富山鹿島町教会

礼拝説教

「静かにささやく声」
列王記上 第19章1〜18節
ローマの信徒への手紙 第11章1〜7節

エリヤの勝利
 月の最後の主の日には、旧約聖書列王記上からみ言葉に聞いています。先月は第18章を読み、本日はその続きの第19章です。前回申しましたように、このあたりは、預言者エリヤに関する物語です。エリヤは、南北に分裂したイスラエルの内の、北王国イスラエルにおいて、アハブ王の治世に出現した預言者でした。アハブは、外国から迎えた妻イゼベルと共に、イスラエルに、バアルを中心とする異教の神々を導入し、偶像を祭る祭壇を積極的に築いた王です。妃であるイゼベルは、主なる神様に仕える預言者たちを迫害し、殺したのです。そのような中で、エリヤは主の預言者として孤軍奮闘しました。彼が、カルメル山の上で、バアルの預言者450人と、たった一人で対決して勝利したことが、前回の第18章に語られていたのです。祭壇の上に薪を用意し、雄牛をほふってその上に置き、それぞれの神にこの捧げ物を受け取って下さいと祈る、天から火を下してその雄牛を焼き付くし、自ら捧げ物を受け取った方がまことの神だ、という勝負です。バアルの450人の預言者は、朝から午後まで祈り続けましたが、何も起こりませんでした。しかしエリヤが一言祈ると、主なる神様は天からの火で祭壇と捧げ物を焼き尽くされたのです。そのようにして、主なる神様ご自身が、ご自分こそまことの神であられることを示して下さいました。それを見たイスラエルの人々は、エリヤの言葉に従い、バアルの預言者たちを殺したのです。

エリヤの逃亡
 先月読んだこの話は、エリヤの大勝利です。たった一人で、450人のバアルの預言者に勝ったのです。イスラエルの人々も、主なる神こそまことの神であられることの徴を見たのです。これで、人々も悔い改めて主なる神様に立ち返り、バアルを捨てて主に仕えるようになると思われました。ところが、そうはならなかったというのが本日の19章です。その1、2節に、「アハブは、エリヤの行ったすべての事、預言者を剣で皆殺しにした次第をすべてイゼベルに告げた。イゼベルは、エリヤに使者を送ってこう言わせた。『わたしが明日のこの時刻までに、あなたの命をあの預言者たちの一人の命のようにしていなければ、神々が幾重にもわたしを罰してくださるように。』」とあります。イゼベルは、自分が養っていたバアルの預言者たちが殺されたのを聞いて、怒りに燃え、エリヤへの復讐を誓ったのです。「神々が幾重にもわたしを罰してくださるように」というのは、誓いの言葉です。明日の今頃までに絶対にエリヤを殺してやる、と誓い、わざわざ使者を送ってエリヤ本人にそれを告げさせたのです。エリヤは恐れて、すぐに逃げ出しました。大勝利から今度は一転して逃亡の生活を余儀なくされたのです。カルメル山上でのあの勝利はいったい何だったのでしょうか。それによってもたらされたものは、イゼベルの激しい怒りだけでした。主こそまことの神であられるというはっきりとした徴を見たはずの人々も、沈黙してしまい、エリヤを助けて共に戦おうとはしません。アハブやイゼベルの権力が恐いのです。あれほどの大きな出来事があったのに、世の中はいっこうに変わらず、何事もなかったかのように、いやむしろ事態は前より悪くなっているのです。エリヤは逃げました。それは、「ここは形勢が不利だから一旦亡命してそこで力を貯えよう」というようなことではありません。彼はイスラエルの地の南のはじであるベエル・シェバに逃げ、そこに従者を残して一人荒れ野に入り、一本のえにしだの木の下に座って、自分の命が絶えるのを願って祈ったのです。つまり、彼は深い絶望の中にいるのです。逃げたのは、生きながらえるためではありません。イゼベルの手にかかって殺されることが嫌だったのです。しかしもう彼には、戦う気力はありません。4節後半の祈りの言葉が彼の思いを表しています。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」。「もう十分です。わたしの命を取ってください」。もう私は生きていたくない、苦しみ悲しみはもう十分だ、これ以上生きながらえて何になろう、死んでしまった方がどれほど楽か…。彼は神様に死を求めているのです。「わたしは先祖にまさる者ではありません」というのは、先祖たちはいろいろな働きをし、そして死んでいった、私もその先祖たちと同じになりたい、もうこの世での働きを終えて死者たちの仲間になりたい、ということです。エリヤはもはや生きる気力をなくしているのです。

