富山鹿島町教会

礼拝説教

「十字架の周りの人々」
詩編 第22編1〜32節
マタイによる福音書 第27章27〜44節

十字架の周りの人々
 主イエスは、ローマ帝国のユダヤ総督ピラトによって死刑の判決を受け、十字架につけられるために兵卒たちに引き渡されました。礼拝においてマタイによる福音書を連続して読んできましたが、本日の箇所は、主イエスが死刑の判決を受けてから、十字架につけられるまでを語っています。この間、主イエスは一言もお語りになっておられません。終始、沈黙しておられます。黙って、人々に身を委ね、そのなすがままにされているのです。その主イエスの沈黙によって、主イエスの周りの人々の姿が浮き彫りになっています。マタイがここで語っているのは、主イエスのことというよりも、主イエスを十字架につけた人々のことです。主イエスの十字架の周囲にうごめいている人々の姿を語ることによって、十字架の主イエスのお姿を描いているのです。

兵士たちの残虐な喜び
 本日のところにまず最初に出てくるのは、総督の兵士たちです。十字架の死刑が確定した死刑囚は、兵士たちに引き渡され、刑が執行されるのです。しかし彼らはその前に、引き渡された囚人を徹底的に痛めつけました。もう死刑が決まった、どうせ殺される犯罪人には、何をしてもよい、というのでしょう。そういう相手を、この時とばかりに徹底的にいたぶり、苦しめて楽しんだのです。私たち人間は、人をいじめ、苦しめることに喜びを感じる残虐な心を持っています。それはこの兵士たちだけのことではないでしょう。彼らが特に残虐な人々だったとは言えないと思います。彼らだって、家に帰れば愛する妻も子があり、友人たちと楽しい時を過ごすこともあったでしょう。そういう普通の人間なのです。しかし一旦このような立場と機会を得ると、普段は隠していたというか、本人も気付かなかったような残虐さが顔を出し、また自分一人ではないという集団心理も働いて、とんでもなく残酷なことをしてしまう。それは日本人も朝鮮や中国や東南アジアでしてきたことだし、どの民族にもそういうことはあるのです。主イエスを徹底的にいたぶった兵士たちの姿は、私たち自身の中にある一つの面の現れであって、私たちはそこに自分自身の姿を見つめなければならないでしょう。

「ユダヤ人の王、万歳」
 十字架につけられる死刑囚を痛めつけることはいつでもなされていたようですが、主イエスに対してなされたいたぶりは特別です。彼らは部隊の全員をイエスの周りに集め、着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、茨の冠を頭に載せ、葦の棒を持たせてイエスの前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と叫んだのです。赤い外套はローマの兵士のマントでしょう。それを着せたというのは、王様の着る紫の衣に見立ててのことです。茨の冠は王冠の代わり、葦の棒は王錫の代わりで、主イエスを王様に見立てて、その前にひざまずいて「万歳」と叫ぶことで嘲っているのです。これは主イエスがご自分を「ユダヤ人の王」と名乗っているというかどで裁かれ、有罪とされたことを受けています。「お前は自分がユダや人の王だと言っているそうだな、それなら王として扱ってやろう」ということです。これは、その人が最も大事にしていること、誇りやプライドとしていることをとらえて、それでその人を嘲り侮辱するという、最も悪質な精神的いじめです。いじめというのはこういうものでしょう。私たちは、相手が一番いやがること、苦しむことは何かを見つけだすことにおいて、まことに鋭い感覚を持っています。ここを突けば、これを言えば相手が一番苦しむ、まさにそこを狙おうとするのです。人間の残酷さはそこにあります。そのことも、身に覚えのない人はいないでしょう。「ユダヤ人の王、万歳」と主イエスを侮辱した兵士たちの醜く歪んだ表情は、私たちの顔にもしばしば現れるのです。そしてこの精神的いじめはそれだけでは終わりません。今度は唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げてそれで頭をなぐり続けたのです。そのようにさんざん痛めつけられた挙げ句、主イエスは十字架を背負わされて、死刑場であるゴルゴタの丘まで引いていかれたのです。

