富山鹿島町教会

礼拝説教

「主イエスの十字架によって」
イザヤ書 第53章1〜12節
マタイによる福音書 第27章11〜26節

ピラトによる裁判
 ローマ帝国のユダヤ総督、ポンテオ・ピラトのもとで、主イエス・キリストの裁判が行われました。主イエスを神を冒涜する者として死刑に処せられるべきと断定したユダヤ人の最高法院が、ローマの総督ピラトに主イエスの身柄を引き渡したのです。それは先週も申しましたように、彼らには当時、人を死刑に処する権限がなかったからです。自分たちが有罪と決めた主イエスを死刑にしてもらうために、ローマの総督ピラトに引き渡し、その裁判を求めたのです。こうして、主イエスの裁判は、ユダヤ人の最高法院と、ローマの総督ピラトの両者によって行われることになりました。
 ピラトがこの裁判の場で主イエスに問うたことは、「お前がユダヤ人の王なのか」ということでした。ピラトにとっては、最高法院で大祭司が問うた、「お前は神の子、メシアなのか」ということはどうでもよいことです。ローマの総督である彼は、そういうユダヤ人たちの信仰の問題に首をつっこむつもりはないのです。主イエスが「自分は神の子、メシアである」と言ったとしても、それで主イエスを有罪とし、死刑にする気はないのです。彼の唯一の感心は、この地の治安を維持し、ローマの支配への反逆の芽を早いうちに摘み取ることです。それゆえにピラトにとって主イエスが有罪か無罪かは、ローマの支配を認め従うか、それに反抗するかによるのです。それを確かめるための問いが、「お前がユダヤ人の王なのか」でした。王とは、政治的、軍事的な支配者です。主イエスが自分をユダヤ人の王と主張するなら、それはユダヤ人に対するローマの支配を否定し、自分が代わって王になると宣言することであって、それはローマの総督にとって罰すべき罪なのです。
 主イエスはこの問いに対して、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになりました。この答えは、肯定でも否定でもありません。むしろ、問いを相手に投げ返すような答えです。最高法院での裁きにおいて、大祭司の、「お前は神の子、メシアなのか」という問いに対して、主イエスはこれと同じ答えをなさいました。私が神の子、メシア即ち救い主であるかどうかは、私が答えることではなくて、あなたが言うこと、つまりあなたが私を信じるかどうかという問題なのだ、と言われたのです。同じことを主イエスはピラトに対しても言っておられます。「わたしがユダヤ人の王であるかどうかは、あなたが言うこと、あなたが私を誰であると考えるかという問題なのだ」。そしてそのようにピラトに問いを投げ返した後は、祭司長や長老たちがどんなひどいことを言って訴えても、主イエスは一切口を開かず、ピラトが非常に不思議に思うほどに沈黙を貫かれたのです。

裁く者と裁かれる者
 ユダヤ人の最高法院と、ローマの総督ピラトのもとで行われたこの二つの裁判において、被告であられた主イエスのお姿に共通して際立っているのは、不利な訴えや証言に対する徹底的な沈黙と、そして最も決定的な問いに対する「それはあなたが言っていることです」という答えです。主イエスは、ご自分に対する訴え、非難攻撃に対して、身を守るための、自分の潔白を証明するための何の働きかけもなさいません。自分を訴え、裁く者たちに身を委ねておられるのです。しかしただ黙ってされるがままになっているのではありません。一番大事な問題において、つまり、主イエスが神の子、メシアであるのか、ユダヤ人の王であるのか、ということにおいて、その問いを逆に彼ら裁く者たちに投げ返しておられる。つまり、「あなたはどう思うのか」と主イエスから逆に問いかけておられるのです。この問いにおいて、裁く者と裁かれる者の立場が逆転しています。尋問していたはずの者が、逆に問われる者となっているのです。裁いている者が、逆に裁かれる者となっているのです。主イエス・キリストとの関わりにおいて、私たちにもこれと同じことが起こります。主イエスに問いかけ、あなたは本当に神なのか、私が信じ従っていくに足りる存在なのか、と評価、判断をしようとしている私たちが、逆に主イエスから、「あなたは私を信じるのか」と問われていることに気付くのです。主イエスは、私たちが値踏みして価値があるかどうかを決めるような存在なのではなくて、私たちに問いかけてこられる方、私たちを裁く権威を持った方なのだ、ということに気付くのです。そこに、主イエスへの興味や関心が「信仰」に変わって行く契機があります。この問いかけを受けて、「私はあなたを信じます」と答えることが信仰なのです。

