富山鹿島町教会

礼拝説教

「花婿の到来」
詩編 第24編1〜10節
マタイによる福音書 第25章1〜13節

受難週
 本日は、教会の暦において「棕櫚の主日」と呼ばれる日です。それは、主イエス・キリストがそのご生涯の最後にエルサレムに来られた時、人々が棕櫚の枝を道に敷いて、あるいはそれをうち振って歓迎したということから来ています。私たちは今読み進めているマタイによる福音書の21章でそのことを読みました。そのように群衆の歓迎の内にエルサレムに入られた主イエスでしたが、しかしその週の金曜日には、主イエスは十字架にかけられて殺されてしまうのです。つまり、棕櫚の主日は、主イエスのご生涯の最後の週の始まり、受難週の最初の日なのです。私たちは今週、その受難週を歩みます。そして来週の主の日はイースター、主イエスの復活の日です。今週は主イエスの御苦しみと死、そして復活を特に覚える週であり、そのための特別の集会も行なわれるわけです。けれども、礼拝の説教が21章に入ったのは昨年の11月です。実はその時以来私たちはすっと、主イエスのこの最後の一週間、受難週におけるみ業やみ言葉を読み続けているのだということをもう一度思い起こしたいのです。

三つのたとえ話
 この受難週の歩みの中で、主イエスが語られた教え、み言葉が、23章から25章にまとめられています。マタイ福音書は、主イエスの教えをまとめた説教の部分と、み業や出来事を語る物語の部分とが交互に語られるという構造を持っています。最初の説教の部分は5〜7章のいわゆる「山上の説教」です。そして最後の説教の部分が、この23〜25章なのです。この最後の説教は、章ごとに、三つの部分に分けられます。23章には、律法学者やファリサイ派の人々への厳しい批判が語られています。24章には、この世の終わりについて語られています。そして本日から読んでいく25章には、三つのたとえ話が語られているのです。主イエスは多くのたとえ話を語られました。たとえによって弟子たちや人々を教えられたのです。その最後のたとえ話がこの25章にあります。ここにある三つのたとえ話はどれも大変印象深いもので、それぞれ単独にもよく読まれるものです。しかし私たちはこれらのたとえがどのような文脈の中で、どういう状況において語られたものであるのかを意識しておかなければならないでしょう。これらのたとえは、捕えられ、十字架につけられることがもう数日後に迫っている、受難週という緊迫した状況の中で語られたのです。

世の終わりに備える
 「そこで、天の国は次のようにたとえられる」と主イエスは語り始められました。「そこで」というなにげない言葉が大事です。この一言によって、その前に語られていることと、これから語られていくたとえとが結び付けられているのです。本日の所のたとえは、「十人のおとめのたとえ」と呼ばれるものですが、それは、それまでに語られてきたこととは別の新しいことを語るためのたとえ話なのではなくて、これまでに語られてきたことを受けて、それをさらに展開するために語られているたとえ話なのです。これまでに語られてきたこと、それは、この世の終わりのことです。この世界は、神様によって始められたのと同じように、神様によって終わるのです。その終わりに起ることの中心は、神様の独り子、救い主であられる主イエス・キリストが、栄光と力をもってもう一度来られることです。それによって神様のご支配が顕わになり、完成するのです。そのことによって今のこの世は終わり、新しい世、神の国が実現する。主イエスは24章でそういう世の終りをお語りになりました。そしてそれゆえに、24章の終わりのところでは、この主イエスがもう一度来られること、再臨を、目を覚まして待っていなさいと教えられていたのです。そのために45節以下には既に一つのたとえが語られていました。主人の留守中にその家を守るために立てられた僕のたとえです。そこには、忠実で賢い僕と悪い僕とが対比されていました。忠実で賢い僕は、自分の下に預けられた使用人たちのめんどうをちゃんと見ながら、主人の帰りをしっかりと待っているのです。それに対して悪い僕は、どうせ主人はまだまだ帰っては来ないと思い、仲間を殴り始め、家を守らずに好き勝手なことをしていくのです。そういう悪い僕にならずに、忠実で賢い僕として、主イエスがもう一度来られる世の終わりにしっかり備え、待っているべきことがこのたとえによって教えられているのです。