エリヤの絶望
 このエリヤの姿は、単に苦しみや悲しみによって絶望している、というのとは違うでしょう。彼はあのカルメル山上の大勝利を体験しているのです。その直後にこの絶望に襲われているのです。あの勝利が、この絶望の一つの原因となっていると言えるでしょう。彼はただ一人の主の預言者として、450人のバアルの預言者を相手に、まさに孤軍奮闘したのです。それはものすごいエネルギーを要することだし、緊張、プレッシャー、ストレスに満ちたことだったでしょう。そしてその戦いに勝利することができた。しかもかろうじて勝ったのではなくて、相手を完膚なきまでに打ち破る大勝利です。その喜びたるや、とても言葉で言い尽くすことはできないものだったに違いありません。しかもそれは自分の勝利の喜びと言うよりも、これでイスラエルも本来の姿に、主なる神様を信じ従う民に立ち戻ることができる、という喜びだったのです。ところが、そのように喜び期待したことが全然実現しない、むしろ事態は、自分が命を狙われるようになっただけで、少しも変わっていかない、あのように大勝利を得たことが、何の実りをも生んでいかない、いったい、自分が苦労してきたこと、そのために多大なエネルギーを使い、緊張やプレッシャーやストレスに耐えてやってきたことは何だったのか、そういう思いが、エリヤのこの絶望、生きる気力をなくした姿には現れていると思うのです。その彼の思いは、天使によって神の山ホレブに導かれたエリヤに、主なる神様のみ言葉が臨み、「エリヤよ、ここで何をしているのか」と問いかけられた、それに対してエリヤが答えた言葉にも現れています。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています」。ここに語られているのは、イゼベルが怒って自分を殺そうとしている、ということではありません。私は主なる神様に情熱を傾けて仕えてきた、それはイスラエルの人々が、主なる神様との契約をしっかり守り、神の民として歩むためだった。ところが、私がどんなに熱心に努力して戦い、あのような勝利を得ても、イスラエルの人々はそれに応えようとしない。主なる神様との契約を捨て、その祭壇を破壊し、預言者たちを殺すようなことをしている。そして今、私をも殺そうとしているのだ、ということです。主の預言者を殺したり、エリヤを殺そうとしているのはイゼベルです。しかしイスラエルの人々はそれを見ても何も言わない。それは彼らも一緒になってそれをしているのと同じだ。このようにエリヤの怒り、いらだちは、アハブやイゼベルにというよりも、むしろイスラエルの人々に向けられているのです。それは、自分がこの民のためにしてきたことが何にもならなかった、無駄だった、という絶望なのです。