キレネ人シモン
 総督の官邸からゴルゴタまで、主イエスが十字架を背負って歩まれたそのお姿を想像すると、私たちは心震える思いになります。ただ、よく映画でいわゆる十字架を担いで歩いていくシーンがありますが、実際には、死刑囚が担がされたのは十字架の横木だけだったらしいのです。十字架全体を担いでいくことは物理的にも無理でしょう。しかしむしろ大事なことは、その横木だけを担いでいく力も、既に主イエスには残っていなかったということです。兵士たちから受けた物理的、精神的暴力によって、主イエスは弱り果てていたのです。それで、途中でその十字架を替わって担がされた人がいたことが32節以下に語られています。それはシモンという名のキレネ人でした。兵士たちがたまたま彼に目を留め、主イエスの十字架を担いでいくように命令したのです。彼は、主イエスとは何の関わりもなかった、たまたまこの時エルサレムに、おそらくは巡礼のために来ており、たまたま主イエスがゴルゴタへと引かれて行くのに出くわしたのです。しかしこのように兵士たちに無理強いされて十字架を担がされたことによって、彼の人生に、主イエスとの関わりが生じました。「シモンというキレネ人」という名前が知られています。マルコ福音書には「アレクサンドロとルポスの父」と、二人の息子の名前まで記されています。それは、後に福音書が書かれ、読まれた教会において、彼や息子たちのことが信仰の仲間として知られていたことを示していると考えてよいでしょう。主イエスと全く関わりのなかったシモンは、十字架を無理に担がされ、主イエスと共にゴルゴタまで歩かされるという体験を通して、主イエスを信じる者とされていったのです。死刑囚の担ぐべき十字架を担がされて一緒に歩かされるというのは、屈辱の体験です。沿道の人々の嘲りを自分も共に受けてしまうのです。ローマの兵士に逆らえば何をされるかわかりませんから、仕方なく従うとしても、事が終わればさっさと立ち去り、もう二度と思い出したくない、そういう体験だと言えるでしょう。それなのに何故彼は、その後も主イエスとの、その十字架との関わりを持ち続けたのでしょうか。そのことは後で考えたいと思います。

十字架の下でくじを引く
 ゴルゴタの丘に着くと、主イエスの手と足は太い釘で十字架に打ちつけられ、その十字架が立てられます。手足の痛みと出血によってじわじわと死んでいくのを待つという十字架の死刑は、最も残酷な処刑の方法だと言われます。主イエスが苦しんでいるその十字架の下では、兵士たちが、主イエスからはぎ取った服を誰のものにするか、くじを引いていたとあります。死刑囚からはぎ取ったものは彼らの役得となったのでしょう。主イエスがそんなに高価な服を着ていたはずはありませんから、それを売っても大した金にはならないはずです。主イエスが十字架の上で苦しんでおられるのに、そんなことには目もくれず、ささいな欲望に血眼になっている人間の姿、それもまた私たちの姿なのではないでしょうか。

共に十字架につけられた強盗たち
 さらに、主イエスの十字架の周りには様々な人々がうごめいています。「イエスと一緒に十字架につけられた二人の強盗」もいます。「そこを通りかかった人々」もいます。祭司長たち、律法学者たち、長老たちもいます。そして彼らが皆そろって、主イエスをののしったことをマタイ福音書は語っています。ルカ福音書では、一緒に十字架につけられた二人の内の一人は主イエスをののしったが、もう一人はそれをたしなめ、「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願ったこと、主イエスが彼に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われたことが語られていますが、マタイはそれを語らず、「一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった」と言っています。主イエスは、一緒に十字架につけられた者たちからすらもののしられたのです。そのののしりの内容は、まず40節の「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」ということです。42、43節の「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」というのも内容は同じだと言えるでしょう。「他人を救ったのに自分は救えないのか。おまえが神の子なら、自分を救え、十字架から降りてみろ」というのです。

