目を覚ましていなさい
本日の説教の題を、「目を覚ましていなさい」としました。それは42節のみ言葉から取ったものです。この「目を覚ましていなさい」ということが、本日与えられている聖書の箇所、マタイによる福音書第24章32節以下の中心的なメッセージです。「目を覚ましていなさい」、それが、一日24時間ずっと眠らずに起きていなさいということではないことは誰でもわかります。これは、心において、魂において、目覚めていることを求めているみ言葉です。それでは、心が、魂が目覚めているとはどういうことなのでしょうか。そもそも今私たちの心は、魂は、目を覚ましているのでしょうか、それとも眠り込んでしまっているのでしょうか。
心が、魂が目覚めている、ということについては、いろいろなことを考えることができます。たとえば、この社会の、世界のいろいろな情勢について関心を持ち、考えているということもその一つでしょう。今私たちは、イラク戦争の行方を毎日固唾を飲む思いで見守っていますが、このことにおいて、私たちは目を覚ましていると言えるのか、どういうことが目を覚ましていることなのか、というのはなかなか難しいことです。この戦争を、テレビの中の、自分とは関係のない出来事として、ゲームでも見るように見ているのでは、目を覚ましているとは言えないでしょう。そこで実際に人が傷つき、死んでいっている、兵士のみでなく、多くの一般市民が巻き添えになっている、将来にわたって人体に影響を及ぼす劣化ウラン弾が用いられている、ということをしっかり見つめなければなりません。しかしそれでは、戦争反対という思いを持ち、あるいはそれを具体的な行動に表して、平和を求めるデモ行進のようなものに参加して、「イラク攻撃を直ちにやめろ」とシュプレヒコールをあげれば、それで目を覚ましていると言えるのでしょうか。私たちは、日本人として、日本という国のあり方を考えなければなりません。先日テレビで、このことをめぐる筑紫哲也と後藤田正晴の対談をやっていましたが、そこで日本はアメリカの半属国だと指摘されていました。アメリカのすることに何でもはいはいとついて行くしか能がない、これでは独立国とは言えないというのです。筑紫哲也は、このままでは日本の若者の間に、無力感、あきらめムードが蔓延していくばかりではないかと心配していましたが、私はその議論を聞きながら、ここからは、そのような無力感とは逆に、だから日本も、アメリカに頼らなくても自分の国は自分で守れるように自前の軍隊を持ち、憲法9条を改正して戦争のできる国にしなければならない、という主張も出て来ると思いました。小泉首相はアメリカの言いなりになるばかりで情けない、と言うだけではなく、こういうことも含めて日本のこれからの歩みをよく考えなければならない時に来ていると思うのです。そのようなわが国のあり方を考えずにただ「戦争反対」と言っているだけでは、本当に目覚めているとは言えないとも思います。そしてまた、こんな評論家風なことを言っていること自体がそもそも目覚めていると言えるのか、という疑問も覚えます。本当に目を覚ましているとはどういうことなのか、とても難しいことです。
世界の情勢から、もっと身近なこの教会のことに話を転じます。先週の臨時教会総会で、私が今年の8月末をもってこの教会を去ることが決定しました。私が皆さんと共に礼拝を守るのもあと五か月ということになったのです。私はこの三月で、この教会に赴任してまる十九年を終え、四月から二十年目に入りました。この教会の百年の歴史の中で、私は既に最も長く在任した牧師であり、日々その記録を更新中です。富山地区においても最古参ですし、北陸全体を見ても、私より前からおられる方はほんの数えるばかりです。いつのまにかそのように長くなったのですが、牧師が長くいるということは、ある意味では教会が安定しているということです。しかしそれは反面、その安定の中で教会が(これは牧師もですが)眠り込んでしまうということをももたらすのかもしれません。そういう意味で私の辞任は、私自身の、そして皆さんの眠りを覚ますような効果をもたらす、ということを、長老会に辞任を申し出て以来の教会の動きの中で私は感じています。ほっておいても毎週礼拝がきちんと行なわれ、自分が何も関わらなくても、教会が動いていく、そういう中で私たちの信仰が眠り込んでいくということがあるのです。時々そこに活を入れられて目覚めさせられなければならない、牧師の交替はそういう意味で必要なのだとも思います。しかしそこにおいても、それでは信仰が本当に目覚めているとはどういうことなのか、というのは難しいところです。今まで牧師任せにしてきたことを今度は自分たちでやらなければならない、ということが目を覚ましていることでしょうか。もしそうなら、みんながいつも目覚めているためには、教会に牧師がいない方がよい、ということにもなります。そういうことではないでしょう。あるいは、新しい牧師が来れば気分も一新して新鮮な気持ちになれる、そういう気分的なことが目を覚ましていることでもないでしょう。牧師の辞任ということを控えた今、私たちはこの、信仰において目覚めているとはどういことなのかを改めて考えてみるよい機会を与えられているのです。
再臨を待つ
