富山鹿島町教会

礼拝説教

イースター記念礼拝
「小さなタレントでも」
イザヤ書 第40章27〜31節
マタイによる福音書 第25章14〜30節

イースター
 本日はイースター、主イエス・キリストが死者の中から復活されたことを記念し、喜び祝う日です。この日に礼拝において読む箇所として、マタイによる福音書第25章14節以下が与えられました。マタイによる福音書を連続して読んできて、たまたまこの箇所に当たったのです。イースターなのだからもっとそれに相応しい箇所に変えようかとも思いましたが、しかし考えているうちに、イースターにここを読むことにはかえって意味があると思うようになりました。その意味については後でお話しするとして、まずは、本日の箇所に語られていることの内容を見ていきたいと思います。

タラントンのたとえ
 本日の箇所は、主イエス・キリストが語られた、一つの大変よく知られたたとえ話です。「タラントンのたとえ」と呼ばれています。タラントンというのは、当時のお金の単位です。ある家の主人が、旅に出るに際して、僕たちにお金を預けた。ある人には五タラントン、ある人には二タラントン、そしてもう一人には一タラントンを預けたのです。主人が帰ってくるまでの間に、それぞれの僕が、この預けられたお金をどのように用いたか、ということがこのたとえ話のポイントです。主イエスがこのたとえ話を語られたのは、これらの三人の僕たちの置かれた立場が、私たちと重なるからです。私たちは、主人である神様から、それぞれのタラントンを預けられてこの世を、この人生を歩んでいるのです。このタラントンは、私たちがこの人生を生きるために神様から与えられている資本です。タラントンという言葉から、後の英語のタレントという言葉が生まれました。タレントは日本語にもなっていますが、能力、才能という意味です。私たちは自分に与えられた能力や才能を資本として生きているのです。そして、その能力や才能は、人によって違います。ある人には五タラントン、ある人には二タラントン、ある人には一タラントンという能力の違いが、私たちの間にも確かにあるのです。勿論そこには、私たちがどれだけ努力するか、頑張るか、ということも関係してきます。しかしやはり、持って生まれた能力の違いというものは確かにある。学校の成績においても、頑張れば百点取れる人もいれば、頑張っても七十点の人もいるのです。スポーツにおいても、頑張ればプロの選手になれる人もいれば、頑張っても万年補欠という人もいるのです。神様が私たちに預けて下さった人生の資本は、人それぞれに違うものです。私たちはそのようにそれぞれ違った資本を神様から与えられて、この人生を生きている、その点においてこの僕たちと同じなのです。

人生の条件
 タラントンという言葉はこのように、能力、才能を表す言葉となったわけですが、私たちが生まれつき与えられている人生の資本は、能力や才能だけではありません。私たちがこの人生を生きて行く上で与えられている条件の全てが、神様から与えられたものです。まず第一に、体です。自分のこの体、男であるか女であるかということも含めて、それは私たちが自分で選び取ったものではありません。私たちは気がついたら、こういう体をもって生きていたのです。つまりそれは神様が与えて下さったものです。その体も人それぞれ違っています。健康で頑強な体を与えられている人もいれば、病弱な、あるいは何らかの障害を持って生まれてくる人もいます。私たちの人生は肉体的な条件によって大きく左右されるものですが、その条件を私たちは自分で決めることはできないのです。さらには、生まれてきた環境、どのような家庭に生まれるか、どこの国のどんな地域に、またどの時代に生まれるかということも、自分で決めることはできません。それも神様によって与えられた条件です。そのように考えてみると、私たちの人生において、自分の思い通りにできる部分というのはまことに少ない、大部分は、神様が与えて下さった条件に規定されていると言わなければならないように思います。そしてその条件はそれぞれに全く違う。人間は皆平等だと言いますけれども、与えられている条件は決して平等ではありません。このたとえ話はそういう人間の現実を見つめているのです。