主の前に立て
 このように絶望し、生きる気力を失ったエリヤを、神様は御使いによって養い、神の山ホレブへと導かれました。ホレブは、モーセが燃える柴の中から語りかけられる神様と出会った所であり、エジプトを脱出したイスラエルの民が神様と契約を結び、十戒を授けられたシナイ山の別名です。イスラエルの民と主なる神様の出会いの原点とも言うべきこの地にエリヤは導かれたのです。彼はそこで洞穴の中で夜を過ごしました。そのときに、先ほどの主の言葉があったのです。9節の「エリヤよ、ここで何をしているのか」という神様の問いかけは、翻訳が難しいところです。「ここで何をしているのか」と言うと、「こんなところで何をしているのか、おまえのいるべき所はここではないだろう」という叱責の言葉のようにも感じられますが、原文のニュアンスはそうではありません。少し大胆に訳すならば、「あなたにとって、今ここで問題であることは何か」と訳すことができます。つまり神様はここでエリヤを責めているのでも、励ましているのでもなくて、「あなたは何を問題としているのか、何を苦しんでいるのか」と問いかけておられるのです。その問いかけに対する彼の答えが先程の10節です。すると神様は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われました。この言葉が、とても大事です。神様は、「あなたは何を悩んでいるのか」と、エリヤの苦しみと絶望、生きる気力を失ってしまっている気持ちを聞いて下さるのです。そしてその上で、「わたしの前に立ちなさい」と言われるのです。エリヤは今、洞穴の中にいます。これも大変象徴的なことだと言えるでしょう。苦しみ悲しみ悩みの中で生きる気力を失ってしまう時、私たちは、洞穴の中に閉じこもってしまうのです。狭く暗い自分の心の洞穴に閉じこもり、外に出ようとしない、外のものに目と心を向けることができない、自分の周囲の暗闇ばかりを見つめ、狭い世界に閉じこもってしまうのです。神様は、エリヤに、あなたが今いるその洞穴から出てこいと言われます。それは、そんな狭い暗いところにばかりいないで、もっと広く明るい世界を見ろ、ということではありません。洞穴を出てなすべきことは、主なる神様の前に立つことなのです。「主の前に」と訳されている言葉は、もとの意味を生かして訳すならば、「主のみ顔の前に」となります。主なる神様のみ顔の前に立つことが求められているのです。「山の中で」とありますが、ここはむしろ「山の上で」と訳した方がよいと思います。口語訳聖書はそうなっていました。神の山ホレブの上、そこはモーセが主なる神様と出会い、み顔の前に立った所です。エリヤもそのように主の前に立つことを神様は求めておられるのです。そしてそのように主なる神様の前に立つことにおいてこそ、私たちは、自分が閉じこもっている洞穴から外に出ることができるのではないでしょうか。苦しみ悲しみいらだちの中に閉じこもってしまう私たちは、そこから出てもっと広い明るい世界を見ろと言われても、あるいは自分でそうしようと努力してみても、自分の心の洞穴からなかなか抜け出すことができません。それが本当にできるのは、主なる神様のみ顔の前に立ち、自分の顔を主なる神様に向ける、そのことによってなのです。