自分を救う
 この嘲り、罵りの根本にあるのは、「自分を救うことができない者が神の子、救い主であるはずはない」ということです。イエスは確かに多くの人の病を癒したり、時には死んだ人を生き返らせたりもした、しかし自分自身が十字架につけられて殺されることをどうすることもできないのでは、救い主とは言えないではないか、という思いがそこにはあります。救い主というのは、自分が苦しみにあったり、殺されたりすることがない、そういうことを防ぎ、避けることのできる力を持った者だ、そうであるからこそ、我々を苦しみから救うことができるし、死からも救うことができるのだ、という思いです。そういう力強い救い主を求める思いというのは、私たちの中にも抜きがたくあります。いやむしろ、私たちが求めている救い主というのは常にそういう力ある存在、自分を救うことができる存在なのではないでしょうか。しかし主イエス・キリストは、そういう私たちの思い、期待とは全く違う歩みをなさった方なのです。

荒れ野の誘惑
 そのことは、この十字架の場面において初めて明らかになったのではありません。主イエスが人々に教えを説いていかれるより前から、このことははっきりしていました。そのことが語られているのはこの福音書の第4章です。主イエスは伝道を始める前に、荒れ野で悪魔の誘惑を受けました。その誘惑の内容は、石をパンにしてみよ、神殿の屋根から飛び下りて見せよ、全世界の繁栄を手に入れるために、悪魔の前にひれ伏して拝め、ということでした。これらはいずれも、私たちにとっては誘惑にも何にもならないことです。神様の独り子であり、まことの神であられる主イエスだからこその誘惑です。つまり主イエスはこれらのことがお出来になる方なのです。最初の二つの誘惑は、人々をあっと言わせるような、誰も真似できないような力を示せということです。そういう力を示せば、人々は皆あなたを救い主と信じるようになる、という誘惑です。主イエスはそれを拒否なさいました。そのような、力強い救い主としての生き方を拒まれたのです。神殿の屋根から飛び下りても怪我一つしないというのは、神様の特別な守りの内にあり、何事によっても傷つけられたり死んだりしない力を持っているということです。それは十字架から事もなげに降りて来ることと同じです。つまり主イエスは、既にこの荒れ野の誘惑の場面において、「十字架から降りて自分を救う」救い主であることを放棄しておられたのです。第三の誘惑は、この世界の全体を自分のものとして支配する力、権力を得よ、という誘惑です。そのためには、悪魔の前にひれ伏し、悪魔に仕えければなりません。この世の権力や物質的繁栄の背後には悪魔の力が働いているのです。しかし主イエスは、悪魔にひれ伏すことを拒否し、ただ神様のみを拝み、神様のみに仕えると宣言なさいました。それは、この世の権力、力、繁栄を求める道を選ばないということです。ここにも、力によって支配する救い主であることを放棄した主イエスのお姿があるのです。

主イエスを罵る者
 けれども、人々が主イエスに求めたのは、自分を救う力のある救い主でした。それは、そういう救い主ならば、自分の願っている救いを与えてくれると期待できるからです。しかし主イエスの歩みは、そのような願い、期待を満足させるものではありませんでした。人々の期待は裏切られたのです。そのことが、この罵りを生んでいるのです。だとすれば、私たちは、この主イエスを罵っている周囲の人々の中に、やはり自分自身の姿を見なければならないのではないでしょうか。私たちも主イエスに、自分を救うことができる、力ある救い主を期待しているのです。もっとはっきり言えば、自分の願っている救いを与えてくれる救い主を期待しているのです。自分が、こうなって欲しい、これが救いだと思い、願っている、そのことを、何でもできる力で叶えてくれる救い主、私たちが主イエスに求めているのは結局そういうことなのではないでしょうか。しかし主イエスの与えて下さる救いはそういうものではありません。そういう期待は裏切られるのです。その時私たちは、「なんだ、イエス・キリストも大して役に立たないじゃないか」と思う、それは十字架の主イエスに、「自分を救うこともできないのか、それでも救い主か」と罵りの言葉を浴びせている人々と同じことをしているのです。