十人のおとめのたとえ
 そのことを受けて、25章に入り、もう一つのたとえとして、この「十人のおとめのたとえ」が語られていきます。「十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く」というたとえです。花婿を迎えるというのですから、これは結婚の祝いです。花婿が花嫁の家に来る、そして結婚の祝いの宴会、私たちで言えば披露宴が行なわれる、それは夜に行なわれたようです。その時に、花嫁の家の門前でおとめたちがともし火を持って花婿を迎えるという習慣があった。そのおとめたちは、花婿の到着を待っているのです。そして到着したら、油を入れた手持ちのランプのようなともし火を灯して迎えるのです。ところが5節にあるように、「花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった」。花婿が、もう来るか、もう来るかと待っているのになかなか到着しない、そのうちに待ちくたびれてしまったのです。この、花婿の到着が遅れている、という状況、それが、私たち信仰者の置かれている状況と重なると言うことができるでしょう。主イエス・キリストは、十字架にかかって死なれ、三日目に復活され、そして天に昇られました。今は全能の父なる神の右に座しておられる、と私たちは使徒信条において告白しています。そしてその主イエスが、そこからもう一度来られる、その再臨によってこの世は終わり、私たちの救いが完成する、という約束を私たちは与えられています。それを信じて、主イエスの再臨を待ち望んでいるのが信仰者なのです。しかしその主イエスはなかなか来られない。その約束が与えられてから、もう二千年が経とうとしているのです。いったいいつになったら主イエスは来られるのか、もう待ちくたびれた、という思いが当然起ってきます。そしてそこには、主イエスはもう来られないのではないか、もう一度来られるという約束は間違いだったのではないか、ということはさらに、主イエスが神の子、救い主であり、この世界はそのご支配の完成によって終わるということ自体が、単なる思い込み、作り話、嘘っぱちだったのではないか、という思いが生まれるのです。待ちくたびれて眠り込んでしまったおとめたちの姿は、そういう私たちの姿と重なると言えるでしょう。大事なことは、主イエスから二千年を経た私たちだからそう思うのではないということです。この福音書が書かれたのは、紀元1世紀の終わりごろです。つまり主イエスからまだ数十年という時です。その時に既にこのように、「花婿の到着が遅れている」ということを自分たちの姿と重ね合わせる思いが人々の間にあったのです。つまり、「待ちくたびれた」という思いは、どれだけの期間待っているか、ということとは関係がないということです。そもそも、待っている、というところには必ず、待ちくたびれて眠り込んでしまう、ということが起るのです。主イエス・キリストを信じる教会の信仰が、「主の再び来りたもうを待ち望む」という本質を持つ限り、私たちの信仰の歩みには必ず、「待ちくたびれて眠り込む」ということがつきものなのです。

愚かなおとめと賢いおとめ
 さて、花婿を待っていたおとめたちは十人でしたが、「そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった」と2節にあります。同じように花婿を待っている者の中に、愚かな者と賢い者とがいる、それは先ほどの忠実で賢い僕と悪い僕の対比と同じです。このたとえにおいて見つめられている両者の違いはどこにあるのでしょうか。3、4節にそれが語られています。「愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壷に油を入れて持っていた」。つまり、予備の油を準備していたかどうかが、両者の違いなのです。花婿の到着が遅れ、皆が眠り込んでしまっている間に、ともし火の油は尽き、火は消えてしまいました。そしていざ花婿の到着が告げられた時、賢いおとめたちは予備の油によってともし火をすぐに灯して迎えることができましたが、愚かなおとめたちは油がないために火をともすことができず、あわてて買いに行かなければならなかった、しかしその間に花婿は到着して家に入り、戸は閉められてしまい、遅れた彼女たちは婚宴の席に連なることができなかったのです。