人生の条件をどう使うか
 そしてこのたとえ話が注目しているのは、そのようにそれぞれに違った条件、資本を与えられている私たちが、その違いのある中で、与えられている条件、資本をどう用いていくか、ということです。五タラントンを預けられた僕は、それを元手に商売をして、ほかに五タラントンをもうけました。二タラントンの僕も同じように、ほかに二タラントンの利益をあげました。この最初の二人は、自分に与えられた資本を生かして、有効に用い、よい実りを生み出したのです。帰ってきた主人はこの二人をほめて、「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」と言いました。主人がこの二人を、全く同じ言葉でほめていることに注目したいと思います。主人のこの二人への評価は、どれだけの利益をあげたか、その額に左右されてはいないのです。主人が喜んでいるのは、彼らが儲けをあげて主人の財産を増やしたことではなくて、彼らが、自分に与えられたものを生かして有効に用い、有意義な人生を送ったことです。そのことを、彼らのために喜んでいるのです。神様はこのように、私たちが、自分に与えられている条件を生かして用い、有意義な人生を送ることを喜んで下さる方なのです。
 さて問題は第三の、一タラントンを与えられた人です。彼は、預けられた一タラントンを、地面に穴を掘って埋めておきました。つまり彼は預けられたものを、ただしまっておいたのです。生かして用いなかったのです。そういうのを、「死蔵する」と言います。そして主人が帰ってきた時、お金をそのまま返しました。彼は、主人の金をなくしたわけではありません。主人に損をさせたわけではありません。先の二人は、預けられた資本で商売をしましたが、うまくいって儲けが出たからいいようなものの、下手をすれば失敗してすってんてんになってしまったかもしれません。彼はそういうリスクを一切犯さず、儲けもないかわりに損もしないままで金を主人に返したのです。しかし主人はこの僕に対して、「怠け者の悪い僕だ」と言って怒りました。それは彼が儲けをあげなかったからではありません。主人の怒りは、彼が自分に預けられた資本を用いようとしなかったこと、それを生かそうとしなかったことに向けられているのです。

神への怒り
 彼はなぜ預けられたタラントンを生かして用いることをしなかったのでしょうか。そのことは、彼に預けられたものが一タラントンだったことと関係があると思います。彼は、同じ僕たちの中で、あの人には五タラントン、この人には二タラントンが与えられているのに、自分には一タラントンであることが面白くなかったのでしょう。つまり、神様がそれぞれに与えておられる人生の条件の不公平さに彼は腹を立てているのです。なぜ神は他の人にはよい条件、よい資本、優れた能力や才能を与えておられるのに、自分にはこんなちっぽけな、みすぼらしいものしか与えて下さらないのか、不公平ではないか、と不満なのです。そういう彼の主人に対する怒りが、24、25節の言葉に現れています。「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です」。彼は、主人が恐かったのだと言っています。しかし彼の言葉に現れているのは、恐れよりもむしろ怒りです。「あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集め」る人だ。それはこの主人が、自分では働かないで、僕たちを働かせ、そして僕たちが得た実りをみんな奪っていく、そういうがめついやつだ、古典的なマルクシズムが言っていたような、労働者を搾取する資本家だ、ということです。我々僕たちは、この搾取する主人にこき使われ、苦しめられている、と彼は言っているのです。彼のこの怒り、不満は、私たちが、自分に与えられている人生の条件を人と見比べて、どうしてあの人に与えられているものが自分にはないのだろうかと人をうらやみ、劣等感を感じ、不公平だと思う時に神様に対して抱く思いです。自分をこのような者として造り、人生の様々な条件を与えたのが神であるならば、その神は愛のない暴君のような存在ではないか、神が自分を愛しているなどとはとうてい思えない、神は自分をないがしろにし、軽んじ、どうでもよいと思っているのだ、神に愛されているのは一部の恵まれた人たちだけなのだ、それがこの人の思いであり、私たちがしばしば陥る思いでもあるのではないでしょうか。そのような思いに陥る時、私たちは、自分が自分であることを喜べないのです。そして与えられている人生の条件を生かして用いることができないのです。積極的に生きることができなくなり、どうせ自分はダメなんだと僻み、神と隣人を恨みながら生きることになるのです。