本日の箇所で主イエスが「目を覚ましていなさい」と言っておられる、その「目を覚ましている」とは、「目を覚まして待っている」ということです。42節には「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである」とあります。「自分の主が帰って来られる」、その時を待って、目を覚ましているのです。「自分の主が帰って来られる」、それは、この24章の31節までのところに語られてきた、この世の終わりにおける、主イエス・キリストの再臨、30節に語られているように、主イエスが大いなる力と栄光を帯びて、天の雲に乗ってもう一度来られることです。この主イエスの再臨とそれによるこの世の終りを、目を覚まして待っているべきことがここに教えられているのです。
私たちはここから、信仰において目覚めているとはどういうことであるのかを教えられます。信仰において目覚めているとは、目覚めて何かをしていることではありません。私たちは、眠り込んでしまってはいけない、目覚めていなければならないと聞くと、何かを積極的にしていなければならない、と考えがちです。だから、平和のために具体的に何か行動を起こさなければならないとか、あるいは教会のための何かの奉仕を担うことが目覚めていることだと思うのです。けれども主イエスが私たちに求めておられるのは、そのような何かの「行動」ではありません。根本的にはそれは、「待っていること」なのです。「待つ」というのは、能動的と言うより受動的なことです。自分で何かをすると言うよりも、相手の行動を待つ、主導権は自分にではなく、待っている相手にあるのです。その相手とは、イエス・キリストです。主導権はキリストにある、そのキリストが来られるのを待つのが私たちの信仰であり、目覚めていることなのです。このように、主導権が私たちにではなくキリストにある、それが、イエス・キリストが私たちの主であられる、ということです。イエスは主である、と私たちは信じています。それは、主イエスが私たちの主人であり、私たちはその僕である、ということです。そして私たちは今、自分の主であるイエス・キリストが帰って来られるのを待っている僕たちなのだ、ということがここに語られているのです。45節以下に語られていくたとえはまさにそういう内容になっています。そこには、忠実で賢い僕と、悪い僕とが対比されており、忠実で賢い僕とは、主人の留守の間その家をしっかりと守り、主人がいつ帰って来てもいいように備えている僕であり、悪い僕とは、主人の帰りはどうせ遅いとたかをくくり、好き勝手なことをして、備えていない僕です。「目を覚ましている」とは、この忠実で賢い僕のようであることであり、逆に「眠り込んでいる」というのはこの悪い僕のようであることなのです。
忠実な僕と悪い僕
この忠実な僕と悪い僕の違いは何なのでしょうか。悪い僕は、「主人は遅いと思い」とあります。どうせ主人はまだまだ帰っては来ない、と思っているのです。このことは、主人がいつ帰って来るのか、つまり主イエス・キリストの再臨によるこの世の終わりはいつなのか、私たちにはわからない、ということから来ています。36節に「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」とあるのはそのことです。主イエス・キリストは、十字架につけられて死なれ、三日目に復活し、そして四十日後に天に昇られました。そのことによって、今のこの世界に目に見える仕方ではおられなくなられたのです。しかしその主イエスが、今おられる天の父なる神様のみもとから、いつかもう一度この世に来られる、ということが約束されています。そのことを語っている箇所の一つがこのマタイ福音書24章なのです。しかしそれが何時であるのかは、父なる神様のみがご存知のことであり、私たちは勿論、天使たちも、主イエスご自身すらもそれを知ることは許されていないのです。ですから私たちは、何時帰って来られるかわからない主人を待っている僕たちです。そのような状態で既に二千年の時が経とうとしているのです。「主イエスはまだまだ帰って来はしない、いや、もう帰ってこないのではないか、もう一度来るという約束は間違いだったのではないか」という思いが起こって来るのはやむを得ないこと、むしろ自然のことなのかもしれません。しかしそれこそが、「悪い僕」であり、「眠り込んでしまった姿」なのだと言われているのです。
神の支配を信じる
それは、このことが、単に主イエスの再臨の時がいつか、早いか遅いか、というより以上の意味を持っているからです。主人は遅いと思った悪い僕は、「仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしている」とあります。これは要するに、僕が、もう僕であることをやめたということです。主人の意思に従って家を守るのでなく、好き勝手なことを始める、それは、自分が主人に成り代わることです。僕であることをやめて、主人になってしまう、それがこの「悪い僕」の姿なのです。それは言い換えれば、この家、つまりこの世界に対する、主人の支配を認めないということです。この家は主人のものである、ということを否定してしまうことです。私たちの問題として言うならば、この世界と自分の人生、命、その全てが、神様のみ手の内にあり、神様が支配し、導いておられることを認めなくなるということです。そして、自分の人生は、命は、自分のものだ、自分が好きなように、思い通りにするのだ、と言って生きていくことです。