富山鹿島町教会

礼拝説教

「裏切り」
ゼカリヤ書 第11章7〜14節
マタイによる福音書 第26章14〜25節

イエスを裏切ったユダ
 イスカリオテのユダは、主イエスを裏切り、その逮捕の手引きをした人としてよく知られています。本日の箇所は、そのユダが裏切りを企て、祭司長たちに、主イエスを引き渡す相談をし、その見返りとして銀貨三十枚を受け取ったというところです。このユダは、「十二人の一人」だったと14節は語っています。主イエスの十二人の弟子の一人、主イエスが多くの人々の中から選んでご自分のそば近くに置き、常に主イエスと行動を共にし、その教えを聞き、従ってきた者たちの一人であったユダが、裏切ったのです。彼がその見返りとして受け取ったのは銀貨三十枚でした。この金額はマタイ福音書のみが語っていることです。ここの背景には、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、ゼカリヤ書第11章7節以下があると言われます。このゼカリヤ書の話は分かりにくいのですが、要するに、主なる神様が羊飼いとして、羊であるイスラエルの民を守り、養った、その働きに対する報酬をいくらと見積もるか、という話です。それが、銀三十シェケルとされた。それは、「見事な金額」と言われています。見事というのは、あまりにも安すぎて見事ということです。主なる神様の恵みが、あきれる程に安く、ただ同然に評価されている、ということをこの銀三十シェケルは意味しているのです。ユダが主イエスを裏切って得た値が銀貨三十枚だったと語られているのは、この銀三十シェケルを意識してのことです。マタイは、ゼカリヤ書で象徴的に語られていたことが、このユダの裏切りによって実現したと考えているのです。ある注解書によれば、銀三十シェケルは、当時の相場で4デナリオンに当たる金額だったそうです。1デナリオンが一日の賃金ですから、4日分の賃金です。ユダはそれだけの金のために主イエスを裏切った。本日の箇所の直前には、ベタニアで、一人の女性が主イエスの頭に高価な香油を注いだことが語られていました。その香油は、他の福音書によれば、三百デナリオンにもなるものでした。そうするとここには、主イエスへの愛のゆえに三百デナリオンを一気にささげた女性と、たった4デナリオンのために主イエスを裏切った弟子という、まことに甚だしい対比が描かれているのです。

十二人の一人
 イスカリオテのユダについては、イエス・キリストを裏切った、極悪非道の罪人という評判が、長年にわたって定着しています。誰が地獄に落ちるか、と考える時に、まず真っ先にあげられるのがこのユダなのです。しかし私たちは、聖書がこのユダのことを語る時に、「十二人の一人」という言い方を繰り返し用いていることに心を留めなければなりません。その言い方はこの後の47節にも出て来ます。聖書は、ユダが十二人の一人であったことを、執拗なまでに指摘しているのです。それは何故でしょうか。十二人の弟子の一人だったのに、そのユダが裏切った、それだけに彼の罪は重い、ということを語るためでしょうか。そうではないでしょう。そのことは、17節以下の、いわゆる最後の晩餐の席で主イエスが語られたお言葉からわかります。20、21節を読んでみます。「夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。一同が食事をしているとき、イエスは言われた。『はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている』」。主イエスは十二人の弟子たちと一緒に食事の席に着いておられるのです。そしてその十二人に対して、「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と言われたのです。その十二人の一人がユダです。しかしこのお言葉は、ユダに対して語られたのではなく、十二人全員に対して語られたのであり、「あなたがたのうちの一人」は、彼らの中の誰でもあり得るのです。それゆえに、それを聞いた弟子たちは皆、非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めたのです。十二人の弟子の中から主イエスを裏切る者が出る、というみ言葉はみんなを不安にしています。「まさかわたしのことでは」、これは、否定の答えを期待して語られる問いです。「主よ、それはまさか私のことではないですよね。そうではないと言って下さい」、そういう思いを弟子たちの誰もが抱いたのです。この時誰も、ユダを指差して、「先生を裏切るとしたらそれはお前しかいない」と言った人はいなかったのです。つまりユダは弟子たちの中で特に何か悪い人だったわけではないし、弟子たちの中の誰も、主イエスのお言葉を自分とは関係ない、別の人のことだと聞き流すことはできなかったのです。主イエスを裏切るのは、弟子たちの中の誰でもあり得る、それは自分かもしれない、いやまさかそんなことは…、弟子たちの心はそのように波立ち騒いだのです。ですから私たちは、このユダの裏切りの話を、極悪非道の罪人の話として、傍観者のように読むことはできません。主イエスを信じ、従っていく信仰者、それは主イエスの弟子です。教会は弟子たちの群れなのです。その弟子の一人であるこの私が、主イエスを裏切る者となるということが起るのです。ユダの姿は、特別に罪深い悪人の姿ではありません。ごく普通の弟子の一人が主イエスを裏切ったのです。それは私たちにもいつ起るかもしれないことです。そういう私たちの事柄として、このユダの裏切りを見つめていかなければならないでしょう。聖書がユダを「十二人の一人」と言っているのは、「それはあなたのことかもしれない」と語るためだと言えるでしょう。