人との比較
 私たちは誰でも、この一タラントンの人の気持ちがわかります。そして彼に同情を覚えるのです。彼と同じような思いを抱かない人はいないと言ってよいでしょう。何故ならば、それは人との比較から生じる思いだからです。この三人目の僕に預けられた一タラントンというのは、私たちの感覚に直したらどれくらいの金額だったのでしょうか。新共同訳聖書の後ろについている付録の中に、「度量衡及び通貨」の表があります。そこで調べてみると、一タラントンというのは、当時の普通の労働者が一日働いて得る賃金の六千倍の金額であることがわかります。六千日分の賃金です。一年に三百日働くとすれば、二十年ということになります。彼に与えられていたのは、二十年分の賃金に相当するお金だったのです。それは今の私たちに当てはめたらいくらぐらいになるのでしょうか。いずれにしても、それを一度にポンと与えられたら、普通なら舞い上がってしまうような金額であることは間違いありません。それだけのものを彼は与えられたのです。しかし彼は不満だった。喜ばなかった。それは、他の人と見比べたからです。他の人には五タラントンや二タラントンが与えられているのに、自分には「たった」一タラントンだ、と彼は思ったのです。このことは、人との比較ということによって、私たちがいかに、自分に与えられている賜物、よいものを見誤り、見失ってしまうか、ということを描いています。一タラントンは、客観的に見れば、すばらしい賜物なのです。「こんなものもらったって何になるか」というようなはした金ではない、それを生かして用いれば必ず豊かな実を結ぶことができるようなものなのです。神様は私たち一人一人に、どんなに少ない者でも、そういうすばらしい資本、人生の元手を与えていて下さるのです。ところが私たちは、自分に与えられているものを人のものと見比べてしまう。そうするととたんに、自分のものが色褪せて見えてしまうのです。すばらしい賜物が与えられていることがわからなくなってしまうのです。そして自分に与えられているものを喜べなくなり、不平不満に満たされていってしまうのです。このことは誰にでも起こります。客観的に見れば、すばらしい賜物を豊かに与えられている、あれだけ与えられていれば不満はないだろう、と思えるような人であっても、人との比較を始めれば、上を見ればきりがないのであって、やはり劣等感を覚え、不平不満に陥ることが起るのです。

神の恵みを知れ
 このたとえ話は、神様から与えられている人生の条件、能力や環境が様々に違う中で、人と自分とを見比べることによって僻みの思いに陥り、自分が自分であることを喜べなくなり、自分に与えられているものを生かして人生を前向きに、積極的に生きることができなくなってしまう、そのような私たちに、自分に与えられている一タラントンのすばらしさを教えようとしているのです。それは言い換えれば、彼に一タラントンを与えて下さった神様の恵みを教えようとしている、ということです。神様は確かに、他の人には五タラントンや二タラントンをお与えになっている、彼にはそれより少ない一タラントンです。そのように、人生の条件において、自分より恵まれた人、より豊かな賜物を与えられている人は確かにいます。そういう意味では神様は人間を決して平等に造ってはおられない、人それぞれに違ったものを与えておられるのです。しかしそれは、人よりも賜物が少ないと感じている自分が、神様に愛されていない、軽んじられている、ということではありません。私たちは、自分に与えられている一タラントンが、すばらしい賜物であり、それを生かして用いて行くならば必ず豊かな実りがそこに生み出されて行くものなのだということを知らなければならないのです。そしてそのことを知るためには、人と自分とを見比べるということをやめなければなりません。あの人には何が与えられているか、この人はどうか、と人のことばかりを見つめている目を、自分を生かし、人生の条件を与えて下さった神様の方に向け直していかなければならないのです。

