富山鹿島町教会

礼拝説教

ペンテコステ記念礼拝
「聖霊を信じる」
出エジプト記 第24章3〜8節
マタイによる福音書 第26章26〜30節

聖霊の働き
 本日はペンテコステ、聖霊降臨日です。弟子たちの群れに聖霊が降り、教会が誕生し、伝道が始まったことを記念する日です。主イエス・キリストの教会は、この聖霊のお働きによって生まれ、聖霊のお働きの中で歩んでいます。教会は、人間が集まって造った一つの結社ではなくて、聖霊なる神のお働きによって生まれ、導かれ、支えられ、生かされている群れなのです。教会において行われることの全ては、この聖霊のお働きによって支えられています。この礼拝もそうです。私たちがこうして日曜日に教会堂に集まり、讃美歌を歌い、祈り、聖書とその説き明かしである説教を聞く、その礼拝は、聖霊のお働きがなければ、ただの人間の集会です。趣味のサークルの集まりと同じで、それが楽しいと思う人には意味のある集まりですが、そうでない人にとっては全く無駄な、無意味なことにしか見えないのです。しかしここに聖霊なる神が生きて働いて下さることによって、私たちのこの集まりは神様への礼拝となり、人間によってではなく神様によって意味と価値を認められたものとなるのです。この礼拝において、一人の姉妹が洗礼を受けます。その洗礼も、聖霊のお働きによることです。聖霊の働きがなければ、それはただ頭に少量の水をつけるだけの儀式です。しかし聖霊なる神が働いて下さることによって、洗礼は、私たちが主イエス・キリストの十字架の死による罪の赦しの恵みにあずかる者とされる記念すべき出来事となるし、古い自分が一旦死んで、神様の祝福の下で生きる新しい命を与えられる恵みの時となるのです。またこの礼拝において、一人の兄弟が信仰告白をします。信仰告白は、幼い時に、親の信仰によって幼児洗礼を受け、既に教会の群れの一員とされていた者が、自らの信仰を言い表し、既に与えられている洗礼を神様の恵みとして受け止め直して、聖餐にあずかる一人前の信仰者となることです。そこにも、聖霊なる神が働いて下さいます。聖霊の導きなしに、誰も信仰を告白することはできないのです。洗礼にせよ信仰告白にせよ、一人の人が主イエス・キリストの父なる神様を信じる信仰を言い表すに至るところには、必ず聖霊が働いておられるのです。さらに、本日のこの礼拝においては、新たに執事として選出された二人の方々の按手が行われます。これもまた、聖霊のお働きによることです。執事職は教会における一つの務めです。そこに奉仕者が任命される。それは、私たちが誰かを選んで任務につける、ということとは違います。教会における務めは、牧師も、長老も、執事も、聖霊によって立てられ、任命されるのです。按手が行われることの意味はそこにあります。按手において、その務めを果たすための聖霊が注がれ与えられることを祈り求めるのです。教会における務めは、人間の能力や知識や技術で果していくことではなくて、聖霊のお働きによってこそその務めを全うできるものなのです。このように、この礼拝において行われる一つ一つのことは全て、聖霊のお働きによることだし、それなしには意味をなさないのです。

聖餐
 本日のこの礼拝において行われるもう一つの大事なことがあります。それは、聖餐です。聖餐も、今まで見てきた全てのことと同様に、聖霊のお働きによってこそ意味あるものとなります。聖霊のお働きがなければそれは、小さなパンの一かけを食べ、一口にも満たない小さなグラスのぶどう液を飲むことでしかありません。そんなものは腹の足しにもならないし、みんなで飲み食いして交わりを深めることにもならないのです。聖霊のお働きを度外視したら、聖餐には何の意味もない、この後のペンテコステ祝会でみんなでお弁当を食べることの方がよほど実質的であり、意味のあることになるのです。けれども、聖霊が降ることによって生まれ、聖霊によって生かされてきた教会は、二千年に亘って、この聖餐を大切に守ってきました。教会は、聖餐に共にあずかる共同体なのです。迫害の時代、まだ教会堂などを持つことのできなかった教会は、カタコンベと呼ばれる地下の墓所で、殉教者の墓石を聖餐のテーブルとし、その周りに集まって礼拝を守ったと言われます。教会は、聖餐の食卓の周りに集まる群れなのです。聖餐の食卓を囲み、そこでみ言葉を聞き、そしてパンと杯にあずかる、それが教会の礼拝なのです。
 本日与えられている聖書の箇所は、この聖餐が、主イエス・キリストによって定められた、主イエスが弟子たちに、最初の聖餐を分け与えられたところです。ルカによる福音書には、主イエスがこの時、「わたしの記念としてこのように行いなさい」と弟子たちにお命じになったことが語られています。その主イエスのご命令によって、聖餐が行われるようになったのです。この箇所から、本日も共にあずかる聖餐が私たちにとってどのような恵みであるのかを、み言葉に聞いていきたいと思います。