予備の油とは
 予備の油を用意しているかどうかが両者の違いです。このことは、いろいろな事態に備えて万全な準備をしているかどうか、ということとして受け止めることもできます。賢いおとめたちの賢さは、そういう用意周到なところにあった、どんなことが起ってもそれに対処できるような準備をしておくことが大切だ、という教訓をこのたとえから引き出すこともできるのです。しかしこのたとえは、主イエスの再臨を待つという私たちの信仰のあり方を教えているものです。その信仰において、私たちが用意しておくべき予備の油とはいったい何なのでしょうか。そのことを考える前に、ここで一つのことに注目したいと思います。それは、この十人のおとめたちが、皆、花婿の到着が遅れたので、待ちくたびれて眠り込んでしまったということです。賢いおとめたちは眠らずに起きて待っていた、というのではないのです。みんな、居眠りをしてしまった、目を覚ましてはいられなかったのです。このことは、24章42節に「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである」と教えられていたことを思えば、そのように目を覚ましていることのできない人間の弱さを描き出していると言うことができるでしょう。いつ主イエスがもう一度来られるのか、このたとえで言えば、花婿がいつ到着するのか、わからない中で、目を覚まして待っている、眠り込んでしまわないでちゃんと備えていることが私たちに求められているのです。けれども、私たちは弱い者です。肉体においてずっと眠らずに起きていることが不可能であるように、精神においても、信仰においても、眠り込んでしまうこと、目覚めていられなくなってしまうことが起るのです。主イエスの再臨がなかなか起らない、約束を信じて待っているが、だんだん待ちくたびれてしまうという中で、私たちもいつしか、眠り込んでしまう、まどろんでしまう、そしてその眠りの間に、主イエスの到来を待つ信仰のともし火が消えてしまうということが起るのです。このことは、私たちが信仰者となり、ある年月を経ていく中で体験することでもあります。誰でも、信仰を告白して洗礼を受ける時には、自分は神様を信じる者となるのだ、主イエス・キリストの救いにあずかるのだというある昂揚した思いを持っているものです。しかしそのようにして信仰者となって何年も時を経ていく中で、その最初の思いがずっと持続していくものではありません。信仰者になったという新鮮な思いは一時のものであって、次第にそのことに慣れていき、新鮮さは失われていくのです。それはある意味では、信仰が身についていき、礼拝を守り、教会の一員として生きる生活が自然なもの、当たり前のことになっていく、ということでもあります。しかしまた同時にそこには、マンネリ化というか、最初の頃の感動や気持ちの昂揚がなくなって、ただ惰性で歩んでいるだけ、ということにもなってきます。そして、何かのきっかけがあると、もう礼拝にも行かなくなってしまう、信仰そのものが失われていってしまうということも起るのです。それは、本日のたとえにおける、待ちくたびれて眠り込んでしまったおとめたちの姿と同じだと言えるでしょう。教会はもう二千年にわたって主イエスの再臨を待っていると申しましたが、私たち自身は二千年待っているわけではありません。私たちは、洗礼を受け、信仰者となった時から、再び来りたもう主を待ち望む者として歩み始めるのです。そして何年か、あるいは何十年か、それを待ち続ける。その歩みの中で、聖書が書かれた頃の教会の人々と同じように、待ちくたびれて眠り込んでしまうことが起るのです。
 このたとえ話は、待っている者たちがそのように眠り込んでしまうことを前提として語られています。つまりそういうことがある、ということを認めているのです。それでもよい、と言っているのです。しかし同じように眠り込んでしまう者たちの中に、賢い者と愚かな者という違いがあるのです。その違いが、予備の油を持っているかどうかなのです。だとすれば、この予備の油は、私たちの用意周到さとか、私たちがどれだけきちんと主イエスの再臨に備えているかということを意味しているのではないでしょう。私たちが用意周到にいつも備えをしているということであれば、それは「いつも目を覚ましている」ということです。弱さや欠けがないように、どこにも隙がないように万全の体制をとっている、ということです。しかしこの賢いおとめたちの姿が語っているのは、そういうことではありません。彼女たちも、他の人々と同じように、弱い者であり、眠気に負けてしまう者であり、いつもちゃんと待っていることができない者だったのです。しかし彼女たちは予備の油を持っていた。その油は、人間の弱さ、欠け、いつも目覚めていることはできない、信仰においても眠り込んでしまう、主イエスの再臨をいつも目覚めて待っていることができない、そういう者であっても、いざという時にはちゃんと主イエスを迎えることができる、目を覚まして、そして信仰者として歩むことができる、そのことを可能にするものです。それは何なのでしょうか。
 昔から、この予備の油が何を象徴しているのかということについて、いろいろなことが語られてきました。信仰に生きることにおいて大事なことの全てをそこにあてはめることができます。信仰と希望と愛が私たちの信仰生活の基本的な要素であると言われます。主イエスを信じ、主イエスに希望を置き、そして神と隣人を愛して生きる、そのような生き方が「予備の油」を持っていることだとも言われます。あるいは、祈りこそがこの「予備の油」だとも言われます。信仰において目を覚ましているとは、祈っていることです。祈ることを忘れないことこそ、予備の油を持って生きることだと言われるのです。それらはどれもとても大事なことであり、まさに信仰のともし火を燃やし続けるための油だと言うことができますが、しかし問題は、それらのことにおいて私たちは眠り込んでしまい、その火を燃やし続けることができなくなってしまうということです。だからそういう油をしっかり持って歩みなさいということなら、それはいつも目を覚ましていて、眠り込まないようにしなさいというのと同じことです。この予備の油はそういうことではなくて、眠り込んでしまっても、つまり信仰と希望と愛に生きることができなくなってしまい、祈り続けることもできなくなってしまう、そういう状態に私たちがなってしまっても、それでも私たちを信仰者として、到来する主イエスを喜び迎える者として生かしてくれるものなのです。それはもはや、私たちが自分の内に持っている何か、自分の努力や決意によって維持している何かではあり得ないでしょう。私たちが信仰において眠り込んでしまう、つまり主イエスの到来を覚えて待っていることができなくなってしまう、ということは主イエスの、神様のご支配を疑い、その恵みが見えなくなってしまう、それは私たちの罪です。神様に背き逆らうことです。その罪人である私たちが、それでもなお信仰者として、主イエスを喜び迎える者となることができるとすれば、それは、主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みによるほかありません。私たちが自分の中に持っている何らかの信仰ではなく、この主イエス・キリストの恵みこそが、予備の油なのです。予備の油があるとは、自分の中になお何らかの信仰的蓄えがある、仕舞いこんであるものがあるということではなくて、主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みを知っており、それに依り頼むことができる、ということです。それ以外に、眠り込んでしまう私たちが主イエスを喜び迎える者となる道はないのです。

