受難物語
礼拝において、マタイによる福音書を読み進めて参りまして、本日からいよいよ26章に入ります。「いよいよ」と申しますのは、この26章から、主イエス・キリストの受難の話、十字架の死の話になるからです。バッハの「マタイ受難曲」も、この26章1節から、27章の終わりまでを歌っていくものとなっています。本日のところから、「受難物語」が始まるのです。その受難物語は、「イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると」と語り始められています。「これらの言葉」というのは、直接的にはすぐ前の25章までの主イエスのみ言葉、23章から始まっている教えの部分を指すと言えるでしょうが、それだけではなく、この福音書がこれまでに語ってきた、主イエスのみ言葉とみ業の全てを受けていると考えてよいでしょう。主イエスは、地上において語るべきことをもう全て語り尽くされたのです。後は、最後に残された一つの大事な働きを残すのみです。それが、2節にある、「人の子は、十字架につけられるために引き渡される」ということです。語るべきことを語り終えられた主イエスは、その最後の務めへと決然として進んで行かれるのです。しかもここには、「二日後は過越祭である」とあります。その時に、「人の子は十字架につけられるために引き渡される」と言われています。つまり主イエスは、いつご自分が十字架につけられるか、その日付けまでもはっきりとここでお語りになったのです。
誰の思いが実現したのか
この主イエスのお言葉と呼応するように、祭司長たちや民の長老たちが大祭司の屋敷に集まり、主イエスを捕えて殺そうと相談したことが3節以下に語られています。まるで映画のカットのように、殺される者と殺す者、捕えられる者と捕える者との動きが連続的に描写されているのです。ところが、よく読んでみると、そこには食い違いがあります。祭司長たちは、主イエスを捕えて殺そうと相談していますが、その中で、「民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っているのです。過越祭は、ユダヤ人たちの最大の祭りであり、その時には各地から多くの人々が巡礼にやってきます。普段の何倍もの人々でエルサレムはごった返すのです。そのような時には、ただでさえ騒動が起こりやすいのです。エルサレムの治安維持に当っていたローマの軍隊も警戒を厳重にしています。その祭りの間に、民衆に人気の高いイエスを捕えて処刑しようとすると、騒ぎが起こるかもしれない、だから、祭りが終わって、巡礼者たちが帰ってしまって、町が落ち着いたところで、なるべく目立たないように、イエスを捕え、殺そうと彼らは相談したのです。それは、主イエスが語られた、二日後の過越祭においてご自分が十字架につけられるということとは全く違う計画です。主イエスが殺されるという点では一致していますが、その時期については、食い違いがあるのです。そして、どちらがこの後実現していったかというと、それは主イエスのお語りになったことです。祭司長たちは祭りが終わってからと言っていたけれども、主イエスは二日後の過越祭のさなかに、十字架の死をとげられたのです。このことによってマタイは、主イエスの十字架の死が、確かに祭司長たちや長老たちの憎しみによって引き起こされたことだったけれども、その彼らの思いが実現したのではなくて、むしろ主イエスご自身がかねてから語り、予告しておられたことがその通りになったのだということを語っているのです。これから語られていく主イエスの十字架の苦しみと死において、実現しているのは人間の思いではなく、主イエスご自身のみ言葉であり、つまり父なる神様のみ心です。「十字架につけられるために引き渡される」とありますが、主イエスを十字架へと引き渡しているのは、根本的には父なる神様なのです。
香油を注ぐ女
さて、主イエスの十字架の死への歩みは、エルサレムの郊外の村ベタニアにおける、シモンという人の家での出来事から始まります。21章においてエルサレムに来られた主イエスは、夜は都を出て、ベタニアに泊まっておられたことが21章17節に語られていました。その宿となっていたのがこのシモンの家だったのです。このシモンという人は、「重い皮膚病の人」となっています。同じ新共同訳聖書でも、比較的以前に買われた方の聖書は「らい病の人」となっていることでしょう。しかし今の新しい版では、「重い皮膚病」と変えられています。「らい病」という言葉が歴史的に差別や偏見と結びついていたので、今はそのように訳し変えられているのです。この「重い皮膚病の人シモン」は、おそらく以前に主イエスによってその病気を癒されたのでしょう。そのことを感謝して、彼は主イエスの一行に自分の家を宿として提供したのだと思われます。そのシモンの家で、一人の女が、「極めて高価な香油の入った石膏の壷を持って近寄り、食事の席についておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた」のです。