静かにささやく声
 しかしエリヤも、すぐに洞穴から出て来たわけではありませんでした。エリヤが閉じこもっている洞穴の前を、主なる神様が通り過ぎて行かれたと11節は語ります。そのときに起ったことが11節から12節にかけて語られています。「主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた」。山を裂き岩を砕くような激しい風と地震と火、それらのことが、エリヤの前に起ったのです。これらの激しい自然現象は、旧約聖書の中で、主なる神様がご自身を現される時に伴って起ることとしてしばしば出てきます。しかしここの特徴は、それらのことの中に、主はおられなかった、と言われていることです。主なる神様がおられたのは、火の後に、「静かにささやく声が聞こえた」、そこだったのです。これはどういうことを意味しているのでしょうか。二つのことを考えることができると思います。第一は、大風や地震や火、これは大変激しい現象です。そういうことがエリヤの前で起った。エリヤはそういう激しいことを体験した。それは、これまでの、特に18章のあのカルメル山上における体験と重なるのではないでしょうか。しかしそれらの中には主はおられない、それは、あのカルメル山上の勝利が主なる神様によることではなかったということではありません。あそこでは確かに主が、天からの火をもってエリヤの祈りに答え、ご自分がまことの神であられることを示して、勝利を与えて下さったのです。しかしそのことの結果として起ってきた苦しみの中にエリヤは今あり、それで絶望している、あの勝利は何だったのか、何の意味もなかったではないかと感じているのです。そのエリヤに対して神様はここでこう語りかけておられるのです。「あなたは、あのような大きな、激しい体験、あるいは勝利の喜び、自分が努力してきたことが大きな実を結んだという達成感、そこに神との交わり、つまり信仰の土台を置いている。そういう体験があるから、自分は神様を信じ、希望を持って生きていけると思っている。だから逆に、それがよい結果をもたらさず、かえって事態が悪化して、逃げ出さなければならないようなことになって、絶望し、生きる気力も失っている。しかし、あなたと私との関係、交わりは、そういう大きな体験や勝利の喜び、達成感のようなところにあるのではないのだ。そういうことに支えられているのではないのだ。むしろ、火の後の静かにささやく声においてこそ、私はあなたと出会うのだし、あなたと私の交わりの土台はそこにこそあるのだ」。神様と出会い、神様との交わりに生きること、それが信仰です。その信仰を本当に支える土台は、大きな激しい体験や、すばらしい勝利や成功の経験、あるいは私たちの達成感ではなくて、神様の、静かにささやくようなみ声を聞き取ることにこそある。それが、ここに語られていることの第一の意味であると思います。
 第二は、全く別の角度からの意味です。先程申しましたように、神様はエリヤに、洞穴から出てきて私の前に立てと言っておられます。先程の言い方を用いれば、苦しみ悲しみいらだちの洞穴の中に閉じこもって生きる気力もなくしているエリヤの、閉ざされた心の扉を主がたたいておられるのです。大風や地震や火は、その閉ざされた扉の外で起ることです。しかしエリヤは、それらのことによって洞穴の外に出ては来ないのです。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。すると13節にこうあります。「それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った」。「そこを出て私の前に立て」という神様の語りかけにエリヤが答えて出てきたのは、この「静かにささやく声」を聞いた時だったのです。私たちが、閉じこもっている自分の心の洞穴から出て、神様のみ顔の前に立つことができるのは、何か大きな出来事、あるいは恐ろしい出来事を体験することによってではありません。私たちの心の扉の外で、どんな大風が吹いても、大地震が起っても、燃え盛る火があっても、それで私たちが心を開いて神様の前に立つことはないのです。しかし神様は、そういう仕方によってではなくて、静かな、ささやくようなみ声によって、私たちに語りかけて下さいます。静かなささやくような声ですから、私たちはなかなかそれに気付かないし、聞き流してしまうことも多いのです。しかしある時ふと、その静かなささやくようなみ声に気付き、自分も心静めてそのみ声に聞き入るようになる、そこにおいて、私たちと神様との出会いが与えられていき、そのみ声に導かれて、自分の心の扉を開いて、神様のみ前に出ることができるようになるのです。それが、ここに語られていることの第二の意味であると思います。

新しい使命
 神様の静かにささやく声に導かれて、エリヤは洞穴を出て、神様のみ前に立ちました。すると神様は再び、「エリヤよ、ここで何をしているのか」と問いかけられるのです。エリヤも再び同じことを答えます。同じ問答が繰り返されているだけのようですが、一回目と二回目では意味が違います。一回目では、神様は「あなたは何を苦しんでいるのか」と問われ、エリヤの答えに対して、「その苦しみをかかえたままで、そこから出て来て、私の前に立て」と言われたのです。二回目は、洞穴を出て神様の前に立ったエリヤに、神様がもう一度「あなたは何を苦しんでいるのか」と問いかけて下さり、エリヤは神様のみ顔の前で自分の思いを述べています。自分の心の中で苦しみや絶望の思いを反芻しているのではなくて、それを神様のみ前に出て、神様に対して語りかけている、言い換えれば、神様への祈りの中で自分の苦しみ悲しみいらだち絶望を語っているのです。ここに大きな意味があります。その時神様はエリヤに、新しいことを、これから彼がしていくべきこと、歩んで行くべき道を示して下さったのです。「行け、あなたの来た道を引き返し」とあります。直訳すれば「行け、帰れ、あなたの道を」です。神様はエリヤの苦しみ悲しみ絶望への慰めの言葉をかけておられるのではありません。「私がついているから、もう死にたいなどと言うな」と励ましておられるのでもありません。むしろエリヤに、新たな使命を与え、彼を遣わしておられるのです。絶望への解決は、慰めや励ましによって得られるのではありません。神様が使命を与え、遣わして下さる、その神様のご命令を受け、それに従って歩んで行くところにこそ、絶望からの回復はあるのです。「帰れ」という言葉は、「悔い改めよ」と訳すこともできます。神様は、苦しみや悲しみの中で絶望してしまう私たちに、悔い改めることを求められるのです。絶望からの回復とは、言い換えれば悔い改めです。もう何の希望もない、生きて行く気力も出ない、と思ってしまう自分の思い、自分の心の洞穴に閉じこもってしまう思いを悔い改め、神様が与えて下さる使命を覚え、神様が示しておられる道へと新たに踏み出していくということによってこそ、私たちは絶望から抜け出すことができるのです。そしてそのような悔い改めは、私たちが本当に神様のみ顔の前に立つことによって実現します。悔い改めるとは、神様から目をそらし、自分のことや自分の周りの様々なことばかりに目を向けてしまっている私たちが、神様の方に向き直ること、神様のみ前に立つことです。そしてそこへと私たちを導いてくれるのが、神様の、静かにささやく声なのです。