ピラトの妻の夢
 ピラトは、主イエスからのそのような問いかけに気付いていません。しかし彼は、主イエスが、ローマの総督である自分が死刑にしなければならないような罪人ではない、ということを感じ取ったのです。だからピラトは主イエスを釈放しようと思いました。彼がそう思ったことにはもう一つの理由があります。それは、19節以下に語られている、彼の妻からの伝言でした。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました」と妻は伝えてきたのです。いったいピラトの妻はどんな夢を見たのでしょうか。こんな想像をしている人がいます。ピラトの妻は、多くの人々が集会所のような場所に集まってみんなで何かを唱えている夢を見た。何を唱えているのかとよく聞いていると、イエス・キリストという言葉と、そして夫の名前が語られている。「イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリアより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ…」。つまり「使徒信条」です。「ニカイア信条」でも同じです。ピラトの妻は、後の教会の人々が、礼拝において信仰告白を唱えている、その夢を見たのだというのです。そう言えば私たちも、礼拝において毎週、「ポンテオ・ピラト」の名前を口にしています。信仰告白に出て来る名前は、イエス・キリストを別にすれば、ペトロでもパウロでも、ルターでもカルウ゛ァンでもなく、このポンテオ・ピラトなのです。ピラトは自分の名前がこんなふうに全世界の人々によって毎週唱えられるようになるとは思わなかったでしょう。しかもそれは喜ばしい記憶として感謝されてのことではありません。「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ…」。そのピラトの名前のところに皆さんご自分の名前を入れて言ってみて下さい。それはまさに悪夢です。

二人のイエス
 この妻からの伝言もあってピラトは主イエスを釈放しようと努めます。ちょうど今、ユダヤ人の最大の祭りである過越祭が行われているところです。その祭りにおいて、ユダヤ人の囚人一人に恩赦を与えるということが慣例になっていました。征服者ローマから、被征服者であるユダヤ人のお祭りへのご祝儀です。ピラトはその恩赦の対象者リストに主イエスをあげることにしたのです。もう一人の対象者は、バラバ・イエスという人でした。前の口語訳聖書では単に「バラバ」となっていましたが、新共同訳から「バラバ・イエス」となりました。そういう写本があり、今日の研究ではそちらの方がよりオリジナルに近いと考えられているのです。イエスというのは、当時のユダヤ人の間でありふれた名前で、バラバと呼ばれていたこの囚人もイエスという名前だったことはあり得ることです。後の人が、「評判の囚人」だったバラバと主イエスとが同じ名前であることは相応しくないと思ってバラバから「イエス」という名前を外したのだと考えられます。その真偽のほどはともかく、「バラバ・イエス」と読んだ方が話ははるかに劇的になります。ピラトはユダヤ人たちに、二人のイエスの内のどちらかを選ぶように言ったのです。「評判の囚人」であったバラバ・イエスか、それともメシアといわれているイエスか、そのどちらを釈放してもらいたいのか。そこにはピラトの一つの目算がありました。18節にあるように彼は、祭司長や長老たちが主イエスを自分に引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたのです。主イエスがユダヤ民衆の心をつかみ、人気がある、そのことを、指導者である祭司や長老たちがねたんで、イエスを亡きものにしようとしているのだ、だから、民衆に選ばせれば、彼らはイエスを釈放するように求めるだろう、それがピラトの目算でした。

群衆の選択
 ところがその目算は見事に外れてしまいます。集まった群衆は、主イエスではなくバラバを釈放するように求め、主イエスは十字架につけろと要求したのです。つい数日前には、「ダビデの子にホサナ」と叫んで主イエスを喜び迎えたはずの群衆がなぜこのようになったのか、それははっきりしません。祭司長たちや長老たちがそのように説得したのだと語られていますが、彼らが民衆に対してそれほど説得力を持っていたとも思えません。結局、人々が期待していたメシア、救い主のあり方と、主イエスのお姿が違っていて、期待はずれだった、ということでしょう。バラバは「評判の囚人」だった。それは彼が単なる強盗の類いではなくて、武力でローマの支配と戦い、ユダヤ人の独立を勝ち取ろうとするテロリストだったという見方ができます。群衆は結局、このバラバの方を選んだのです。主イエスが説く神の国の福音、神様のご支配を告げ、その救いを待ち望む教えよりも、人間の直接的な力によって今の問題、苦しみ、社会の矛盾を解決していこうとする、そういうことの方が意味がある、そういう人の方が役に立つ、と思ったのです。群衆のそのような思いが、ピラトの、主イエスを釈放したいという願いを押しつぶしていきます。ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と多少の説得を試みますが、群衆はそんな言葉に耳を貸さず、ますます激しく「十字架につけろ」と叫び続けたのです。ピラトは、「それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て」、群衆の言う通りにすることを決断します。もともとピラトの願いは、ユダヤ人たちの間に騒ぎや暴動が起らずに治安が守られることです。主イエスが有罪か無罪か、死刑にすることが正しいことであるか否かよりも、そちらの方がピラトにとっては大事なのです。だから、それで民衆の気持ちがおさまるなら、無罪だとは思っていても主イエスを十字架につけようということになるのです。自分が正しいと信じることを信念をもって貫くのではなく、その時その時の流れにうまく乗って、自分の身を守りながら世の中をうまく渡っていこうとする、そういうピラトの姿がここに現れています。こうして、主イエスの十字架の死刑が最終的に決定されたのです。