ヨハネによる福音書の12章では、この家は主イエスによって復活させられたラザロの家で、この一人の女はラザロの姉妹の一人マリアであるとされています。しかしマタイでは、名前の知られていない一人の女です。大事なのはこの人が誰であるかではなくて、この人がしたことです。彼女は、食卓についておられる主イエスの頭に、高価な香油を注ぎかけたのです。マルコによる福音書を見ると、石膏の壷を壊して香油を注ぎかけたとあります。つまり、中身を全て、一気に、主イエスの頭に注いだのです。それを見た弟子たちが、「なぜこんな無駄遣いをするのか」と憤慨していることからして、マタイにおいても同じことが考えられていると言えるでしょう。香油というのは今日で言えば香水のようなものでしょうが、それをほんの一吹きとか数滴たらしたというのではなくて、壷の中身を全部一気に注ぎかけたのです。これはかなり異常なことです。香油というものの普通の使い方からしても、間違っているというか、適切ではないことです。食事をしている時に、香水の瓶の中身を全部頭にかけられたらどんなことになるか、ちょっと想像してみていただきたいのです。今の香水と当時の香油では香りの強さが全然違うのだろうとは思いますが、それにしても、部屋は香油の香りで満ち、むせるようになったのではないでしょうか。おそらく、食卓の上の食べ物のにおいもわからなくなり、もはや食事どころではないような状態になったのではないでしょうか。つまり、この女性のしたことは、主イエスや、共にいた人々にとって、かなり迷惑なことだったと言わなければならないだろうと思うのです。
弟子たちの憤慨
弟子たちはこれを見て憤慨して、「なぜ、こんな無駄使いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」と言いました。マルコ福音書によれば、「三百デナリオン以上に売って」とありますから、そのくらいの価値のある香油だったのでしょう。一デナリオンが当時の普通の労働者の一日分の賃金ですから、三百日分の賃金、つまりほぼ一人の人の年収に当たる値段です。それほど高価なものを、彼女は一気に使いきってしまったのです。無駄使いだ、そんなことをするくらいなら、売ってお金に替えて、貧しい人々に施した方がずっと有効に使えたのに、という弟子たちの非難はもっともなことです。何ともったいないことを、と思うのが普通の感覚でしょう。
ところで、この話を語っているのはこのマタイの他にはマルコ福音書とヨハネ福音書ですが、この女性を非難した人は誰かということはそれぞれ違っています。ヨハネでは、主イエスを裏切ったイスカリオテのユダとされています。そしてそこには、これはユダが貧しい人たちのことを考えていたからではなく、自分が会計を任されていて不正をしていたからだ、という説明が加えられています。マルコでは、「まわりにいた人々」が彼女を非難したとなっています。つまり弟子たちとは限らず、シモンの家で食事を共にしていた人々の誰かです。そのような中でマタイは「弟子たちは」と言っているのです。そこに、マタイがこの話において見つめていることが表されていると言うことができると思います。特別な悪人であるユダでもなく、あるいは主イエスのことを第三者的に見つめている部外者でもなく、弟子たち、つまり主イエスを信じて従っている信仰者たち、ということは私たちの言葉として、マタイは彼女への非難の言葉を位置づけているのです。そこで見つめられていることは何なのでしょうか。
わたしに良いことをしてくれた
その問いを念頭に置きつつ、次の主イエスのお言葉を読んでいきたいと思います。主イエスは彼女を責める弟子たちに対して、「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ」と言われました。この正直言って非常識な、また迷惑とも言える彼女の行為を、主イエスは、「わたしに良いことをしてくれた」と受け止めておられるのです。非常識であり、迷惑でもある彼女の行為が、どういう思い、気持ちから出たものであるのかを主イエスは見つめておられるのです。彼女がしたことは、確かに非常識な、はた迷惑なことですが、そのようにした彼女の思いには、主イエスに対する深い愛がある、高価な財産を一気に捧げ尽くしてしまうような一途な献身の思いがある、ということは確かです。彼女の行為には、主イエスへの、恋心と言ってもよいような一途な思いがあるのです。彼女はその思いを、周りの迷惑も顧みず、なりふり構わずに表したのです。その彼女の思いを、主イエスは受け止めて下さった、それが、「わたしに良いことをしてくれた」というお言葉です。主イエスは彼女の行為を、ご自分に対する良いこと、大きな奉仕として受け止めておられるのです。そしてここから逆に、弟子たちのあの批判の言葉の持つ意味も見えて来るのではないでしょうか。この女性は、主イエスへの深い愛と献身の思いを、なりふり構わず表した、三百デナリオンにもなる、なけなしの財産の全てを、主イエスに献げ尽くしたのです。