何故裏切ったのか
 ユダの裏切りを他人事としてではなく、自分自身にも起り得ることとして見つめていく時に、私たちが関心を抱かざるを得ないのは、何故ユダは主イエスを裏切ったのだろうか、ということです。彼は銀貨三十枚を受け取ったわけですが、そのお金が欲しくて裏切ったというわけではないでしょう。もっと複雑な思いがユダの心にはあったに違いないと思います。聖書は、そのユダの心の動きを語ってはいません。ですから想像をたくましくするしかないわけで、いろいろなことが考えられています。例えば、ユダは主イエスがローマ帝国の支配からユダヤ人を解放し、イスラエルの国を再興してくれることを期待していた、しかし主イエスの教えや活動はどうもそういう政治的な解放運動へと向かっていかない、それで、主イエスが捕えられるというせっぱつまった状況を作れば、いよいよ主イエスも決断して、新しい国の建設のために立ち上がってくれるだろうと思い、その決断を促すために裏切ったのだ、という説明がなされます。これなどは、ユダに対して最も好意的な見方です。あるいは、ユダはある程度教養のある人だった、そのことはヨハネ福音書に、彼が主イエスの一行の会計係を委ねられていたとあることから推察されるわけですが、ところが、主イエスはそういうユダよりも、漁師上がりのペトロとかヤコブ、ヨハネばかりをかわいがって側近にしている、そのことが面白くなかったのだという個人的恨みによる裏切りと考える人もいます。そのこととの関連で、先程のベタニアでの香油注ぎの場面がとりあげられ、あの女性の行為に対して、「なぜこんな無駄使いをするのか。この香油を高く売って貧しい人々に施した方がよかったのに」と批判をしたのはユダだったというヨハネ福音書の記述から、そういう尤もな、分別ある意見に対して主イエスが、この女性の肩を持つようなことを言ってユダに恥をかかせた、そのことへの恨みもあったのだとも言われます。そういうふうにいろいろな人がいろいろなことを考えているわけですが、いずれにしても言えることは、ユダは主イエスに対して不満だったということです。主イエスの教えやみ業が、あるいはその日々の生活のあり方や言葉、振る舞いが、自分の思い、自分がこうあるべきだと考えるそのあり方と違うと感じたのです。ユダの裏切りをどんなに好意的に理解するとしても、このことは変わりません。彼は主イエスのことが不満だったのです。そして、自分の思いの方が正しいと思ったのです。だから、従っていくことをやめたのです。あるいは、自分の思い通りの方向へと主イエスを導いていこうとしたのです。十二人の弟子の一人であったユダが主イエスを裏切ったということの本質はそこにあります。そしてそれは、まさに私たちがしばしばしていることなのではないでしょうか。私たちが主イエス・キリストを信じる信仰者になる、洗礼を受ける、それは先程も申しましたように、主イエスの弟子になることです。主イエスの教えに聞き従い、その後に従う者となることです。しかしその信仰の歩みの中で、私たちはしばしば、「こんなはずではなかった」と思うのです。信仰者としての、主イエスの弟子としての実際の歩み、教会とそこに集う者たちのあり様は、自分が思い描き、期待していたものとは違っていた、自分はこういうことを願い求めて主イエスを信じたが、実際に与えられたものはそれとは違うものだったということは、誰もが必ず体験することです。神様が私たちに与えて下さる恵みは、私たちの思いをはるかに越えているのですから、それは当然のことなのです。しかしこのことは私たちにとって、信仰における大きな一つの転機となります。そこで、自分の思いや期待とは違う神様の、主イエスの導きに従い、ついていくならば、私たちは、自分の思っていた、期待していた以上の、はるかにすばらしい恵みを体験していくことができるのです。しかし、「こんなはずではなかった。これは自分の期待していたことではない」という不満の中で、主イエスに従うことをやめてしまい、自分の思いよりも深い神様のみ心を探り求めていくことをせずに、あくまでも自分の願いや期待が叶えられることのみを追求していくならば、私たちはもはや弟子であることができません。信仰者であり続けることができないのです。そこに起るのがいわゆる「信仰のつまずき」であり、ユダの裏切りの源もそれなのです。

