣ではなかった彼女の対応が、ここで凍りつくのです。

 「私には夫はいません」彼女はうそは語りませんでしたが、多くのことを自分の後ろに隠したままに答えました。主イエスは重ねて言われます。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには5人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ」

 ここで、主イエスは彼女にとっての最も弱い部分、押し隠している部分、彼女を最も弱らせ、萎えさせ、渇かせている問題に真っ向から向き合われます。ここにいるのは、言葉通り二人だけです。主イエスとサマリアの女性、二人が差し向かいになって、まるで将棋の盤をはさんで向き合うかのように真剣に、向き合っておられるのです。彼女のどこかふざけた、お気楽な姿勢はもはやここでは通用しません。彼女の醜悪な姿、罪の姿がここに暴かれてしまったのです。彼女は、できるならば放っておいていただきたいと思っていたでしょう。そっとしておいて欲しい。しかし、主イエスは揺るがず、彼女の最大の問題に触れてこられたのです。しかし彼女を問い詰め、追い詰め、まるで将棋の勝負に勝つために迫っておられるのではありません。彼女を打ち負かして、裁こうとしておられるのではありません。主イエスがあえて彼女に迫ってこられるのは、彼女が、自らの本当の姿、本当の生活を隠蔽したままでは、主イエスとの本当の出会いは起こらないからであります。彼女が「永遠の命に至る湧き出てやまない水」を飲むために、どうしてもこの問題を抜きにはできないからであります。彼女が、悔い改めて、彼女の問題の一番奥深いところにまで染み入る水を飲むことができるためにです。

 彼女は、その後、主イエスが自分の生活の一番恥ずかしい、一番知られたくない、一度知られてしまえば、さげすまれてしまう最も弱いところを知っておられたことに、そして、そのことを責めようともせず、自分と向き合って語っておられるそのお姿に非常に驚きます。そして、この方は本当にこの私を救ってくださる方なのではないかと考えるようになっていくのです。

 主イエスキリストは、ここにいる私どもにも、今朝、語りかけてくださいます。「この水を飲みなさい。私が命をかけて汲んだ永遠の命に至る泉をあなたに与えよう。」主イエスは、わたしども一人一人の前に立ち、その水を傾けて私どもに注ごうとしてくださるのです。

 私どもは、サマリアの女性のように主イエスが何をして下さろうとしておられるのか、はじめはよく分からないかもしれません。けれども、私たちの人生の最も厳しい問題を、私たちを萎えさせ、渇ききらせるその問題を、誰よりも本気で知っていてくださるのです。そして、その問題を他の誰もが軽んじ、無関心を装う中で、主イエスキリストがあなたの渇きを癒すために、あなたを生き返らせるために、命をかけて、命の水を汲んでくださったのであります。

 今朝、主イエスは、あなたの前に立ち、他の人ではないあなたに、それはまるでサマリアの女性と差し向かいで語りかけてくださったように、言葉をかけてくださいます。私の汲んだ水を飲みなさい。もはや決して渇くことがないように、あなたのためのこの水を飲みなさい。この水は、あなたのために私が血の滴る思いで汲んだ水なのだから、とおっしゃってくださいます。

 主イエスは今は「礼拝の時」であるとおっしゃいます。私たちは礼拝者となり、今、生活しています。私たちの心奥深くに秘めている問題を、主イエスだけはよくご存知であられます。そして、その問題の深奥においてこそ、あなたと出会おうとしてくださるのです。この礼拝の中で、主が私たちと出会ってくださるのであります。ですから、私たちは自分の抱える一番厳しい問題を主のみ前に差し出し、祈ってよいのであります。主が命がけで汲んでくださった永遠の水が、今、あなたにも傾けられ注がれているからです。共に祈りましょう。

[2004年1月11日]

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