誰が主イエスを十字架につけたか
 ピラトのもとでの主イエスの裁判に、人間の様々な姿が浮き彫りになっています。一つはこのピラトの姿です。彼は主イエスが死刑に当たる罪を犯していないことを知っています。十字架につけられるべき者ではなく、本来釈放されるべき者だと思っているのです。そしてその正義の実現のために、多少の努力もしています。しかし結局は、群衆の声に負けてしまう。多くの人々が要求してきたことを受け入れてしまう。その方が自分の立場が守られるからです。あくまでも正義を貫こうとすると、自分が社会的な損害を被ることになる、だから正義を曲げて自分を守ろうとしたのです。主イエスはそういうピラトによって十字架につけられました。主イエスの十字架の死をもたらしたのは、こういうピラトの思いだったのです。それはピラトだけの話ではないでしょう。私たちの誰もが、このピラトの姿に自分自身を重ね合わせずにはおれないと思います。そういう意味で私たちはまさに、あの使徒信条の「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」というところに、自分の名前を入れて読まなければならないのです。
 もう一つは群衆の姿です。主イエスを喜び迎えたかと思うと、その週の内にこのように「十字架につけろ」と叫ぶようになる。群衆はこのように気まぐれなものです。そこに働いているのは、要するに自分の気に入るかどうかという思いです。主イエスが自分たちの気に入る、期待できる者だと思うとほめそやし、歓迎する、しかし一度気に入らなくなると、自分たちの期待や願いとは違うとなると、たちまちそっぽを向き、それどころか「十字架につけろ」と叫ぶようになる、主イエスはこの群衆の思いによって十字架につけられていったのです。そしてこの群衆の姿も、私たち一人一人の姿です。私たちもまた、結局のところ、主イエスのことを、自分の気に入るかどうか、で判断しようとしているのではないでしょうか。そしてしばしば、主イエスよりも、主イエスの福音よりも、こっちの方が意味がある、こういうことの方が役に立つ、と気まぐれに別のものを求めていくのです。そういう私たち一人一人の思いが集まって、増幅されて、この群衆の姿になり、そこに「十字架につけろ」という叫びが生じていくのです。「十字架につけろ」と叫び、ピラトに詰め寄って行く群衆の中に、自分自身がいる、そのことを思わずにはおれないのです。