引き渡す
 そうであるならば、このユダの裏切りは私たち一人一人にいつでも起ることだと言わなければなりません。特別に罪深い者であるかどうかなどということは関係ないのです。私たちが、主イエスに従うという思いを失ってしまい、もう弟子として生きることをやめたと思ってしまう時に、このユダと同じになっているのです。ユダのように主イエスを誰かに引き渡しているわけではない、それによってお金をもらっているわけではない、と言ってみたところで、根本的には同じことです。主イエスを引き渡すというのは、主イエスは自分にとってもういらない者だと思うことです。自分の思い通りになってくれないなら主イエスはいらないと思うことです。そのように心の中で主イエスを引き渡してしまうことはよくあるのではないでしょうか。この「引き渡す」ということが、裏切りの本質です。ユダは主イエスを祭司長たちに引き渡そうと相談をしたのですが、主イエスが、「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と言われた、その「裏切る」と訳されている言葉も「引き渡す」です。24節の、「人の子を裏切るその者は不幸だ」というお言葉の「裏切る」も「引き渡す」です。そしてこれまでのところで主イエスが三度に亘ってご自分の受難を予告してこられた、その第二回と第三回に語られていたのは、ご自分が「引き渡される」ということでした。「引き渡される」ことが主イエスの受難、十字架の死の本質であり、主イエスを「引き渡す」ことが人間の裏切りの本質なのです。

過越の食事
 さてこのように十二人の一人であるユダは裏切りを企て、主イエスを引き渡そうと機会をねらっていました。主イエスはそのことをはっきりとご存じなのです。そのような中で、いわゆる「最後の晩餐」が行われます。それは「過越の食事」であったと17節は語ります。過越祭のメイン・イベントがこの過越の食事です。過越祭は、イスラエルの民が奴隷とされ苦しめられていたエジプトから、モーセに率いられて脱出した時に、主なる神様のみ使いが、エジプト人の家の全ての初子、即ち長男を、人も家畜もすべて打ち殺した、その恐るべきみ業によって、頑なだったエジプトの王もついにイスラエルの解放を認めた、その時に、イスラエルの民の家では、小羊が犠牲として殺され、その血が戸口に塗られた、その血が目印となって、主のみ使いはその家を何もせずに通り過ぎた、過ぎ越した、ということを記念として祝う祭りです。つまりこれは、エジプトの奴隷状態からの神様の恵みによる解放を祝う祭りです。その祭りにおいて、過越の小羊が殺され、その血が家の戸口に塗られ、その肉を家族みんなで食べる過越の食事が行われるのです。17節には「除酵祭」とあります。これも過越祭と一緒に祝われるもので、過越の食事において、酵母を入れないで焼いたパンを食べるということです。何故酵母を入れないパンを焼くかというと、あの過越の出来事によってイスラエルがエジプトを出た日に、急いで出発しなければならなかったために、パン生地に酵母を入れて発酵させている暇がなかったからです。そのことを記念して、過越祭においては、酵母を除いたパンを食べる除酵祭も共に祝われるのです。いわゆる受難週の木曜日、その夜中に主イエスは逮捕されるわけですが、その前に弟子たちと取った最後の晩餐がこの過越の食事だったのです。主イエスはその食事を弟子たちと共に取るために、前もって手はずを整えておられ、弟子たちにその準備をさせたのです。つまりこの食事は主イエスが主催し、弟子たちをそこに招いておられる、そういう食事です。そして夕方になり、主イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた、と20節にあります。その食事の席で、先程の「あなたがたうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」というみ言葉が語られたのです。

聖餐への招き
 このことは考えてみると大変なことです。弟子たちの一人が自分を裏切って敵に引き渡そうとしている、そのことを知った上で、そのユダをも交えて過越祭を祝い、食事を共にしておられるのです。そしてこの食事の席で、主イエスは、これは来週のペンテコステ記念礼拝において読むところですが、26節以下で、この後教会が今日に至るまで大切に守り続ける聖餐をお定めになるのです。そこにも、ユダは十二人の一人として列席しています。主イエスの地上での最後の晩餐、そして最初の聖餐の食卓に、ユダが共に連なっているのです。主イエスが敢えてそうしておられるのです。私たちはこのことを、先程の、ユダの裏切りは私たち一人一人にいつでも起ることだということと共に、しっかりと見つめておかなければなりません。私たちは来週、聖餐にあずかります。主イエスが招き、備えて下さる聖餐の食卓に共に着くのです。しかしその私たちの中に、裏切りの思い、主イエスを引き渡すような思いがある、主イエスはそういう私たちをも、聖餐の食卓に招いておられるのです。