神の投資
 けれども、神様を見つめていくならば、そこに本当に恵みは見えてくるのでしょうか。私たちに与えられているタレントが、人よりも小さなものであっても、なお神様は私たちを愛していて下さり、大切に思っていて下さるということは本当なのでしょうか。そして私たちが与えられているものを生かして用いて行くならばそこには豊かな実りが得られるというのは本当でしょうか。そのことを確かめるために、もう一度このたとえ話に戻って、この主人が僕たちにそれぞれのタラントンを預けて旅に出たことを考えてみたいと思います。主人は何のために僕たちにお金を預けたのでしょうか。僕たちに働かせて、その労働の実りを搾取するためだと三人目の僕は言っています。つまり自分の財産を増やすのが主人の目的だと言うのです。しかし、先ほど少し申しましたように、僕たちがそのお金を元手に商売をする、何かの事業を興す、それは、必ずしも成功するとは限らないのです。失敗して、投資したものを全て失ってしまうということだって起こり得るのです。第三の僕はそうならないようにお金を埋めておいた。そうしたら主人は、それならこの金を銀行に入れておけばよかった、利息がついたのにと言ったのです。ですから、この主人がもしも自分の財産を守り、それを確実に増やすということを第一に考えていたならば、五タラントンも二タラントンも一タラントンも全て、銀行に預けておいた方が危険が少ないのです。しかしこの主人は敢えて、リスクを犯して、僕たちにそれを預けたのです。僕たちに投資したのです。それは僕たちを信頼し、期待し、大切に思っているということです。主人は、僕たちを愛しているからこそ、自分の財産を預けたのです。私たちが、それぞれに違った様々な人生の条件を与えられて、今こうして生かされている、そこには、この神様の愛があるのです。神様は、私たちを愛し、信頼し、期待し、大切に思っておられるがゆえに、私たちに様々な賜物を与え、つまり私たちに投資して下さっているのです。神様が私たちに投資して下さっているのは、私たちのこの体、そこに備わっている様々な能力、才能、タレントを与えて下さっているということのみではありません。神様は私たちに、さらに大きな、大切な、ご自分のかけがえのないものを、投資し、与えて下さったのです。それは、独り子イエス・キリストです。神様の独り子であられる主イエスが、この世に、私たちと同じ人間となって来て下さった、それは、神様がその独り子を私たちのために与えて下さった、投資して下さった、つぎこんで下さったということです。そこには、リスクが伴います。投資された私たちが、その宝を本当に生かして、それに相応しく用い、よい実りを生み出していくとは限らないのです。いやむしろ私たちは、神様が与えて下さっている様々な賜物を生かさずに無駄にしてしまうことがいかに多いことでしょうか。あの五タラントンや二タラントンの僕のように、与えられた賜物を生かして実りをあげることはむしろ少ないのであって、失敗して預けられたものをすっからかんにしてしまったり、あるいはあの三人目の僕のように、それを生かして用いないでただ死蔵してしまったりするのです。神様が私たちのためにこの世に遣わして下さった主イエス・キリストにおいても同じことが起っています。それが、主イエスの十字架の苦しみと死です。神様が私たちのために与え、投資して下さった独り子主イエスを、私たちが受け入れず、主イエスに従うことなく拒み、その恵みを無にしてしまう、それが、主イエスの十字架の苦しみと死の原因なのです。神様は、独り子主イエスを私たちに与えて下さることにおいて、このようなリスクを負って下さったのです。そしてそれはリスクに止まらず、現実となり、主イエスは十字架の上で死なれたのです。私たちにそれぞれのタラントンを与え、投資して下さった神様は、独り子の命をも与えて下さったのです。私たちが目を向けていかなければならないのは、この主イエス・キリストです。神様がその独り子の命をさえも、私たちのために与えて下さっていることを見つめる時に初めて、一タラントンを与えて下さっている神が、本当に恵み深い方であられ、私たちを真実に愛し、大切に思っていて下さることがわかるのです。