神のご計画の中で
 エリヤに新たに与えられた使命は、ダマスコへ言ってハザエルという人に油を注ぎ、アラム、つまりシリアの王とすること、ニムシの子イエフという人に油を注いで北王国イスラエルの王とすること、そしてエリシャを自分の後を継ぐ預言者とすることの三つでした。しかしこの後のところを読んでいくと、エリヤがこれら三つのことを全てしていったわけではありません。エリシャを弟子として従えるようになったことは19章19節以下にありますが、ハザエルとイエフのことは、エリヤではなく、このエリシャの働きの中で語られていきます。つまりエリヤは、ここで与えられた使命を自分で果たすことはできず、それを後継者に遺していくことになったのです。主なる神様がここでエリヤに与えた使命は、この後北王国イスラエルとその周辺で起っていくことの予告であり、主がこの国をこれからどのように導いていこうとしておられるか、そのご計画が告げられていると言った方がよいでしょう。絶望し、生きる気力を失っていたエリヤは、この神様のご計画のもとへと呼び戻され、再びその中を歩む者とされたのです。神様に使命を与えられるというのはそういうことです。それは単に何か打ち込める仕事が得られるとか、生き甲斐となることが見つかる、というようなことではありません。神様のご計画の中で、その一翼を担って生きる者とされるのです。そこにこそ、絶望からの回復があります。エリヤもそうでした。神様から新たに使命を与えられる中で、彼の絶望の根本的原因だった苦しみ悲しみへの解決の希望が与えられていったのです。それが18節のみ言葉です。「しかし、わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である」。エリヤは、イスラエルの民が皆、主なる神様との契約を捨て、背き去ってしまった、カルメル山上でのあれほどの大きな体験にもかかわらず、自分と共に主に仕えようとする者が一人もいない、ということに絶望したのです。しかし神様は、「わたしはなおイスラエルに、バアルにひざまずかない七千人を残している」と宣言なさるのです。どんなに暗い厳しい状況になり、神様を信じる者など一人もいないように見える現実があっても、神様は、ご自分に従い仕える神の民を残しておられ、彼らを導いて、ご計画を実現して下さるのです。本日共に読まれた新約聖書の箇所、ローマの信徒への手紙第11章で、パウロはこの列王記の言葉を引用しています。自分の同胞であり、本来神の民であったはずのユダヤ人たちが、主イエス・キリストの福音を受け入れようとしないという悲しい状況の中で、パウロはこの、神様がバアルにひざまずかない七千人を残して下さっているというみ言葉に希望を置いてキリストの福音を宣べ伝え続けているのです。私たちの置かれている状況もこれと同じだと言えるでしょう。その中で私たちも、エリヤに、そしてパウロに与えられたこの希望を与えられて歩みたいのです。そのために、心を静めて、主なる神様の、静かにささやく声に聴き入りたいのです。今そのみ声が私たちに告げているのは、神様の独り子イエス・キリストが、私たちのために十字架にかかって死んで下さり、復活して下さったこと、そこに私たちの罪の赦しと永遠の命の希望が与えられていることです。このみ声に導かれて主のみ前に立ち、悔い改めて、神様の救いのご計画の中で生きる新しい歩みを与えられていきたいのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2003年5月25日]

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