そのように主イエスに自分の全てを献げようとする一途な姿を目の前に見た時に、弟子たちの心には、「自分はこれほどまでに主イエスを愛し、すべてを献げて従ってはいない」という思いが起ってきたのではないでしょうか。そのような思いから、彼女のしたこの行為に難癖をつけ批判していく言葉が生じるのです。つまりこれは、主イエスに従っている弟子たち、信仰者の間でこそ起こる思いなのです。私たちも、他の人が、神様に対して、主イエスに対して、純粋な、献身的な奉仕をしているのを見る時に、そのことを喜ぶだけではなく、そこにあるやっかみの思いのようなものが起ってきて、その奉仕に対して難癖をつけ、批判していく、そんなことをしてどんな意味があるのだ、などと言って人を困らせていく、ということがあるのではないでしょうか。ヨハネ福音書が、これをイスカリオテのユダの言葉として、ユダは自分に後ろめたいことがあったからこう言ったのだと語っているのはそれと同じことでしょう。ただマタイはそれを、ユダだけの問題ではなく、弟子たちの誰もが抱く、つまり私たちの中に起って来る思いとして語っているのです。
葬りの準備
主イエスはさらに弟子たちに、「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」と言われました。貧しい人への施しは、その気になればいつでもできる、貧しい人、助けを求める人があなたがたの前からいなくなってしまうことはない。しかし私、主イエスは、いつも一緒にいるわけではない、主イエスに奉仕しようと思ってももうできないという時が来るのだ、というわけです。このお言葉は、貧しい人のために愛の業をすることよりも、主イエスに奉仕することの方が大事だ、ということではありません。主イエスは25章の終わりのところの、世の終わりの審きにおいて起ることを語る話で、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言われました。主イエスは、貧しい、弱い者の一人に対してした愛の行為を、ご自分に対する業として受け止めて下さるのです。そして逆にそれをしなかった者は、「わたしにしてくれなかった」と言われるのです。ですから、貧しい人のための愛の業を軽んじているのではありません。このみ言葉のポイントは、「わたしはいつも一緒にいるわけではない」、つまり主イエスが弟子たちの前から去って行く時が来る、ということです。まもなく主イエスが捕えられ、十字架につけられて殺されることがそこで意識されています。そのことが、次の12節につながっていくのです。「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた」。主イエスは彼女の行為を、ご自分が捕えられ、殺され、葬られる、そのための準備として位置づけておられるのです。これは、彼女がそういう意図をもって香油を主イエスに注いだ、ということではないでしょう。彼女がしたのは、先ほど申しましたように、主イエスへの一途な愛と献身の行為であり、なりふり構わず主イエスに自分の宝をささげ尽くしたということです。その行為を、十字架の死へと向かって進んでいかれる主イエスが、ご自分の葬りの準備として受け止めて下さったのです。「わたしに良いことをしてくれた」の「良いこと」とはこの「葬りの準備」です。彼女の献身の行為を、主イエスはご自分の十字架の死と関係づけて受け止めて下さったのです。それは何のためかというと、13節です。「はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」。「この福音」とあります。福音とは、喜ばしい知らせ、救いの知らせです。「この」とは何を指すのでしょうか。それは、主イエスが葬られること、つまり主イエスの十字架の死です。神様の独り子であられる主イエス・キリストが、私たち罪人のために、罪を全て背負って、十字架にかかって死んで下さった。その主イエスの十字架の死によって、私たちの罪が赦され、神様の民として新しく生きることができるようになった、それが、主イエスの福音、「この福音」です。この福音が宣べ伝えられる所では、世界中どこでも、彼女のしたことも記念として語り伝えられる。彼女のなりふり構わぬ愛の行為が、主イエスの葬りの準備として、主イエスの十字架による救いを告げる福音の記念として覚えられていくのです。このように主イエスは、この女性の一途な、なりふり構わぬ、後先を考えない、こういうことをしたらどういう効果があるかとか、どんな意味があるかという計算を越えた主イエスへの愛の業を、主イエスの十字架の死によって与えられる救い、罪の赦し、その福音の中に位置づけて下さったのです。彼女の、非常識な、はた迷惑な、普通に考えれば無駄でしかない、しかし主イエスのことを愛し、主イエスにすべてを献げて仕えようとする思いを、大きな意味のある、良い奉仕として受け止めて下さる主イエスの恵みがここには描かれているのです。
驚くべき献身