主イエスの復活
 主イエス・キリストは、神様に背き、恵みを無にする私たちの罪のために十字架にかかって死なれました。しかし父なる神様は、三日目に主イエスを死者の中から復活させられたのです。神様が与えて下さった独り子を私たちが無にし、生かすのではなく殺してしまった、その主イエスを神様は復活させて下さった、それは、私たちが罪のゆえに生かして用いることができずに、無駄にしてしまった恵みを、神様がもう一度新たに、私たちの罪と死を乗り越えて、与えて下さったということです。私たちが無駄にしてしまった恵みの賜物を、神様は新たに生きたものとして、そしてもはや死ぬことのない、死に勝利した恵みとして与え直して下さったのです。つまりこのたとえ話に即して言えば、与えられた一タラントンを喜ばず、神様を恨み、不平不満の内にそれを死蔵してしまったこの第三の僕、そのためにその一タラントンさえも取り上げられ、外の暗闇に追い出されて、泣きわめき、歯ぎしりするしかないこの僕に、神様がもう一度新たに、生きた一タラントンを、罪と死を乗り越える恵みの賜物を与えて下さった、それが、キリストの復活の出来事なのです。
 私たちは、自分に与えられている人生の条件、資本、賜物である一タラントンを、本当に喜び、感謝し、生かしていくことがなかなか出来ない者です。あなたに与えられている一タラントンは、二十年分の賃金に当たるようなすばらしいものなのだと言われても、それを私たちは実感として納得することはなかなか出来ません。なぜなら私たちは人と共に生きている者であり、そこでは人と自分を見比べるということが避けられないからです。そして人を見始めれば必ず、自分よりも二倍も五倍も豊かな賜物を持ち、よい条件を与えられて生きている人のことが目についてしまうのです。ですから私たちはいつも、この一タラントンの僕のように、神様がせっかく与えて下さっている豊かな賜物に気付かず、不平不満を覚え、どうせ自分なんかと僻みつつ、神様と隣人を恨みつつ生きてしまう者なのです。そのような私たちが、自分の人生に対する不平不満や僻みの思いから解き放たれて、前向きに積極的に生きていくことができるようになるのは、神様がその独り子の命をすら私たちに与えて下さり、私たちの罪のゆえに死んだ独り子主イエスを復活させて、罪と死に打ち勝つ新しい命を私たちにも約束して下さった、そのことによるのです。この「タラントンのたとえ」を、主イエスの復活を記念するイースターの礼拝において読むことの意味はそこにあるのです。

再臨の主を待ち望む
 私たちは今、神様からそれぞれのタラントンを預けられてこの世を、この人生を歩んでいます。主人は僕たちにタラントンを預けて旅立ちました、私たちは、その主人の帰りを待っている僕たちなのです。主人が帰ってくる、それは、この世の終わりの、主イエス・キリストの再臨のことです。主イエス・キリストが栄光をもってもう一度来られ、そのご支配が顕わになり、私たちの救いが完成するのです。そのことによってこの世が終わり、新しい世、神の国が完成することを私たちは待ち望んでいます。この待望の信仰の根拠が、主イエスの復活です。私たちのために十字架にかかって死んで下さり、そして復活して下さった主イエス・キリストが、もう一度来て、私たちの救いを完成して下さるのです。この復活の主イエス・キリストの再臨を信じて待ち望むところでこそ、私たちは、与えられているタラントンを無にすることなく、生かして用いていくことができるのです。何故ならば神様が私たちに与えて下さっている恵み、賜物が、私たちの罪にもかかわらず、決して無になってしまうことはないということを、私たちの罪のために死んで下さった主イエスの復活がはっきりと示しているからです。

牧師 藤 掛 順 一
[2003年4月20日]

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