私たちの救い主
 主イエスは、兵士たちの残酷な楽しみのために痛めつけられ、十字架の横木を負って歩くこともできないほどに憔悴し、衣服をもはぎ取られて十字架に釘づけられ、そして周囲の全ての人々から罵られています。その全てのことを、黙って、受けておられるのです。この無言の、痛ましい、悲惨な十字架のお姿に、主イエスがどのような救い主であられるのかが示されています。主イエスは、これらの苦しみ、侮辱、罵りを引き受けて下さる救い主なのです。力によって逆らう者を打ち滅ぼし、人々の尊敬と信頼を勝ち取って自らの道を切り開いていくという救い主なのではなくて、自分を苦しめ、痛めつけ、侮辱し、罵る人々に黙って身を委ね、その苦しみと侮辱と罵りをひたすら受けるという救い主であられるのです。そんな救い主があるか、それはただ弱いだけではないか、と私たちは思います。しかしそれは違うのです。これがもし私たちならば、それは確かに弱いだけ、何もできないだけということになるでしょう。しかし主イエスはそうではありません。主イエスは、神様の独り子であられ、まことの神としての力を持っておられる方なのです。悪魔のあのような誘惑が誘惑として成り立つ方なのです。主イエスはその力によって、神様のみ言葉を語り、多くの人の病を癒してこられました。大祭司の下での裁判においても、ポンテオ・ピラトのもとでの裁判においても、恐れることなく堂々と、むしろ逆に彼らに問うていかれたのです。その主イエスが、黙ってこれらの苦しみと侮辱と罵りを受けておられる。それは、ご自分を苦しめ、嘲り、罵る者たちの罪とその結果を引き受けて下さるためです。それを引き受け、そのために十字架の苦しみと死を身に受けることによって、その罪を赦して下さるためです。主イエスはそういう救い主であろうとしておられるのです。そのことによって、まさに今ご自分を痛めつけ、十字架につけ、嘲り罵っているその人々の罪を赦し、救おうとしておられるのです。力をもって十字架から降りて来る救い主であるならば、その救いにあずかるのは、今十字架の周りにいる、主イエスを苦しめ、嘲り、罵っている人々ではあり得ないでしょう。彼らは「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば信じてやろう」と言っていますが、そう言っているのは主イエスを十字架につけた祭司長、律法学者、長老たちなのですから、もしも主イエスが力をもって十字架から降りてきたなら、彼らはその力によって真っ先に討ち滅ぼされるべき者たちです。そして主イエスの救いは、十字架の周りにいる彼らではなく、ちゃんと主イエスを信じ、主イエスに仕えている別の人々、彼らのような罪人ではない、立派な信仰者たちにこそ与えられていくことになるのです。しかし主イエスはそうではなく、十字架の周りの彼らによる苦しみ、嘲り、罵りを全て引き受けることによって、ご自分を苦しめ、嘲り、罵っている彼らをこそ赦し、救おうとしておられるのです。そしてそれは、私たちを赦し、救って下さるということです。主イエスを苦しめ十字架につけた兵士たちの中にも、また主イエスを嘲り罵っている人々の中にも、私たち自身がいる、ということを見てきました。彼らの罪とその結果を引き受け、赦して下さる恵みは私たちにも注がれているのです。もしも主イエスが力をもって十字架から降りて来る救い主であるなら、その救いにあずかるのは、ちゃんと主イエスを信じ、主イエスに仕えている人々、立派な信仰者たちだと申しました。私たちはそういう者でしょうか。十字架の周りにうごめいている罪人たちとは違って、私たちはちゃんと主イエスを信じ、従い、立派な信仰者として生きていると言えるのでしょうか。弟子たちですらこの時、主イエスのもとを逃げ去り、誰も従ってはいなかったのです。主イエスが、力をもって十字架から降りて来る救い主であるなら、弟子たちも含めて、誰もその救いにあずかることなどできないのです。しかし主イエスはこのように、十字架の苦しみと死を引き受けて下さいました。ご自分を苦しめ、十字架につけ、嘲り罵る者たちの罪の赦しのために死んで下さったのです。だからこそ、私たちも主イエスの救いにあずかることができるのです。