最後の晩餐
 まず最初に確認しておかなければならないことは、この最初の聖餐となった主イエスと弟子たちとの食事が、いわゆる「最後の晩餐」だったということです。主イエスが弟子たちと共に食べた最後の食事です。この夕食の後、主イエスは捕えられ、翌日には十字架につけられて殺されてしまうのです。主イエスはそのことをはっきりと意識しつつ歩んでおられます。弟子たちと共に取る最後の食事になる、ということを覚えつつ、そこで、彼らに聖餐を与えておられるのです。それは言い換えれば、聖餐は、主イエスが捕えられ、十字架につけられることに向けての最後の準備として行われたということです。聖餐と主イエスの十字架の死は切り離すことができません。聖餐にあずかる時、私たちは、主イエスの十字架の死を覚えるのです。

過越の食事
 さらに確認しておくべきことは、この最後の晩餐が、過越の食事だったということです。過越の食事については先週も申しましたが、イスラエルの民がエジプトで奴隷とされ苦しめられていたところから、モーセに率いられて脱出した、いわゆる「出エジプト」の出来事を記念する食事です。そこでの主役は、「過越の小羊」です。この小羊が殺され、その血が家の戸口に塗られたことによって、イスラエルの民とエジプト人との区別の印となり、エジプト人には災いが、イスラエルの民には救いが与えられたのです。過越の小羊の血は、イスラエルの民にとって、神様の救いの恵みをもたらすものとなりました。そのことを記念して、過越祭では過越の小羊をほふり、その血を戸口に塗り、そしてその肉をみんなで食べるのです。それが過越の食事です。そしてその食事においては、酵母を入れずに、つまり発酵させないで焼いたパンをも食べます。それが除酵祭と呼ばれるものですが、これは、あの過越の出来事によってついにエジプトを出ることになったイスラエルの民が、急いで出発した、そのためにパンの生地に酵母を入れて発酵させている暇がなかったということを記念しています。このように、過越の食事のメインは過越の小羊の肉と酵母を入れないパンです。そこに、その他のいくつかの皿とぶどう酒の杯を添えることが律法において定められています。この過越の食事の中で、主イエスは最初の聖餐を行われたのです。聖餐は過越の食事の意味を受け継いでいます。つまり、神様による救いの恵みの記念という意味です。しかしそこで記念されている救いの恵みは、出エジプトの出来事ではなくて、主イエス・キリストの十字架の死によって成し遂げられる、私たちの罪の赦しの恵みです。エジプトにおいて奴隷とされ苦しめられているイスラエルの民の姿は、私たちが罪の力に捕えられ、そこから自分で逃れ出ることができない、その悲惨な姿と重なります。神様がその私たちの罪を赦し、その支配から解放して下さるのです。しかしその救いのためには、過越の小羊が殺され、その血が流されなければなりませんでした。主イエスの十字架の死は、その過越の小羊の犠牲の死と重なります。イスラエルの民が、過越の小羊の犠牲の死によってエジプトの奴隷状態から解放されたように、神様の独り子であられる主イエス・キリストが十字架にかかって死んで下さったことによって、その尊い犠牲の死によって、私たちの罪が赦され、神様の祝福の下で新しく生きる恵みが与えられたのです。聖餐は、この主イエス・キリストの十字架の死による罪の赦しの恵みを記念し、覚えるための食事です。本日の、最初の聖餐において、主イエスがパンと杯を弟子たちに分け与えながら言われたみ言葉はそのことを語っているのです。