主イエス・キリストの再臨を信じるというのは、主イエスの父なる神様のこの世界に対するご支配を信じることです。この世界は神様のご意志によって支えられており、そして独り子主イエスがもう一度来られ、今は隠されているその栄光と力とが顕わになり、そのご支配が完成することによってこの世界は終わる、つまり神様のご支配の完成こそがこの世の終わりであると信じることです。それを信じて待つことが、主イエスの再臨を信じることなのです。そして逆にそれを信じないというのは、神様のご支配とか、主イエスによる救いの恵みなど、目に見えないではないか、そんなものがあるという証拠もないではないか、だからそんなことは嘘っぱちだ、この世界は、我々の人生は、そんな神の導きなどではなく、この世の力、人間の思惑によって動いているのだ、だからその中で自分も、自分の思い通りに、自分がしたいように生きるのだ、と思うことです。そこに、忠実な僕と悪い僕の違いがあります。そしてそれこそが、目を覚ましている者と眠り込んでいる者との違いなのです。
ですから、目を覚ましているとは、目に見えない、隠されている神様のご支配、主イエスによる救いの恵みを信じ、そして主イエスのご支配の確立による救いの完成がいつか与えられるという希望に生きていることです。眠り込んでいるとはその逆に、この世の目に見える現実しか見ることなく、神様のご支配と恵みを信じることなく、主イエスに希望を置いていないことです。私たちは、自分が目を覚ましているのか、それとも眠り込んでしまっているのかを、このことによってこそ顧み、吟味してみなければならないのです。たとえこの社会において、また教会においても、誰よりも活発に活動し、積極的に動き回っているとしても、神様のご支配を信じ、主イエスにこそ希望を置くということがないならば、目覚めているとは言えないのです。そして逆に、たとえば病床にあって、何も自分で活動することはできない、奉仕することもできない、という人であっても、主イエス・キリストにおける神様の恵みのご支配を信じ、その救いの完成である主の再臨を待ち望みつつ日々祈りがささげられているなら、そこには、真に目覚めた魂があるのです。
世の終わりの徴
32節で主イエスは、「いちじくの木から教えを学びなさい」と言っておられます。「枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる」のです。これはつまり、木の有様から季節の移り変わりを知ることができるということです。「それと同じように、あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」と33節にあります。木の有様が季節の徴となるように、人の子が戸口に近づいていること、つまり主イエスの再臨にも、それを示す徴がある、それをしっかりと見極めなさいということです。主イエスの再臨が近いことを告げる印とされている「こららすべてのこと」とは、31節までのところに語られてきた様々なこと、戦争の騒ぎやうわさ、偽のメシアの出現、天変地異や飢饉、また迫害などです。それらは皆、大きな苦しみを伴うものです。それらの苦しみが襲ってきたなら、いよいよ主イエスの再臨が近いと悟りなさいと言われているのです。そうすると、同時多発テロが起り、イラク戦争が起った今日、私たちはいよいよ主イエスの再臨、この世の終わりが近いと思うべきだということになるかもしれません。しかし次の34節にはこうあります。「はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない」。これは、今見たようないくつかの苦しみが襲ってきたからといって、すぐにこの世が終わると思うな、ということです。従ってここには、世の終わりが近いことを思えということと、この世はすぐには終わらないことを思えという矛盾することが語られています。しかしこの両方のことが同時に語られるところに、この24章で主イエスが教えておられることのポイントがあると言えるでしょう。つまり私たちは、主イエスの再臨によるこの世を終わりを待つ者なのです。待つというのは、それが近いことを覚えているということです。それが「目を覚ましている」ということでもありました。しかしまた、主イエスの再臨を見つめ、待つことは、そのことによって日々の歩みがおろそかになったり、日常の生活に手がつかなくなったりすることではないのです。私たちは、この世界が、この世が、いつか終わるものであることを信じて歩みます。たかがプロ野球の一球団が「永遠に不滅です」などと馬鹿なことを言った人がいますが、永遠に不滅なものなどこの世にはない。全てのものには終わりがあり、滅びがあるのです。私たちの命もそうです。人生にも終わり、死があるのです。世の終わりを見つめるというのは、そういう全てのものの終わりを見つめ、自分の人生の終わりである死を見つめることです。しかしそれは、どうせ死んでしまうのだから好き勝手に生きればいい、ということではありません。私たちは、終わりを見つめるからこそ、この世界を、この人生を、今日という日を、誠実に生きるのです。それは、私たちが見つめ、待っている終わりが、単なる破局、滅びではなく、主イエスの再臨による神様の恵みのご支配の完成だからです。