シモンの信仰の始まり
 先程、キレネ人シモンのことに触れて、主イエスの十字架を無理に担がされるという屈辱の体験を通して彼が主イエスを信じる者となっていったのは何故だろうかという問いを投げかけておきました。シモンはまさに無理やり屈辱を味わわされたのです。普通ならそれは一刻も早く忘れ去りたいことです。しかし彼が体験したのは、主イエスが受けておられる屈辱でした。主イエスの受けている苦しみと侮辱と罵りを、主イエスと共に味わったのです。そのことによって、彼の中で何かが変わったのではないでしょうか。彼もまたそれまでは、自分の願いを叶えてくれる力のある救い主を求めていました。自分の十字架すら担ぐことができないような弱い者が、いやそもそも十字架につけられてしまうような者が救い主だなどとは到底考えられなかったのです。 その彼が、主イエスの十字架を担い、共に歩む体験によって、主イエス・キリストに、今まで彼が知っていたこととは違う何かを感じたのではないでしょうか。その何かとは、力によって敵対する罪人を打ち滅ぼすのではなく、ひたすら苦しみと屈辱、罵りを引き受けることによって、敵対する罪人をも赦す恵みです。それは弱さではありません。誰よりも強い神の力が、苦しみと侮辱を自らの上に引き受けることによって、罪に、憎しみに打ち勝っていくという奇跡です。そして彼は、十字架の苦しみと屈辱をひたすら黙って引き受けておられるこの主イエスに、自分自身をも救う何かを感じ取ったのではないでしょうか。彼がそれらのことをはっきりと意識し、主イエスを救い主と告白する信仰を与えられたのは、主の復活の後のことでしょう。しかし既にこの時彼は、苦しみと侮辱を受けている主イエスに、何かを感じ取り、主イエスから目を離すことができなくなっていたのです。苦しみと嘲りと罵りを受けているこの方のお姿には、自分にとってかけがえのない何かがある、その何かを見極めたい、という思いを与えられたのです。それがシモンの信仰の始まりでした。

十字架を無理に負わされたシモン
 主イエスの十字架の周りの人々が皆、主イエスを苦しめ、罵っている中で、このシモンだけは、信仰への道を歩んだのです。そういう意味でこのシモンは私たちの模範でありひな型です。そう考える時に、このシモンが、望んだわけでもないのに無理やりに主イエスの十字架を担がされたことに深い意味があることを感じさせられます。主イエスの十字架を背負って従っていくことが、弟子たる者、信仰者の生活です。しかし私たちは、主イエスの十字架を、自分から望んで背負うことはあまりないでしょう。それは、いろいろなことを通して、無理やりに背負わされてしまうものです。背負わずにはおれないはめになってしまうとか、気が付いてみたら背負わされていたとか、とにかく自分の意志とは別に、キリストの十字架を背負って生きる者とされるのです。そこに、神様の大きな恵みと導きがあります。そのようにキリストの十字架を背負わされて仕方なく歩んで行く中で、私たちは、そこにある神様の恵みを知らされて行くのです。苦しい重荷でしかないと思っていたキリストの十字架が、実は私たちの救いの源なのだということを示されていくのです。キリストの十字架を背負って歩むことは、苦しみであり、屈辱です。主イエスの受けた侮辱や罵りを私たちも共に受けることにもなるのです。しかしそのことを通して、シモンがそうであったように、私たちも変えられていきます。敵を打ち破る力によってではなく、私たちの罪とその結果を引受けることによって赦して下さる、まことの救い主との出会いがそこに与えられていくのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2003年8月3日]

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