キリストの体
 主イエスはまずパンを弟子たちに分け与えながら、「取って食べなさい。これはわたしの体である」と言われました。聖餐のパンは、主イエス・キリストの体を表しています。その体は、これから十字架に釘づけられ、殺されるのです。その悲惨な死が、しかし私たちの罪を全て背負って下さった死であり、それによって私たちは赦されたのです。主イエスは「パンを裂き」そして弟子たちに分け与えられました。そこにも十字架の死とのつながりがあります。主イエスのお体が、十字架の上で、釘打たれ、さらにヨハネ福音書の記述によれば槍によって裂かれたのです。私たちは聖餐のパンを、「わたしたちのために裂かれたキリストの体」としていただくのです。

キリストの血
 次に主イエスは杯を弟子たちに分け与えながら、「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と言われました。聖餐の杯は、主イエスの血を表しています。主イエスが十字架につけられ、そこで流して下さった血です。それはあの過越の小羊の血と重なります。昔の人は、命は血に宿ると考えました。つまり、血を流すとは、命を注ぎ出すことです。過越の小羊の血が戸口に塗られたのは、その命が、その家の者を災いから守るために注がれ、犠牲とされたということです。主イエスが十字架の上で血を流されたのも、主イエスの命が、私たちの救いのために注ぎ出された、神様の独り子が、ご自身の命を私たちの救いのために犠牲にして下さったということなのです。私たちは聖餐の杯において、この主イエスの命をいただくのです。主イエスの命がけの恵みにあずかるのです。

契約の血
 もう一つここに言われているのは、「契約の血」ということです。主イエスの血が流されることによって、契約が結ばれるのです。聖書は、主なる神様とその民との契約の歴史を語っています。「旧約、新約」の「約」は「契約」ということです。神様と民との間に契約が結ばれる時に、犠牲の動物の血が注がれるのが常でした。そのことが、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、出エジプト記第24章に語られています。ここは、エジプトを出たイスラエルの民が、シナイ山において、主なる神様と契約を結ぶ場面です。ここでは雄牛が犠牲として献げられ、その血が半分は祭壇に、つまり神様の側に、もう半分は民に振りかけられたのです。モーセは、「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である」と言いました。神様と民とが契約を結ぶと言っても、それは人間どうしの取り引きの契約のような対当のものではありません。この契約は、神様から恵みとして与えられるのです。つまり神様が彼らと特別な関係に入って下さり、彼らに救いの恵みを与えて下さるのです。その契約が結ばれる時に、「契約の血」が注がれる。旧約聖書の時代にはそれは、動物の血でした。しかし今や、神様はその独り子を遣わして下さり、その主イエスの血を注いで、私たちと新しい契約を結んで下さるのです。聖餐の杯は、この主イエスの血によって立てられた新しい契約の印です。聖餐の杯を飲むごとに私たちは、主イエス・キリストの十字架の死によって、神様が私たちと新しい契約、恵みの契約を結んで下さり、私たちを神様の民として下さったことを覚えるのです。この新しい契約は、主イエス・キリストを神の子、救い主と信じ、その十字架の死が自分の罪の赦しのための犠牲の死であったことを信じる者に与えられます。その信仰を公に言い表すことが、洗礼を受けることであり、信仰告白をすることです。それゆえに、この新しい契約の印である聖餐は、洗礼を受けた者、幼児洗礼を受けて信仰告白をした者にのみ与えられるのです。洗礼を受けることと聖餐にあずかることとは切り離すことができません。その二つによって私たちは、主イエス・キリストの十字架の死による神様の新しい契約にあずかって生きる者となるのです。