裏切る者の不幸
 「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」というみ言葉に動揺する弟子たちに、主イエスは、「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る」と言われました。これは前後の文脈からして、ユダを裏切る者として特定したお言葉ではないでしょう。むしろ、主イエスと一緒に同じものを食べている、同じ釜の飯を食っている弟子たちの一人が裏切るのだということをもう一度言われたのだと思います。そしてそれに続いてこう言われました。24節です。「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」。ここに語られていることはまず第一に、主イエスが引き渡され、十字架につけられて弟子たちのもとを去って行く、それは「聖書に書いてあるとおり」、つまり、神様のご計画の中に既にある、神様のみ心の実現なのだ、ということです。主イエスが捕えられ、十字架につけられることも、ユダが裏切ってそのための手引きをすることも、全ては神様のご計画の中でなされていることであって、これら全てのことを導いておられるのは父なる神様なのです。26章からの受難物語は、神様のご計画と違うことが人間の力によってなされているのではありません。主イエスに敵対し、殺そうとする人間の罪、主イエスを引き渡す裏切り、それらの全てを通して、神様のご意志、ご計画が実現していくのです。けれども、だからといって、主イエスを裏切ることが罪にならないということではありません。それが、ここに語られていることの第二です。「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」。主イエスを裏切る罪を犯すくらいなら、生まれて来なかった方がましだった。これはまことに厳しい、厳粛な言葉です。私たちも、しばしば、主イエスを裏切るような、もういらないと引き渡してしまうような罪を犯すと申しました。その私たちの罪は、決して、大したことのない、どうでもよい罪ではないのです。それはまことに深刻な、生まれて来なかった方がよかったと言わなければならないような重大な罪なのです。何故ならばそれは、神様が私たちのために遣わし与えて下さった独り子を、いらないと言って捨ててしまうことだからです。この福音書の21章にあった「ぶどう園と農夫のたとえ」において、ぶどう園を貸し与えられていた農夫たちが、主人が遣わした息子を殺して外にほうり出したという話がありましたが、主イエスを裏切ることはそれと同じ罪なのです。けれどもここで主イエスが言っておられるのは、そういう重大な罪を犯す者は呪われて滅び去れ、ということではありません。「人の子を裏切るその人は不幸だ」。この「不幸だ」という言い方は、この福音書の11章、18章、23章にもありました。その時に申しましたが、これは、「ああ」とか「おお」と訳せるような、嘆き悲しみを現す言葉です。主イエスはここで、ご自分を裏切る者のことを呪っておられるのではなくて、むしろその人のことを嘆いておられる、悲しんでおられるのです。「生まれなかった方が、その者のためによかった」というのは、「お前なんて生まれて来なければよかったんだ」ということではなくて、せっかく神様が与えて下さった命、人生において、神様の最大の賜物、恵みである独り子イエス・キリストを一旦は受け入れ、従う者となったのに、それをいらないと言って引き渡してしまう、主イエスと結ばれていた手を離してしまう、それはなんと悲しいことか、その人にとって不幸なことか、ということです。主イエスの、イスカリオテのユダを見つめるまなざしは、そのような悲しみのまなざしなのです。
 そしてそれは、主イエスが私たち一人一人を見つめておられるまなざしでもあります。私たちも、ユダと同じように、主イエスを裏切ってしまう。自分の思いや期待と少しでも違ったことが起ると、信仰なんて何の役にも立たないと思い、自分の思い通りにならないなら主イエスなどもういらないと言って、引き渡してしまう、手を離してしまう。そういう私たちを主イエスは、悲しみと嘆きをもって見つめておられるのです。そして大事なことは、主イエスがそのようなまなざしでユダを見つめつつ、彼をどこまでも「十二人の一人」として、過越の食事に招き、彼と共に食卓に着いておられるということです。この後のところで分け与えられる聖餐のパンと杯を、ユダも与えられているのです。それは、主イエスが、ユダを、そして私たちを、たとえどのような裏切りの思い、罪をかかえていても、決して見捨てることなく待っていて下さる、招いていて下さるということであると思います。

それはあなたの言ったことだ
 ユダも、「先生、まさかわたしのことでは」と言いました。すると主イエスは、「それはあなたの言ったことだ」と言われました。ここは訳すのが難しい、文字通りに訳せば「あなたは言う」とするしかない言葉です。しかしここでの主イエスのお気持ちは分かるような気がします。「あなたが私を裏切って引き渡すのか、そうでないのか、それは、私が言うことではない、あなたが言うこと、つまりあなたが自分で決めることだ。あなたはどうするのか。自分の思いや期待とは違うというつまずきを乗り越えて、私に従って来るのか、それとも、イエスなどもういらないと私を捨て、引き渡すのか。あなたはそれを自分で決めなければならない。そして私は、今でもあなたを弟子の一人として、信仰者として招いている、待っている」。主イエスはこのように、今、私たちにも語りかけておられるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2003年6月1日]

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