十字架の恵み
 今週は受難週、主イエスの苦しみと十字架の死を特に覚える時です。そして今読んでいるこのたとえ話も、その主イエスが捕えられ、十字架につけられていく、その週の歩みの中で語られたものです。主イエスは、ご自分が栄光をもってもう一度この世に来られ、そのことによってこの世が終ることを、この十字架の苦しみと死への歩みの中で語られました。主イエスの再臨による世の終わりに備え、目を覚まして待っていなさいということも、十字架の死への歩みの中で命じられていることなのです。主イエスの十字架の苦しみと死は、神の独り子であられ、ご自身は何の罪もない主イエスが、私たちの罪を引き受けて下さり、その赦しのために身代わりになって死んで下さったということです。この主イエスの十字架の死によってこそ、私たちは罪を赦されて、再び来られる主イエスを喜び迎えることができるのです。私たちがともし火を灯して、主の再臨を喜び迎えることができるのは、私たちが賢い者だからではありません。神様を信じ、主イエスに従っていく信仰をしっかり持って、いつも目を覚ましているからではありません。洗礼を受けた時の感動や新鮮な思いをいつまでも持ち続けているからでもありません。私たちは弱い者であり、すぐに待ちくたびれて眠り込んでしまうのです。最初の新鮮な思いや感動を持ち続けて行くことのできない者なのです。けれども主イエス・キリストが、私たちのために、私たちの全ての罪を身に負って、十字架にかかって死んで下さった、その主イエスの恵みによって、その恵みのみによって、私たちは再臨の主イエスを喜び迎える者となることができるのです。私たちが今週特に深く覚える、この主イエスの十字架の死による罪の赦しの恵みこそが、予備の油です。そういう意味ではこれを「予備の」油と言うのは正しくないでしょう。「予備の」という言葉は聖書にはないのです。賢いおとめたちは、ともし火と一緒に、壷に油を入れて持っていたとあるのみです。再臨の主イエスを喜び迎えるともし火を灯すための油、それが、主イエスの十字架の苦しみと死とによる罪の赦しの恵みなのです。
 賢いおとめたちはその油を持っていた。愚かなおとめたちはそれを持っていなかった。しかしそれは、自分の所有物として、懐の中にしまっておけるようなものではありません。この油を持っているかいないかは、主イエス・キリストの十字架による罪の赦しの恵みを信じているかいないかということに尽きます。そしてそれを信じているというのは、私たちの心が信仰によって昂揚しているとか、洗礼を受けた時の初心を忘れないで頑張っているというような、私たちの感覚の問題ではありません。そうではなくて、私たちは眠り込んでしまう、信仰においても希望においても愛においても祈りにおいても、それらを持ち続けることができなくて失ってしまう、罪と怠惰の中に沈みこんでしまう、その私のために、主イエス・キリストが十字架の苦しみと死を引き受けて下さったのだ、主イエスの十字架はこの私のためであり、この私の罪が、主イエスの十字架によって赦されているのだということを受け入れることなのです。今週特に深く覚えようとしている主イエスのご受難を、自分のための恵みであったと受け入れる、そのことによって私たちは、どんなに弱く罪深く、すぐにまどろみ眠り込んでしまうような者であっても、主イエスを喜び迎えることができるのです。