聖霊を信じる
 そして、今語ってきた聖餐の意味、恵みの全ては、聖霊の働きによってこそ現実となります。聖餐のパンが私たちのために裂かれたキリストの体であることも、杯が罪の赦しのために流されたキリストの血、新しい契約の血であることも、全ては信仰の事柄です。信仰なしに聖餐のパンや杯を食べても、何の意味もありません。それによって特に恵みを受けることもないし、逆に間違って洗礼を受けていないのに聖餐にあずかってしまっても、それで何かバチが当たるようなものでもないのです。聖餐は信仰によってこそ意味のあるものです。しかしそれは、聖餐も結局は私たちの信念の問題だ、ということではありません。そうではなくて、聖霊の働きによってこそ聖餐は聖餐となる、ということです。信仰によってあずかってこそ意味がある。その信仰は、聖霊の働きによって与えられるものです。信仰は私たちの信念ではなくて、聖霊のお働きによって神様が主イエスを信じさせて下さる、その神様のみ業です。ですから信仰によって聖餐にあずかるというのは、聖霊のお働きの中であずかることなのです。逆に言えば、この聖霊のお働きを信じることこそが私たちの信仰です。ペンテコステを祝うとは、この聖霊のお働きが今も私たちに与えられていることを覚え、感謝し、その聖霊を祈り求めていくことなのです。

希望の食事
 聖餐について、もう一つのことを見つめておきたいと思います。それは、主イエスが29節で言われたことです。「言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」と主イエスは言われました。このみ言葉は何を言っているのか、わかりにくい感じです。しかしはっきりしていることは、父なる神のみ国で弟子たちと共に杯を交わす時が来る、と言っておられることです。主イエスはこの食事を最後に、捕えられ、十字架につけられて殺されるのです。しかしそれが全ての終わりではない。主イエスはその死から復活され、天に昇られます。今主イエスは父なる神の右に座しておられるのです。私たちは聖餐にあずかる時に、天におられる主イエスのもとに心を高くあげるのです。しかし主イエスが天に昇って父なる神の右に座しておられる今のこの状態も最終的なことではありません。将来、主イエスは、栄光のうちにもう一度この世に来られるのです。その主イエスの再臨によって、この世は終わり、主イエスの父なる神の国、神様のご支配が完成するのです。弟子たちと共に新たに杯を交わす日とは、その世の終わりの救いの完成の日です。主イエスは最初の聖餐を弟子たちに与えるに際して、この、世の終わりの救いの完成の日を、はるかに望み見させておられるのです。ここに、聖餐のもう一つの大事な意味があります。聖餐は、主イエスが十字架にかかって成し遂げて下さった罪の赦しの恵み、二千年前に既に与えられた過去の恵みを思い起こし、記念し、感謝するためだけのものではありません。聖餐にあずかる時に私たちは、将来の、主イエスの再臨による救いの完成にも眼を向けさせられるのです。私たちのために肉を裂き、血を流して罪の赦しの恵みを与えて下さった主イエスが、栄光をもってもう一度来て下さり、神の国を完成させ、私たちを復活の恵みにあずからせ、死に勝利する新しい命、新しい体を与えて下さる、聖餐はその将来の救いの約束の印でもあります。つまり、聖餐は希望の食事でもあるのです。聖餐にあずかることによって、私たちは、神の国で主イエスと共に食卓にあずかる希望を新たにするのです。そしてその希望に支えられて、現在の、なお苦しみや悲しみの多い、罪に満ちた人間の現実の中を、忍耐しつつ歩んでいくのです。その希望を私たちに与え、忍耐を支えて下さるのも、聖霊なる神のお働きです。聖餐は聖霊のお働きによって主イエスの恵みを味わう食事となり、また聖霊のお働きによって私たちに希望を与える食事となるのです。
 この礼拝の全ては、ペンテコステに弟子たちに降り、教会を誕生させた聖霊のお働きの中にあります。聖霊なる神が、洗礼を受ける者、信仰告白をする者、執事の按手を受ける者、そして聖餐にあずかる者の全てに豊かに働いて下さるように、そして、まだ聖餐にあずかることのできない、求道中の方々お一人お一人にも、聖霊の力強い働きがあって、私たちのために命を注ぎ出して下さった神の子イエス・キリストを信じる信仰が与えられ、主イエスが与えて下さる、死に打ち勝つ喜びと希望に生きる者となることができるように、祈りましょう。

牧師 藤 掛 順 一
[2003年6月8日]

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