私たちの、この世における労苦が、骨折りが、涙が、そこでこそ報われるからです。この世界は、そのような神様のご支配の完成へと向かっていることを信じるがゆえに、私たちは今この時を、忍耐と希望に生きることができるのです。35節に「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」とあります。これは本日共に読まれたイザヤ書40章8節の言葉、「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」と共通するものですが、このようにこの世の一切が滅びても、決して滅びることなくとこしえに立つ神様のみ言葉を与えられているがゆえに、私たちは、世の終わりを見つめることによって動揺したり、やけになったりすることなく、日々の務めをむしろより責任をもってなしていくことができるのです。
ノアの洪水
37節以下では、人の子が来る、つまり主イエスの再臨が、ノアの洪水の話と重ねて見つめられています。洪水が起るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたのです。しかし突然洪水によって全てが滅ぼされてしまった。主イエスの再臨による世の終わりもそのように起るのです。しかしそこで大切なことは、ノアが神様からの示しを受けて、どこにも水などない野原の真中で巨大な箱船を作っていたということです。人々はそれを見ていたのです。つまり彼らには、終わりの到来の徴が与えられていたのです。しかし彼らはそれを見ながらも、何を馬鹿なことをやっているんだとしか思わなかったのです。つまり彼らはいちじくの木からの教えを学んでいなかった。徴を見て時を悟ることができなかったのです。彼らの問題は、食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたことではありません。そういう日常の生活の中で、徴が与えられていたにもかかわらず、神様のご意志によってこの世は終わり、全てのものが滅びるのだということを、つまり神様のご支配を見つめようとしなかった、神様が主人であり、自分たちはその僕であることを思わず、自分が主人であるかのように錯覚してしまった、そのようにして、魂が目覚めているのでなく、眠り込んでしまった。そのために彼らは滅びてしまったのです。
仲間の僕たちに対して
目覚めている忠実な僕は、自分が僕であることを忘れず、主人の思いに従って家を整えて主人の帰りを待ちます。その僕は、家の使用人たちの上に立てられており、時間通り彼らに食事を与えるのだと45節にあります。つまり彼は、自分に託されている仲間の僕たちの世話をしっかりとするのです。それに対して悪い僕は、仲間を殴り始めます。つまりここには、自分の仲間の僕たちに対してどのようにふるまうか、ということの違いが見つめられています。主イエスの再臨を待ち、それに備えていく、本当に目を覚ましている僕は、仲間の僕たちを大切にするのです。その仲間の僕とは、私たちにとって誰でしょうか。まず第一に、共に教会に連なる兄弟姉妹であると言えるでしょう。共に主に仕える仲間の僕である兄弟姉妹を大切にし、支え合っていくこと、それが、主の再臨に備える私たちのあり方です。しかしこの仲間の僕たちは、教会の兄弟姉妹のことだけを指しているのではありません。私たち信仰者は、神様のもとに生きているこの世界の全ての人々の上に立てられている者です。神様は私たちに、ご自分の僕である世の全ての人々に、本当に必要なものを与え、養い、守ることを求めておられるのです。仲間の僕たちとは、まだ信仰を持っていない全ての人々のことなのです。それは私たち信仰者が、それらの人々の上に立っていると威張るようなことではありません。むしろ私たちは、主イエス・キリストがそうであられたように、それらの人々に仕える者なのです。世の人々に仕えるために私たちがなすべきこと、それは、本当に目覚めた者であり続けることです。それは私たちが何か立派なことを言ったりしたりすることではなくて、この世界がどんなに暗く、罪の闇に閉ざされてしまっている時でも、私たちの主イエス・キリストの父なる神様こそが、この世界を、そして私たちを支配し、導いておられる方であり、独り子イエス・キリストの十字架の苦しみと死とによって私たちの罪を赦し、復活によって新しい命の約束を与えて下さった神様の恵みこそが、天地の全てが滅びても決して滅びることなく永遠に立つものであり、その主イエスがもう一度来て下さって救いを完成して下さるという希望を与えられているということをしっかりと信じ、証しし続けることです。私たちが、目覚めてこのことをしっかりと見つめ、この世に対してそれを示し続けるならば、闇に覆われ、破局への不安におののいているこの世に対して、私たちは本当に必要な勇気と希望を示し与えていくことができるでしょう。しかし反対に私たちが眠り込んでしまい、神様のご支配を見失い、主イエスによる救いの恵みを忘れ、主イエスの再臨の希望を失ってしまうならば、私たちはまさに何の役にも立たない、周りの僕たちに迷惑を及ぼすことしかできない者になってしまうのです。
牧師 藤 掛 順 一
[2003年4月6日]
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