真実に目覚めているとは
 このたとえ話を読むと必ず起って来る一つの疑問があります。それは、賢いおとめたちはなぜ愚かなおとめたちに油を分けてやらないのか、それは意地悪ではないか、ということです。しかしその疑問も、今申しましたことによって解消します。この油は、人に分けてあげることができるようなものではないのです。人のものを借りて間に合わすことのできるようなものではないのです。私たちは、信仰において、人のふんどしですもうを取ることはできません。一人一人が、自分の信仰を問われるのです。主イエスの十字架が、自分のためであり、自分の罪の赦しの恵みがそこにあると受け入れるかどうかを問われるのです。そしてそれを受け入れるならば、どのように罪深い、また弱い者であっても、主イエスのご支配の完成、私たちの救いの完成である世の終わりを、喜んで待ち望みつつ生きることができるのです。主イエスはこのたとえを、13節の「だから目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」という言葉で結んでおられます。賢いおとめたちも目を覚ましていることができなかったことが語られていたのですから、この結びはおかしいようにも思います。しかし、本当の意味で目を覚ましているとは、自分のどのような罪や弱さにもかかわらず、この主イエスの十字架による自分の罪の赦しの恵みは揺らぐことがないのだ、ということを知っていることなのです。主イエスのご受難を特に覚えるこの一週間、その苦しみと死がこの私のためだったことを神様が示して下さり、本当の意味で目を覚ましている者にして下さることを祈り求めつつ歩みたいと思います。

牧師 藤 掛 順 一
[2003年4月13日]

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