主イエスの血の責任
 ピラトは、主イエスに十字架の死刑の判決を下すに際して、そのことを強いた群衆たちに対して捨て台詞を投げかけています。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ」。この「お前たちの問題だ」という言葉は、先週読んだユダの後悔の場面で、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と告白したユダに対して祭司長たちが「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った、その「お前の問題だ」と同じ言葉です。それを複数形にしただけです。直訳すれば「お前たちが見よ」となります。自分たちのしたことの結果は自分たちで見よ、自分たちで責任を取れ、ということです。祭司長たちはそう言ってユダを突き放したわけですが、今度はユダヤ人の群衆全体がピラトからそのように突き放されたのです。そしてこの捨て台詞に対して彼らも開き直って答えます。「その血の責任は、我々と子孫にある」。これも直訳すれば、「彼の血は我々の上に、また我々の子孫の上に」となります。このようにして、ピラトの裁判の判決の場面において、主イエスの十字架の死の責任が、ユダヤ人たちにあることが明言されたのです。この言葉は、後々まで、今日に至るまで、大きな影響を及ぼしてきました。特に、「我々の子孫の上にも」とあることによって、ユダヤ人が、子々孫々に至るまで、主イエスの十字架の死の責任を負うのだ、という理解が生まれ、それが、キリスト教会によるユダヤ人迫害の根拠とされていったのです。ユダヤ人は紀元70年にローマによって国を滅ぼされて以来、自分たちの国を持たず、各地に散りじりになって生活をしていきましたが、その地域がキリスト教化されていくにつれて、キリスト教徒によって差別と迫害を受けるようになりました。その大きな理由の一つに、「ユダヤ人が主イエスを殺した」ということがあったのです。その根拠とされたのが、この25節の言葉です。ナチスによるホロコーストは、そういうキリスト教によるユダヤ人迫害の歴史があったからこそ起ってきたことなのです。私たち日本人にはあまりピンと来ませんが、特にヨーロッパにおいては、この25節をどう読むかは大変大きな問題なのです。
 この言葉を、主イエスを十字架につけた責任はユダヤ人にある、としてユダヤ人迫害の根拠にすることは全く間違った読み方です。それは、ここで「我々」と言っているのは誰か、ということと関わります。私たちはこれまで、主イエスに十字架の死刑を宣告したピラトの姿も、ピラトにそれを強いた群衆の姿も、共に私たち自身の姿と重なるということを見つめてきました。そういう意味で、主イエスの血の責任を負う「我々」とは、誰か余所の人々ではなく、私たち自身のことだと言わなければならない、これもまた大事なことです。しかしそれとは別のことをも見つめなければなりません。マタイはここで注意深く言葉を使い分けています。「十字架につけろ」と叫んだのは「群衆」です。しかし、「その血の責任は、我々と子孫にある」と言ったのは「民」となっています。これは「群衆」とは違う言葉です。それは、群衆とは別の人々がそう言ったということではありません。同じ人々なのですが、ここでは「群衆」ではなく「民」と呼ばれているのです。この「民」という言葉は、「神の民イスラエル」を意味しています。神様に選ばれ、神様との契約の関係を与えられ、神の民とされたイスラエルの人々のことです。それはユダヤ人のことだから、ユダヤ人が主イエスの血の責任を負う、という話にもなるのですが、ここでマタイ福音書が見つめているのは、そういう民族としてのユダヤ人の責任ということではありません。むしろ、神様に選ばれ、神の民とされた者たち、その者たちが、神様の独り子、救い主であられる主イエスを拒み、十字架につけて殺したのだ、ということを明らかにするためにこれは語られているのです。主イエスを十字架につけたのは、神に敵対している人々、神の民でない者たちなのではない、まさに神に選ばれ、愛され、養われ、守られてきた民、誰よりも神を敬い従うべき民、その民が神の独り子主イエスを十字架につけて殺したのです。神の民こそ、主イエスの血の責任を負わねばならない者たちなのです。この福音書が書かれ、読まれた初代の教会においては、神の民とは、既に新しい神の民、新しいイスラエルである教会です。主イエスを信じ、その救いにあずかって生きる者の群れである教会こそが、マタイにおける神の民なのです。それゆえにこの言葉は、キリストの教会こそが、主イエスの血の責任を負うべき者だ、ということです。だから、ユダヤ人の責任だなどというのは全くお門違いの間違った読み方なのです。しかし教会が主イエスの血の責任を負うとはどういうことでしょうか。先程申しました、この言葉の直訳を思い起こしていただきたいのです。「彼の血は我々の上に、また我々の子孫の上に」。これが直訳です。「責任」という言葉は実はないのです。ピラトは勿論、「この判決はお前たちが求めたもので、私の責任ではない」、と言っているわけですから、その文脈では「責任」ということは確かに見つめられています。しかしマタイはここで、別のことを重ね合わせつつ語っているのではないでしょうか。「主イエスの血は我々と子孫との上に」、と神の民が語る、それは、主イエスの十字架によって、その血の注ぎによって罪を赦され、新しくされた神の民がここにある、ということにもなります。主イエスの血の注ぎを受けた、それによる救い、罪の赦しの恵みにあずかる新しい神の民が、主イエスの十字架によって生まれる、ということがここに隠された仕方で語られていると言うことができると思います。その意味で、私たちは、この25節の「彼の血は我々の上に、また我々の子孫の上に」という言葉を、感謝をもって、これは私たちのことだ、と言うことができるのです。

主イエスの十字架によって
 主イエスに十字架の死刑を言い渡したピラトにも、それをピラトに強いた群衆にも、私たちは自らの罪の姿を見ます。主イエスが裁かれ、十字架につけられていく、そのことを通して、逆に私たち自身が主イエスから問われ、また私たち自身の罪が浮き彫りにされていくのです。しかしそれだけではありません。主イエスの十字架によって、その尊い血を注ぎかけられた、新しい神の民が起こされていくのです。私たちの罪のゆえに流された主イエスの血が、私たちに罪の赦しの恵みを与え、私たちを新しい神の民、新しいイスラエル、まことのユダヤ人として下さるのです。ピラトは主イエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と問いました。その通り、主イエスはユダヤ人の王なのです。しかしそれはピラトが思っていたような、ローマの権力に対抗する王ではありません。主イエスは、十字架にかかって流されるご自分の血によって、新しい神の民、新しいイスラエルを起こし、その王となって下さるのです。私たちは、主イエスを信じる信仰によって、この王国の民とされます。私たちのまことの王であられる主イエスのご支配は、私たちの上にご自身の血を注いで下さるご支配です。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書53章にある、ご自分の民の背き、罪を背負って苦しみを受け、殺される主の僕の姿こそ、私たちの王であられる主イエスのお姿なのです。イザヤ書53章の最後、11、12節を読んでおきたいと思います。「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった」。このことが、主イエスの十字架によって実現したのです。このことによって、主イエスは私たちの王となって下さったのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2003年7月20日]

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