私たちの、心からの奉仕を、主イエスは受け止めて下さる。たとえ人々の目に、それが無駄なことのように、意味のないことのように見えても、あるいは、かえって迷惑だと思われるようなことであっても、主イエスは私たちの思いを分かって下さり、意味あるものとして位置づけて下さる、そういう恵みがここには語られていると言えます。けれども、それが全てではありません。この女性のしたことをもう一度考えてみたいと思います。彼女は、大変に高価な香油を、一気に全部主イエスに注いでしまったのです。彼女は決して豊かなお金持ちだったわけではないでしょう。おそらくこの香油の壷は、母親から娘へと、先祖代々伝えられてきた、彼女の家の宝物だったのでしょう。一生の内に、ほんの数回、例えば花嫁になる時とかに、ごく少量を使うのみで、それをさらに自分の娘に引き継いでいく、というものだったのではないでしょうか。そういうなけなしの、とっておきの宝を、彼女は主イエス・キリストに、全て惜し気もなく献げたのです。これは彼女の、驚くべき奉仕です。私たちはこのような奉仕、献身の業を見る時に、弟子たちもおそらくそうだったように、「自分にはとてもこんなことはできない」と思うのです。けれども、主イエス・キリストが私たちのためにして下さったことは、これと同じこと、いや、これ以上のことだったのではないでしょうか。主イエスは今、二日後の過越祭において、十字架につけられるために引き渡されようとしておられます。それは、神様の独り子、まことの神であられる方が、私たちの罪を全て背負って、最悪の罪人として死刑になって下さるということです。主イエスは、財産とか宝ではなく、ご自分の命を、私たちのために、犠牲として献げて下さったのです。この女性の行為が驚くべきことであったとすれば、主イエスの十字架の死というのは、その何倍も驚くべきことなのです。主イエスの十字架の苦しみと死において実現しているのは、人間の思いではなく、主イエスご自身のみ言葉であり、つまり父なる神様のみ心なのだということを最初に申しました。父なる神様のみ心ということで言えば、父なる神様にとって独り子主イエスは、かけがえのない、どんな宝にも勝る貴重な宝です。彼女が、先祖伝来の宝である香油の壷を献げてしまったことが驚くべきことであるならば、父なる神様が独り子主イエスをこの世に人間として遣わして下さり、その独り子を十字架の上で死なせるまでして、私たちを救って下さったことは、その何倍も、何十倍も驚くべき犠牲なのです。私たちが、主イエス・キリストの十字架の死において神様からいただいている恵みは、そのように驚くべきことなのだということを、私たちは忘れてはなりません。この女性の、この驚くべき献身の行為は、主イエスの十字架における驚くべき救いの恵みを証ししているのです。
主イエスを愛して
そして、その恵みの中で思い直すならば、彼女のしたことは決して驚くようなことではない。私たちにはとてもできない、と言って済ましてしまえるようなことではないのです。主イエス・キリストが私たちのために十字架にかかって死んで下さったという驚くべき愛を受けた私たちは、その愛に応えて、私たちも、主イエス・キリストとその父なる神様を、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして愛するのです。それは言い換えれば、なりふり構わず、自分のすべてを主イエスに向って注ぎ出すのです。それが信仰というものです。信仰とは、簡単に言ってしまえば、主イエス・キリストを心から愛することです。そして、愛する主イエスに、自分を献げることです。つまりこの女性のしたようなことこそが、信仰なのです。私自身、自分をふりかえって見るならば、この女性のようであるよりも、「なぜ、こんな無駄使いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」というようなことばかりを考えてしまう者であることを思わしめられます。私たちは、この女性の姿を、驚いたり、まして難癖をつけたりするのでなく、もっともっと彼女を模範として、彼女に倣っていくべきなのではないでしょうか。それは、私たちが神様の救いを得るためにそのことが必要だということではありません。私たちは既に、主イエス・キリストの十字架による、神様の大いなる救いの恵み、愛の中に入れられているのです。だから私たちは、このように、主イエスを心から愛し、主イエスに身を献げて生きることができるのです。そこにおいては、どれだけ献身することができているか、百点満点の何十点ぐらいか、というようなことは問題ではありません。他の人はどうしているか、ということも問題ではありません。私たち一人一人が、主イエスの大いなる愛の中で、今以上に主イエスを愛し、今以上に主イエスに身を献げていく、そういう一歩を踏み出して行きたいのです。その私たちの献身を主イエスはしっかりと受け止めて下さり、「わたしに良いことをしてくれた」と喜んで下さり、主イエスの福音、喜びの知らせを証しする働きを与えて下さるのです。
牧師 藤 掛 順 一
[2003年5月18日]
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